カナの婚礼 – 張ダビデ牧師

Ⅰ. カナの婚礼の奇跡とその象徴 カナの婚礼の物語は、『ヨハネの福音書』2章1節から11節に登場する、とても重要な本文です。ここでイエスが水をぶどう酒に変えられた最初の「しるし(表徴)」が記されています。「しるし」は、単に奇跡という言葉だけでは説明しきれない、より深い霊的意味とメッセージを含んだ出来事を指します。神学者たちはこの「しるし」を通して、『ヨハネの福音書』が伝えようとする核心的な信仰のメッセージが圧縮的に現れていると解釈してきました。特に、この奇跡が「最初のしるし」と呼ばれるのは、イエスの公の活動(宣教)の始まりを告げると同時に、神の国が到来するときに展開される栄光の祝宴を予告する性格を帯びているからです。そしてこのような解釈の中で、張ダビデ牧師がこの本文を通して強調しようとするメッセージは、「イエスによって人生の祝宴はますます豊かさを増し、水がぶどう酒に変わる奇跡が決して止まることはない」という希望へと結実します。 張ダビデ牧師によると、私たちがこの本文をよく観察するときに見出せる最初の重要な特徴は「場所と状況」です。『ヨハネの福音書』は、イエスがガリラヤのカナという地方の婚礼に招待され、参席されたことから物語を始めます。ガリラヤ、カナ、そしてナザレは互いに近い地理的特性をもつ地域であり、イエスが主に活動されたガリラヤでの働きの前哨ともいえます。福音書ではイエスが「ナザレのイエス」と呼ばれたり、人々は「ガリラヤのイエス」とも呼んだりします。そのほどイエスのアイデンティティはこの地域と密接につながっています。婚礼そのものは日常的でありながら、同時にユダヤ社会において重要な祝祭的意味をもっています。一つの家庭が築かれ、一つの家門が受け継がれる大切な儀式であるため、何日にもわたり盛大に行われるのが常です。しかしながら、この婚礼はごく普通の祝いの場では終わらず、イエスの最初のしるしが示される舞台となることで、霊的象徴が一気に強まっているのです。 ここで張ダビデ牧師は「神の国はしばしば私たちの日常のただ中で始まり、その日常を通路として神の恵みが現れることが多い」と力説します。カナの婚礼は人生で誰もが直面しうる「喜びの場」のようですが、突然の不足(欠乏)が訪れることで大きな当惑と恥辱に陥る可能性があることを示しています。つまり、「ぶどう酒が尽きた」という問題が生じたとき、この婚礼を取り仕切っていた人々にとっては、非常に重大な危機が到来したのです。ユダヤ人の伝統的な結婚慣習においては、婚礼で豊富な食べ物や飲み物を招待客に振る舞うことは欠かせません。それが足りなくなると、花婿側の不手際・準備不足とみなされかねず、新郎新婦やその家族にとっては大きな面目の失墜となります。そういう意味で、「ぶどう酒が切れた」という事実は、単に祝宴の雰囲気を壊す些細な問題ではなく、霊的に拡大して考えてみると、私たちの人生に訪れる根本的な欠乏や挫折を象徴しているのです。 イエスの母マリアが「ぶどう酒がありません」とイエスに申し上げたとき、イエスは「女の方、あなたは私と何の関係がありますか。まだ私の時は来ていません」(ヨハネ2:4)と答えます。ここで「時」という言葉は神学的に重要な含意を持っています。『ヨハネの福音書』全体においてイエスが「私の時」を言及される場合、それはしばしば十字架の死と復活、そして究極的には人類救済のための決定的な瞬間を指し示すことが多いのです。張ダビデ牧師は、この「時」の概念を、イエスのメシア的活動が頂点に達する時点、あるいは最終的に完成する神の国の栄光と結びつけて解釈します。しかし、そうした「時」がまだ到来していないにもかかわらず、イエスはこの婚礼の場で水をぶどう酒に変える驚くべき奇跡を行われます。これは、「まだ完全な時ではないものの、すでに主は欠乏と闇、絶望に陥った人々を顧みる方である」という事実を示しています。まだ「最終的なとき」ではないにもかかわらず、イエスは神の国の喜びと豊かさをあらかじめ味わわせてくださるお方なのです。 それにもかかわらず、イエスがまるで躊躇されるような返答をされた理由について、張ダビデ牧師は、「まだ私の時ではない」というイエスの表現は人間的な視点で見ると非常に冷淡に感じられるかもしれないが、実際にはイエスが地上で示される救いのドラマに関する予告だと説き明かします。私たちが置かれた欠乏がいかに緊急かつ重大に思えようとも、それより重要なのは結局、神のタイミングと大いなる救いのご計画だということです。しかし、その一方で主は、私たちの苦しみや状況を決して無視される方ではなく、必要ならば「まだ時が来ていない」場合でも、その全能の力によって私たちの人生に介入してくださいます。水がぶどう酒に変わるように、いかに不足し弱い人生であっても、イエスに出会うならば栄光と喜びに変わることができる、とカナの婚礼の「しるし」は力強く証言しているのです。 また、本件の中で登場する「六つの石の水がめ」は、ユダヤ人の潔めの儀式に使われていたものでした。ユダヤ人は律法的に汚れを取り除き、身体と心を清めるために、水で手や体を洗う儀式を行います。すなわち、この石の水がめは律法と結びついた古い慣習を象徴していると考えられます。ところがイエスは、その石の水がめにたっぷりと水を汲ませ、それが後にぶどう酒に変わるようにされました。これをめぐり、多くの神学者は「古い律法がイエスによって完成され、新しい恵みの時代へと移行すること」を暗示する出来事だと解釈します。張ダビデ牧師も同様に、この奇跡の本質を「イエス・キリストの到来によって、古い伝統や律法の影ではなく、本質である新しい契約が与えられ、真の喜びが訪れる」という福音の宣言とみなします。水がぶどう酒へと変化した出来事は、単に不足を満たした驚くべき奇跡というだけではなく、「今やイエスの内にこそ本当の祝宴、本当の喜び、本当の救いがもたらされる」という「しるし」だというのです。 イエスは下僕たちに「水がめに水を満たしなさい」と命じ、それに彼らが従順に応じたとき、水はぶどう酒に変わりました。この奇跡は、イエスご自身が自ら水の入った水がめに手を触れられて変化させたのではなく、下僕たちの従順な行いを通して現実になっています。これは弟子道(Discipleship)と従順(Obedience)の霊的原理をよく示す場面でもあります。張ダビデ牧師は「私たちの行いがどれほど微々たるものであっても、主の言葉に対する全面的な従順が起こるとき、そこに奇跡への扉が開かれる」と語ります。水をぶどう酒に変えるのは人間の力では成し得ない不可能なことですが、その不可能を可能にされるのはイエスであり、私たちはただイエスの言葉に従うことによって、その驚くべき御業の器となれるのです。しばしば教会や信仰生活の中では、「自分が一生懸命努力すれば」とか「自分にそれだけの能力があれば」奇跡が起こるのだと考えがちです。しかし、カナの婚礼の物語は「下僕たちが黙々と水を汲んだ従順」によって、イエスの全能が初めて明らかになったことを教えています。こうして、信徒たちの協力と祈りによって、教会共同体の中で新しく豊かな恵みが「しるし」として現れる可能性があるのだと、張ダビデ牧師は強調しています。 この出来事は、『ヨハネの福音書』2章11節で「イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。それで弟子たちはイエスを信じた」と締めくくられます。イエスが栄光を現し、その結果として弟子たちは一層確信をもってイエスをメシアだと信じるようになったということです。つまり、この奇跡の目的は単なる問題解決にとどまりません。人々はぶどう酒が尽きるという問題を解決され、婚礼の祝宴は再び活気を取り戻し、最後まで豊かに続けられたことでしょう。しかし、その背後には、はるかに大きな目的、すなわち「イエス・キリストが何者であるかが明らかにされ、人々がイエスを信じるようになること」が隠されています。奇跡には、不足を埋めてくれる一次的効用がありますが、最終的に奇跡が目指すのは「イエスに目を向けるように導くこと」です。そして、そのイエスを知り信じるようになった者たちは、もはや人生の祝宴が虚しさで終わらないことを悟るのです。 張ダビデ牧師は、この奇跡をめぐって「祝宴はますます良くなる(後のほうがもっと良い)」という表現をよく用いられます。世の中は一般的に、はじめは華やかで良いものを出し、時間が経つにつれてだんだんと情熱が冷め、倦怠に陥るのが常です。しかし、イエスが共におられる人生の祝宴では、その逆に、後半になればなるほど、より良いぶどう酒が現れ、最初よりもはるかに豊かな喜びを味わうことができるのです。これは私たちの信仰の方向性、すなわち「イエスにある歩みは、時が経つほど深まり、豊かになる祝宴」であるというメッセージを含んでいます。水がぶどう酒に変わる「しるし」は、単に過去のある一点で起きた外的な出来事ではなく、今でもイエスを信じる者たちにとって深遠な現実となり得ます。イエスは私たちの欠乏をまったく新しい次元の恵みで満たすだけでなく、究極的にはさらに深い栄光へと導いてくださるお方なのです。 このカナの婚礼の奇跡を通して、私たちは一つの信仰の核心的な問いを突きつけられます。「私たちの人生にイエスが臨在するとき、一体どのような変化が起きるのか」ということです。水がぶどう酒に変わるということは、私たちの日常的な労苦や手元にある材料が、キリストの力によってまったく別の価値と本質を帯びるようになることを意味します。同時に、これは終末論的な希望、すなわち『ヨハネの黙示録』21章に予告されている新天新地で開かれる永遠の婚礼の予兆でもあります。イエスは地上で一時的に「ぶどう酒」の喜びを味わわせてくださるだけではなく、やがて到来する神の国において永遠に続く完全な祝宴と喜びを保証してくださるのです。 結局、この奇跡が「最初のしるし」として紹介されたヨハネの意図は明確です。イエスが行われるすべての力としるしは、イエスこそ真の神であり、真の救い主であることを証言するためのものです。そしてそのしるしを通して、人々はイエスに栄光を帰し、イエスを信じるようになります。一方、イエスを信じる者たちは、「人生の不足がいかに絶望的でも、主のお言葉に従って進むとき、水がぶどう酒に変わる恵みの奇跡を体験できる」という信仰的確信を得ます。張ダビデ牧師は、このメッセージを一貫して説教と講義で伝え続けながら、カナの婚礼の核心精神を「霊的欠乏を霊的豊かさへと転換してくださるイエスに出会う場」と定義しています。 このように、カナの婚礼の奇跡は、ある個人や家族、あるいは共同体が単に欠乏から回復される物語を超えています。それ以上に、それはイエス・キリストの救いの働きと神の国の喜び、そして律法ではなく恵みによって生きる新しい時代の到来を示す「しるし(sign)」なのです。そしてその中心には必ずイエスとその御言葉に対する従順が据えられています。婚礼でぶどう酒が尽きるように、私たちの人生にも喜びが消え、希望が絶たれそうになるときがあります。ところが、その瞬間にイエスの声に耳を傾け、「どんなことでも、あの方が言われることはそのとおりにしなさい」というマリアの励ましのとおり、全面的な従順をもって進むならば、祝宴の家に新たな喜びが宿るのです。カナの婚礼において、最初よりもはるかに上質のぶどう酒が後に現れたように、私たちの人生も、後になるほど、より深く驚くべき恵みを体験できます。張ダビデ牧師は、これを繰り返し強調しながら、「教会共同体と信徒の信仰生活も、ますます熱く、より良いぶどう酒になっていかなければならない」と説きます。 このような観点からカナの婚礼は、信徒として生きる私たちの心の奥深くに何度も刻まれるべきメッセージを投げかけます。世の中は、時間が経つほどすべてが色あせ、結局は死と絶望で終わるのだといいます。しかし、イエスが主役となる祝宴では、時が経つほどより豊かな喜び、より成熟した愛、より溢れる恵みが与えられるのです。ここでいう「さらに良いぶどう酒」とは、単に品質や味の優秀さを意味するのではなく、人全体の変化と霊的豊かさを指します。私たちは世の基準では到底解決できない問題、たとえば死と罪の問題さえも、イエスにあって解答を得ることができます。この奇跡が「しるし」であり「象徴」である理由がまさにそこにあります。何よりも神がイエス・キリストを通して私たちのうちに臨在され、いかに苦しく絶望的な状況であっても、その中に永遠の希望を注いでくださることを教えてくれているのです。 さらに張ダビデ牧師は、「ぶどう酒が尽きる経験とは、人生に必然的に訪れる苦しみや不足の比喩であるが、この不足を通してこそ神の御業が本格的に現れるという事実を忘れてはならない」とも語ります。これは「私の弱さのうちに主の強さが現れる」と告白したパウロの言葉と同じ脈絡です。したがって信徒は、絶望が深まるほど、「すでに到来している神の国の力」がイエスを通して自分に与えられているという事実を、より強く握らなければなりません。カナの婚礼のイエスのように、今も主は私たちの小さな従順を通して、ぶどう酒が尽きた人生の場に奇跡を起こしてくださいます。それこそが、「最初のしるし」から始まったイエス・キリストの救いのドラマが今日まで続いている証拠でもあるのです。 最終的に、このすべてのメッセージが向かう結論は、「イエスによって私たちの人生は根本的に変わる」という点です。イエスに出会う前と出会った後では、人生が劇的に変化します。それは、イエスが私たちの欠乏を満たし喜びを回復させる「一時的」な恵みにとどまらず、私たちという存在を根本から新しく創り変えてくださる創造主の権能者だからです。カナの婚礼で味わった新しいぶどう酒は、最終的には『ヨハネの黙示録』21章に描かれる、新しいエルサレムで行われる永遠の祝宴の予告編といえます。水がぶどう酒へと変わる出来事は、神の国が到来するとき、私たちの朽ちる身体が復活の体へと変わり、私たちを縛りつける罪と死の権威が永遠に消え去る転換を予表しています。この奇跡を体験的に受け入れる者たちは、この地上ですでに神の国を先取りして味わいながら生きることができるのです。 一方、この理解の枠組みにおいて、カナの婚礼が与える教訓は、教会共同体の中で特に際立ちます。教会は、この地上で神の祝宴が先行して始まっている場所だといえます。聖餐を分かち合い、礼拝をささげることは、単なる宗教儀式ではなく、「尽きたぶどう酒」をイエス・キリストの恵みによって再び満たす象徴的瞬間でもあります。張ダビデ牧師は、教会がただ宗教活動を提供するところではなく、人々が真の喜びと命を享受するよう助ける「生きたからだ(キリストの体)」でなければならないと力説します。