
1. 十字架と復活、そして信仰の道
ヨハネの福音書13章は、イエス様が弟子たちと最後の晩餐を共にされた夜の情景を伝えています。その中でも、31節から38節までは、イスカリオテのユダの裏切りによる十字架の死が本格的に近づく緊迫した状況が背景となっています。イスカリオテのユダがイエス様を裏切り、闇の中へと消えてしまう場面は、イエス様の死がもはや覆らない事実として決定づけられたことを示します。その最後の晩餐の席で、イエス様は弟子たちに最後に残したい言葉を伝えられます。その言葉の中で最初に登場するのが、「今や人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになった」(ヨハネ13:31)という驚くべき宣言です。
張ダビデ牧師は、この言葉を通して、イエス様の死が始まるこの重苦しくも恐ろしい場面に、どのようにして「栄光」という言葉が宣言され得るのかを深く注目すべきだと強調します。人間的に見れば、十字架の道は徹底的な敗北と絶望に映ります。死を前に皆が震え、恐怖を感じるのは当然のことです。死という現実は、いかなる人間の知恵や財力でも乗り越えがたい最後の壁のように思えます。ところがイエス様は、その道について「今や人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになった」と言われます。
イエス様が進まれる道が、空しい死や無意味な犠牲で終わる道ではなく、栄光の道であり勝利の道であると信じることこそが福音の核心です。福音は十字架と復活で成り立っています。十字架なしに復活はなく、復活なしに十字架も完全にはなりません。しかし、すべては結局十字架から始まります。ヨハネの福音書13章後半に記されているユダの裏切りは十字架の始まりであり、19章30節でイエス様が宣言される「完了した(すべてが終わった)」という言葉が、十字架の完成であり結論です。イエス様は十字架が迫ったときから一切揺らぐことなく、また一歩も退かずにその道を歩まれました。
張ダビデ牧師は、イエス様の揺らぎなき姿こそが「信仰」から生まれたものであると説きます。ここで言う信仰とは、状況や環境に屈しない、絶対的な信頼と従順を指します。世の目には死は敗北でしかありませんが、イエス様にとって十字架はまさに栄光であり勝利でした。なぜならイエス様は十字架の先にある復活という神の究極的なみわざを見通され、それを少しも揺るがず信じておられたからです。人間的に見れば、十字架は屈辱的な死であり失敗の象徴ですが、イエス様はその場で「今や人の子は栄光を受けた」と宣言されます。これこそ、イエス様の信仰が示す深い神秘です。
実際に福音書を通して見れば、イエス様は教えの一つひとつ、そしてすべての歩みにおいて「父がわたしに委ねられたこの道、つまり十字架の道こそ栄光の道だ」という確信に満ちておられました。ゆえに、ローマ書5章でパウロが語る「不従順の歴史と従順の歴史」が鮮明に対比されるように、イエス様はアダムの不従順によって始まった罪と死の歴史を覆すため、完全な従順の道を歩まれました。信仰と従順を通して死を越え、復活の新しいいのちへと続く道を開かれたのです。
張ダビデ牧師は、私たちがイエス様の道を真に従おうとするならば、まず十字架という現実の前で揺るがない信仰を持たなければならないと力説します。この十字架は、単にイエス様だけが負われたものではなく、弟子たちもまた後に続くべき道であることが、ヨハネの福音書13章~17章の主要な教えとなっています。イエス様は弟子たちにも「わたしの行く道をあなたがたも知っている」と言われ、「あなたがたもわたしに従ってきなさい」と語られました。しかし問題は、弟子たちにその信仰がまだ十分には根づいていなかったことにあります。
代表的なのがペテロの姿です。彼は「主をお守りします。たとえ死に至るまでもご一緒します」と豪語しましたが、いざイエス様が捕えられる夜にその決意は粉々に砕かれました。大祭司の庭でイエス様を三度も否認し、逃げてしまったのです。イエス様が「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(ヨハネ13:38)と予告されたとおりになってしまいました。十字架の前で崩れ落ちたのはペテロだけではありません。他の弟子たちもまた恐れに駆られて散り散りになりました。
