カナの婚礼 – 張ダビデ牧師
Ⅰ. カナの婚礼の奇跡とその象徴 カナの婚礼の物語は、『ヨハネの福音書』2章1節から11節に登場する、とても重要な本文です。ここでイエスが水をぶどう酒に変えられた最初の「しるし(表徴)」が記されています。「しるし」は、単に奇跡という言葉だけでは説明しきれない、より深い霊的意味とメッセージを含んだ出来事を指します。神学者たちはこの「しるし」を通して、『ヨハネの福音書』が伝えようとする核心的な信仰のメッセージが圧縮的に現れていると解釈してきました。特に、この奇跡が「最初のしるし」と呼ばれるのは、イエスの公の活動(宣教)の始まりを告げると同時に、神の国が到来するときに展開される栄光の祝宴を予告する性格を帯びているからです。そしてこのような解釈の中で、張ダビデ牧師がこの本文を通して強調しようとするメッセージは、「イエスによって人生の祝宴はますます豊かさを増し、水がぶどう酒に変わる奇跡が決して止まることはない」という希望へと結実します。 張ダビデ牧師によると、私たちがこの本文をよく観察するときに見出せる最初の重要な特徴は「場所と状況」です。『ヨハネの福音書』は、イエスがガリラヤのカナという地方の婚礼に招待され、参席されたことから物語を始めます。ガリラヤ、カナ、そしてナザレは互いに近い地理的特性をもつ地域であり、イエスが主に活動されたガリラヤでの働きの前哨ともいえます。福音書ではイエスが「ナザレのイエス」と呼ばれたり、人々は「ガリラヤのイエス」とも呼んだりします。そのほどイエスのアイデンティティはこの地域と密接につながっています。婚礼そのものは日常的でありながら、同時にユダヤ社会において重要な祝祭的意味をもっています。一つの家庭が築かれ、一つの家門が受け継がれる大切な儀式であるため、何日にもわたり盛大に行われるのが常です。しかしながら、この婚礼はごく普通の祝いの場では終わらず、イエスの最初のしるしが示される舞台となることで、霊的象徴が一気に強まっているのです。 ここで張ダビデ牧師は「神の国はしばしば私たちの日常のただ中で始まり、その日常を通路として神の恵みが現れることが多い」と力説します。カナの婚礼は人生で誰もが直面しうる「喜びの場」のようですが、突然の不足(欠乏)が訪れることで大きな当惑と恥辱に陥る可能性があることを示しています。つまり、「ぶどう酒が尽きた」という問題が生じたとき、この婚礼を取り仕切っていた人々にとっては、非常に重大な危機が到来したのです。ユダヤ人の伝統的な結婚慣習においては、婚礼で豊富な食べ物や飲み物を招待客に振る舞うことは欠かせません。それが足りなくなると、花婿側の不手際・準備不足とみなされかねず、新郎新婦やその家族にとっては大きな面目の失墜となります。そういう意味で、「ぶどう酒が切れた」という事実は、単に祝宴の雰囲気を壊す些細な問題ではなく、霊的に拡大して考えてみると、私たちの人生に訪れる根本的な欠乏や挫折を象徴しているのです。 イエスの母マリアが「ぶどう酒がありません」とイエスに申し上げたとき、イエスは「女の方、あなたは私と何の関係がありますか。まだ私の時は来ていません」(ヨハネ2:4)と答えます。ここで「時」という言葉は神学的に重要な含意を持っています。『ヨハネの福音書』全体においてイエスが「私の時」を言及される場合、それはしばしば十字架の死と復活、そして究極的には人類救済のための決定的な瞬間を指し示すことが多いのです。張ダビデ牧師は、この「時」の概念を、イエスのメシア的活動が頂点に達する時点、あるいは最終的に完成する神の国の栄光と結びつけて解釈します。しかし、そうした「時」がまだ到来していないにもかかわらず、イエスはこの婚礼の場で水をぶどう酒に変える驚くべき奇跡を行われます。これは、「まだ完全な時ではないものの、すでに主は欠乏と闇、絶望に陥った人々を顧みる方である」という事実を示しています。まだ「最終的なとき」ではないにもかかわらず、イエスは神の国の喜びと豊かさをあらかじめ味わわせてくださるお方なのです。 それにもかかわらず、イエスがまるで躊躇されるような返答をされた理由について、張ダビデ牧師は、「まだ私の時ではない」というイエスの表現は人間的な視点で見ると非常に冷淡に感じられるかもしれないが、実際にはイエスが地上で示される救いのドラマに関する予告だと説き明かします。