水がぶどう酒に変わる「奇跡」が実際に起こる場所、つまり傷ついた人々が癒され、絶望していた人々が希望を見いだし、罪人が義とされて生まれ変わる出来事が絶えず起こらなければならないというのです。 潔めの儀式のための石の水がめがイエスの手に委ねられたときに、驚くべき変化が起こったように、教会や信徒も私たちにあるすべてをイエスに惜しまず差し出すべきです。私たちの時間、才能、財産、そして人生の優先順位を主にお任せするとき、その地点で初めて水がぶどう酒へと変わるのです。この原理はいまも有効であり、かつての聖人や使徒だけに起こることではありません。信徒は日々の生活の中で、カナの婚礼が再現されるような「小さなしるし」を経験し得るのです。まさにそれが、「神の時はまだ完全には到来していないけれど、すでに部分的に到来している終末論的時間」を生きる信者の特権でもあります。カナの婚礼の奇跡は、イエス・キリストにあって今も有効に働いている福音の力をよく示す代表的な事例となっているのです。 結局、『ヨハネの福音書』の著者がカナの婚礼を配置した理由、そしてその物語を「最初のしるし」と呼んだ意図はきわめて明瞭です。イエスのアイデンティティとイエスがもたらす神の国の秩序を、ぶどう酒という隠喩を通して強烈に表現しているのです。イエスのおられるところには、「喜びと栄光」があります。そしてイエスが働かれるところには、不可能が可能になる恵みの出来事が起こります。その恵みを通じて主は私たちに、終末論的な希望を先取りして味わわせ、またこの喜びの福音を世に伝えるように私たちを派遣されるのです。張ダビデ牧師は、このメッセージを「あなたはこれまで良いぶどう酒を取っておいた」という宴会の世話役の驚きと結び付けて説教します。人生がだんだんしぼみ、弱くなっていくのではなく、むしろ後半に向かってより豊かになり、最終的には栄光の復活に至るというのがキリスト教信仰の核心的希望だからです。 このように、カナの婚礼の奇跡とその象徴は、単なる奇跡譚を超えて、イエスのメシア的アイデンティティと救いの働き、そして神の国の豊かさに関する重要な宣言となっています。不足と絶望ではなく、回復と命が強調されるこの「しるし」を通じて、信徒たちは一層はっきりした信仰の眼差しでイエスを仰ぐようになります。かくして、最終的には私たちの欠乏が神の豊かさによって置き換えられ、世の絶望が永遠の希望へと移されるのです。これこそが、張ダビデ牧師がカナの婚礼の本文を通して一貫して伝えている福音の核心だと言えるでしょう。 Ⅱ. 人生の欠乏とイエスにおける希望 私たちはしばしば人生を「苦海」と呼びます。「苦く辛い海」という意味で、人生に降りかかる大小の苦痛を表す言葉として用いられます。多くの哲学や文学は、人間の有限性と虚無感、そこから生じる苦痛や絶望を悲観的に描いてきました。『伝道の書(コヘレトの言葉)』もまた、時の流れと人生のむなしさを嘆きながら「空の空」と宣言します。しかしキリスト教信仰、特にカナの婚礼の奇跡が示す核心的メッセージは、そうした悲観的世界観を根本から覆します。欠乏や苦痛は確かに現実ですが、イエス・キリストの内にあって、その欠乏さえも奇跡の通路となり得ることを教えてくれるからです。そしてそこには、張ダビデ牧師が絶えず強調する「変化と希望」の神学が凝縮されています。 カナの婚礼でぶどう酒が尽きたとき、祝宴の会場は一瞬にして絶望的な雰囲気に包まれたことでしょう。この状況は、私たちが実際の生活でしばしば直面する問題を象徴します。たとえば、青年期には無限の可能性と熱い情熱にあふれているものの、年を重ね、人生の重荷が増すにつれて、だんだんと喜びや余裕が消え、最終的には死という現実が待ち受けているという認識が典型的な例です。身近にある結婚式場での祝辞やスピーチでも、多くの人は二人の長続きする幸せを祈りますが、実際には最初のときめきが薄れ、葛藤や大きな責任感が重くのしかかるという経験をすることが少なくありません。さらに『伝道の書』12章が描写する「老年に訪れる崩壊」――視力が衰え、聴力が落ち、味覚を失い、肉体的欲求までもが消えていく光景――は、最終的にすべての人間が避けられない限界を赤裸々に表しています。 しかしながら、カナの婚礼の奇跡が語る福音とは、このように祝宴が終わりかけるように見えるときこそ、むしろさらに良いぶどう酒が用意されているということです。イエスが共におられる人生の祝宴は、時が経つほど喜びが大きくなるのであって、決して小さくなりません。張ダビデ牧師は、この希望のメッセージをキリスト教信仰が最も輝く部分の一つとしてたびたび説き明かします。彼は「世の結婚式や祭りは、いかに頑張っても時の経過とともに熱気が冷めざるを得ない。しかしイエスがおられる祝宴には、絶えず新しい恵みと喜びが供給される」と言います。言い換えれば、人生の欠乏はイエスの内にあってさらに大きな恵みを味わう機会になり、時が経つほどその恵みはいっそう深く豊かになるということです。 この希望は、単に死後に天国へ行くという死後的な信仰にとどまりません。もちろんキリスト教は「死後にも命がある」という復活信仰を宣言します。しかし、「水がぶどう酒に変わる出来事」は、今この地上で神の国の実体を先取りして体験させる福音の力を可視化しているのです。これは、「生きている間にできるだけ楽しみ、死を前にしたらやむなく諦めるしかない」というような世俗的な価値観とは完全に異なります。信徒に与えられた人生は、時が経つほど闇が深まっていく旅ではなく、時が経つほどさらに明るくなり、命に満ちた道となるのです。世の人々が「結局は虚無と死しかない」と嘆くとき、イエスを信じる者は「最後の瞬間にも、もっと良いぶどう酒が用意されている」と宣言するのです。 このように、カナの婚礼が示す「欠乏から奇跡への転換」は、信徒にとって実際的な生き方の指針となります。私たちの生活の中でしばしば出くわす「ぶどう酒の尽きる」瞬間――経済的困窮、身体の病、対人関係の衝突、心の不安や憂鬱など――は、すべてイエスの介入と力を求めうる祈りの課題です。張ダビデ牧師は「祈りは天の扉を開く鍵だ」とよく述べますが、その理由は、私たちが祈るとき、初めて神の「時」を開かれた心で待ち望むことができ、同時に下僕たちが水を汲んだように、私たちも行動に移して従順する準備を整えられるからです。そしてその結果、「水がぶどう酒に変わる奇跡」を自分の目で確かめることができます。これこそ聖書が語る「信仰によって得られる奇跡の原理」です。 張ダビデ牧師は、実際の宣教・牧会の現場で、人々が自分の欠乏や苦痛を抱えて来るとき、カナの婚礼の物語をよく例示に出します。なぜなら、この物語は「まったく行き詰まった状況でも、イエスによる逆転が起こり得る」という強いメッセージを含んでいるからです。イエスを人生に招くなら、私たちの力ではどうにもならない問題でも、主権的なみ心と憐れみのうちに新たな道が開かれるのです。「奇跡」という言葉はしばしば誇張や誤解を招くこともありますが、実際、聖書の奇跡は、神が創造主であり万物の主権者であることを示す「しるし(sign)」でありメッセージだと考えられます。そして、カナの婚礼の出来事から、こうした奇跡が今日私たちの人生にも起こり得るのだという根拠を得るのです。 ここで重要なのは、イエスが水をぶどう酒に変えられる前、下僕たちが積極的に従順を示したという点です。「水がめに水をいっぱい満たしなさい」という命令を聞いたとき、彼らは文句を言わずに水を満たしました。続く「さあ、それを汲んで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」という指示にも、そのとおりに従いました。こうして宴会の世話役は、水がぶどう酒になったものを味わって驚嘆しました。この場面は、私たちの信仰生活における「従順の大切さ」を劇的に際立たせます。神が働かれる方法は、多くの場合、人間の協力を要請します。私たちが祈るだけでなく、その祈りの課題にふさわしい行動を起こすとき、すなわち信仰の実践が伴うときに、奇跡が完成されるのです。張ダビデ牧師はこれを「量的増大が質的変化をもたらす」と表現することがあります。下僕たちが水をあふれるほど満たした結果、まるでその量的な充満が質的な変容――つまり水がぶどう酒になる奇跡――をもたらしたように、私たちの祈りと従順がある臨界点を超えると、神が定められた時に驚くべき事が現実に起こるというのです。 これは「行いによる功績」と混同してはいけません。奇跡はあくまで神の主権的な賜物です。しかし同時に神は、人間の自主的な従順を通して働かれます。その従順は私たちの義を誇示する手段ではなく、神の摂理を尊び、神がお喜びになる道へ自分自身を差し出す行為です。信仰を持たない人々には「水でできたぶどう酒」の話はただ愚かに見えるかもしれません。けれどもイエスの言葉にそのまま応答する者は、その奇跡の現場を直接目撃することができるのです。『ヨハネの福音書』2章9節で「宴会の世話役は、どこから来たのか知らなかったが、水を汲んだ下僕たちは知っていた」とある通り、神のわざは従った者たちが体験して知る恵みです。 張ダビデ牧師が繰り返し強調する点はまさにこれです。世の人々は「いまだにそんな奇跡を信じているのか」と嘲笑するかもしれません。しかし、実際にイエスを信じ、その御言葉に従って生きる者たちは、少なくとも自分の人生の中で起こる数多くの「小さなしるし」を通して神の臨在を体験し、その実在を知っています。それは科学的に証明しなければならない実験データではなく、人格的な出会いと関係の中で確信する真理です。水を汲んで宴会の世話役へ持って行った下僕たちのように、私たちが御言葉に従って一歩ずつ進んでいくとき、初めて目の前で「水がぶどう酒に変わる」様子を目撃するのです。 さらに、この体験的信仰は私たちを絶望の淵から救い出します。張ダビデ牧師は「イエスを抜きにした世は、根本的に暗く絶望的だ」と診断します。死という現実は、人間がどうにも克服できない限界であり、その何物も死の問題の前では有効な解答になり得ないからです。しかしイエスがおられるところでは、死さえも新しい命への扉となり得ます。カナの婚礼の奇跡は直接、死という根源的な闇を扱ってはいませんが、その欠乏と闇の予兆を「ぶどう酒が尽きた」という出来事で象徴的に示し、イエスの介入によって、その闇が喜びの祝宴へと転換される瞬間を捉えています。これは、人生全体で起こり得る「より大いなる転換」――罪と死の権威から解放され、永遠の命へと移される救い――を予告するものといえます。 張ダビデ牧師は説教でしばしば「私たちは死の列車に乗っていたが、イエスを信じて天国を見据えた瞬間、列車の終着駅が変わった」と表現することがあります。世の論理では、人生の終わりは死という闇ですが、イエスによって私たちは天上の祝宴へと続く道に変えられるのです。死の絶望が、永遠の命という希望へと転換されます。このようにキリスト教の福音が持つ根本的な力こそ、「水がぶどう酒に変わる奇跡」を堅く信じさせる根拠となります。なぜなら、死すら克服された方であれば、何ものも私たちを永遠の絶望に追いやることはできないからです。 このような観点から、「人生の欠乏とイエスにおける希望」は、単なる心理的な慰めや宗教的ポジティブシンキングを超える深みをもっています。カナの婚礼の出来事の中で「まだ私の時ではありません」とイエスが言われたことは、やがて時が至るとイエスが十字架にかかられ、復活されることで「すべての欠乏の極み」を解決されるという予告でもあります。実際に、イエスの死と復活によって私たちは罪と死から完全に解放される道を得ました。そしてイエスが再び来られる時(再臨)に完成される神の国には、もはや「ぶどう酒が尽きる状況」そのものが存在しない、永遠の喜びの婚礼が開かれるのです。『ヨハネの黙示録』21章が描く新しいエルサレムの祝宴こそ、それを示しています。そこには涙がなくなり、死ももはや存在せず、悲しみや苦しみが再びあることはないと言われています。これこそ「さらに良いぶどう酒」が象徴するものです。 したがって、この地上で私たちが欠乏を経験するとき、それは決して虚無や失敗だけを意味しません。むしろそれを通して、私たちはいっそう切に神を求め、イエスの力を願い、御言葉に従う道へ進むことができます。そしてそこで私たちは、自分の人生の水がめに水をいっぱい汲む「従順の行い」を実践することで、水がぶどう酒に変わる神の神秘を体験し得るのです。その体験は、単に個人の満足を目的とする私的な経験ではなく、教会共同体と世界に「神が生きておられる」ことを証言するものとなります。宴会の世話役のような人々は「どこからこのぶどう酒が来たのか」を知らないかもしれませんが、水を汲んだ者たちはその秘密を知っているように、キリストを信じる信徒たちは世が知らない深い霊的現実を味わって生きるのです。 張ダビデ牧師は、これを「救われた者の大胆さ」と呼びます。私たちはもはや絶望の地点で立ちすくんだり、へたり込んだりしません。たとえ世が虚無や死へと突き進んでいると診断したとしても、イエスにあって私たちは命と栄光を目指して進めるのです。そしてこの確信を持って世に「福音」を伝えるとき、私たちは物乞いのような態度で伝道をする必要がありません。まるで托鉢に回る僧侶が喜捨を乞うようにするのではなく、「イエスがくださる命と喜び」を共に分かち合い、招くのです。相手にも「もっと良いぶどう酒」を味わうよう勧める、権威ある伝道者となることができるのです。これは「私たちが伝道することで神の国を拡大してあげる」という発想ではなく、「神がすでに成し遂げておられる豊かな祝宴に、人々を招いて連れてくる」という認識です。その結果、人々は、自分たちを苛んでいた欠乏や絶望がイエスによってどのように変わり得るかを初めて知ることができます。 こうした「欠乏と希望」の対比は、今日の教会がどのようなアイデンティティを持つべきかを再確認させてくれます。教会の内側にも欠乏があるかもしれません。実際、財政難、信徒間の対立、宣教の限界など、さまざまな問題が生じます。しかし教会が真にイエス・キリストを主としてお迎えし、その御言葉に従っていくなら、その欠乏すら奇跡へと変わる可能性があります。教会の歴史を見ても、最も困難な時期にこそ驚くべきリバイバルや改革が起こった例は数多くあります。初代教会が迫害のただ中でかえって強くなり、宗教改革期には腐敗した中世教会から御言葉が回復され、新しい教会運動が起こったように、欠乏や危機は霊的刷新を引き起こす大切な転機となるのです。張ダビデ牧師はこれを「教会は世で最も強力な組織ではなく、最も強靭な生命体である」と表現します。お金や権力ではなく、命の力と信仰によって動く共同体だという意味です。だからこそ世に向かって「嘆き」ではなく「希望」を叫ぶ使命を持っています。 