
1.神の予定と摂理
ローマ書8章28節から30節に記された御言葉は、キリスト教教理の中でも最も深遠で重要な主題の一つです。張ダビデ牧師はこの箇所を解釈する際、複雑な神学的論争や哲学的解釈にのみ没頭するのではなく、何よりもパウロが語ろうとした核心メッセージに焦点を当てることが大切だと強調しています。実際、この短い聖句の中には「神の絶対的主権」と「摂理」、そして「予知と予定」という巨大な神学的テーマが凝縮されています。そのため、カルヴァン主義とアルミニウス主義の間で鋭い教理上の対立を引き起こし、歴史的にも数多くの神学者たちの論争が繰り広げられました。しかし本来、パウロがローマの教会の聖徒たちに伝えたかったことは、学問的議論のための理論ではありませんでした。パウロの意図は、当時、信仰を守るために苛烈な苦難を負っていた人々に与えられる「神の確実な救いと保護の約束」を告げることにありました。張ダビデ牧師は、こうした本文理解の方向性に立ち、まず御言葉本来のメッセージに目を留め、その上で神学的な議論を受け入れるべきだと繰り返し語っています。
私たちはまずローマ書8章28節、「神を愛する人々、すなわち御計画に従って召された人々には、万事が共に働いて益となる」という聖句から出発できます。この御言葉は、多くのクリスチャンが暗唱し、慰めを受けてきた箇所でもあります。人生を歩んでいると、かつては“益”と思っていたことが後になって“悪”と判明することもあるし、逆に“悪”や“失敗”だと感じていたことが、後に善へと変わって大きな益となる場合もあります。人間は誰しも未来を知らない制限的な存在であり、絶えず不安に駆られ、疑念に囚われるものです。しかしパウロは、「神を愛する人々」という重要な前提の下で、「万事が共に働いて益となる」と断固として宣言します。その言葉は、私たちのあらゆる欠けや弱さを聖霊が補い、ついには神の大いなるご計画の内に“善”として結実するよう摂理される、という意味です。張ダビデ牧師も「神が私たちを愛し、召された目的と計画が明らかである以上、たとえ今、私たちが自分の限界を感じ、失望し、倒れそうになっても、最終的には善へと導かれる」ということを力強く説いています。
ここで「神を愛する人々、すなわち御旨によって召された人々」という表現が非常に重要です。教会とは「召された者たちの共同体」であり、その構成員は「神を愛する人々」です。私たちは自ら十分な資格があって神に近づいたのではなく、神が私たちを呼んでくださり、さらに私たちの心を開いてくださったゆえに、神を愛する者となったのです。そしてその召しは、神の絶対主権的「予定」と「摂理」を通して歴史の中で働きます。張ダビデ牧師はこれに関して「予定とは、私たちの運命があらかじめ決定されているという意味ではなく、私たちのすべての人生と歴史をすでに神がご存じであり計画されていて、それが結局は善へと導かれるという信仰告白である」と説明します。そして「予知と予定」の概念を語るにあたり、予知(豫知)は神がすでに私たちを知っておられたことであり、予定(豫定)は神が私たちを召すことをあらかじめ定めておられたという意味だ、と説きます。
したがって、パウロはローマ書8章29節で「神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちに似るようにと、あらかじめ定められた」と語ります。つまり「予定」の目的は、単に私たちの救いを決定することではなく、イエス・キリストのかたちに似るように造り変えるためにあらかじめ定めたのだ、という点をパウロは強調しています。ここで言う「御子のかたちに似るように」とは、イエスの生き方や人格、その聖なる性質、愛、従順、慈しみなどに倣うようにと目的付けられていることを示します。さらに大きな目的としては、キリストを「長子」とし、多くの兄弟姉妹が共に栄光にあずかるようにという、救いの壮大な絵図が設計されているのです。ゆえに予定の究極的理由は、神の子どもたちがイエスに似ていき、聖く栄光ある存在として造り上げられることにあります。