私たちが置かれた欠乏がいかに緊急かつ重大に思えようとも、それより重要なのは結局、神のタイミングと大いなる救いのご計画だということです。しかし、その一方で主は、私たちの苦しみや状況を決して無視される方ではなく、必要ならば「まだ時が来ていない」場合でも、その全能の力によって私たちの人生に介入してくださいます。水がぶどう酒に変わるように、いかに不足し弱い人生であっても、イエスに出会うならば栄光と喜びに変わることができる、とカナの婚礼の「しるし」は力強く証言しているのです。 また、本件の中で登場する「六つの石の水がめ」は、ユダヤ人の潔めの儀式に使われていたものでした。ユダヤ人は律法的に汚れを取り除き、身体と心を清めるために、水で手や体を洗う儀式を行います。すなわち、この石の水がめは律法と結びついた古い慣習を象徴していると考えられます。ところがイエスは、その石の水がめにたっぷりと水を汲ませ、それが後にぶどう酒に変わるようにされました。これをめぐり、多くの神学者は「古い律法がイエスによって完成され、新しい恵みの時代へと移行すること」を暗示する出来事だと解釈します。張ダビデ牧師も同様に、この奇跡の本質を「イエス・キリストの到来によって、古い伝統や律法の影ではなく、本質である新しい契約が与えられ、真の喜びが訪れる」という福音の宣言とみなします。水がぶどう酒へと変化した出来事は、単に不足を満たした驚くべき奇跡というだけではなく、「今やイエスの内にこそ本当の祝宴、本当の喜び、本当の救いがもたらされる」という「しるし」だというのです。 イエスは下僕たちに「水がめに水を満たしなさい」と命じ、それに彼らが従順に応じたとき、水はぶどう酒に変わりました。この奇跡は、イエスご自身が自ら水の入った水がめに手を触れられて変化させたのではなく、下僕たちの従順な行いを通して現実になっています。これは弟子道(Discipleship)と従順(Obedience)の霊的原理をよく示す場面でもあります。張ダビデ牧師は「私たちの行いがどれほど微々たるものであっても、主の言葉に対する全面的な従順が起こるとき、そこに奇跡への扉が開かれる」と語ります。水をぶどう酒に変えるのは人間の力では成し得ない不可能なことですが、その不可能を可能にされるのはイエスであり、私たちはただイエスの言葉に従うことによって、その驚くべき御業の器となれるのです。しばしば教会や信仰生活の中では、「自分が一生懸命努力すれば」とか「自分にそれだけの能力があれば」奇跡が起こるのだと考えがちです。しかし、カナの婚礼の物語は「下僕たちが黙々と水を汲んだ従順」によって、イエスの全能が初めて明らかになったことを教えています。こうして、信徒たちの協力と祈りによって、教会共同体の中で新しく豊かな恵みが「しるし」として現れる可能性があるのだと、張ダビデ牧師は強調しています。 この出来事は、『ヨハネの福音書』2章11節で「イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。それで弟子たちはイエスを信じた」と締めくくられます。イエスが栄光を現し、その結果として弟子たちは一層確信をもってイエスをメシアだと信じるようになったということです。つまり、この奇跡の目的は単なる問題解決にとどまりません。人々はぶどう酒が尽きるという問題を解決され、婚礼の祝宴は再び活気を取り戻し、最後まで豊かに続けられたことでしょう。しかし、その背後には、はるかに大きな目的、すなわち「イエス・キリストが何者であるかが明らかにされ、人々がイエスを信じるようになること」が隠されています。奇跡には、不足を埋めてくれる一次的効用がありますが、最終的に奇跡が目指すのは「イエスに目を向けるように導くこと」です。そして、そのイエスを知り信じるようになった者たちは、もはや人生の祝宴が虚しさで終わらないことを悟るのです。 張ダビデ牧師は、この奇跡をめぐって「祝宴はますます良くなる(後のほうがもっと良い)」という表現をよく用いられます。世の中は一般的に、はじめは華やかで良いものを出し、時間が経つにつれてだんだんと情熱が冷め、倦怠に陥るのが常です。