これは、人間的な勇気や決意だけでは十字架という苦難の場を最後まで守り通すことはできないという事実を示しています。十字架は、自分の意志や力で負える重荷ではなく、信仰と聖霊の力によってのみ負うことができる道です。イエス様は誰よりもこの事実を深くご存じだったがゆえ、ゲッセマネの園で汗が血のしずくになるほど祈られ、ただひたすら父の御心に絶対服従することで死の道に打ち勝たれました。
張ダビデ牧師は続けて、福音とは結局「十字架と復活」を通して現された神の全能と愛を信じ、従うことだとまとめます。イエス様が死を目前にしても「今や人の子は栄光を受けた」とおっしゃった理由は、神の御心がまさに成就し、その御心が勝利へと帰結するという事実を絶対的に信頼していたからです。だからこそイエス様は「もし神が人の子によって栄光をお受けになったのなら、神もご自分によって人の子に栄光をお与えになるであろう。すぐにお与えになるであろう」(ヨハネ13:32)と宣言されます。ここで「すぐにお与えになるであろう」とは、十字架の後に復活の栄光が訪れることを見据えた、はっきりとした信仰の表現なのです。
続いてイエス様は弟子たちに別れを告げられます。「子たちよ、わたしはまだしばらくの間あなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを探すことになるだろうが…今わたしはあなたがたにも言っているのだ」(ヨハネ13:33)という言葉によって、ご自身の死が間近であることを示されます。人間的には非常に悲しく胸を痛める瞬間です。弟子たちにとっても、イエス様を失わねばならないという事実は恐れであり苦痛でした。しかしイエス様は、このような状況の中でも弟子たちに最後の託し、すなわち「新しい戒め」を与えられます。その新しい戒めの核心が「互いに愛し合いなさい」という命令です。
死を直前に控えた状況で、イエス様は「あなたがたが互いに愛し合うなら、すべての人はそれによって、あなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」(ヨハネ13:35)と言われます。ヨハネの福音書13章31節以下が示している光景は、十字架という極限的な苦難を前にしても確信に満ちたイエス様の姿と、その道をまだ理解できずに右往左往する弟子たちの対比です。明らかに弟子たちは、イエス様が歩まれる十字架の道がどのような意味を持つのか、まだ十分には悟っていませんでした。その後、ペテロが「主よ、どこへおいでになるのですか」(ヨハネ13:36)と問う場面は、そのことをよく示しています。
イエス様は「わたしの行くところへ、あなたは今はついてくることはできないが、あとでついてくるようになる」(ヨハネ13:36)と答えられます。つまり、今は理解も不十分で信仰も弱いが、いつかは真の信仰によってイエス様の道に参与するようになるだろうという約束です。ペテロはその瞬間までも「主のために命を捨てます」と勇気を示しましたが、イエス様はそのような人間的決意では不可能であることを指摘されます。「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(ヨハネ13:38)という言葉は、十字架という道が、信仰の本質的な芯が備わっていなければ、どれほど大きな決意であろうと崩れてしまうという事実を示しています。
結局、十字架を負うことは、まったく信仰によってのみ可能であるという真理、これこそが張ダビデ牧師の強調する核心メッセージの一つです。イエス様は十字架の後に復活の栄光が確実であることを信じていたがゆえ、苦難と死の前にあっても大胆に語ることができました。私たちの道もそうあるべきです。キリスト者の人生は、人の目には愚かに見える十字架を「栄光」と信じて歩む道です。パウロが語るように「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことによって…」(ローマ5:8)救いが与えられたと知るのなら、十字架は決して敗北ではなく、むしろ勝利のしるしであることが分かります。