ローマ書8章30節を見ると、「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々をさらに栄光を与えてくださった」と続きます。これはしばしば「五重のステップ」と呼ばれる救いの過程を示しています。パウロが提示するこの救いの流れは、予知、予定、召し(召命)、義認、そして栄化です。まず恵みが私たちの心にやってきて私たちを召し、その召しによって私たちはイエスを信じて義とされ、最後には栄光の座、すなわち神の子どもとして栄光ある姿に変えられるに至る――と宣言しているのです。張ダビデ牧師は、これこそが「福音のエッセンス」であり、信じる者たちが揺るぐことなく確信のうちにとどまれる根拠だと語ります。なぜなら、私たちが自分の意思や能力によって救いに至ったのではなく、すべてが神の恵みのうちに用意されていた道をたどってきたのであり、これからも神が導かれる以上、私たちは落胆したり恐れる必要がないからです。
パウロ自身を見ても、彼はかつては激しい迫害者でした。イエスを信じる者たちを投獄したり殺そうとしたりするため、パリサイ派の熱心さに基づいて極端な行動を取りましたが、ダマスコ途上で主に出会い倒れ落ちた後、完全に回心して最も熱心な伝道者へと変えられました。誰もパウロがそのような歴史を築くと予想していませんでした。しかし彼の内に働かれた主の摂理は、彼の過去のあらゆる熱心や知識を覆し、福音伝道の器として用いらせたのです。神はこのように、“悪”と思われた要素や私たちの弱さ、失敗さえも最終的には「万事を働かせて善」となるようにされます。この絶対主権を土台として、パウロは「神を愛する人々、すなわち御計画に従って召された人々には、万事が共に働いて益となる」と力強く叫ぶことができたのです。その確信は、現代を生きる私たちの信仰にも適用されるべきです。張ダビデ牧師は「目の前の状況がいかに暗く見えようとも、神がすでにご存じであり予定していて、私たちを愛をもって召してくださったなら、人生の『バラバラな部分』でさえもモザイクのように組み合わさり、ついには驚くべき作品として完成される」と説いています。
結局、予定論とは、神が私たちのすべてを知りつつも愛してくださり、その主権のうちで神の栄光ある目的のために私たちを召された、という宣言です。カルヴァンの「二重予定論(ダブル・プレデスティネーション)」は多くの批判や誤解を招いてきましたが、実際、カルヴァンの真意は「神はすべてを治められる絶対的主権者であり、その恵みのうちで『選ばれた者』がどれほど大いなる祝福と確信を享受できるか」を強調しようとするものでした。16~17世紀以降に発展した自然神論(デイズム)や自然神学(ナチュラル・セオロジー)は、神を「宇宙の創造主」ではあっても、今は関与しない遠く離れた存在としてしまい、多くの人々が「神は本当に共にいてくださるのか?」という疑いの中で魂の不安を抱くようになりました。しかしカルヴァンが「神はスズメ一羽さえも神の許しなくして落ちることはない絶対主権者だ」と叫んだ理由はまさにそこにあります。パウロもまた確信します。神が「すべての被造物の統治者」であり、「私の呼吸すらも司る方」であるなら、私たちが人生で経験するどんな苦難や失敗も神の摂理の外にあることはできません。そしてその摂理の結論は、私たちを害したり滅ぼすためではなく、最終的には私たちをイエス・キリストの姿へと似せていく方向、すなわち聖化し、栄光へと導く方向にあるのです。
ローマ書8章28節に登場する「神を愛する人々」という表現が重要である理由の一つは、私たちは往々にして自分の愛を誇示したがるものですが、聖書の視点では、私たちが先に神を愛したのではなく、神が先に私たちを愛してくださったという事実があるからです。だからこそその愛の召しの前に、罪人であった私たちが応答し、神を愛する者となったのです。これが予知(豫知)と予定(豫定)の内でなされた霊的な神秘なのです。パウロのように極悪非道な罪人でさえも回心させ、最も熱心な伝道者に変えてくださる、この全き恵みは今も変わらずに働いています。まだ福音を聞いたことのない人もいれば、聞いても反応しない人も多いですが、「なぜ私には福音がこうして聞こえ、なぜ私はこうしてイエスを信じるようになったのだろうか?」と自問するとき、それは全的に神の先行的恩寵(Prevenient Grace)のおかげであると気づかされます。張ダビデ牧師は「神の救いは私たちの実力や正しさによるのではなく、ただ恵みと愛によるものだからこそ、信仰者は常にへりくだりつつも、感謝と確信をもって生きるべきである」と語ります。