しかし、イエスが共におられる人生の祝宴では、その逆に、後半になればなるほど、より良いぶどう酒が現れ、最初よりもはるかに豊かな喜びを味わうことができるのです。これは私たちの信仰の方向性、すなわち「イエスにある歩みは、時が経つほど深まり、豊かになる祝宴」であるというメッセージを含んでいます。水がぶどう酒に変わる「しるし」は、単に過去のある一点で起きた外的な出来事ではなく、今でもイエスを信じる者たちにとって深遠な現実となり得ます。イエスは私たちの欠乏をまったく新しい次元の恵みで満たすだけでなく、究極的にはさらに深い栄光へと導いてくださるお方なのです。 このカナの婚礼の奇跡を通して、私たちは一つの信仰の核心的な問いを突きつけられます。「私たちの人生にイエスが臨在するとき、一体どのような変化が起きるのか」ということです。水がぶどう酒に変わるということは、私たちの日常的な労苦や手元にある材料が、キリストの力によってまったく別の価値と本質を帯びるようになることを意味します。同時に、これは終末論的な希望、すなわち『ヨハネの黙示録』21章に予告されている新天新地で開かれる永遠の婚礼の予兆でもあります。イエスは地上で一時的に「ぶどう酒」の喜びを味わわせてくださるだけではなく、やがて到来する神の国において永遠に続く完全な祝宴と喜びを保証してくださるのです。 結局、この奇跡が「最初のしるし」として紹介されたヨハネの意図は明確です。イエスが行われるすべての力としるしは、イエスこそ真の神であり、真の救い主であることを証言するためのものです。そしてそのしるしを通して、人々はイエスに栄光を帰し、イエスを信じるようになります。一方、イエスを信じる者たちは、「人生の不足がいかに絶望的でも、主のお言葉に従って進むとき、水がぶどう酒に変わる恵みの奇跡を体験できる」という信仰的確信を得ます。張ダビデ牧師は、このメッセージを一貫して説教と講義で伝え続けながら、カナの婚礼の核心精神を「霊的欠乏を霊的豊かさへと転換してくださるイエスに出会う場」と定義しています。 このように、カナの婚礼の奇跡は、ある個人や家族、あるいは共同体が単に欠乏から回復される物語を超えています。それ以上に、それはイエス・キリストの救いの働きと神の国の喜び、そして律法ではなく恵みによって生きる新しい時代の到来を示す「しるし(sign)」なのです。そしてその中心には必ずイエスとその御言葉に対する従順が据えられています。婚礼でぶどう酒が尽きるように、私たちの人生にも喜びが消え、希望が絶たれそうになるときがあります。ところが、その瞬間にイエスの声に耳を傾け、「どんなことでも、あの方が言われることはそのとおりにしなさい」というマリアの励ましのとおり、全面的な従順をもって進むならば、祝宴の家に新たな喜びが宿るのです。カナの婚礼において、最初よりもはるかに上質のぶどう酒が後に現れたように、私たちの人生も、後になるほど、より深く驚くべき恵みを体験できます。張ダビデ牧師は、これを繰り返し強調しながら、「教会共同体と信徒の信仰生活も、ますます熱く、より良いぶどう酒になっていかなければならない」と説きます。 このような観点からカナの婚礼は、信徒として生きる私たちの心の奥深くに何度も刻まれるべきメッセージを投げかけます。世の中は、時間が経つほどすべてが色あせ、結局は死と絶望で終わるのだといいます。しかし、イエスが主役となる祝宴では、時が経つほどより豊かな喜び、より成熟した愛、より溢れる恵みが与えられるのです。ここでいう「さらに良いぶどう酒」とは、単に品質や味の優秀さを意味するのではなく、人全体の変化と霊的豊かさを指します。私たちは世の基準では到底解決できない問題、たとえば死と罪の問題さえも、イエスにあって解答を得ることができます。この奇跡が「しるし」であり「象徴」である理由がまさにそこにあります。何よりも神がイエス・キリストを通して私たちのうちに臨在され、いかに苦しく絶望的な状況であっても、その中に永遠の希望を注いでくださることを教えてくれているのです。 さらに張ダビデ牧師は、「ぶどう酒が尽きる経験とは、人生に必然的に訪れる苦しみや不足の比喩であるが、この不足を通してこそ神の御業が本格的に現れるという事実を忘れてはならない」とも語ります。