人生の欠乏からイエスを通して得る希望は、時空を超えてあらゆる状況を変える根源的なメッセージです。カナの婚礼で尽きたぶどう酒がイエスの御言葉によって豊かに満たされたように、私たちの人生のさまざまな現場でも同じ原理が働きます。問題は、しばしば私たちが「ぶどう酒が切れた」事実を隠したり、見ないふりをしたりすることにあります。イエスの母マリアのように私たちが「主よ、ぶどう酒が切れてしまいました」と正直に告白するとき、初めて主が働かれます。そして「どんなことでも、この方の言うとおりにしてください」というマリアの言葉どおりに従順し始めるとき、奇跡は現実になるのです。このプロセスを通して、私たちの信仰は理論上のものではなく、生きたものとして身につきます。 カナの婚礼でイエスはご自分の栄光を現され、その結果弟子たちはイエスを信じました(ヨハネ2:11)。この構造は今も有効です。欠乏が大きいほど奇跡が明らかにされる余地が大きくなり、その奇跡を通してイエスの栄光が示され、信じる者の信仰がさらに強められます。張ダビデ牧師は、これをキリスト教信仰のダイナミズム(Dynamic)と呼び、「信仰が深まるほど、より大きな欠乏の前で、より驚くべき奇跡を体験できるようになる」と語ります。だからこそ、私たちは苦痛や苦難をただ否定的に受け止めるのではなく、神にいっそう近づく触媒として用いるべきなのです。これは決して「苦しみを美化」したり「問題を軽視」することではありません。むしろ苦しみが神を探し求める通路になり得るという事実を肯定することなのです。 また、張ダビデ牧師は同時に、信徒や宣教者たちが過度な「幸福論」や「繁栄の神学」に陥らないように注意を促しています。欠乏を扱う過程で、ひたすら「イエスを信じれば何もかも上手くいく」といった単純化されたメッセージを伝えるなら、かえって人々を落胆させる危険があります。というのも、現実にはクリスチャンであってもときに失敗し、病に苦しみ、経済的困難に直面することがあるからです。しかし、カナの婚礼の奇跡は「この地上でただちに私たちのあらゆる問題がなくなる」ことを保証するものではありません。それよりも、「祝宴が終わりかける絶望的な瞬間であっても、イエスは決して私たちを見捨てない」という保証を与えてくれるのです。そしていつでも「私たちの欠乏を満たしてなお余る、さらに良いぶどう酒をくださることができる方」がイエスであることを教えてくれます。ゆえに信徒は、何でも楽観視するのではなく、欠乏や痛みを客観的に認めつつも、それをイエスに訴え、ゆだねる「信仰の姿勢」を学ぶのです。 このようにカナの婚礼の奇跡は、「人生の欠乏とイエスにおける希望」というテーマを最も劇的に示す本文の一つです。水がぶどう酒へと変わる転換は、すなわち「絶望から希望へ、死から命へ」と続く転換を暗示しており、イエスが信仰共同体の中でいかなるお方なのかをはっきり刻印します。そしてこの出来事は、単に過去のある時点で起きた歴史的出来事ではなく、今も聖霊の働きの中で同じ原理が再現され得るものです。教会がこの真理をしっかり握るとき、世の人々から見れば欠乏だらけの共同体に見えたとしても、実際には「もっと良いぶどう酒」を生み出し続ける神の国の大使館となるのです。張ダビデ牧師は、この点を「教会は希望を生み出す場所というより、すでに与えられた希望を証しし、分かち合う場所だ」と表現します。なぜなら、希望は私たちが創り出すものではなく、イエスがすでに約束してくださったものだからです。 カナの婚礼は、イエスの宣教がいかなる性質を帯びているかを象徴的に示す代表的な序幕です。「最初のしるし」という名称は決して偶然ではありません。先に述べたように、この「しるし」は私たちに「絶望は終わりではなく、新たな恵みの始まりとなり得る」という洞察を与えてくれます。人生を歩んでいると、私たちの予想や準備がまったく役に立たないほど突然で深刻な欠乏が襲ってくることがあります。けれどもイエスを信じる者たちにとって、それは決して最後ではなく、むしろ神の栄光が現される契機になり得るという信仰的確信が与えられています。だからこそ、私たちもマリアのようにイエスに「ぶどう酒がありません」と申し上げ、下僕たちのように「何でも言われたとおりに行う」従順を実践することができるのです。そのとき、私たちの人生のただ中で水がぶどう酒へと変わる恵みが現実のものとなります。 張ダビデ牧師が強調するように、この希望こそが教会と信徒が世に提供できる最も尊い贈り物です。世は絶えず「ぶどう酒が尽きる」経験、すなわちあらゆる欠乏や不安に苛まれています。人々はそうした欠乏を忘れるため、一時的な快楽や依存症に陥ったり、極端な選択によってすべてを放棄したくなったりします。しかし、教会はきっぱりと「まだもっと良いぶどう酒が残されている」と叫ばなければなりません。そしてその叫びが空虚にならないように、教会共同体の中に実際に奇跡が起こる現場が必要です。たとえば、不可能に思えた人間関係の回復や癒しが現実に起こり、絶望していた人が希望を取り戻す物語が教会の内にあふれなければなりません。そのとき世の人々は「どこからこんなぶどう酒が来たのだ」と驚き、秘密を知る者たちは「イエスの言葉に従ったら、水がぶどう酒になったのだ」と証しするようになるのです。 人生の欠乏とイエスにある希望は、切り離せないテーマです。私たちは皆、欠乏の中を生きていますが、イエスにあって永遠の豊かさへと進めることを忘れてはなりません。カナの婚礼でイエスの最初のしるしが示したように、イエスはいつでも私たちの想像を超えた方法で、最高のものを最後に出してくださる方です。ですから、今の痛みや挫折は永遠に続くものではなく、主の奇跡はいつでも私たちのもとへ、さらに驚くべき、さらに豊かな形で訪れるのです。このメッセージを抱いて生きる信徒は、欠乏の前で揺らがず、世に向かって大胆に福音を語り伝えることができます。これこそが、張ダビデ牧師がカナの婚礼本文を通して一貫して宣べ伝えている福音の精髄です。そしてこの福音は、今この瞬間にも私たちの中で生きて働き、個人と教会共同体を変え、「もっと良いぶどう酒」の祝宴を絶えず繰り広げるよう導くのです。 www.davidjang.org

太陽を止められる神 ― 張ダビデ牧師

1. 太陽と月の停止、そして失われた時間を取り戻す信仰の歩み ヨシュア記10章に記されている、太陽と月が止まるという奇跡の物語は、旧約聖書の中でもきわめて独特で印象深い出来事として数えられます。張ダビデ牧師はこの本文を通して、歴史的な奇跡そのものを強調するだけではなく、「時間の主は神である」という、より深い次元の信仰メッセージを私たちの心に刻むよう説きます。 ヨシュアがアモリの連合軍と戦っていた当時、日が沈めば戦闘の状況が不利にならざるを得ませんでした。そこで彼はただ信仰により、太陽がギベオンの上で止まり、月がアヤロンの谷でとどまるよう命じました。この壮大な祈りと、その祈りに応えてくださった神のわざは、物理的な時間や自然の秩序を超越して、歴史の支配者がただ神であることを証しします。張ダビデ牧師は、この奇跡を文字どおりに理解するだけでなく、その中に込められた霊的原理とメッセージを正しく捉えることが重要だと強調します。すなわち、人間がどれほど多くの業績を積み、時間を管理しようとしても、結局時間を止めたり巻き戻したりできる方は神おひとりしかいない、ということです。 この事実は、現代の私たちにも強烈な挑戦として迫ってきます。特にアメリカで20年以上にわたって展開してきた教会共同体の歩みを振り返るとき、私たちは神から与えられた時間を本当に有効に活用してきたのか、自問せざるを得ません。張ダビデ牧師は過去20年におよぶアメリカ宣教の結実について、率直で痛烈な評価を示します。多くの働きが失敗し、ビジネスを通した自立もままならず、新学校やランゲージ・スクール、音楽大学など多様な機関を設立したものの、結実より挫折を多く経験したというのです。その過程で、一部の指導者は神の視線や御心を正しく見分けられず、個人的な欲や安逸に陥り、むしろ共同体に重荷を負わせる場合もありました。だからこそ張ダビデ牧師は、「私たちはこの過ぎし日々を本当に正しく生きてきたのか。神が与えてくださった時間を空しく浪費してしまったのではないか」と何度も問いかけるのです。 こうした状況で、ヨシュアが示した大胆な信仰的決断は、私たちの現在と直接結びついています。太陽を止め、月を静止させたあの超越的な奇跡は、神がご自分の民のために戦い、働かれることを明らかにします。どんな状況にあっても、神の大いなるみこころと力を仰ぎ、切なる祈りをもって全身全霊で進むとき、「失われた時間が取り戻される」回復の御業が可能になるということです。実際、聖書は神の民が困難に直面するとき、彼らが罪と悔い改め、そして信仰をもって神に近づく過程を通して、逆転と回復の驚くべき知らせを語ります。神はイスラエルの民に勝利を与えるために、物理的な自然法則さえ超越されるお方です。小さなことひとつもおろそかにされない全能の主であり、その方のみこころを求め、従い、切に願う者を決して見捨てない――ヨシュア記10章の物語はこの事実をはっきりと教えてくれます。 張ダビデ牧師はこのみ言葉を黙想しながら、太陽と月が止まった出来事は単に過去に一度だけ起こった前代未聞の出来事ではなく、「神は今もいくらでも私たちの時間を逆転させたり止めたりできることを示す象徴的事件」として解釈します。私たちが神のために何かしようとしていても、すでにあまりにも多くの時間を浪費してしまい、何度も失敗を重ね、指導者たちの分裂や責任回避によって宣教の現場が荒廃してしまったとしても、「真実な悔い改めと再び燃え上がる情熱」があるなら、神は依然として私たちに奇跡への道を開いてくださるというのです。ここで鍵となる問いは「では私たちはこれからどうするのか?」というものです。単に過ぎ去った過ちを責めたり、傷や怒りの中に留まるだけでは時間は止まりません。ただ神の御前にへりくだってひれ伏し、改めて与えられた使命を再点検し、そのみこころがなされるよう召しに忠実に応える道こそが、「失われた時間」を取り戻す唯一の方法だと語ります。 さらに張ダビデ牧師は、このような信仰の刷新は個人の次元を超えて、共同体の次元でともに行われなければならないと強調します。なぜならヨシュア記の記録によれば、太陽が止まり月が静止した結果は、ヨシュアひとりの利益のためではなかったからです。そこにはイスラエルの民全体が勝利し、生き残るための神の介入があり、さらに神の契約が歴史の中で継続していくための救いの物語があったのです。同様に今日においても、ひとりの切なる信仰が共同体全体の転機をもたらすかもしれません。しかしそのひとりの信仰は最終的に共同体の祈りへとつながり、指導者をはじめとするすべての構成員が悔い改めと献身をもってともに応答するとき、持続的かつ強力な結果がもたらされるのです。 20年間のアメリカ宣教の歴史を振り返ると、張ダビデ牧師は何度か機会や挑戦があったにもかかわらず、多くの指導者が霊的覚醒や決断を先延ばしにしたり、正しい方向性を打ち立てることができなかったと診断します。その結果、働きの多くが停滞あるいは崩れ、現実的な困難や財政的負担、そして構成員たちの信仰の弱化が同時に生じたというのです。ところがまさにこの点において、ヨシュアが太陽と月を止めるほどの信仰を示したように、すなわち神が私たちの現実的状況を変え、時間さえも逆行させて恵みをお与えになれるという確信が、改めて求められるのだといいます。 特にパンデミックの時期、多くの教会や共同体が困難を経験しましたが、その期間中であってもミッドウエスト地域で土地を手に入れたり、西部地域のビジネスセンターが確定するなど、神の劇的な導きを体験する事例があったそうです。張ダビデ牧師は、これを単なる「幸運」として片付けるのではなく、「神の時間と方法は人間の計算とは違う」という原理を示す生き証しとして受け止めるべきだと強調します。それだけでなく、カリフォルニア州パサデナ地区に新たな門が開かれ、フラー神学校周辺の寄宿舎が売りに出され、有名な教会が紹介されるなど、一連の出来事は何を意味するのでしょうか。「ある時代が終われば、次の時代が来る。そして使命者は絶えず建てられる」という霊的真理を改めて確認させるのです。 それにもかかわらず、過去の失敗や挫折がもたらした傷が、なお指導者たちに残っている可能性があります。かつて自分が推進した働きが失敗したことを思い出して再挑戦を恐れる人もいれば、すでに心が冷めきって「今さら遅い」とあきらめてしまう人もいるかもしれません。しかしヨシュア記10章がもたらす重要なメッセージは、私たちの側から見て「もう遅い」と思われる時点でも、神がお望みならば太陽と月を止める新たな歴史を切り開くことができるということです。その事実を信じて従うことこそ、真の指導者の姿勢であり、今日の教会が取り戻すべき信仰の本質だと張ダビデ牧師は語ります。 特に時間という観点で考えるとき、私たちはしばしば「失われた20年」という表現を使い、何ひとつ得るものもなく手ぶらになったような気持ちを抱きがちです。しかし神のうちには「失われた20年」ですら、まだ活用することが可能です。今からでも切に祈り、悔い改め、信仰をもって進めば、その年月が生み出す実を遅ればせながら収穫することができるかもしれないのです。太陽が止まる奇跡、月が静止する驚くべき出来事は、「回復不可能に見える時間も、神の御手の中ではいくらでも回復され得る」という強力な希望を与えます。ある指導者は罪によって倒れ、ある指導者は倦怠と惰性の中で働きを失敗させ、また別の者は状況論理に引きずられ世俗的な方法で問題を解決しようとして挫折を経験しました。しかしそれらすべての欠けや失敗を前にしても、神に悔い改めと切なる祈りをささげるならば、私たちにも太陽が止まり月が静止するしるしのような奇跡が起こり得る――張ダビデ牧師は繰り返しそう強調します。 結論は明白です。いまこの瞬間も時間の主は神であり、その方は私たちの人生や働きに、いつでも決定的な介入をなさることができる。ヨシュアの物語から私たちはその事実を目の当たりにし、パンデミック後の混乱する世界にあっても、なお働かれる神に目を向けなければなりません。「主のみこころを求め、悔い改め、全力で進め」という張ダビデ牧師の叫びは、不可能に見えることをも可能にされる神を信頼せよ、という招きにほかならないのです。いま私たちがすべきことは、太陽が止まるようにと祈ること、そしてその祈りとともに行動しつつ、信仰の戦いに挑むことです。そのとき私たちの知り得なかった奇跡、過去数十年もの歳月さえひっくり返すような逆転が始まるかもしれません。この信仰こそが第一の小テーマが提示する核心メッセージであり、張ダビデ牧師が繰り返し強調してきた「失われた時間の回復」という実践的課題なのです。 