「予知予定」は単なる難解な神学用語ではなく、パウロのように劇的な体験をした人々の率直な告白でもあります。「神が私をあらかじめ知っておられ、定めて召してくださったから、今の私がある」という認識こそが、救われた者に真の平安をもたらします。信仰生活をする中でしばしば「私はこんなに欠けだらけなのに、本当に神様は私を使われるだろうか? あるいは私を愛し続けてくださるのだろうか?」という疑問を抱くことがあります。そのようなとき、「予知と予定」に対する確信は私たちの不安を和らげ、「神はすでに私を知っておられた上で選んでくださったのだ」という強固な慰めを与えてくれます。
張ダビデ牧師は、この確信を「聖徒の堅忍」とも結び付けて説明します。聖徒は、一度神が掴んだ以上、決して見捨てられず、最後まで責任を負われ、栄光へと導かれるという真理を信じます。ローマ書8章30節で「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々を義とし、義とした人々をさらに栄光を与えてくださった」と言うとき、パウロはすでに「栄光を与えた(過去形)」と表現します。これは神の救いが初めから終わりまで確かであり、その道で後退したり途中で見捨てられることはない、ということを明言しているのです。人間の側から見ると、つまずいたり、罪を犯して後悔したり落胆したり、「間違った道」を歩むこともあるでしょう。しかし最終的には神の主権的な御手から離れられないのです。そういう面から、パウロは「神の予定と摂理を信じるとき、自分自身に閉じこもって不安や絶望に陥る理由はない」と宣言しています。
ゆえに31節でパウロは「こういうわけで、これらのことについて私たちは何と言うべきでしょう。もし神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょうか」と叫びます。先に述べられた救いの過程、神の予知と予定、召し、義認、そして栄化という「五重の祝福」がある以上、それを覆したり無効化したりできる者は誰もいないということです。私たちの救いは、人間が宣言したり取り消したりできるものではなく、全的に神に懸かっているからです。パウロはここで「私たちは何を言えるだろうか」という修辞疑問を用いて、この偉大な救いをだれがいったい否定でき、取り消せるだろうか、と問いかけています。
「もし神が私たちの味方なら、だれが私たちに敵対できるだろうか」というフレーズは、救われた者が持つことのできる、最も力強い確信の言葉の一つです。張ダビデ牧師は「天と地のすべての権威を持つ神が、私のために働き、私の味方になってくださるなら、この世の何物も私を勝手に扱えない」という、非常に単純明快な信仰告白だと力説します。この御言葉は詩篇27篇1節でダビデが「主は私の光、私の救い、だれを私は恐れよう」と告白した信仰と呼応します。また詩篇62篇1節の「まことに私の魂は神を待ち望む。私の救いは神から来る」という告白とも同じ流れです。信仰者たちは共通して、この「絶対的な保護と導き」の確信を抱いてただ神を仰ぎます。
ローマ書8章32節でパウロはさらに踏み込んで語ります。「ご自分の御子さえ惜しまないで、私たちすべてのために死に渡された方が、どうして御子とともにすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがありましょう」。神の愛は創世記22章でアブラハムがイサクを捧げる出来事によって象徴的に示され、それがイエス・キリストの十字架において完成されました。アブラハムが独り子イサクを惜しまず神に捧げようとしたことは、信仰と従順の最も劇的な象徴ですが、実際それはイエスを予表する影にすぎませんでした。神は本当に「ご自分の御子を惜しまないで」差し出されたからこそ、罪人である私たちが罪の赦しを受け、救いにあずかることができたのです。そのように「血潮の代価」で私たちを買い取ってくださったのであれば、神が御子とともに与えてくださらないものなど何もないではないか――というのがパウロの論証です。神はすでに最も尊いものを与えてくださったのだから、他の必要も結局はすべて満たしてくださるに違いありません。