これは「私の弱さのうちに主の強さが現れる」と告白したパウロの言葉と同じ脈絡です。したがって信徒は、絶望が深まるほど、「すでに到来している神の国の力」がイエスを通して自分に与えられているという事実を、より強く握らなければなりません。カナの婚礼のイエスのように、今も主は私たちの小さな従順を通して、ぶどう酒が尽きた人生の場に奇跡を起こしてくださいます。それこそが、「最初のしるし」から始まったイエス・キリストの救いのドラマが今日まで続いている証拠でもあるのです。 最終的に、このすべてのメッセージが向かう結論は、「イエスによって私たちの人生は根本的に変わる」という点です。イエスに出会う前と出会った後では、人生が劇的に変化します。それは、イエスが私たちの欠乏を満たし喜びを回復させる「一時的」な恵みにとどまらず、私たちという存在を根本から新しく創り変えてくださる創造主の権能者だからです。カナの婚礼で味わった新しいぶどう酒は、最終的には『ヨハネの黙示録』21章に描かれる、新しいエルサレムで行われる永遠の祝宴の予告編といえます。水がぶどう酒へと変わる出来事は、神の国が到来するとき、私たちの朽ちる身体が復活の体へと変わり、私たちを縛りつける罪と死の権威が永遠に消え去る転換を予表しています。この奇跡を体験的に受け入れる者たちは、この地上ですでに神の国を先取りして味わいながら生きることができるのです。 一方、この理解の枠組みにおいて、カナの婚礼が与える教訓は、教会共同体の中で特に際立ちます。教会は、この地上で神の祝宴が先行して始まっている場所だといえます。聖餐を分かち合い、礼拝をささげることは、単なる宗教儀式ではなく、「尽きたぶどう酒」をイエス・キリストの恵みによって再び満たす象徴的瞬間でもあります。張ダビデ牧師は、教会がただ宗教活動を提供するところではなく、人々が真の喜びと命を享受するよう助ける「生きたからだ(キリストの体)」でなければならないと力説します。水がぶどう酒に変わる「奇跡」が実際に起こる場所、つまり傷ついた人々が癒され、絶望していた人々が希望を見いだし、罪人が義とされて生まれ変わる出来事が絶えず起こらなければならないというのです。 潔めの儀式のための石の水がめがイエスの手に委ねられたときに、驚くべき変化が起こったように、教会や信徒も私たちにあるすべてをイエスに惜しまず差し出すべきです。私たちの時間、才能、財産、そして人生の優先順位を主にお任せするとき、その地点で初めて水がぶどう酒へと変わるのです。この原理はいまも有効であり、かつての聖人や使徒だけに起こることではありません。信徒は日々の生活の中で、カナの婚礼が再現されるような「小さなしるし」を経験し得るのです。まさにそれが、「神の時はまだ完全には到来していないけれど、すでに部分的に到来している終末論的時間」を生きる信者の特権でもあります。カナの婚礼の奇跡は、イエス・キリストにあって今も有効に働いている福音の力をよく示す代表的な事例となっているのです。 結局、『ヨハネの福音書』の著者がカナの婚礼を配置した理由、そしてその物語を「最初のしるし」と呼んだ意図はきわめて明瞭です。イエスのアイデンティティとイエスがもたらす神の国の秩序を、ぶどう酒という隠喩を通して強烈に表現しているのです。イエスのおられるところには、「喜びと栄光」があります。そしてイエスが働かれるところには、不可能が可能になる恵みの出来事が起こります。その恵みを通じて主は私たちに、終末論的な希望を先取りして味わわせ、またこの喜びの福音を世に伝えるように私たちを派遣されるのです。張ダビデ牧師は、このメッセージを「あなたはこれまで良いぶどう酒を取っておいた」という宴会の世話役の驚きと結び付けて説教します。人生がだんだんしぼみ、弱くなっていくのではなく、むしろ後半に向かってより豊かになり、最終的には栄光の復活に至るというのがキリスト教信仰の核心的希望だからです。 このように、カナの婚礼の奇跡とその象徴は、単なる奇跡譚を超えて、イエスのメシア的アイデンティティと救いの働き、そして神の国の豊かさに関する重要な宣言となっています。不足と絶望ではなく、回復と命が強調されるこの「しるし」を通じて、信徒たちは一層はっきりした信仰の眼差しでイエスを仰ぐようになります。