2. ヒゼキヤの悔い改めと命の延長、そして新たな働きのビジョン 列王記下20章に記されているヒゼキヤ王の病の癒しの物語と、日時計が後戻りした奇跡は、ヨシュア記10章の太陽停止の出来事とつながっています。どちらの物語も、「時間と命の主権は神にある」という真理を鮮やかに示しているからです。 ヒゼキヤはもともと神に従順な王でしたが、後に信仰が弱くなり罪を犯すようになって、重い病にかかります。そのとき彼が取った行動は、涙を流して切に祈り、悔い改めることでした。張ダビデ牧師は、この場面でいくら敬虔な王でも罪に陥る可能性があり、その罪ゆえ人生の終わりに追い込まれることもあると指摘します。しかし重要なのは、まさにその状況において「神に立ち返る悔い改め」が起こった点です。ヒゼキヤが涙で祈ったとき、神はその祈りを聞き入れ、彼を癒してくださり、さらに15年も命を延ばされました。しかも日時計を後戻りさせるという奇跡まで示され、神の約束が必ず実現することを力強く証明されたのです。 これは私たちが失敗や挫折を経験したとき、あるいは霊的に病んだ状態に陥ったときに、何をすべきかを明確に教えてくれます。張ダビデ牧師は、ヒゼキヤの物語を通じて「神が私たちの祈りを聞かれるとき、どのようなわざが起こるのか」を強調し、とりわけ指導者たちがまず悔い改めて祈らなければならないと指摘します。アメリカ宣教20年の歴史で多くの働きが頓挫した原因は、外部環境だけではなく、内面的な罪や信仰の弱体化による部分が大きかったかもしれません。もし指導者たちが神の方法ではなく人間的な方法に重点を置き、世俗的成功に執着しすぎたり、霊的高慢に陥って秩序と愛を失ったのだとすれば、その責任は決して軽くはありません。したがって私たちの直面している状況は、病に倒れ、死の淵にあったヒゼキヤの姿とさほど変わりないのです。教会共同体全体が深刻な危機を迎えたとき、まずすべきことは「涙ながらに悔い改める祈り」だというのです。 ヒゼキヤが涙ながらに祈ったとき、神は彼を癒し、15年の命を与えられただけでなく、アッシリア帝国からエルサレムを守るという約束までくださいました。しかもその約束の確実性を証明するために、日時計を後戻りさせる――まさに時間を逆行させるしるしを示されたのです。張ダビデ牧師は、この出来事が「悔い改める者に神がお与えになる恵みの大きさ」を端的に示していると解釈します。ときには私たちが犯した罪があまりにも大きく、働きの現場が完全に荒廃し、一度失敗した歴史はもはや取り戻せないと思われるかもしれません。しかし実際には、神は「悔い改めて戻ってくる者」に対しては、時間を逆転させるような奇跡までもお与えになることがおできになるというのです。 こうした恵みを受けたヒゼキヤは、再び信仰を回復し、王としての責務を全うしていきます。もちろんその後も人生には多くの試練や失敗があったかもしれませんが、神から与えられた延長の生涯は決してむだにはなりませんでした。張ダビデ牧師はここを非常に重要な点だと指摘し、「15年という追加の時間が与えられたとき、果たして私たちは何をするのか」という問いを自らに投げかけるべきだと語ります。ヒゼキヤに与えられた余分な時間は、彼個人の安楽のためだけではなく、神のわざを継続し、民を守り、信仰共同体を正しい道へ導くために用いられるべきものでした。同様に私たちがもし、悔い改めと祈りを通して何らかの新たなチャンスを得たなら、その時間もまた自分の満足のためではなく、共同体の回復と神の国の拡張のために用いられるべきだというメッセージを、張ダビデ牧師は強調するのです。 過去、多くの働きが失敗に終わり、指導者の不注意や無知、あるいは罪のせいで事業が停滞し、いまだに悔い改めていない人がいるかもしれません。しかし神は、その空っぽの網を奇跡的に満たすことがおできになるお方です。ヒゼキヤが命を延ばしてもらい、日時計が後戻りするしるしを得たように、私たちが切に悔い改めて祈るならば、神の御業は今も進行形であるのです。 張ダビデ牧師は特に、指導者たちに対して強く訴えています。時間はあまり残されていないのです。指導者が一夜にして倒れることもあれば、20年あるいは30年も準備してきた働きが、結局何の実もなく終わる可能性もある。しかしまだ息をしているこの瞬間、神に祈りすがることができるならば、ヒゼキヤのしるしは現実のものとなり得るのです。そのしるしとは、ただ「日時計が後戻りした、不思議だな」ということではなく、「神が私たちの悔い改めと祈りを聞いて、想像もしなかった恵みと機会をくださる出来事」です。ヨシュアが太陽を止める超自然的な恵みを経験したように、ヒゼキヤが15年の命と、アッシリアからエルサレムが守られる奇跡を享受したように、私たちもまた霊的な暗闇を突き破って新たな光を見ることができる――これが力強いメッセージなのです。 総括すると、この二つの本文が教える核心は互いに連動しています。ヨシュア記10章は「神がご自分の民のために太陽と月を止めることがおできになる方」であると宣言し、列王記下20章は「神が一人の人間の祈りに応えて命を延ばされ、時間を逆行させることすらできる方」であることを示します。この二つの物語が交わる点こそ、「神は私たちの時間を変えてくださることがおできになる方」という事実です。張ダビデ牧師はこれを現代の働きに適用して、「私たちが20年をまるで無益に費やしたように思えるとしても、今日、悔い改めて祈るならば、神はそのすべての時間を取り返すような新しいリバイバルを起こしてくださる可能性がある」と力説します。これこそが今、私たちに与えられたチャンスであり、ヒゼキヤの悔い改めのように涙ながらに神の憐れみを求めるときに成就される約束なのです。 最後に張ダビデ牧師は、この霊的原理を実践するために「祈りの場」に戻るよう促します。パンデミックを経て教会や共同体は様々な形で散り散りになり、弱体化しましたが、まさに今こそ最も真実に祈るべきタイミングだというのです。与えられた各々の働きの場や礼拝堂、キャンパスにおいて、あまりにも多くの時間を失ったと嘆きたくなる状況だとしても、そこから再出発できるのです。ヒゼキヤが死を宣告された場所で悔い改めと祈りに立ち返ったように、私たちもこの絶望の場所が恵みの出発点となり得ます。神は、張ダビデ牧師が長らく強調してきたように、真実にご自分を求める者を決して無視されません。むしろ驚くべき方法で、その人々の時間を巻き戻してくださるお方なのです。そしてそのとき私たちは「なぜ神は時間をくださったのか。なぜ15年を延ばしてくださったのか。なぜ太陽を止めてくださったのか」という問いに直面します。それは結局、神の国のために、私たちに与えられた使命を全うさせるためだという答えに行き着くでしょう。 したがって、私たちはこの20年に及ぶ停滞や失敗、悔い改めない指導者たちの分裂状態、事業の失敗や財政難など、そうした問題ばかりに焦点を当てるのではなく、それらすべてを打ち破ることのできる神の御力に目を据えなければなりません。ヒゼキヤの悔い改めがもたらした日時計の逆転、そしてヨシュアの祈りによって止まった太陽と月の奇跡を思い巡らしながら、今この瞬間、「神よ、私たちの時間も巻き戻してください。悔い改めますので、新しいいのちへの道を開いてください」と切に祈るべきなのです。張ダビデ牧師が強く訴えるように、残された時間は長くないかもしれませんが、その短い時間の中でも神が働かれるなら十分に奇跡は起こり得るのです。重要なのは私たちがその神の働きを信じ、「太陽が止まらなければ戦いを完遂できないように、神が働かれなければ私たちの働きは回復し得ない」という信仰で進むことです。 これこそが、ヒゼキヤが涙をもって祈ったときに見た「後戻りした日時計」の意味であり、ヨシュアが目の当たりにした「静止した太陽と月」の真の意味なのです。時間の主権者となってくださる神、悔い改める民のために時間と自然の秩序さえ覆される神、その神を私たちはもう一度信頼すべきです。そしてその方がくださるチャンスをつかむべきなのです。もしこの機会を逃すなら、過去20年の失敗から一歩も抜け出せず、そのまま座り込むことになるでしょう。しかし私たちがヒゼキヤとヨシュアの信仰を学び、その悔い改めと嘆願を見習うならば、神は今回も私たちの失われた時間と浪費してきた歳月を、豊かな実りに変えてくださる可能性があります。これこそ張ダビデ牧師が一貫して強調してきた核心メッセージであり、アメリカ宣教20年後に開かれる新しい時代と働きのビジョンの大きな柱なのです。 結局、この二つの物語は一つの結論へと収束します。第一に、太陽と月を止められる神の御前で、私たちはへりくだってひれ伏さなければなりません。第二に、日時計を後戻りさせることのできる神の御前で、私たちは心から悔い改め、新たなチャンスをつかまなければなりません。時間があまり残されていないという事実こそが、いっそう切実な祈りへと私たちを駆り立てます。指導者ならばなおさらです。名誉や権力を下ろし、「本当に神のみこころを実現するために、私に残された時間はあとどれだけなのだろうか」と厳粛に問わなければなりません。その答えを見い出す人は、ヒゼキヤがそうしたように、一度の心からの祈りによって人生をまるごと変えることができます。そのとき神は「わたしはあなたの涙を見た」と応えてくださいます。そして「わたしはあなたに15年を加えよう。あなたに止まった太陽を与えよう。日時計を後戻りさせよう。だからイスラエルを、わたしの民を生かし、回復へ導け」と語られるのです。こうして神は私たちの時間が閉ざされていないことをお示しになります。私たちの涙がその方へと流れる瞬間、時間さえも逆行し、神の御業はふたたび動き始めるという希望をつかむこと――これこそがヒゼキヤの物語とヨシュアの物語、そして張ダビデ牧師が一貫して叫び続けてきた「悔い改めの福音」にほかなりません。

アンティオキア教会と聖霊 – 張ダビデ牧師

アンティオキア教会の世界宣教の基礎 使徒行伝13章は、新約教会の宣教史において大きな転換点を示す重要な章です。これ以前までは、使徒たちは主にエルサレムとその周辺地域で福音を伝えていましたが、アンティオキア教会を通して本格的な世界宣教が始まります。特に張ダビデ牧師は、このアンティオキア教会の使命と役割を強調し、現代の教会が見習うべき「世界宣教の前哨基地」としてしばしば言及しています。アンティオキア教会は、エルサレムではなく異邦の地でリバイバルと拡大を遂げ、またバルナバとサウロ(パウロ)を選び出して派遣するほどに聖霊の導きに敏感でした。まさにこの姿こそ、今日の教会が目指すべきモデルだというのです。 当時のアンティオキアは貿易が盛んな大都市であり、文化の交差点でもありました。エルサレムを離れた福音が異邦地域へ伝わった結果、ユダヤ人だけでなく多様な民族と異なる言語を持つ人々が福音を聞き、教会共同体に加わるようになりました。この教会が特筆すべき点は、「祈りと断食のうちに」聖霊の指示を受け、バルナバとパウロを世界宣教のために派遣したことです(使徒行伝13:2~3)。張ダビデ牧師はこの場面を大いに注目し、教会が現場で積極的に宣教師や働き手を発掘し派遣して、世界の至る所に福音の種をまくべきだと力説します。前方宣教だけでなく後方支援も同時に行われる必要があるのですが、これはアンティオキア教会が示したバランスの取れた宣教モデルに通じるものです。 このアンティオキア教会が最初に向かった宣教地は、キプロス(クプロ、サイプラス)の島でした。そこはバルナバとマルコ(ヨハネ・マルコ)の故郷でもあり、島全体を横断しながら福音を伝える場面が使徒行伝13章の前半に描かれています。バルナバとパウロ、そしてヨハネ(マルコ)は、約180キロメートルに及ぶ道のりを歩き、サラミスからパポスまで、一つひとつ福音を伝えました。小さな島キプロスにまで福音が伝わり、最終的には総督セルギオ・パウロのような指導層にも福音が届いたのです。張ダビデ牧師はこの事実に触れながら、「国全体が救いに至り、国家的リーダーさえ変革する力が福音にはある」と力強く語っています。教会は小さな地域を決して軽んじることなく、その地域に合った方法で福音を伝えるなら、必ず実を結ぶという教えです。 キプロスでの働きを終えたバルナバとパウロは、船に乗ってパンフィリアのペルガ(現在のトルコ南端)へ移動します。ここで問題となるのは、共に働いていたヨハネ(マルコ)がエルサレムへ帰る決断を下したことです(使徒行伝13:13)。聖書本文はその理由を詳しく説明していませんが、結果的にマルコの離脱によってバルナバとパウロの間に意見の衝突が起こり、後に二人は別々の地域へ旅立つことになります。張ダビデ牧師はここで重要な「神の主権」を強調します。人間的な対立は痛みを伴う場合もありますが、その衝突や争いを通して宣教の領域が広げられ、結果として福音がより多くの地に伝わる可能性もあるというのです。人が限界をあらわしても、神の御業は決して中断されません。むしろヨハネ・マルコが独立した働きを担い、パウロが第一・第二宣教旅行を行い、またバルナバが別の宣教行程に進むことで、福音は急速に拡大していきます。 こうしてペルガを経由して、パウロとバルナバはピシディアのアンティオキアに到着します(使徒行伝13:14)。ここもやはり異邦の地であり、同時に離散していたユダヤ人が集う会堂が存在しました。使徒行伝によると、パウロは町に到着した時、まずユダヤ人の会堂に入ったと記録されています。本文によれば「彼らは安息日に会堂に入り、座った(使徒行伝13:14)」とあります。これはパウロが常にとっていた伝道手段、すなわち「神の言葉はまずユダヤ人に、それからギリシア人に」というローマ書1章16節の原則を体現しているのです。張ダビデ牧師はこのアプローチについて、「まず自分の民に目を向け、その中で失われた羊を回復し、そこから備えられた働き手を見出すこと」と語ります。実際、初代教会ではエルサレム神殿だけでなく、各地の会堂を通して体系的に福音が広まっていきました。 特に張ダビデ牧師は、21世紀にこそこの「アンティオキアの精神」を回復すべきだと説きます。アンティオキア教会は祈りから始まり、祈りによって歩み、聖霊の導きに敏感だったからこそ、大いなる派遣と世界宣教が可能になったというのです。技術が発達しマスコミュニケーションが進歩して、もはや「足」だけでなくインターネットやメディア、ビジネスネットワークなど新たな宣教手段が生まれましたが、本質は変わりません。すなわち、教会が一つになって前方宣教と後方支援をバランスよく担い、一方でさまざまな国や地域へ宣教師を派遣し、同時に本部教会や宣教本部では祈り・財政・教育のサポートを確固たるものとしていく必要があるのです。 