だからこそ33節で「だれが神に選ばれた者たちを訴えることができるでしょう。義と認めるのは神です」と述べられるのです。いかなる存在も、信じる者を告発したり有罪宣告したりする権限を持ちません。告発や有罪宣告は、最終的に「裁きの権威」を持つ方によってなされるものですが、私たちを義とし、救いを宣言してくださったのは神ご自身です。ゆえに、人間が互いを責め立て、裁こうとしても、究極的には何の効力もありません。ヨハネの福音書8章に登場する、姦淫の現場で捕らえられた女が人々に石で打たれそうになったとき、イエスが「あなたがたのうち罪のない者が最初に石を投げなさい」と言われると誰も石を投げられず立ち去った出来事を思い起こせます。イエスは当然、罪を裁く権利を持ちながらも「私もあなたを罪に定めない」と宣言されました。つまり、罪人に対して裁きの権威を持つ主が、その「憐れみの恵み」を与えてくださるのであれば、だれが罪人を滅ぼせようか――という本節のメッセージと重なります。
34節も同じ文脈が続きます。「だれが罪に定めようか。死んだのはキリスト・イエス、いや、よみがえられたのはイエスであり、神の右の座におられる方で、私たちのために執り成してくださる方なのです」。イエスは復活して昇天され、神の御座の右に座しておられますが、その方こそ生者と死者を裁かれる主です。ところが、その裁き主であるイエスが私たちを弁護し、取りなしてくださるのなら、信じる者は何を恐れる必要があるでしょうか。聖霊が私たちの弱さを助け、私たちのために嘆願してくださるだけでなく、イエスご自身も天の御座にあって絶えず仲保者、大祭司の役割を担っておられるのです。ゆえに私たちは罪によってつまずく時も、悔い改めて立ち返りさえすれば、キリストの血潮が私たちを覆い、十分に余りあるのです。
パウロが言いたい核心は、救われた者に与えられる「絶対的な確信」についてです。35節で「だれが私たちをキリストの愛から引き離すことができるだろうか」と問い返し、パウロは私たちが世にあって遭遇しうる様々な苦難を列挙します。患難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣。ここで「患難(θλῖψις)」とは、脱穀場で麦を打ち叩いて殻を取り除くように、深刻に人を圧迫し追い詰める極限状況を指します。「苦悩(στενοχωρία)」は心が狭められ、息苦しくなるような心理的苦痛を、「迫害」は外部からの敵意ある攻撃を、「飢え」と「裸」は飢餓や衣服がない困窮状態を、「危険」と「剣」は実際の処刑や死の脅威を意味します。当時のローマの聖徒たちはこれらすべてを実際に体験しており、パウロ自身も何度も苦難に遭ってきたので、この言葉は現実味を伴っていました。しかし、彼らはそうした環境を少しも恐れませんでした。なぜなら、彼らの救いが不確かなものではなく、キリストの絶対的愛に基づいていたからです。
張ダビデ牧師は「苦難が大きいからといって、神の愛が小さくなったり、変質したりするわけではない」と改めて強調します。むしろ聖書は「私たちは一日中あなたのために殺され、ほふられる羊とみなされました」(詩篇44篇22節の引用)と述べつつも、37節では「これらすべてのことにおいても、私たちを愛してくださる方によって、私たちは圧倒的な勝利者となるのです」と逆転のメッセージを宣言します。クリスチャンは「なんとか生き延びる」のではなく、「圧倒的に勝利する」と宣言します。どんな状況でも、究極的な勝利が保証されているからです。イエス・キリストが十字架と復活を通してすでに死の権威に打ち勝ち、天国への道を開いてくださったので、イエスのうちにいる者はその道に従って圧倒的に勝利するというのです。張ダビデ牧師はこれを「十字架と復活の信仰の核心」と呼びます。世の中では患難があるとしても、私たちが恐れない理由は、主が先に世に打ち勝ち、私たちに永遠のいのちの道を開いてくださったからです。
2.キリストの愛から切り離せない信仰
ローマ書8章38-39節で、パウロは自らの信仰告白を最高潮に達せしめます。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高さも深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちを私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から切り離すことはできません」。この聖句は、聖徒たちが最も愛する御言葉の一つです。パウロは死といのち、御使いと支配者、現在と未来、そしてあらゆる力や超自然的存在など、人間が恐れたり、あるいは頼ったりするかもしれないすべてを網羅した上で、キリストの愛から私たちを引き離せる存在はだれもいないと宣言しています。張ダビデ牧師は、「救われた者が得る最高の安息と平安は、この『決して切り離せない愛』の確信にこそある」と語ります。