かくして、最終的には私たちの欠乏が神の豊かさによって置き換えられ、世の絶望が永遠の希望へと移されるのです。これこそが、張ダビデ牧師がカナの婚礼の本文を通して一貫して伝えている福音の核心だと言えるでしょう。 Ⅱ. 人生の欠乏とイエスにおける希望 私たちはしばしば人生を「苦海」と呼びます。「苦く辛い海」という意味で、人生に降りかかる大小の苦痛を表す言葉として用いられます。多くの哲学や文学は、人間の有限性と虚無感、そこから生じる苦痛や絶望を悲観的に描いてきました。『伝道の書(コヘレトの言葉)』もまた、時の流れと人生のむなしさを嘆きながら「空の空」と宣言します。しかしキリスト教信仰、特にカナの婚礼の奇跡が示す核心的メッセージは、そうした悲観的世界観を根本から覆します。欠乏や苦痛は確かに現実ですが、イエス・キリストの内にあって、その欠乏さえも奇跡の通路となり得ることを教えてくれるからです。そしてそこには、張ダビデ牧師が絶えず強調する「変化と希望」の神学が凝縮されています。 カナの婚礼でぶどう酒が尽きたとき、祝宴の会場は一瞬にして絶望的な雰囲気に包まれたことでしょう。この状況は、私たちが実際の生活でしばしば直面する問題を象徴します。たとえば、青年期には無限の可能性と熱い情熱にあふれているものの、年を重ね、人生の重荷が増すにつれて、だんだんと喜びや余裕が消え、最終的には死という現実が待ち受けているという認識が典型的な例です。身近にある結婚式場での祝辞やスピーチでも、多くの人は二人の長続きする幸せを祈りますが、実際には最初のときめきが薄れ、葛藤や大きな責任感が重くのしかかるという経験をすることが少なくありません。さらに『伝道の書』12章が描写する「老年に訪れる崩壊」――視力が衰え、聴力が落ち、味覚を失い、肉体的欲求までもが消えていく光景――は、最終的にすべての人間が避けられない限界を赤裸々に表しています。 しかしながら、カナの婚礼の奇跡が語る福音とは、このように祝宴が終わりかけるように見えるときこそ、むしろさらに良いぶどう酒が用意されているということです。イエスが共におられる人生の祝宴は、時が経つほど喜びが大きくなるのであって、決して小さくなりません。張ダビデ牧師は、この希望のメッセージをキリスト教信仰が最も輝く部分の一つとしてたびたび説き明かします。彼は「世の結婚式や祭りは、いかに頑張っても時の経過とともに熱気が冷めざるを得ない。しかしイエスがおられる祝宴には、絶えず新しい恵みと喜びが供給される」と言います。言い換えれば、人生の欠乏はイエスの内にあってさらに大きな恵みを味わう機会になり、時が経つほどその恵みはいっそう深く豊かになるということです。 この希望は、単に死後に天国へ行くという死後的な信仰にとどまりません。もちろんキリスト教は「死後にも命がある」という復活信仰を宣言します。しかし、「水がぶどう酒に変わる出来事」は、今この地上で神の国の実体を先取りして体験させる福音の力を可視化しているのです。これは、「生きている間にできるだけ楽しみ、死を前にしたらやむなく諦めるしかない」というような世俗的な価値観とは完全に異なります。信徒に与えられた人生は、時が経つほど闇が深まっていく旅ではなく、時が経つほどさらに明るくなり、命に満ちた道となるのです。世の人々が「結局は虚無と死しかない」と嘆くとき、イエスを信じる者は「最後の瞬間にも、もっと良いぶどう酒が用意されている」と宣言するのです。 このように、カナの婚礼が示す「欠乏から奇跡への転換」は、信徒にとって実際的な生き方の指針となります。私たちの生活の中でしばしば出くわす「ぶどう酒の尽きる」瞬間――経済的困窮、身体の病、対人関係の衝突、心の不安や憂鬱など――は、すべてイエスの介入と力を求めうる祈りの課題です。張ダビデ牧師は「祈りは天の扉を開く鍵だ」とよく述べますが、その理由は、私たちが祈るとき、初めて神の「時」を開かれた心で待ち望むことができ、同時に下僕たちが水を汲んだように、私たちも行動に移して従順する準備を整えられるからです。そしてその結果、「水がぶどう酒に変わる奇跡」を自分の目で確かめることができます。これこそ聖書が語る「信仰によって得られる奇跡の原理」です。 