アンティオキア教会がパウロとバルナバを派遣し、キプロスや小アジア(現トルコ)へ旅立たせた場面は、最終的に「小さな教会からでも世界宣教は始まる」ということを示しています。ゆえに今日の教会のリバイバルも、規模や財政、そのほか条件によって左右されるのではなく、「聖霊の指示」をどれほど見分け、従うことができるかにかかっている、と張ダビデ牧師は繰り返し強調します。そのような教会は、どんな環境下にあっても神ご自身が道を開かれるのです。したがって教会と信徒個人は未来に備えなければなりません。農耕時代、産業時代、情報と技術の時代を経ても、福音を伝える目的と熱意は変わらないはずです。アンティオキア教会の歴史は21世紀にもそのまま当てはまり、聖霊の声に目を覚ましている教会こそ世界を変革しうるのだと語られています。 大胆な福音伝播と核心メッセージ ピシディアのアンティオキアに到着したパウロとバルナバは、安息日の会堂で御言葉を語る機会を得ます(使徒行伝13:15)。当時は、会堂長と共に礼拝を捧げる会衆が律法と預言書を朗読した後、外部から来た人にも説教の機会を与えていました。パウロはこの機会を逃さず、立ち上がって手を振りながらユダヤ人と神を敬う異邦人の聴衆に向かって説教しました(使徒行伝13:16)。張ダビデ牧師は、ここで「断固とした態度」が福音の伝播においてどれほど決定的な役割を果たすかに注目します。パウロは躊躇したり、遠慮がちになったりせず、すでに十分に用意していたメッセージを大胆に語ったのです。「第一ペテロ3章15節にあるように『あなたがたの内にある希望について問う人にはいつでも弁明できるように備えておきなさい』という御言葉のとおり、パウロは常に備えられた証人だったのだ」と言えるでしょう。 パウロの説教の中心は、イスラエルの歴史を語りながら究極的には「イエス・キリストの死と復活」を強調することでした。彼は旧約時代の選びから、エジプトでの奴隷生活の解放、荒野の40年、カナン征服、士師の時代、サウル王やダビデ王の時代に至るまで、イスラエルが待ち望んできた真の救い主がイエスであることを短く明確に説き明かします(使徒行伝13:17~23)。この歴史的な流れの中でイエスが「ダビデの裔」として来られ、ヨハネ(バプテスマのヨハネ)がその道を備え、エルサレムの指導者たちは無知のゆえにイエスを十字架につけたものの、神はイエスを再び生かされたという福音の出来事を宣言したのです(使徒行伝13:30)。張ダビデ牧師は、この場面について「福音伝播の最も重要な二つの柱は、イエス・キリストの身分(王であり救い主)と、その復活の出来事である」と語ります。福音には倫理や哲学的な内容も大切ですが、それを超えてイエス・キリストの死と復活が核心であることを決して外してはならないというのです。 パウロが「この方こそメシアだ」と宣言し、「神はこの方を死者の中から甦らせた」と福音の本質を力強く提示したことで、会堂の内外の聴衆は大きく動かされました。彼らは次の安息日にも同じ御言葉を聞きたいと望み(使徒行伝13:42)、実際に次の週には「町中のほとんどの人が神の言葉を聞こうとして集まった(使徒行伝13:44)」と記されています。張ダビデ牧師はこの場面を例に挙げ、伝道の成功要因として「伝える側が福音の核心メッセージに集中し、大胆に宣言するとき、人の魂は本能的にその真理を見極め、渇望する」と述べます。人の霊的な渇きや真理への探求は極めて深く、強いものです。したがって、伝道者が卑屈になったり萎縮した姿勢で臨むのではなく、「私にあるものをあなたにあげよう(使徒行伝3:6参照)」というペテロの告白のように堂々と宣言するとき、大いなる御業が起こるというのです。 では、どうすればその大胆さを維持できるのでしょうか。張ダビデ牧師は、その秘訣を二つにまとめています。第一に、聖霊の共におられる助けです。イエスも弟子たちを派遣する際に「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます(マタイ28:20)」と約束しました。使徒行伝全体が示すように、聖霊が臨むと建物が揺れ、迫害を突破し、ついには異邦人にまで福音が広がるという歴史が起こります。第二に、伝道者のアイデンティティの確立です。パウロはエルサレムで当時最も将来を嘱望されていた律法学者の一人でしたが、ステパノを殺害する事件以降、イエスと出会って決定的に悔い改め、すべてを福音宣証に捧げました。その過程で「私はローマも見なければならない(使徒行伝19:21)」と言い放ち、世界の中心へ福音を運ぶというビジョンを抱いて生きました。すなわち、自分の人生全体を福音の証に捧げることが目的であると明確に自覚していたので、どんな状況でも機会が与えられれば大胆にイエス・キリストを伝えることができたのです。 このように大胆な福音証しは、当時であれ現代であれ、福音を伝える上での鍵です。21世紀に入り、新しいメディア環境やグローバルネットワーク、ビジネスの機会が大幅に増えました。張ダビデ牧師は、この時代的変化を「農耕時代と産業時代を経て、技術と情報の時代に入った」と表現します。もはや福音を伝えるために、物理的に遠い距離を「足」で歩くだけではなく、インターネット映像やSNS、ビジネスミーティング、オンライン講義など多様なチャネルを通して届くことができます。しかし、どれだけ時代や手法が変わっても、最終的に人の心を動かすのは福音の「核心メッセージ」に他なりません。「キリストが私たちの罪のために死なれ、復活によって私たちに永遠の命を与えてくださった」という宣言が明確に伝えられるとき、魂が目覚め、その渇きが癒されるのです。 パウロが大胆に宣言した結果、ピシディアのアンティオキアの街全体が心を開きました。一部のユダヤ人は嫉妬によってパウロを拒絶しましたが、異邦人たちはその御言葉を喜び、神を賛美しました(使徒行伝13:48)。教会の大小を問わず、福音を宣べ伝える共同体としてはっきり立つとき、人々はそのメッセージを聞いて心に響きを覚えます。張ダビデ牧師はこれを「霊的直観」と呼んでおり、幼子でも学識のある大人でも、福音が宣言されるとそれが真のいのちの水かどうかを本能的に感じ取るのだと解説します。 また彼は「金銀は私にはないが、私にあるものをあなたに与えよう。すなわちナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい(使徒行伝3:6)」と語ったペテロの宣言を代表例として挙げます。実際、教会は物質や権力を十分に提供できない状況にぶつかることも多いですが、それ以上に尊い贈り物を与えられるのが福音です。張ダビデ牧師は、この分かち合いの価値こそが教会を生かし、都市や国家を生かし、最終的には世界を変革すると強調します。そして、この命の福音を伝える際に最も必要なのは「大胆さと確信、そして聖霊の力」であると改めて力説しています。 こうした確信のもと、張ダビデ牧師が進めているグローバル宣教ネットワークは、すでに多くの国で教会を設立し、教区(ノ会)を組織し、大きいものから小さなものまで(ミッションセンター、ビジネスセンター、教育センター等)さまざまな拠点を通して現地の人々に福音を教えています。教会がリバイバルを願っていても、多くの人を受け入れられる礼拝施設や教育インフラがなければ、せっかく神が人を送ってくださっても受け止められません。ですから、建物を建設したり購入したりすること自体も決して世俗的な行為ではなく、大胆に福音を伝えるための宣教戦略の一環と見なせるのです。張ダビデ牧師は「未来を準備することが信仰である」と語り、教会が祈りの中で段階的に拡張していくとき、神はさらに多くの魂を送ってくださると教えています。 結局、大胆な福音伝播と核心メッセージに忠実であることで、教会は世へ向かって進み続けます。そのとき必ず知っておくべき事実は、福音を伝えると常に嫉妬や反対、さらに迫害までもが付きまとうということです。しかし使徒行伝は、この過程を通じてむしろ福音がより遠く、より広く伝えられたと語っています。エルサレムの教権が迫害を加えたとき、福音はサマリアや異邦の地へと移っていき(使徒行伝8章)、ピシディアのアンティオキアで一部のユダヤ人が嫉妬したときには、かえって異邦人たちが喜んで福音を受け入れました(使徒行伝13章)。したがって、大胆さは単なる無謀さではなく、「神が働かれる」という信仰と「反対があっても前進する」という決断の結合から生まれるのです。 嫉妬と迫害の中で得られる喜びと聖霊の満たし 使徒行伝13章の後半が示すもう一つの重要なテーマは、「福音伝播に対する反対や嫉妬、そしてその過程で得られる喜びと聖霊の満たし」です。ピシディアのアンティオキアの会堂で多くの人に福音が伝えられると、一部のユダヤ人たちは嫉妬からパウロの言葉を罵り、パウロとバルナバに積極的な迫害を加え始めます(使徒行伝13:45)。それにもかかわらず、異邦人たちは喜びに満ちました。「永遠のいのちに与るよう定められていた人は皆信じた(使徒行伝13:48)」という一節のように、むしろ反対や迫害が大きければ大きいほど福音はより鮮明となり、備えられた魂は御言葉をつかむのです。これは教会史において繰り返されるパターンでもあります。 張ダビデ牧師は、この出来事で「足の埃を払い落として(使徒行伝13:51)」他の町へ向かうパウロとバルナバの態度に注目します。「あなたがたが福音を拒むならば、私たちは思い切って立ち去り、さらに開かれた門へ進む」という宣言です。あらゆる人を救おうと努力はしますが、頑なに拒絶し続ける者たちに対しては執着せず、靴の埃を払い、次の地域へ進む決断が必要だということです。この姿勢は冷淡で人間味がないようにも見えますが、実は非常に重要な原理です。福音は自発的な受容を前提としており、強制や嘆願によって得られた実りは長続きしません。さらに「嫉妬する者たちによって宣教が止められるのではなく、その迫害によってむしろ広い門が開かれる」のだと本文は強調します。 結局、その結果は13章の最後の節に明確に示されています。「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた(使徒行伝13:52)」。パウロとバルナバが追い出され、一見失敗に終わったかのように見えても、実際には弟子たちの心は喜びにあふれていました。なぜでしょうか。それは福音が町全体に伝わり、多くの異邦人がイエスを受け入れて新たな弟子が生まれたからです。その結果、ピシディアのアンティオキアだけでなく周辺地域にも福音が広がっていきました。張ダビデ牧師は、ここで「伝道の最大の報いは物質的な成功ではなく、救われる魂を目にする喜びと、そのとき共に与えられる聖霊の満たしである」と言います。 現代の教会も同様です。福音を伝えるほど、誤解や反発、あるいは他宗教や世俗文化の抵抗に直面することがあります。それが激しくなるほど心は弱くなりやすいものですが、むしろそういう状況において「聖霊が与えてくださる喜び」を味わうのが弟子の生き方です。これはローマ書8章28節の「神を愛する者たち、すなわちそのご計画に従って召された者たちには、万事が共に働いて益となる」という御言葉と通じます。張ダビデ牧師は「小さな葛藤や苦難があっても、それがむしろ私たちがさらに広い領域へ進む踏み台となる」と励ましています。 同様の原理は使徒行伝8章にも表れています。エルサレム教会が強烈な迫害に遭って散らされたとき、結果的にサマリアやアジア、そして後にはヨーロッパにまで福音が伝わる実りを得ました。「悪を善に変える」という旧約のヨセフの物語も同じです。兄たちの嫉妬と憎しみによって奴隷として売られたヨセフが、結局は兄弟たちとエジプト全体を救う通路になったように、パウロとバルナバもまた、嫉妬と排斥を通して異邦人に福音が届く道を開きました。だからこそ張ダビデ牧師は、「イエス・キリストの彩りの衣を着せられた者は誰しも、いずれ嫉妬を受ける運命にある」が、その過程を通じて神はより大いなる救いを成し遂げられると本文を引用して解釈しています。 ここで大切なのは、福音宣伝に対するパウロの執念と情熱です。パウロはユダヤ人が福音を受け入れない度に「靴の埃を払い落とす」と宣言しながらも、別の面では繰り返しユダヤ人の会堂を訪れています(使徒行伝14章、17章、19章など)。ユダヤ人を完全にあきらめたわけではなく、扉が開かれうる可能性を最後まで探っていたのです。ただ、特定の地域やタイミングで激しい反対に遭うなら、そこに固執せず、より「開かれた門」を求めて進んでいきました。張ダビデ牧師は、この姿勢を宣教現場で非常に重要だと紹介しています。「どこかで門が閉ざされても、別の場所ではさらに大きな門が開かれる」ということです。そして、その開かれた場所で弟子たちは喜びと聖霊の満たしをさらに深く体験します。 実際、現代の宣教現場でも、ある国や地域で宗教的・政治的な制約によって宣教が阻まれると、別の経路、たとえばビジネスや教育を通した伝道が可能になったり、移民コミュニティやディアスポラ共同体を通じて福音が広がっていくことがあります。その過程で、ときに現地政府や地域団体の反対、あるいは宗教的偏見に直面することもありますが、最終的には別の道が開かれ、他の地域でさらに多くの魂が回心する「喜びの実り」を目の当たりにするという証が多く語られます。こうした経験は、使徒行伝13章の原理が今日でもまったく変わらず再現されていることを示す事例でもあります。 「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた(使徒行伝13:52)」という御言葉は、結局、福音が安易に受け入れられる「順風」だけでなく、嫉妬や迫害が伴う「逆風」の中でも成就された結果なのです。聖霊は弱い人間を大胆にし、迫害の只中でも祈りと賛美を導き、最終的には福音がより遠くへ伝わる道を備えられます。張ダビデ牧師は、この言葉を通して現代の多くの地域教会や働き手が勇気を得るべきだと強調しています。教会が大きくなればなるほど、あるいは多くの国にノ会(教区)が増えれば増えるほど、それに比例して攻撃も増すかもしれません。しかし、その攻撃に押しつぶされて夢をあきらめるのではなく、最後まで祈りながら光を探し求めるべきです。そうするなら、むしろ「迫害と嫉妬に打ち勝った者たちが得る喜びと聖霊の満たし」を体験し、それこそが真の教会の力になるのだと説きます。 張ダビデ牧師は、世界各地で数多くの教会やセンターを買い取り整備する際、しばしば「将来性を失った教団や教会は建物を売却する」という例を示します。一方で将来性のある教会は「新しい教会建物を獲得し、リバイバルの夢を見る」のです。いかなる教団であっても、希望を見いだせず次世代を見渡せなければ、最終的には縮小し消滅していきます。