「死も、いのちも」という対比は、人間のあらゆる可能性と限界を含みます。最も恐ろしいことと最も良いこと、そのどちらにおいても、神がくださった救いと愛を無効にすることはできないというのです。「御使いも、支配者たちも」とは、霊的世界と世俗的世界における権威を意味します。パウロがエペソ書6章12節で語った「支配者たち、この暗闇の世界の支配者たち」を想起させますが、たとえサタンの勢力がいかに強大でも、あるいは世の権力がどんなに恐ろしいものであっても、キリストにある神の愛を奪い去ることはできないと確信を与えるのです。
さらに「今あるものも、後に来るものも」とは、時の流れの中で起こるすべての出来事を含みます。私たちが今直面している苦難、これからやって来る危機や変化した状況も、結局は私たちが受けた救いと愛を揺るがすことはできません。「力あるものも、高さも深さも、そのほかのどんな被造物も」という言い回しは、人間の説明を超えた力や未知の領域に対する恐れをも含みます。当時の古代社会では、星座や宇宙の秩序が人間の運命を左右すると固く信じられていましたが、パウロはどんなに宇宙が広大であっても、どんな謎めいた力が作用していようとも、それが聖徒と神との間を引き離すことはないと言い切ります。
張ダビデ牧師は、まさにこの点で「信仰の本質は『神の揺るぎない愛を信頼すること』であり、この愛の上に堅く立つこと」だと強調します。クリスチャンは神に向かって切望し、罪を悔いて嘆くこともありますが、そのすべてはすでに「主が注いでくださった変わらぬ愛」のうちで生じているのです。私たちの感情や周囲の環境がいくら揺さぶられても、神の愛そのものが変動したり消え失せたりすることはありません。問題は、私たちがこれを忘れ、一瞬でも恐れや疑念に陥るときです。だからこそ、パウロは「私は確信しています」という表現を用いて断言します。信仰の中で生きる者は確信の言葉を使うことができます。確信とは自分の感情や気分に基づくものではなく、すでに私たちの救いを責任取ってくださる神の主権に根ざしているため、決して揺るがないのです。
ローマ書8章が締めくくられるこの時点で、パウロが伝えたメッセージはローマの教会の聖徒たちだけでなく、あらゆる時代のクリスチャンに同様に適用されます。救われた者の道は、世の目には患難と苦悩、迫害と飢え、裸、危険、剣が満ちているように見えるかもしれません。それでも私たちは「圧倒的に勝利する道」を行きます。なぜなら、この道をすでにイエスが歩まれ、復活によって勝利してくださり、その愛を示してくださり、今も私たちのために取りなしてくださる大祭司だからです。私たちが死の陰の谷を通るときも、神の杖と竿が私たちを慰め、ついには青草の牧場と憩いの水のほとりへ導いてくださるというダビデの告白(詩篇23篇)は、福音に満たされた新約の聖徒たちにとって、さらに揺るぎない約束として迫ってきます。パウロはそれゆえこの揺るぎない約束の結論を、「死も命も、どんな被造物も私たちをキリストの愛から切り離すことはできない」という言葉でまとめたのです。
張ダビデ牧師は、このパウロの宣言の中に、聖徒が持つべき二つの中心的態度を挙げています。第一に、何者も私たちを切り離せない愛であることを決して忘れないこと。第二に、この愛の召しにふさわしくイエスのかたちに似るように努めなければならないことです。私たちはしばしば「本当に神はこんな罪人の私をまだ愛しておられるのか?」と疑うときがありますが、ローマ書8章全体が語ることは「神は私たちを召し、義とし、ついには栄光へと導くとすでに決めておられる」という事実です。そしてその証拠としてイエス・キリストを惜しまずに捧げられ、さらに聖霊を送って私たちのうちで嘆願させてくださっています。したがって、私たちの落胆や不安を払拭する真の力は、この「揺るぎない愛と救い」に対する信頼から生まれます。