イエス様が最後に「完了した」(ヨハネ19:30)と宣言される時まで、微塵の揺らぎもなく歩まれたこの道は、まさに「十字架と復活」が結合された信仰の道でした。張ダビデ牧師は、これを私たち個々の人生に適用する際、今現在経験している苦難や困窮、あるいは絶望感の中でも、復活の栄光をあらかじめ見つめる信仰が必要だと教えます。ローマ書でパウロが言った「希望のうちに喜びなさい」(ローマ12:12)のように、私たちに与えられている希望が確かなものであるならば、どんな困難も突き抜けていくことができます。
さらに、その希望は私たちが「すでに」勝利を約束されているという事実に基づきます。イエス様は十字架と復活を通して完全な勝利を成し遂げられました。ですから、私たちも十字架の道に同参しようと決心する瞬間、キリストの勝利がすでに私たちにも移されている(転移している)ことを信じなければなりません。ゆえに「主が十字架を負われたのだから、私も自分の人生に与えられた小さな十字架をしっかりつかみたい。自分の力ではなくイエス様のものに拠り頼む」という告白こそが、十字架を仰ぎ見る真の信仰の姿勢となります。
もちろん、この道は決して容易ではありません。ペテロのようにつまずき、否認してしまう場合もあるでしょう。しかしイエス様が「あとでついてくるようになる」と言われたように、真実な悔い改めと聖霊の助けを求めるとき、いずれ私たちも主が歩まれた道をたどることができるようになります。使徒行伝以降においてペテロが見せた変化がそのことをよく証明しています。彼は復活のイエス様と出会い、聖霊を受けて大胆に福音を宣べ伝える者となりました。
結局、十字架は死ではなく新しい命の始まりであり、敗北ではなく真の栄光へ向かう門であるということです。これに対する絶対的な信仰こそが、私たちがしっかりとつかむべき本質であると、張ダビデ牧師は繰り返し強調しています。イエス様が「今や人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになった」とおっしゃったこの文言が持つ重みは、そういう理由でいっそう大きく感じられます。十字架にかけられる直前、あの苛酷な苦しみの時を前にしても、イエス様は復活と神の計画を見据えておられ、決して後退されませんでした。
私たちがこの信仰に倣うとき、人生のさまざまな状況の中でも同じ確信を持つようになります。世的には敗北や失敗にしか見えない状況も、神の視点から見れば栄光へと変わり得るのです。なぜなら、私たちが最終的により頼むお方は全能の神であり、すでに復活によって死の権威を打ち破られたイエス・キリストだからです。張ダビデ牧師は、この事実に私たちの視線を固定すべきだと教えます。すなわち、「十字架が目の前に迫ったときにも、むしろ復活の栄光を見る信仰をつかんでください」という教えです。
このように、小主題1では、ヨハネの福音書13章31節以下に込められた「今や人の子は栄光を受けた」というイエス様の言葉をもとに、十字架と復活、そしてその道を歩む信仰の本質を探りました。続いて小主題2に移ると、イエス様が最後に与えてくださった新しい戒め、すなわち「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という言葉について、より集中して扱うことになります。
2. 新しい戒め
ヨハネの福音書13章34-35節で、イエス様はこう言われます。 「新しい戒めをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。あなたがたが互いに愛し合うなら、それによってすべての人は、あなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう。」
これはイエス様が最後の晩餐の中で弟子たちに与えられた、非常に重要な遺言のような言葉です。もともとイスラエルの民には多くの律法や戒め、特に隣人愛の戒めも存在しました。しかしイエス様はここで「新しい戒め」という表現を使われます。
張ダビデ牧師は「なぜイエス様は、すでに律法に存在していた『隣人を自分のように愛しなさい』(レビ記19:18)という言葉を、改めて『新しい戒め』として宣言されたのだろうか?」という問いを投げかけます。その答えは「わたしがあなたがたを愛したように」という文言にあると説明します。イエス様が与える愛の戒めは、単なる文字として存在する旧約の律法的「命令」を超えるものです。イエス様ご自身の生き方、すなわち犠牲と代償、そして赦しによって具体化された愛が基準となるのです。