この原理は使徒行伝にもはっきり現れています。嫉妬し妨げることに終始したユダヤの宗教指導者たちは、滅びへと近い道を進みましたが、福音の前に心を開いて喜んで受け入れた異邦人たちは、新しい歴史の主役となりました。教会が喜びと聖霊の満たしを享受するというのは、まさにこうした未来志向の態度と神の摂理が交わる地点なのです。 結論:アンティオキア教会に学ぶ、喜びと聖霊に満ちた世界宣教 最終的に使徒行伝13章が私たちに投げかけるメッセージは極めて明確です。福音伝播は決して平坦ではなく、そこには嫉妬や妨害、迫害が絶えません。しかし神の人々は、その反対を通じてより忍耐を鍛えられ、むしろ救われる魂の数を拡大していきます。そしてその先頭に立つ人々は「喜びと聖霊に満たされる」のです。21世紀の教会も同じ原理を適用すべきでしょう。世界のどこであれ、たとえ反対や迫害があっても、神は常に別の道を備えており、備えられた魂たちが福音を受け入れるようにしてくださいます。この過程を見るとき、私たちの内側に真の喜びが湧き上がり、聖霊の働きがいっそう鮮明になるのです。 張ダビデ牧師が強調する最終的な結論は、「アンティオキア教会が模範となったように、今日の教会も世界宣教のために祈り、絶えず挑戦し続けるべきだ」ということです。新たに開かれた門を見つけたら、そのチャンスをつかんで福音を分かち合い、教会が多分野(ビジネス、教育、メディア、文化など)へと伸びていくように力を注ぐべきです。そうすると、使徒行伝に記されているとおり「主の御言葉はその地方一帯に広まった(使徒行伝13:49)」という出来事が、現代にも同じように再現されると確信できます。その結果として「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」という結論に至ります。この喜びは単なる感情的な興奮ではなく、いのちを救う福音の働きに参画する者が得る霊的充実と共同体的歓喜なのです。エルサレム、アンティオキア、ピシディアのアンティオキア、そして地中海を越えてローマにまで及んだ宣教の歩みが、今日の日本や中国、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカなど全世界に広がることを、張ダビデ牧師は絶えずビジョンとして宣言しています。そうして教会は絶えず拡大し、多くの魂が生かされるのです。 結局、使徒行伝が示した初代教会の歴史こそ、現代の教会が学ぶべき最も重要な教訓といえます。小さな教会であっても聖霊の御業が臨むなら世界へ進み出られますし、大きく華やかな教会であっても聖霊を欠いて形だけになってしまえば自壊してしまいます。ですから、嫉妬や迫害という外的な挑戦、また対立や不和という内的な問題に直面しても、絶望する必要はありません。むしろ大胆な信仰によって、福音の核心、すなわちイエス・キリストの死と復活を熱心に宣べ伝えるとき、アンティオキア教会のように喜びと聖霊に満たされ、ついには「地の果てにまで福音を伝える」と言われた神の召しを実現していくことができるのです。そしてこの使命こそ、私たちの時代、私たちの教会が継承すべき至上命令でもあります。張ダビデ牧師が強調し続けてきたこのメッセージとビジョンが、21世紀のグローバル社会の中で輝きを放ち続け、イエス・キリストの福音が全世界へと広がる通路となることを願ってやみません。

福音と神の愛 – 張ダビデ牧師

福音の核心と神の愛 張ダビデ牧師が説教や講演の中で繰り返し強調している中心的テーマは、まさに「福音」である。彼は、福音を「神の御子であるイエス・キリストがこの地上に来られ、人間のあらゆる罪と苦しみを負って死なれ、そして復活によって人類に新たな命の道を開かれた救いの出来事全体」として理解している。彼にとって福音とは単なる宗教的教義ではなく、人類史から宇宙的次元に至るまで、すべてをひっくり返す決定的な出来事なのである。 福音を定義する際に、ヨハネの福音書3章16節は常に重要な出発点として提示される。すなわち「神はその独り子を惜しまず与えるほどに世を愛された……」というこの御言葉は、福音が何よりもまず「神の愛」を宣言していることを如実に示している。張ダビデ牧師はこの聖句に言及しながら、私たちが罪のせいで永遠に断絶されていた存在であったにもかかわらず、神は全面的な賜物としてイエス・キリストを送ってくださった事実を深く黙想すべきだと力説する。私たちが福音を喜び、胸を躍らせながら、同時に福音の前で敬虔な恐れとへりくだりを持つようになるのは、まさにこの神の愛の大きさによるのである。 彼はしばしばローマ書5章8節を引用する。「私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死なれたことによって、神はご自身の愛を明らかにしてくださった」というこの御言葉は、神が人間の何らかの資格を見て愛を注がれたわけではないことを示している。むしろ人間は罪のもとにあり、自力では救いに至ることが到底不可能な状態にあったにもかかわらず、神は一切の条件なしにイエス・キリストを送ってくださったというのである。ここで張ダビデ牧師は、福音を単なる道徳的手本や宗教儀式に限定せず、徹底して「恵みの出来事」として認識すべきだという。すなわち、福音は人間の善行や正しさによってではなく「神の贈り物」として与えられたものである以上、どんな人間的誇りが入り込む余地もないということだ。 張ダビデ牧師は、福音を「愛の出来事」と呼び、その愛が具体的に表される現場が十字架だと強調する。愛は口先だけで叫ぶと空虚になりうるが、神の愛はイエス・キリストのへりくだりと死、そして復活を通して「歴史的事実」となった。イエスがご自身を完全に空にして、人間のすべての罪を負い、代償の生贄となられた出来事は、ほかのいかなる形態の愛とも比べようのない、まさに絶対的かつ「比類なき」愛だという。この愛こそ、福音が伝える喜ばしい知らせのエッセンスである、と彼は語る。 そしてもし福音が愛であるなら、その愛を証しすることは避けられない当然の義務となる。すなわち、「神の御子がこの地上に来られ、私たちのために死なれ、死を打ち破って復活された」という事実を知った者は、必然的にそれを「証し」するようになるのだ。張ダビデ牧師は、使徒行伝で弟子たちや使徒たちがどのように証ししていたかをしばしば例に挙げる。ステパノは激しい迫害の中で石打ちに遭い殉教する直前まで、イエスこそ人類の救い主であると伝え続けた。ペテロはペンテコステの日に聖霊が下った後、エルサレムの大衆の前で福音を叫び、パウロは異邦の地を巡りながら福音の証言をやめなかった。彼らは自分の人生を懸け、どんな代価を払ってでもイエスが「真の命の道」であることを世に知らせたのである。 これほどの証しが可能だった理由は、彼らが福音を「知識」としてだけでなく、「愛」として体験していたからだ。張ダビデ牧師は、この愛の体験を「福音に捕らえられること」と表現する。福音が単に「イエスとは誰かを頭で理解すること」で終わるなら、それはパリサイ的な知識にすぎない。真の福音体験は、イエス・キリストの愛が自分の罪と絶望を解決してくれたことを悟り、存在全体が変えられる出来事である。だからこそ、イエス・キリストを知った人は自然に福音の証人となり、この地上に向かって「神の愛」を伝える使命を担うのだ。 張ダビデ牧師は、福音が万人に開かれていることも強調する。背景や学識、道徳的資格の有無に関係なく、すべての罪人に「罪の赦しと新しい命」が宣言されたのがイエス・キリストの十字架であるという。特に使徒行伝2章でペテロが説教する場面にある「だれでも主の御名を呼び求める者は救われる」(使徒2:21)という宣言を言及しつつ、福音は決して特定の民族や集団だけのためのものではないと明確に示す。ゆえに張ダビデ牧師のメッセージの中では、「神の愛」という共通分母が民族や言語の壁を超え、歴史と文化の限界を超えて、罪の中で苦しむすべての人生に訪れる全面的な恵みの実体として繰り返し示されるのだ。 さらに彼は、福音が宇宙的であると同時に個人的なメッセージでもあることを重ねて想起させる。すなわち、福音は宇宙的次元で人類全体の運命を変えた出来事であると同時に、一人ひとりの内面と生き方を転換させる力でもある。私たちが福音を受け取り信じるとき、それはもはや概念や教義ではなく、私たちの内面で爆発する「新しい命の力」として働く。愛を受けた者は愛を流さずにいられず、恵みを体験した者はその恵みを世に伝えずにはいられない。だからこそ張ダビデ牧師は、福音こそが「この世に必要な唯一の希望」であり、その確固たる土台の上に教会と共同体が打ち立てられるべきだと力説する。 また彼は、福音を信じ従う人々の間で自然に現れる実りとして「互いの重荷を負い合い、愛し合え」(ガラテヤ6章2節)という御言葉を提示する。もし福音が愛であるならば、福音を伝える者たちの共同体も必ずや、愛の喜びと一致に満ちるべきだというのだ。イエスが「すでに世に勝った」(ヨハネ16章33節)と宣言されるとき、それは武力によって世を屈服させるという概念ではなく、愛と仕える姿勢によって勝つという逆説的な勝利であることを想起させる。ゆえに教会が福音を掴み、真に互いを愛する姿で世に仕えるなら、その姿自体が世に対する強力な証しになるのだ、と張ダビデ牧師は強調する。 結論として、張ダビデ牧師のメッセージの中では、「福音の核心とは、神の御子が私たちのために来られ、死なれ、そして復活によって愛を完成された」という宣言に要約される。どんな哲学的理論や倫理的教えでも代わりになりえない、この地上のすべての罪人に開かれた壮大な愛の物語こそが福音なのである。そしてこの福音の前に立つすべての人は、その愛の出来事に反応して変えられた生を生きるようになる—これが彼の第一の強調点である。 罪と義、そして代贖(だいしょく)の道 張ダビデ牧師が第二に深く取り上げる中心テーマは「罪と義、そして代贖」である。もし福音が愛であるとするなら、人間にはなぜこのような犠牲と救いが必要だったのか。その根底には、人間が自力では解決できない罪の問題がある、と彼は語る。 まず、罪とは何であるかを正しく認識しなければ、福音の愛と恵みを完全には理解できないというのが張ダビデ牧師の教えである。聖書全体を貫く概念である罪は、単に道徳的な誤りや社会規範の違反行為を越える。彼はローマ書1章でパウロが宣言した「人間は神を心に留めようとしない」ことこそが罪だ、という定義に注目する。人間には本質的に神を退け、自分が主人となろうとする態度が深く根を張っており、その結果として全世界が罪の支配下に置かれるようになったのだと説明する。 続いて張ダビデ牧師は、この罪がもたらす波及効果を「死が王として君臨する」という表現で要約する。つまり、人間が罪のもとに置かれると、その結末は死であるという。これは単に肉体的死だけでなく、永遠の滅びと断絶を意味している。したがって、人間はいくら善行を積み、律法を守ろうとしても、自力では罪と死の権威に打ち勝つことができない絶望的状況に直面しているというのだ。律法は罪が何であるかを明確にし、罪をより鮮明に暴く機能を果たすだけであって、罪からの完全な解放は与えてくれない。 まさにこの地点で、イエス・キリストの「代贖(だいしょく)」の出来事が炸裂する。代贖とは文字通り「誰かが代わりにその代価を支払うこと」を意味するが、張ダビデ牧師はこれを単なる商取引上の概念で終わらせてはならないと強調する。旧約の犠牲制度(特にレビ記16章の贖罪日)の儀式で、動物を屠って血を流し、人々の罪を覆った象徴が、イエス・キリストの十字架で「完全なかたち」で実現したのだ。すなわち、すべての罪人が犯した不従順と反逆、それに伴う死の刑罰をイエスご自身が背負われたということである。 張ダビデ牧師がローマ書5章18-19節をしばしば取り上げるのも、この代贖の概念を明確に説明するためである。「ひとりの人アダムによって全人類が罪のもとに置かれたが、もうひとりの人イエス・キリストによって多くの人が義とされ、命に至る道が開かれた」というパウロの宣言に、福音の核心がある。この言葉は、人類が罪の鎖から抜け出せなかった根本的限界を、イエス・キリストの従順と犠牲によって一気に覆したということを意味する。 張ダビデ牧師は、代贖の本質が「愛」であることを付け加える。もし代贖をひたすら律法的な視点だけで理解しようとするなら、私たちが思い描くイメージは「公正な裁き主が罪人に当然の刑罰を執行しなければならないので、誰かが代わりに血を支払った」という、どこか冷たい取引方式になりがちである。しかしイエス・キリストが十字架の上で血を流された場面は、単に「刑罰を代わりに受けた」という形而上学的・法廷的概念にとどまらない。それは神が私たちに与えてくださった「全面的な賜物」であり、イエスが自発的に進んで私たちに差し出された「自己犠牲の愛」なのだ、と張ダビデ牧師は言う。この点が理解されるとき、私たちは初めて十字架の出来事がいかに途方もない波及力を持っているかを悟ることができる。 こうして人間には、この代贖の愛を受け入れ、福音を信じることによって「義とされる」道が開かれる。パウロがガラテヤ書などで力説した「信仰による義(イシンチンギ)」の原理は、張ダビデ牧師が語る福音の論理と正確に結びつく。彼によると、私たちが福音を受け取った瞬間、もはや「罪人」の身分ではなくなり、神の前で「義人」と宣言されるという。それは私たちの内面に実際に道徳的な完璧さが生まれるからではなく、イエス・キリストがすでに罪の代価を支払われたからである。義が「転嫁(てんか)」されるという神学的概念が現実に適用されるわけだ。 張ダビデ牧師はまた、ヘブライ書にある「私たちもキャンプの外へ出て行こう」という表現を好んで引用する。旧約の犠牲制度では、罪を負わされたヤギや羊は陣営の外へ追い出され、そこで屠られた。イエスもエルサレムの城門の外にあるゴルゴタの丘で十字架にかけられ、「贖罪の子羊」の役割をまっとうされたというのである。「私たちもキャンプの外へ出て行こう」という勧めは、イエスの苦難にあずかり、代贖の道を見習え、という挑戦として読める。 ここで重要なのは、代贖をただ神学用語として学び、頭だけで理解して終わらせないことだ。張ダビデ牧師は、代贖が福音の核心部分である以上、私たちもイエスが歩まれた道に倣うべきだと説く。すなわち、私たちがこの地で福音を生きるとき、互いの重荷を負い合い、ときには迫害や誤解をも受け入れつつ、愛をもって仕える生き方を選ばなければならない。これこそイエスの「代贖的愛」を私たちも生き方として受け入れる具体的な表れなのだ。私たちは世を裁く指さしや暴力で変えることはできないが、イエスがなさったように、愛をもってご自身を差し出し「キャンプの外」へと踏み出す姿勢こそが、世界を癒やすことのできる道だというのである。 