同時に、私たちはこの救いと愛を誤解して「どうせ救われているから、どう生きてもいい」という放縦に陥ってはなりません。パウロは29節で「御子のかたちに似せるためにあらかじめ定められた」とはっきり言い、30節でも「召された者を義とし、義とされた者をさらに栄光へと導かれる」と語っています。つまり、私たちが今も進行中の「聖化のプロセス」を歩むように導かれるのは神ご自身です。私たちの日常の中で聖霊の助けを求め、罪から遠ざかり、御言葉に従い、イエスに倣おうと努めることは、救いの根拠ではなく、救われた者が必ず実を結ぶべき果実なのです。その道でときにはつまづいても、究極的に失敗して捨てられることはありません。これが「聖徒の堅忍」という揺るがぬ教理であり、パウロが8章最後で賛美をもって宣言した結論でもあります。張ダビデ牧師は、この堅忍の真理を握るとき、私たちの内に自由と大胆さがよみがえるのだと語ります。
信仰者たちは、私たちを支えてくださる主が決して失敗したり、揺さぶられたりする方ではないということを信じなければなりません。イエス様が召された十二弟子の中には、失敗の多いペテロがいて、疑い深いトマスもいましたし、裏切りを犯したイスカリオテのユダもいました。しかしイエスは一人ひとりを最後まで受け入れ、教えられたのです。もちろんイスカリオテのユダは最終的な裏切りを選びましたが、ペテロやトマスのように弱い存在は回復してくださいました。「最後まであきらめず、栄光へと導かれる神の愛」、これこそパウロが身をもって体験した恵みであり、彼自身が書き残した福音の内容でもあります。そしてその内容こそが、私たちがローマ書8章の御言葉を通じて新たに理解し、確認すべき核心なのです。
「だれが私たちをキリストの愛から引き離せようか?」というこの一言の問いは、信仰を揺るがし、落胆させる数多の障害に対する決定的な反問です。ローマ書は私たちの救いが「瞬間的な選択」にのみ左右されるものではなく、過去から未来まで貫かれる神の永遠の計画と愛のうちで完成へ向かうことを証言しています。私たちが教会に召され、悔い改めて洗礼を受けたときから、毎週の礼拝で御言葉を聞き聖餐に与り、ときには迷いや争い、悲しみの中で涙を流すときにも、神は絶えず私たちに「私はあなたを召し、あなたを義とした。そしてあなたを栄光へ導く」と宣言し続けておられます。この約束を「信仰によって見つめる者」は、たとえ現在の人生がどんなに苦しく困難であっても、その後ろに用意されている栄光を見ることのできる霊の目が開かれます。
張ダビデ牧師は「神のこの揺るぎない愛こそ、信者の究極的な命の源であり、同時に世に対して圧倒的に勝利する力でもある」と繰り返し思い起こさせます。ローマ書8章の結論部でパウロは、逆に言えば私たちがいかに特別で尊い存在であるかを教えてくれているとも言えます。それは私たち自身が大した者だからではなく、「大いなる愛のうちに置かれているから」にほかなりません。この愛こそが宇宙の主がその御子を通して自ら証明してみせた愛であり、やがて再臨される主が最後まで守り抜いてくださる救いの愛なのです。ゆえにどんな患難や危険のさなかにあっても、どんな試練や失敗を経験しても、結局、私たちの存在は「キリスト・イエスにある神の愛から決して切り離せない者」という身分に帰結します。これ以上に確かで栄光に満ちたメッセージがあるでしょうか。
張ダビデ牧師はこのような結論とともに、私たちが毎日「神様、今日も変わらぬあなたの愛のうちを歩ませてください」と祈りつつ起き上がることができるのだと言います。患難が押し寄せても、あるいは自分の内面で崩れるものがあっても、「神様が私を知っておられ、私を掴んでいてくださる」という事実を改めて確認するのです。この愛の確信は、ときに礼拝や御言葉の黙想、祈りの中で起こります。あるいは聖餐式において、イエスの血と体を象徴するパンと杯をいただく際に「本当に主がすべてを捧げて私を生かしてくださったのだ」と悟ることもあります。そうして再び信仰が呼び覚まされ、心の扉が開かれるとき、私たちは初めて「圧倒的に勝利する人生」の喜びを少しずつ体験できるようになるのです。