旧約の時代にも確かに「愛しなさい」という戒めは存在しましたが、ユダヤ人たちはそれを文字通りの解釈や限定的な適用で生きてしまうことがしばしばでした。イエス様は人間の罪性を見抜かれ、旧約の愛の戒めが単に「文字」にとどまっていては命にならないことをご存じでした。そこでイエス様はみずから人間の体をとってこの地に降り、罪人たちのために、また敵のために、そしてご自分を裏切る者のためにもご自身を差し出す愛を示されました。とりわけ姦淫の現場で捕らえられた女性を断罪しようとする人々の前で、その女性を赦して立ち上がらせる場面(ヨハネ8章)、また取税人や娼婦など社会的に疎外されていた人々と交わる場面などは、イエス様の愛がいかに具体的で犠牲的であるかを如実に示しています。
そしてその頂点が十字架です。イエス様は「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)として来られ、私たちが受けるべき刑罰を代わりに負われました。この代償と犠牲こそ、神の愛がどれほど大きいのかを私たちに直接示してくださった決定的な出来事です。「わたしがあなたがたを愛したように」という一節が決して抽象的ではないのは、このためです。イエス様が自ら示された愛、すなわち罪人を断罪せず、代わりに荷を負い、徹底的に赦し、受け入れる愛こそが、私たちが従うべき「新しい戒め」なのです。
今やイエス様はその愛を弟子たちに継承させようとされます。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」これが教会共同体が守るべき最も本質的で代表的なしるしとなります。「あなたがたが互いに愛し合うなら、それによってすべての人はあなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」(ヨハネ13:35)という言葉は、キリスト者が世の中でどのような姿を示すべきかを明らかにしています。
張ダビデ牧師は、この言葉を解釈しながら、教会がほかの宗教や団体と区別され得る根本的基準は「愛」にあると語ります。世の中には無数の団体があり、それぞれが自分たちのアイデンティティを示すしるしを持っています。例えば、シク教徒はターバンを巻き、仏教の僧侶は頭を剃るといったように、外面的なしるしによって所属やアイデンティティを表します。しかしイエス様は、キリスト者のアイデンティティを「兄弟姉妹への愛」で示しなさいと命じられました。
実際、初代教会の時代、ローマ帝国のもとで迫害を受けていたキリスト者たちが示した相互の仕え合いや愛は世を驚かせました。苦難や貧しさの中でも互いに助け合い、自分の財産を売って貧しい兄弟に分け与えるといった愛によって共同体を築く姿は、外部の人々に「見よ、彼らが互いに愛し合っている様はなんとすばらしいことか!」と感嘆させるほどでした。これこそが真の伝道であり、教会の証しです。愛の戒めを実践するとき、世は初めてキリストがどのようなお方であり、どのような道を歩まれたのかを垣間見るのです。
しかしこれは容易なことではありません。人間的視点で見ると、愛は常に限界を伴います。自分が好意を抱く人や、自分に好意を示す人に対しては比較的愛を示しやすいですが、自分に害を与えたり、気に入らなかったり、あるいは負担に感じる人を愛することは簡単ではありません。さらに、自分自身ですら失望や怒りを感じる瞬間が多い人間にとって、他者への真の愛を持続させるのは難しいのです。
ここで張ダビデ牧師は、再び十字架の霊的意味を強調します。イエス様の愛は「断罪」ではなく「赦し」、そして「断絶」ではなく「代償」を実現されました。十字架は、イエス様が私たちに示してくださった最も劇的な愛の証印です。そしてイエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられます。つまり、自分の中にある断罪の思いを捨て去り、兄弟姉妹の罪や弱さを抱き、必要であれば自分が代わりに背負うという姿勢を持つとき、初めてキリストにある真の愛を実践することになるのです。
こうした愛が実現されるとき、教会共同体の中で多くの癒しや変化が起こります。傷ついた人、社会から疎外されてきた人、罪悪感に押しつぶされていた人々が、互いの重荷を分かち合うことで真の自由と喜びを味わうようになります。パウロが「互いの重荷を負い合いなさい。そうしてキリストの律法を全うしなさい」(ガラテヤ6:2)と勧めたのも、同じ文脈です。互いの重荷を負うことこそが「互いに愛し合うこと」、すなわち十字架の愛を実践する道です。