張ダビデ牧師は、代贖が最終的に「復活」と結び付くときに完全に完成する点を重ねて強調する。もしイエスの十字架が人類の罪を身代わりに負った決定的な犠牲だったとするなら、イエスの復活は「死の権勢さえも打ち破った」という神の究極的宣言となる。もしイエス・キリストが死からよみがえられなかったなら、代贖のメッセージは途中で終わってしまうかもしれない。だが実際に復活の出来事が起こったゆえに、罪と死の束縛が完全に断ち切られ、新たな命が与えられる救いの力が証明されたのだ。代贖が罪の赦しを意味するならば、復活はその赦しを受け取った者たちが得る「永遠の命」を保証する出来事と言える。 要するに、張ダビデ牧師が語る「罪と義、そして代贖の道」は、福音の骨格そのものである。罪のもとに囚われ、律法では到底解決できなかった人間が、イエス・キリストの代贖的犠牲と復活によってついに義の身分を得るに至ったという宣言だ。そしてその義を経験した人は、自分中心の生き方を脱却し、互いの重荷を担い、喜んでキャンプの外へ出て行き、苦難の中でも愛と従順に生きるようになる。この道は世の価値観とはまったく異なる「十字架の道」という逆説的なスタイルだが、それこそ真の救いの力だというのだ。 宇宙的出来事としての救いと復活 張ダビデ牧師が第三に強調するテーマは、福音が単なる個人の霊的体験や教会の敬虔生活の次元を越えた「宇宙的出来事」であるという事実である。イエス・キリストの誕生と十字架、そして復活は、特定の時空間で起きた歴史的出来事であると同時に、全宇宙と歴史のすべての局面に影響を及ぼす決定的転換点だというのだ。 彼はしばしばローマ書5章を例に挙げ、アダムひとりによって罪が全人類に広がったように、イエス・キリストひとりによって「罪の赦しと義とされる道」がすべての人に開かれたと説明する。この言葉は、イエス・キリストの救いのみわざに、人類の運命を丸ごとひっくり返す宇宙的意味が内包されていることを示す。もし私たちが福音を単に「個人的な救いの体験」や「何らかの特別な不思議な出来事」としてだけ理解するなら、そのスケールを狭めてしまうことになる、と彼は言う。 張ダビデ牧師は、この宇宙的視点をはっきりと示すために、旧約の預言と福音書に描かれるイエスのエルサレム入城の場面をしばしば関連づけて解釈する。ダニエル書7章に登場する「雲に乗って来る人の子」は、当時のユダヤ人が待ち望んでいた終末論的王、すなわち全世界を裁き治める絶対的主権者のイメージを反映している。しかしイエスは実際にエルサレムに入城される際、ゼカリヤ書9章9節の預言どおり「ろばに乗って、へりくだって」おいでになった。これは「全能の王であるが、自分の民と苦難をともにするへりくだった王」という、複合的なイメージとして成就するのである。 張ダビデ牧師は、このような姿を「神の顕現の方式」と呼ぶ。世の権力者たちは戦車や軍馬に乗って凱旋将軍のように登場し、自らの権勢と力を誇示する。しかし神の御子であるイエスは、むしろ最も低い者の姿で、最も卑しい姿で入城された。彼が指摘するのは、これは世の人々には愚かで弱々しく見えるが、神の救いの方法はまさにこの逆説の上に築かれているということである(参照:コリント第一1章)。 そして、イエスが十字架で死なれる場面は、群衆の期待とは正反対にあまりにも惨めに見えた。ローマ人にとっても十字架刑は極悪非道な犯罪者に適用される「呪いの処刑」だったし、ユダヤ人にとっても「木にかけられた者は呪われている」(申命記21章23節)という律法の文言からして、十字架刑は決してメシアにふさわしい死に方ではなかった。しかし張ダビデ牧師は、この点で「愛の王」であり「苦難を受けるしもべ」として預言されたイザヤ書53章を引き合いに出し、イエスの死は決して敗北や呪いではなく、むしろ罪と死を背負う贖い(救い)の勝利なのだと解釈する。神の全能性は人間の常識を打ち破る方法で歴史を導き、その究極の目的が愛と救いにあるがゆえ、十字架こそが栄光のしるしになるのだという。 張ダビデ牧師は特に「復活」に焦点を合わせる。もしイエスが十字架で死なれてそこで終わっていたなら、宇宙的出来事と呼ぶ根拠は弱まるかもしれない。だがイエスは三日目に死を打ち破ってよみがえられた。福音書は共通してこの復活の場面を記録し、その結果弟子たちは恐怖から大胆さへ、落胆から情熱的な証人へと変えられた。これは、死という全宇宙的かつ普遍的な限界を越えて新しい世界が開かれた決定的証拠となる。死という人類最大の敵を断ち切り、永遠の命の時代を開いたのだから、その影響は個人を越えて全宇宙に及ぶという解釈である。 張ダビデ牧師は、ホーリーウィーク(受難週)と呼ばれるイエス最後の一週間を黙想しながら、このわずか一週間の中に歴史と宇宙が圧縮されていると説明する。シュロの主日(棕櫚の主日)にイエルサレムへ入城するイエスの姿に始まり、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、十字架刑、そして復活へと至る一連の流れを追うと、人間と歴史の運命を変える救いの叙事詩が完結するというのだ。特にゲッセマネの園で、イエスが血のような汗を流して祈られた場面は、イエスが十字架への道を能動的に選ばれたことを示している。イエスはただ不当に犠牲にされた子羊ではなく、人類の罪を担い、死を打ち破るための王としての戴冠式を前に、壮絶な霊的闘いをなさったのだ。 したがって張ダビデ牧師は、イエスの死と復活が決して小さく局所的な出来事ではなく、すべての時代とすべての空間を貫く「宇宙的結晶」だという。この事実が分かるとき、信仰者は単に宗教行事に参加するレベルを越え、存在全体がひっくり返される体験をするようになる。私たちがこの世で直面する苦しみや挫折も、イエスがすでに十字架によって引き受けてくださり、その結果復活によって最終的に勝利されたのだから、どのような状況でも絶望に縛られなくてすむ、という希望を抱くことができるというのだ。 張ダビデ牧師は、この宇宙的救いの出来事が各個人の人生に「具体的現実」となるように祈っている。彼が宣教や教育の現場で一貫して強調しているのは、「福音が世界を変える」という壮大な言葉が、実際に教会と信徒の日常に適用されなければならないということだ。もし日常において福音の力を経験しなければ、宇宙的救いの出来事の雄大さも、単なる教義や理論にとどまる可能性が高い。しかし日常生活でイエスの歩まれた道に倣って愛と仕え合いを実践し、復活の力に頼るとき、共同体の内でも世の中でも「神の統治」が具現化されるような奇跡が起こるのだ、と彼は言う。 さらに、聖書が語る「新しい天と新しい地」(黙示録21章)は、復活の完全なる結論であり最終的な指向点だと張ダビデ牧師は解釈する。それは死後にのみ享受する天国にとどまらず、すでにイエス・キリストの復活によって始まった永遠の命の統治であるという。すなわち、イエスを信じることにより、私たちは今この地上においても復活の命にあずかることができ、究極的には世全体がイエスの再臨とともに完成された救いの世界へと入り込む。こうした意味で、復活はすでに成就しつつも、まだ完全には到来していない未来の領域を同時に示す「成就と緊張」を内包している、と彼は語る。 ホーリーウィークを経てイースター(復活祭)に至るまで、教会の伝統はこの過程で「十字架と復活」を中心主題として記念してきた。張ダビデ牧師は、イエスが十字架へ進む道は苦難と恥辱の道だったことを詳しく解き明かす一方で、その道が最終的には「栄光と勝利の道」という逆説的結末に至ることを強調する。イエスは正しい者としてではなく、罪人の姿で世の罪を担うために十字架刑に処せられたが、その死の場所で宇宙的な愛と救いが爆発したのである。そしてこれを信じて受け入れるすべての人間は、過去・現在・未来を問わず、イエスとともに復活にあずかることになる、と宣言する。 加えて、彼はこの復活信仰が教会共同体において具体的にどのように実現されるべきかを提示している。教会がイエス・キリストの体であるならば、教会は「復活の命」を世に示す場所でなければならない。すなわち、貧しい人々に対して憐れみや分かち合いを実践し、不正な権力や世の風潮に対して真理を宣言し、互いに仕え合い愛し合うことで、この世にはない真の和解と平和を示すべきだ。これこそ復活されたイエスに従う共同体なら当然生じる実である、と張ダビデ牧師は語る。 結論として、宇宙的出来事としての救いと復活は、張ダビデ牧師のメッセージの中で最も広大な地平を開くテーマである。人間個人の罪問題と義認、代贖による自由と喜びを越えて、この出来事は歴史と宇宙全体を再編する。張ダビデ牧師は繰り返しこの点を強調し、福音を単なる「宗教的教義」や「敬虔な知識」に縮小せず、人類と宇宙のすべてが参加する壮大なドラマとして受け止めるよう呼びかける。そしてこのドラマの核心は、イエス・キリストの十字架と復活が見せた「逆説的愛の力」である、と語る。その愛は、世のいかなる神話や叙事詩も担いきれない真の命と真理を内包しており、信じる者にとっては永遠の希望となる。 結論 第一に、「福音の核心と神の愛」では、福音を神の全面的な愛と結びつけて説明し、イエス・キリストの来臨と死、そして復活のすべてが罪深い人間を救うための神の贈り物であることを浮き彫りにする。福音こそ単なる教義や情報ではなく、命の力であり、神の愛の表現であり、誰でもこの福音を信じ受け入れる者は新しい命を得て、その愛を証しする生き方をするようになる、というメッセージが伝えられる。 第二に、「罪と義、そして代贖の道」では、人間が置かれている罪と死の実存的問題を深く考察し、律法では到底解決できないこの問題をイエス・キリストの代贖的犠牲によってのみ救われることを説く。イエスはあらゆる罪人の立場に立たれ、その血の流しと復活を通して私たちを罪から解き放ってくださったという宣言は、ローマ書やヘブライ書など聖書の多くの箇所と結びつき、強力な解放の真理となる。代贖を単なる法廷言語に閉じ込めるのではなく、イエスの自己犠牲的愛として捉え体験することによって、私たちの生き方もまた変革されるべきだという勧めが核心である。 第三に、「宇宙的出来事としての救いと復活」では、イエス・キリストの誕生、死、復活が特定の民族や歴史の一場面を越えて、宇宙全体を揺り動かす決定的転換点だと強調される。ダニエル書やゼカリヤ書、イザヤ書と福音書が交わるところで、十字架と復活がどのように神の顕現の方式を示しているのかを張ダビデ牧師は解説する。そして復活は死さえ克服された神の絶対的勝利であり、その喜びと力を信じる者は、今もこれからも永遠の命を享受し得る、と確信させる。 以上三つの軸に沿って福音を眺めるなら、結局イエス・キリストの道は愛と救いの道であり、主が示された苦難と復活はすべての時代と宇宙における唯一の希望として位置づけられる。張ダビデ牧師は、この事実を回心と信仰、そして生涯の献身へとつなげるよう信徒を励ましている。たとえ人生で試練や誘惑、絶望に直面しようとも、主がすでに歩まれた十字架と復活の道が真理であり命の道であることを堅く信じ続けよ、というのである。そのとき人の生は完全に新しくされ、福音は私たちの内面や共同体、さらには世界を変革する力となる。 要するに、張ダビデ牧師の説教は「福音とは何か」という神学的・教理的説明を超え、「その福音をいかに生きるか」という具体的実践を促す。イエスのへりくだりと従順、そして仕えと犠牲、何より代贖的な愛こそが、この地に何よりも必要な価値であり、神の国が到来するかたちだというのだ。そしてその中心にある出来事が「十字架と復活」であり、それこそが人類の罪と死の問題を根底から解決し、個人と全世界に対して新時代を切り開いた「宇宙的福音」であると、彼は力強く語る。 このメッセージは、教会の礼拝や宣教活動、信徒の霊的生活、さらには社会における教会の役割といった幅広い領域に適用可能である。十字架の愛にならい互いをケアし、キャンプの外へともに踏み出し、復活の喜びを世と分かち合うことは、決して容易な課題ではない。しかしすでにイエスが私たちにその道を示され、復活によって力を保証してくださった、と張ダビデ牧師は強調する。ゆえにこの愛と力を信じ頼る者は恐れを捨てることができ、むしろ世の闇の中でも動揺せず真理を証しする人生を送れるというのである。 結論として、張ダビデ牧師のあらゆる教えは、「福音」という壮大な主題を三つの軸―「神の愛」、「代贖の道」、「宇宙的救い」―に還元して語ることができる。この三つの軸は互いに切り離せず、ともに織り合わさって私たちをイエス・キリストの真の救いへと導く。したがって、このメッセージを聞き黙想する者は、クリスマスにイエスの来臨を喜び、受難週にイエスの十字架を覚え、イースターにイエスの勝利を讃えるとき、このすべての出来事が一つの救いの物語であることを繰り返し思い返すようになる。そしてこれは、全宇宙と歴史、そして私たちの日常を貫いて進行する神の救いのドラマが、どれほど荘厳で驚くべきものであるかを改めて実感させる契機ともなる。 このように福音は、人間の限界と罪があるにもかかわらず、罪人を最後まで愛される神のご性質を体得させ、その愛を見習って世に出て互いに仕える共同体を形成させる。代贖は、罪と罰という法廷的概念を越えて、神の子どもという新たな身分とともに真の自由と喜びを私たちに贈る。宇宙的救いと復活の出来事は、個人の問題解決を越えて世界全体に及ぶ神のご計画を明らかにする。そこにあずかる者は、すでに新しい時代を生き始めており、完成する未来を希望のうちに待ち望むのだ。 これらすべての洞察が一つに集約されるとき、私たちは張ダビデ牧師が説く福音のメッセージが、単なる理論ではなく、現実の人生のあらゆる領域を一変させる「生きた御言葉」であることを悟るようになる。結局、人間の歴史と宇宙が、自力で自らを救う力は持たないゆえに福音が必要なのである。神の御子イエス・キリストのご降誕、死、復活を通じてこそ、罪と死が克服される道が開かれ、その道を歩むすべての者に永遠の命と勝利が与えられる。これこそが、張ダビデ牧師が繰り返し繰り返し宣言する福音の核心であり、私たちすべてへの最大の招きであり、贈り物なのだ。

教会の成熟――張ダビデ牧師