ローマ書8章28節から39節は、聖徒に向けた神の不可抗力的な愛と救いの叙事詩だとも言えます。使徒パウロは「予知と予定」の神秘から始め、「苦難の克服」を越え、どんなことでも「キリスト・イエスにある神の愛」から私たちを切り離せないという結論を高らかに歌い上げながら、壮大な救いのストーリーを展開しました。張ダビデ牧師がこの本文を講解するときに強調する核心は、「私たちが今直面している問題や悩み、罪責感や恐れがいかに大きくても、その上にそびえ立つ神の愛と恵みははるかに大きい」ということです。救いの主体が神であるがゆえに、私たちの限界を超える「その恵みの絶対性」が私たちを支えてくれる――これがメッセージなのです。
人が自分の罪や無力さを認識することは実に大切ですが、そこにとどまって霊的自虐と沈黙に陥ってしまうなら、福音の力は発揮されません。パウロの言う核心は、「だれが私たちを敵対できるのか?」「だれが神の選んだ者を訴えられるのか?」「だれが罪に定められるのか?」「だれがキリストの愛から切り離せようか?」という一連の反問によって、私たちにはすでに勝利の道が開かれていることを宣言している点です。この確信を握って世の中で揺るぎなく立つとき、聖徒たちは自分の過ちを乗り越え、世の誘惑を振り払い、さらにイエスのかたちに似る生き方を進めるようになります。そしてその過程で気づかされるのです。「本当にどんな状況も私を主の御手から奪い取れない。私が今の私であるのは、まったく神の恵みによるのだ」という悟りこそ、ローマ書8章がもたらす究極の自由と平安です。
このようにしてパウロはローマ書8章後半を通じて、聖徒が味わうべき終末論的確信と現在における大胆さを同時に与えてくれます。私たちの救いは過去に計画され(予知と予定)、現在に実現し(召しと義認)、やがて完成に至ります(栄化)。その中心に最も明確に示されたのが「神の愛」という軸です。その愛は十字架において十分に明らかにされ、復活と昇天、そして聖霊の降臨を通して歴史的に証明され、将来の永遠の御国において完全に実現されます。私たちに残されている課題は「この愛をしっかり信じ、その愛が求めるイエスのかたちに近づくために、いつでも従順であること」です。
張ダビデ牧師は、この部分について「教理的確信が生活の現場で具現化されてこそ、真の信仰となる」と語ります。ローマ書8章を学び深く黙想しているにもかかわらず、日常で簡単に不安や心配に呑まれてしまう私たちの姿があるなら、改めてこの御言葉を噛みしめるべきでしょう。「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々には、万事が共に働いて益となる」という宣言は、私たちの生を実際に支える強固な礎とならなければなりません。「だれが私たちをキリストの愛から切り離せようか?」という問いは、私たちが揺らぐときに繰り返しぶつかるべき真理の言葉です。この問いを繰り返し発することは、実は「どんな人や環境も私を神の愛から引き離すことはできない」という信仰告白を繰り返す行為にほかなりません。
ローマ書8章28節から39節に込められたこの壮大なメッセージは、パウロの時代に迫害されていた聖徒たちだけでなく、現代を生きる私たちにも決して色あせません。人生が不確かに見え、その瞬間瞬間に失敗や挫折を味わい、霊的な怠惰や罪責感に陥ることがあるとしても、「神があらかじめご存じであり、召し、義とし、栄光へ導いてくださる救いのストーリー」の中にいるという事実は決して揺るがないのです。そしてその決定的証拠こそが、「ご自分の御子を惜しまずに差し出された十字架の出来事」です。だれも払い得ないほど高価な代価で私たちを買ってくださったのですから、神が始められた救いを成し遂げてくださるのは当然の帰結です。「だれが私たちを敵対できるだろうか?」と声を上げるパウロの自信と、「だれが神が選ばれた者を訴えられるだろうか?」という彼の信仰宣言が、今も私たちの胸に火をつけるのはこのためです。それは単に感情的な高揚ではなく、神学的・歴史的に根拠のある真理の世界にしっかりと根ざしているからこそ、揺るぎないのです。
張ダビデ牧師は、いつもこの本文を説教する際、「神が私たちに保証しておられるものがある。それは神の『変わらない愛』と『忠実な救いの完成』である」と結びます。私たちが疲れ果て、傷ついた心で「もうこのまま諦めるしかないのか」と絶望するとき、ローマ書8章を開けば、神の慰めと励ましが具体的に迫ってきます。「だれが罪に定められようか?」「だれが敵対できるのか?」「だれが切り離せようか?」という一貫した反問に耳を傾けるとき、私たちはどんな告発者よりも偉大なイエス・キリスト、どんな敵よりも強い全能の神、どんな切り離そうとする勢力よりも優越する聖霊の愛が共にあることを再確認します。これこそが福音であり、その福音の力によって今日も私たちは立ち上がることができるのです。