教会がこの愛の戒めを失ったとき、世は教会に対する信頼を失い、非難の声を上げるようになります。「口先では愛を叫ぶが、実際には争い、分裂ばかりしている」という評価は、教会がキリストの弟子であるというしるしを自ら否定するに等しいのです。だからこそイエス様は最後の晩餐という非常に貴重な場面で、「あなたがたが互いに愛し合うなら、すべての人はそれによって、あなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」とおっしゃったのです。
張ダビデ牧師は、この「互いに愛し合いなさい」という戒めこそが、私たちが一生涯握り続けるべき実践課題であると語ります。私たちの救いはただイエス・キリストの恵みと信仰によって得るものですが、救われた者が教会として共に生きるとき、世に対して証しすべきはまさにこの「愛」というしるしです。もし愛がなければ、どれほど素晴らしい賜物や知識も空しくなります(コリント第一13章)。愛のないまま叫ぶ信仰は空虚になり、愛のない弟子道は偽善へと堕してしまいます。
主が「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と宣言されたのは、ご自身で示された模範があるからです。イエス様は弟子たちの足を自ら洗われ(ヨハネ13:1-20)、さらにはご自分を裏切るユダの足さえも洗われました。そして「わたしがしたように、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われます。兄弟姉妹の最も低いところに降りて仕える姿勢、それこそイエス様の愛のあり方なのです。教会の中で誰かが最もへりくだった態度で仕えるとき、そこにイエス様の新しい戒めが輝きます。
しかし、弟子たち、特にペテロはこうしたイエス様のお言葉をすぐには理解できませんでした。「主よ、どこへ行かれるのですか」(ヨハネ13:36)というペテロの問いににじむ切なさは、十字架がイエス様の愛の戒めの中心であることを悟れていなかったことを示唆します。ペテロは人間的な勇気と決意ばかりを前面に出し、「主のために命を捨てます」と言いましたが、イエス様が示された「仕えと代償」の道、つまり十字架の道を知らなかったがゆえに失敗したのです。
しかしイエス様はこの弱い弟子たちを最後まで愛されました(ヨハネ13:1)。「今はついてくることはできないが、あとでついてくるようになる」(ヨハネ13:36)という言葉には、主の深い信頼と希望が込められています。実際、復活の後にイエス様と再会したペテロは、悔い改めて立ち返り、真に主を愛し、教会を愛し、ついには殉教の道を歩むまでになりました。かつては剣を抜くことで、あるいは感情的な豪語でイエス様を守ろうとして失敗した彼が、後には十字架の愛の本当の意味を悟り、完全に従うようになったのです。
張ダビデ牧師は、教会もまさにこの過程を踏まなければならないと強調します。私たちは初めから完璧な愛を実践できるわけではありません。ときに失敗し、関係が壊れ、傷つけ合うこともあるでしょう。しかし、十字架の恵みを思い起こしながら、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という言葉を心に刻み、訓練し続けるとき、その愛が私たちの生き方と共同体に次第に根づいていくのです。
ゆえに、今日の教会が回復すべき核心はまさにこの新しい戒めです。真実な愛をもって互いに接し、断罪するよりも赦し、自己中心的な態度ではなく、互いに献身し合う姿勢を身につけるとき、世は初めて教会がイエス様の弟子たちの共同体であることを認めるようになります。福音の証しは華やかな弁舌や知識だけで成り立つのではなく、十字架の愛を実際に生きる教会の姿から自然に流れ出てくるものです。
張ダビデ牧師は最後に、この新しい戒めを守ることは決して私たちの努力だけでできるのではなく、イエス様の十字架から注がれる恵みと聖霊の助けが必要なのだと言います。私たちは日々の祈りのうちに聖霊の力を求め、イエス様に目を留めなければなりません。そうしてこそ、この世とはまったく異なる次元の愛、すなわち犠牲的で赦す愛を実践することができるのです。