張ダビデ牧師は、実際の宣教・牧会の現場で、人々が自分の欠乏や苦痛を抱えて来るとき、カナの婚礼の物語をよく例示に出します。なぜなら、この物語は「まったく行き詰まった状況でも、イエスによる逆転が起こり得る」という強いメッセージを含んでいるからです。イエスを人生に招くなら、私たちの力ではどうにもならない問題でも、主権的なみ心と憐れみのうちに新たな道が開かれるのです。「奇跡」という言葉はしばしば誇張や誤解を招くこともありますが、実際、聖書の奇跡は、神が創造主であり万物の主権者であることを示す「しるし(sign)」でありメッセージだと考えられます。そして、カナの婚礼の出来事から、こうした奇跡が今日私たちの人生にも起こり得るのだという根拠を得るのです。 ここで重要なのは、イエスが水をぶどう酒に変えられる前、下僕たちが積極的に従順を示したという点です。「水がめに水をいっぱい満たしなさい」という命令を聞いたとき、彼らは文句を言わずに水を満たしました。続く「さあ、それを汲んで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」という指示にも、そのとおりに従いました。こうして宴会の世話役は、水がぶどう酒になったものを味わって驚嘆しました。この場面は、私たちの信仰生活における「従順の大切さ」を劇的に際立たせます。神が働かれる方法は、多くの場合、人間の協力を要請します。私たちが祈るだけでなく、その祈りの課題にふさわしい行動を起こすとき、すなわち信仰の実践が伴うときに、奇跡が完成されるのです。張ダビデ牧師はこれを「量的増大が質的変化をもたらす」と表現することがあります。下僕たちが水をあふれるほど満たした結果、まるでその量的な充満が質的な変容――つまり水がぶどう酒になる奇跡――をもたらしたように、私たちの祈りと従順がある臨界点を超えると、神が定められた時に驚くべき事が現実に起こるというのです。 これは「行いによる功績」と混同してはいけません。奇跡はあくまで神の主権的な賜物です。しかし同時に神は、人間の自主的な従順を通して働かれます。その従順は私たちの義を誇示する手段ではなく、神の摂理を尊び、神がお喜びになる道へ自分自身を差し出す行為です。信仰を持たない人々には「水でできたぶどう酒」の話はただ愚かに見えるかもしれません。けれどもイエスの言葉にそのまま応答する者は、その奇跡の現場を直接目撃することができるのです。『ヨハネの福音書』2章9節で「宴会の世話役は、どこから来たのか知らなかったが、水を汲んだ下僕たちは知っていた」とある通り、神のわざは従った者たちが体験して知る恵みです。 張ダビデ牧師が繰り返し強調する点はまさにこれです。世の人々は「いまだにそんな奇跡を信じているのか」と嘲笑するかもしれません。しかし、実際にイエスを信じ、その御言葉に従って生きる者たちは、少なくとも自分の人生の中で起こる数多くの「小さなしるし」を通して神の臨在を体験し、その実在を知っています。それは科学的に証明しなければならない実験データではなく、人格的な出会いと関係の中で確信する真理です。水を汲んで宴会の世話役へ持って行った下僕たちのように、私たちが御言葉に従って一歩ずつ進んでいくとき、初めて目の前で「水がぶどう酒に変わる」様子を目撃するのです。 さらに、この体験的信仰は私たちを絶望の淵から救い出します。張ダビデ牧師は「イエスを抜きにした世は、根本的に暗く絶望的だ」と診断します。死という現実は、人間がどうにも克服できない限界であり、その何物も死の問題の前では有効な解答になり得ないからです。しかしイエスがおられるところでは、死さえも新しい命への扉となり得ます。カナの婚礼の奇跡は直接、死という根源的な闇を扱ってはいませんが、その欠乏と闇の予兆を「ぶどう酒が尽きた」という出来事で象徴的に示し、イエスの介入によって、その闇が喜びの祝宴へと転換される瞬間を捉えています。これは、人生全体で起こり得る「より大いなる転換」――罪と死の権威から解放され、永遠の命へと移される救い――を予告するものといえます。 張ダビデ牧師は説教でしばしば「私たちは死の列車に乗っていたが、イエスを信じて天国を見据えた瞬間、列車の終着駅が変わった」と表現することがあります。