パウロが「私は確信しています」と言ったように、私たちも「本当に何ものも私を主の愛から切り離せないのだ」という信仰の境地に達し、そこにしっかり立つとき、真の平安と勇気を得ます。この確信があれば、霊的な戦いで倒れても再び立ち上がれますし、誘惑に打ち勝つことができ、苦難の中でも希望を抱いて前進できます。そしてそれは、私に対する神の揺るがぬ意志と、私がイエスの姿に似るようにと召されている事実が、盤石の土台として作用しているからです。パウロが伝えてくれたローマ書8章の壮大なメッセージは、決して昔の物語ではなく、現代の私たちを新たに奮い立たせる生きた御言葉です。張ダビデ牧師はこれを「神の絶対的な愛が呼び起こす救いのドラマ」と呼び、聖徒たちがその中で恐れなく大胆に福音を生きるように勧めています。
私たちの救いはすでに確保されていますが、それは私たちを高慢や怠惰に駆り立てる教理ではなく、むしろどんな瞬間でも神を信頼し従順しようと決断させる力です。ローマ書8章でパウロが示した「予知、予定、召し、義認、栄化」のプロセスは、徹底的に神の側の恵みによって成し遂げられるものであり、聖徒の堅忍とは、失敗して転んでも、最終的な目標である「キリストのかたちに似た栄化」に到達させる神の導きを言います。ですから私たちが今なすべきことは、ただ信仰のうちに「主よ、私を召された以上、私を完全にしてくださるのもあなたの力と恵みにあると信じます」と告白しながら、同時に「愛の召し」にふさわしくますますイエスに似るよう努めることです。
このようにローマ書8章28-39節の講解は、私たちに尽きない希望を与えます。ここに含まれる真理を握って、どんな苛酷な状況でも「圧倒的に勝利する」と宣言したパウロの信仰を継承し、教会という共同体が堅く立たねばなりません。教会が世からあれこれ揺さぶられ、ときに嘲笑され、聖徒一人ひとりがさまざまな小さな悩みや大きな試練に圧されても、「神が私たちの味方なら、だれが私たちに敵対できるだろうか」という問いは決して光を失いません。世の歴史は神が司られる舞台であり、その舞台で私たちが支給されるすべてはイエス・キリストの十字架の愛と復活の力であり、その愛と力によってこそ、どんな剣も、どんな迫害も、私たちに対する神の救いを中断させることはできないとわかるのです。
ローマ書8章後半が告げる最終結論は「愛」です。あらゆる神学的探求や教理的論争もここに帰結されるべきであり、これをつかみ損ねるならキリスト教信仰は空虚なものになってしまいます。救いを「得たか」「失ったか」という議論はあれど、パウロは「私は確信している」と言い切ることで、その論争を超えて「日常の場」でこの愛を体験してみよと招いています。実際、キリストの愛に捉えられたパウロや初代教会の殉教者たちは、悲惨な環境の中でも喜びと賛美を絶やしませんでした。そして彼らは口をそろえて「いのちも死も、キリストの愛に比べれば何でもない」と言いました。今を生きる私たちも、このキリストの愛をしっかりと握ることさえできれば、世が押し寄せる数々の圧迫や疑念の中でも「恐れなき勇気」を持てるでしょう。
張ダビデ牧師は最後に、「福音とは、人間が出会う哲学的な問いの『解答』であり、神が注いだ愛の結晶である」と教え、ローマ書8章28-39節が示すこの荘厳な宣言の上に信仰を築くべきだと力説します。「たとえ世が揺れ動き、教会が弱く見えても、結局主の愛が私たちを最後まで守り抜き、さらにイエスの姿へと変容させてくださるという事実こそが私たちの基盤」である、と。そのことは一方では驚嘆すべきですし、また感激に満ち、同時に責任が伴う召しでもあります。その愛を受けた者として、私たちにいつも問い掛けられるのは同じことです。「だれが私たちを切り離せようか?」――そしてその答えはパウロのように「どんな被造物も切り離すことなどできない」という揺るぎない確信です。私たちがこの事実を心の奥底に刻み、日々この愛を信頼して生きるとき、初めてローマ書8章が示す福音の力を実際に体験し味わうことができるのです。