さらに、「十字架と復活」という小主題1で述べた信仰の道は、実は「愛の道」ともそのままつながっています。十字架によって私たちは罪の赦しと新しい命を得ましたが、その感激があるなら、当然それは兄弟姉妹を愛することによって表現されるべきです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という御言葉は、受けた愛を分かち合うことで神の栄光を現し、私たち自身もその栄光にあずからせる招きなのです。イエス様は、「わたしはすでにその道を行ったのだから、あなたがたも心配せずについてきなさい」と励ましてくださいます。
結論として、ヨハネの福音書13章31節から38節までの御言葉は、死が眼前に迫った危機の瞬間であっても「今や人の子は栄光を受けた」と宣言されるイエス様の揺るぎない信仰と、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という新しい戒めを与えられるイエス様の教えが含まれています。張ダビデ牧師は、この本文を解き明かしながら「十字架は恐れや絶望ではなく、栄光と勝利への道であり、その道の核心的な原動力は愛である」と強調します。
私たちに与えられた挑戦は、イエス様のように死よりも強い復活の望みを抱いて十字架を負いつつ、同時に「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めを握り、日常生活の中で愛を実践することです。イエス様がすべての罪人たちのために赦しと代償の道を開いてくださったように、私たちも互いを断罪するのではなく、赦し建て上げる交わりを築くべきです。そうするとき、世は私たちがイエス様に従う共同体であることを知るようになるでしょう。
ペテロがイエス様を三度否認しても、復活された主は再び彼を探し出し、「あなたはわたしを愛するか?」(ヨハネ21章)と問われ、彼を教会の礎とされました。イエス様の愛は失敗や弱さを乗り越えさせる力です。今日の私たちもまたペテロと変わりません。しかし張ダビデ牧師がしばしば語るように、「結局は私たちも恵みによって立ち返り、イエス様の道を従う者となりうる」という希望が与えられています。それこそが福音の喜ばしい知らせです。
ゆえに私たちは「十字架と復活」という信仰に堅く立ちながら、「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めを守りつつ生きるべきです。死と絶望を栄光へと変えたイエス様の偉大な道を思い起こしましょう。そしてイエス様が弟子たちの足を洗われたときに示された、その愛の模範を私たちの生活の中で具体的に実践してみましょう。教会の内外を問わず、互いに十字架の愛を施し合う人となるとき、私たちは世が知らない喜びと平安を得ることができ、世はその愛を通してイエス・キリストの栄光をかいま見ることになるのです。
この道は決して楽ではなく、ときに苦い犠牲を要求することもあります。しかしイエス様は「もし神が人の子によって栄光をお受けになったのなら、神もご自分によって人の子に栄光をお与えになるであろう。すぐにお与えになるであろう」(ヨハネ13:32)と明言されました。十字架の後に復活の栄光が必ずあるという約束です。私たちが互いに仕え、愛し合いながら十字架に従うとき、神様は私たちをも栄光へと導いてくださるという希望が間違いなく存在します。
まさにこれがヨハネの福音書13章、そして福音書全体が強調する「十字架の道、愛の道」です。張ダビデ牧師は、この教えを中心に、弟子道とは単なる外的規律や知識の蓄積ではなく、十字架の精神が私たちの内に根づき、互いに愛し合う関係へと広がっていくことであると重ねて説いてきました。もし私たちがイエス様に従う弟子となるなら、最終的には私たちも互いに愛し、仕え合う姿で示されなければなりません。
今日、この御言葉を要約しつつ、私たちの心に深く刻むべき核心は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という主の御命令です。これはイエス様が最後に残された別れのメッセージであり、キリスト者の霊的アイデンティティを最も端的に示す言葉です。張ダビデ牧師が繰り返し述べるように、これはオプションではなく、必ず守らねばならない戒めです。互いに愛し合わないならば、私たちはイエス様の弟子としてのしるしを自ら喪失してしまうのです。