序論:エペソ書4章と張ダビデ牧師の視点 エペソ書4章は、新約聖書の中でも教会論に関して極めて重要な位置を占める章である。使徒パウロは、教会の統一性と多様性、そしてキリストの体としての教会が有する成長と成熟のプロセスを、きわめて圧縮的かつ明確に扱っている。同時に、信徒個人の霊的成熟と共同体全体の有機的な結束、そして終末論的希望とが一本の糸のように織り込まれている点が強調される。 この本文を解説するにあたり、張ダビデ(장다윗)牧師は教会論を単なる理論として語るだけではなく、現代を生きる信徒に対して実践的な教えと適用点を提示している。彼が強調するポイントは大きく五つにまとめられる。すなわち、教会の統一性と多様性のダイナミックなバランスに対する理解、「信仰」と「知識」(知ること)がなぜ結合する必要があるのかの説明、教会と信徒の「成長」と「成熟」というテーマ、愛のうちにおける一致が教会をどのように成長させるかという洞察、そして世の風潮や偽りの教えに立ち向かうための霊的分別がなぜ重要かという警告と答えである。 張ダビデ牧師は、エペソ書4章にある「一つになれ」という命令や「成熟に至れ」という勧め、「あらゆる教えの風に吹き回されないようにせよ」という警告が、決して抽象的な概念ではないと力説する。教会史の中でも、また現代の教会の現実の中でも、あまりに具体的かつ緊急性の高い課題であるというのだ。そしてこれを通して、教会が究極的には神の国を建設する「前衛隊(전위대)」として召されていることを自覚すべきだと促す。 以下では、張ダビデ牧師が本文を解説するにあたって、特に注目し掘り下げた核心的ポイントを、教会の統一性と多様性、信仰と知識、教会の成長と霊的成熟、愛のうちにおける一致、そして世の風潮と霊的分別という五つの主題に分け、詳しく見ていくことにする。 教会の統一性と多様性 ―― 張ダビデ牧師の教会論的視点 使徒パウロは、「体は一つ、御霊も一つであり… 主も一つ、信仰も一つ、バプテスマも一つ…」(エペソ4:4-5)と語りながら、教会の単一性を直接的に言及している。教会がキリストにあって根本的に一つであるという事実は、三位一体の神の神的な統一性に由来する。同時にパウロは、教会の内には多様な賜物や役割が共存していることを認め、むしろ積極的に推奨している(エペソ4:7-12)。互いに異なる肢体が一つの体を成すという点で、「一つであること」と「多様性」は決して矛盾せず、相互補完的に作用する。 教会論を解説する際、張ダビデ牧師はしばしば体の比喩(エペソ4:12、第一コリント12:12-27)を持ち出し、「教会は有機体である」という言葉が単なる比喩ではなく、実際的な関係の原理を示すものであると強調する。すべての肢体が互いを尊重し、多様な賜物を活かして、一つの目標、すなわち「キリストの満ち満ちた身丈にまで達すること」(エペソ4:13)を目指して進むべきだということだ。多様な賜物には責任が伴い、その目的は「聖徒たちを整え、奉仕の働きをさせ、キリストの体を建て上げるため」(エペソ4:12)でなければならないと力説する。 「唯一にして…万物の上におられ、万物を統合し、万物の内におられる方」(エペソ4:6)という聖句が示すように、教会の統一性は三位一体の神のうちに由来する。また、イエス・キリストがご自身の血によって教会を買い取られた(使徒20:28)という事実が、教会を一つに結び合わせる強力な原動力であると張ダビデ牧師は付け加える。すなわち、教会の核心は「キリストとの結合」であり、それを具体化するのが愛である。 さらに張ダビデ牧師は、教会を「成長する生命体」として捉えなければならないと語る。エペソ書4:14-16が明らかにしているように、教会は単に固定された形態ではなく、漸進的に成熟していく共同体である。大きな組織がいきなり完成するのではなく、マタイ13章のからし種のたとえのように小さな種から育ち、パン種のたとえのようにゆっくりと広がっていく姿が、教会本来の成長の原理だと強調する。 賜物を発揮する目的が自己顕示や個人的な霊的優越感ではなく、教会を建て上げ、互いに仕え合うためであることを忘れてはならない。ある特定の賜物を「より優れている」と見なしたり、逆に「取るに足りない」と見なしたりすると、教会の多様性は損なわれ、統一性も脅かされる。張ダビデ牧師はエペソ書4章の本文を引用しつつ、すべての賜物は信徒と共同体の益のために与えられたことを自覚すべきだと説いている。 信仰と知識の調和 ―― 張ダビデ牧師の神学的解説 「私たちが皆、神の子を信じることと知ることとにおいて一つとなり…」という本文は、教会と信徒が成熟に至るためには「信仰」と「知識」が結びついていなければならないことを強く訴えている。ここで「信じること」は神の救済の真理を受け入れる通路であり、「知ること」はその真理をより深く理解し、身に染み込ませるプロセスである。 張ダビデ牧師はガラテヤ書3章を例に挙げ、パウロが繰り返し言及する「信仰」という言葉の意味を解き明かす。信仰とは、人間が自ら生み出したものではなく、イエス・キリストを通して啓示された神の愛を、自分が選びとって受け入れる応答だということだ。この信仰によって救いへの門をくぐり、義と認められる。張ダビデ牧師はこの信仰を「知恵」と呼び、最終的には神の奥義(福音)を受け取り、決断する行為こそが信仰だと語る。 ヘブライ的概念における「知る」(yada)は、親密な関係性と愛が前提となる。したがってキリストを「知る」というのは、抽象的・理論的な理解ではなく、その方の愛を体験し、似るようになっていく人格的な交わりを指す。第一コリント13章にある「私たちは部分的に知っていますが…」という表現は、終末論的完成の場において「主が私を知っておられるように、私も完全に知るようになる」という希望を含んでおり、それはキリストの愛をいっそう深く体得していくプロセスを意味すると、張ダビデ牧師は解説する。 もし知識なしに盲目的な信仰にとどまれば、狂信や皮相的な信仰に陥る危険がある。一方、信仰のない知識だけが先行すると、空虚な論争や教理的知識に埋没してしまうリスクがある。エペソ書4:13が強調する「信じることと知ることが一つになる」という言葉は、教会と信徒の双方が信仰の決断と人格的な知りの調和を通して成熟に向かうべきだという切実な要求なのである。 張ダビデ牧師は、教会の中で聖書を体系的に学び、教理を学習することが必ず必要だと考えている。同時に、礼拝や祈り、聖礼典を通して聖霊の臨在を体験することで、「頭で知るだけの知識」が「心に刻まれた知恵」へと変えられるようにすべきだと勧める。これはすなわち、信仰と知識がともに働くことで、教会が「キリストの満ち満ちた身丈」(エペソ4:13)に至る道を具体的に示す方向だと言える。 教会の成長と霊的成熟 ―― 張ダビデ牧師の教え 張ダビデ牧師はエペソ書4章14-16節を引用しつつ、教会は「成長する生命体」であると強調する。子どもが成長して大人になるように、教会も霊的幼子の状態から徐々に成熟段階へと移行すべきだというのだ。これは単なる数の増加ではなく、信徒一人ひとりの霊的成熟と共同体全体の有機的な結びつきが相互作用しながら起こる成長である。 「こうして、私たちはもはや子どもではなく…」(エペソ4:14)という表現が示すように、子どもは世の策略や狡猾な誘惑に簡単に流される未熟な状態を象徴している。張ダビデ牧師は、もし教会が御言葉の教育や基本的な教理に対する理解に乏しければ、世の偽りの風潮に頼ったり惑わされたりしやすいと指摘する。一方、成熟した者は御言葉によって善悪をわきまえ、揺らぐことのない信仰によって風潮に惑わされない。 こうした教会の成長と成熟のために、張ダビデ牧師は御言葉が土台となるべきだと力説する。信徒たちが「乳」から「固い食物」(ヘブライ5:12-14)へと移行できるように、聖書の学びや教理の教育が不可欠である。そして個人や共同体が祈りと聖霊の力に依存すること、さらに愛のうちにおける一致と交わりを実践することによって、はじめて健全な霊的成熟が可能になるのだという。 主は「神の国とはからし種のようなものであり、パン種のようなものである」とたとえられた。張ダビデ牧師はこれを「漸進的かつ有機的な成長」に関する教えとして解釈する。その日一日で突然すべてが成就する終末論的急進主義ではなく、徐々に広がり、深まっていく形の教会成長であると。そして教会が「幼子の信仰」を脱して「成熟した身丈」に向かって着実に成長していくためには、最終的に聖霊の内的な働きと信仰の従順、そして共同体的な結束が並行していく必要があると強調する。 新来会者や基礎段階の信徒には文字通り「乳」が必要であり、中間段階に入れば「固い食物」を消化して賜物と奉仕を積極的に実践すべきだ。信仰のキャリアが長い信徒や指導者には、他者をケアし、育てる責任とリーダーシップが求められる、と張ダビデ牧師は言う。このように段階的な霊的成長を認識することで、教会全体がともに成熟へと進む上で大きな助けとなる。 愛のうちにおける一致 ―― 張ダビデ牧師の牧会的ビジョン エペソ書4章15節は、教会の成長の方法を具体的に提示する。教会は単なる組織的な管理やプログラムによるのではなく、「愛のうちに真実を行う」ことによって成長するのである。張ダビデ牧師はこれを「一致の神秘」と呼び、愛のない教会活動は虚しい音に過ぎないと強調する(第一コリント13:1-3)。 張ダビデ牧師はエゼキエル37章に出てくる、谷間に散らばった干からびた骨がつながり、腱や肉が備わって大きな軍勢になる場面を思い浮かべながら、これは教会が愛と聖霊の力によって一つになり起き上がる姿を予表していると語る。「あの骨、この骨が結び合わされ…」(エゼキエル37:7)というくだりは、エペソ書4:16が言う「体全体が各々の部分から援助を得て結び合わされ…」という表現と呼応している。 愛は抽象的な感情にとどまらず、実生活の中で明らかにされねばならないと張ダビデ牧師は力説する。教会内で互いに仕え合い、配慮し合い、小さな言葉や態度にも柔和と謙遜を実践する姿勢が欠かせない。さらに、このような兄弟愛が教会の壁を越えて世へと広がっていくとき、教会は社会において塩と光としての使命を担うことになる。 張ダビデ牧師は、キリスト論と救い論がワンセットであるならば、教会論と終末論もまた一対であり、相互に緊密に結ばれていると考える。教会はキリストの体であると同時に、終末論的希望(神の国)へ向かう共同体だ。この教会が愛をもって互いを結びつけていくとき、終末論的完成に到達する道がより明確になるという。 教会が愛のうちに一致し始めると、内面的な強さを得る。これは外部からの対立や迫害にも揺らがない力となり、同時に教会を通して世に流れ出る愛の実践がさらに強い影響力を生む。張ダビデ牧師は、教会を「神の国を建設するための前衛隊」と呼び、愛の実践こそが教会が世に与え得る最大の証であると強調している。 「人の悪巧みと狡猾な誘惑に陥り… あらゆる教えの風に吹き動かされないように」(エペソ4:14)という警告が鳴り響く エペソ書4章14節は、教会と信徒に対して、世のあらゆる偽りの価値観や欺き、そして巧妙な哲学的誘惑があることを思い起こさせる。張ダビデ牧師は、現代社会が「情報の洪水時代」であるがゆえに、インターネットやSNSに流布する誤った教えや異端思想が教会内に入り込んだり、信徒個人が簡単にさらされたりする可能性があると語る。 聖書で「幼子」といった場合、それは純粋さを意味することもあるが、この文脈では世の風潮に対抗する力や分別が不足しているという否定的な意味合いが大きい。張ダビデ牧師は、教会や信徒が霊的に幼児的な状態にとどまっていると、それらしい言葉や奇跡的現象にたやすく惑わされやすいと指摘する。結局、それが教会を揺るがす原因となり得るので、信徒は完全な知識と信仰を通して分別力を備えなければならない。 物質主義や消費主義、相対主義、霊的混合主義、過度に人本主義的な倫理などが教会や信徒に影響を及ぼす可能性があると張ダビデ牧師は指摘する。成功や富を「信仰の実」として過剰に美化する形態や、「絶対的真理はない」とする相対主義、あるいはキリスト教信仰に東洋の神秘主義や非聖書的な心理学を無秩序に混ぜ合わせてしまうような現象も、すべて信徒の霊的焦点をぼやけさせる要因だというのである。 このような風潮に流されないためには、御言葉を中心とした霊的武装が不可欠だ。張ダビデ牧師は、聖書を研究し、教会の告白的伝統(使徒信条、ニカイア信条など)を学ぶことで、キリスト教的世界観を確立すべきだと主張する。また、祈りと敬虔な生活を通して聖霊の導きを求め、教会共同体の中で互いに点検し合い、勧め合うプロセスが必要だと説く。 結局、世の風潮と霊的分別の問題も、「キリストの満ち満ちた身丈にまで」(エペソ4:13)という教会論的ビジョンに集約される。張ダビデ牧師は、教会が真理の上に堅く立ち、世の偽りに動揺しないとき、むしろ世の中で福音の光を放ち、終末論的希望に向かって前進する「大いなる軍勢」へと生まれ変わると語る。これは教会がまずこの地上で担うべき使命であり、最終的に主の御前に立つときに受ける栄光の姿でもある。 結論:張ダビデ牧師が語るエペソ書4章の総合的メッセージ ここまでエペソ書4章の講解を中心として、張ダビデ牧師が力説する五つの核心テーマを見てきた。すなわち、教会の統一性と多様性、信仰と知識の調和、教会の成長と霊的成熟、愛のうちにおける一致、そして世の風潮の中での霊的分別という諸テーマは、互いに有機的に結びついている。 結局のところ、教会がキリストにあって一つとなり、霊的に成長し、世の誘惑に屈せず、終末論的希望へと進んでいくことが結論となる。張ダビデ牧師は、このプロセスを「キリストの満ち満ちた身丈に至るまで続く旅路」と呼ぶ。教会は決して停滞せず、神の国に向かって絶えず成長し続ける共同体だという事実こそが核心である。 この教会論は抽象的ではない。日常生活で教会が直面する大小の問題――教会内の対立、世俗化、偽教師、物質主義、霊的停滞――は、ここで扱われている原理と方法を通じて解決の糸口を見出すことができるからである。エペソ書4章は、愛によって結ばれた体という教会のアイデンティティを改めて思い起こさせ、「信仰と知識」を同時に追い求め、聖霊の力のうちで成熟を目指せと勧める。 張ダビデ牧師の結論は、以下のように整理される。教会はキリストの体として根本的に一つであり、各肢体の賜物と働きは公同の教会における奉仕と仕え合いのために用いられなければならない。そして、信仰と知識が調和するとき、霊的幼児期を脱することができる。愛のうちに一致する教会は自らを築き上げ、世の風潮に動揺しない堅固な共同体となり、単に現在にとどまることなく終末論的希望を見据えながら神の国を建設していく「前衛隊」の役割を果たす。 「教会は成長するのだ。」—— 張ダビデ牧師 この一言に含まれる意味の通り、教会はとどまることなく成長し、その成長の原理はイエス・キリストの愛と啓示に根ざしている。すべての信徒がこのプロセスに参与するとき、エペソ書4章が示す教会の本質、すなわち「霊的に成熟した教会」の実体が目の前に現れるだろう。そしてまさにそのとき、教会は世の中で塩と光の役割を全うする真の共同体として、力強くそびえ立つことになるのである。