最終的に私たちは信仰生活の中で、日々主の十字架を黙想しつつ、その道が栄光の道であるという事実を改めて思い返さねばなりません。そして、その十字架が示してくださった赦しと犠牲に倣い、真に兄弟姉妹を愛するところまで進んでいく必要があります。この二つが同時に進むとき、私たちの生き方は世と区別される真の弟子の姿となります。これこそがヨハネの福音書13章が宣言する福音のエッセンスであり、また張ダビデ牧師が強調してきた実践的な霊的歩みの中心です。
さらに教会共同体がこの御言葉をいつも胸に抱き、実践し続けるならば、イスカリオテのユダのような裏切りの闇や、ペテロの否認のような失敗の痛みすらも、最終的には愛によって回復されるでしょう。イエス様はすでにペテロを回復し、愛の力が失敗者を新しい岩へと変えられた例を私たちに示してくださいました。教会の中でも、私たちの個人の人生の中でも、イエス様の思いに近づけば近づくほど、このような奇跡が起こるのです。
したがって、ヨハネの福音書13章31節以下から私たちは大きく二つの教えを学ぶことができます。第一に、十字架は栄光であり勝利であると信じることです。世から見る観点とは異なり、イエス様は死を前にして「今や人の子は栄光を受けた」と宣言されました。第二に、その十字架が示した代償と赦しの愛を、私たちも見習って互いに実践すべきだということです。これがイエス様が残された「新しい戒め」であり、教会が存在する理由でありアイデンティティです。
総合すると、「今や人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになった」(ヨハネ13:31)という言葉が宣言された直後、すぐに「あなたがたが互いに愛し合うなら、それによってすべての人は、あなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」(ヨハネ13:35)というお願いが続く事実はきわめて意味深です。一方は、十字架と復活の栄光を見つめる絶対的な信仰を示し、他方は、その信仰が具体化される姿としての「兄弟姉妹への愛」を命じています。
張ダビデ牧師は、この二つが分離されることなく一つにつながっていなければならないと繰り返し語ります。信仰がまことならば、愛へと現れ、愛が本当であるためには、十字架の栄光を信じる深い信仰がその根底になくてはならないということです。私たちもこの御言葉を握り、十字架と復活の信仰を所有すると同時に、新しい戒めの実践、すなわち互いに愛し合う行いによって主の弟子であることを示していくべきです。
そうすることで、ようやく私たちの属する教会や共同体の中に、「あなたがたが互いに愛し合うなら、それによってすべての人は、あなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」という御言葉が生き生きと働き始めるのです。十字架を仰ぎ見て復活の希望を握った者同士が互いに愛し合う共同体になればなるほど、世は私たちの姿を通して神の栄光とイエス・キリストの力を目にすることになるでしょう。
これこそがイエス様が私たちに望まれる姿であり、福音書が伝えようとしている核心的なメッセージです。十字架を通して起こった救いの出来事と、その出来事から学んだ愛の実践が相まって、私たちは真の弟子の道を歩むようになります。そしてこの道の果てに、イエス様があらかじめ語られたとおり、「すぐにお与えになるであろう」(ヨハネ13:32)と約束された復活の栄光にあずかることになるのです。
最後に、私たち一人ひとりがこの御言葉を黙想し、ヨハネの福音書13章31-38節が語る力強いメッセージを日常生活で実践することを願います。張ダビデ牧師が繰り返し呼び覚ましてくれるように、「十字架と復活」の信仰のうちに「互いに愛し合いなさい」というイエス様の命令は決してスローガンで終わることはできません。それは、私たちが日々の生活の中で選び、決断し、歩むべき道です。私たちが進むべき道は明らかです。恐れを退け、人間的な誇りや決意を捨て、ただイエス様のように仕え、赦し、愛の道を歩んでいきましょう。そうすると私たちの内に、そして教会の内に、さらには世のただ中において、神の栄光が顕されることになるでしょう。
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