世の論理では、人生の終わりは死という闇ですが、イエスによって私たちは天上の祝宴へと続く道に変えられるのです。死の絶望が、永遠の命という希望へと転換されます。このようにキリスト教の福音が持つ根本的な力こそ、「水がぶどう酒に変わる奇跡」を堅く信じさせる根拠となります。なぜなら、死すら克服された方であれば、何ものも私たちを永遠の絶望に追いやることはできないからです。 このような観点から、「人生の欠乏とイエスにおける希望」は、単なる心理的な慰めや宗教的ポジティブシンキングを超える深みをもっています。カナの婚礼の出来事の中で「まだ私の時ではありません」とイエスが言われたことは、やがて時が至るとイエスが十字架にかかられ、復活されることで「すべての欠乏の極み」を解決されるという予告でもあります。実際に、イエスの死と復活によって私たちは罪と死から完全に解放される道を得ました。そしてイエスが再び来られる時(再臨)に完成される神の国には、もはや「ぶどう酒が尽きる状況」そのものが存在しない、永遠の喜びの婚礼が開かれるのです。『ヨハネの黙示録』21章が描く新しいエルサレムの祝宴こそ、それを示しています。そこには涙がなくなり、死ももはや存在せず、悲しみや苦しみが再びあることはないと言われています。これこそ「さらに良いぶどう酒」が象徴するものです。 したがって、この地上で私たちが欠乏を経験するとき、それは決して虚無や失敗だけを意味しません。むしろそれを通して、私たちはいっそう切に神を求め、イエスの力を願い、御言葉に従う道へ進むことができます。そしてそこで私たちは、自分の人生の水がめに水をいっぱい汲む「従順の行い」を実践することで、水がぶどう酒に変わる神の神秘を体験し得るのです。その体験は、単に個人の満足を目的とする私的な経験ではなく、教会共同体と世界に「神が生きておられる」ことを証言するものとなります。宴会の世話役のような人々は「どこからこのぶどう酒が来たのか」を知らないかもしれませんが、水を汲んだ者たちはその秘密を知っているように、キリストを信じる信徒たちは世が知らない深い霊的現実を味わって生きるのです。 張ダビデ牧師は、これを「救われた者の大胆さ」と呼びます。私たちはもはや絶望の地点で立ちすくんだり、へたり込んだりしません。たとえ世が虚無や死へと突き進んでいると診断したとしても、イエスにあって私たちは命と栄光を目指して進めるのです。そしてこの確信を持って世に「福音」を伝えるとき、私たちは物乞いのような態度で伝道をする必要がありません。まるで托鉢に回る僧侶が喜捨を乞うようにするのではなく、「イエスがくださる命と喜び」を共に分かち合い、招くのです。相手にも「もっと良いぶどう酒」を味わうよう勧める、権威ある伝道者となることができるのです。これは「私たちが伝道することで神の国を拡大してあげる」という発想ではなく、「神がすでに成し遂げておられる豊かな祝宴に、人々を招いて連れてくる」という認識です。その結果、人々は、自分たちを苛んでいた欠乏や絶望がイエスによってどのように変わり得るかを初めて知ることができます。 こうした「欠乏と希望」の対比は、今日の教会がどのようなアイデンティティを持つべきかを再確認させてくれます。教会の内側にも欠乏があるかもしれません。実際、財政難、信徒間の対立、宣教の限界など、さまざまな問題が生じます。しかし教会が真にイエス・キリストを主としてお迎えし、その御言葉に従っていくなら、その欠乏すら奇跡へと変わる可能性があります。教会の歴史を見ても、最も困難な時期にこそ驚くべきリバイバルや改革が起こった例は数多くあります。初代教会が迫害のただ中でかえって強くなり、宗教改革期には腐敗した中世教会から御言葉が回復され、新しい教会運動が起こったように、欠乏や危機は霊的刷新を引き起こす大切な転機となるのです。張ダビデ牧師はこれを「教会は世で最も強力な組織ではなく、最も強靭な生命体である」と表現します。お金や権力ではなく、命の力と信仰によって動く共同体だという意味です。だからこそ世に向かって「嘆き」ではなく「希望」を叫ぶ使命を持っています。 人生の欠乏からイエスを通して得る希望は、時空を超えてあらゆる状況を変える根源的なメッセージです。カナの婚礼で尽きたぶどう酒がイエスの御言葉によって豊かに満たされたように、私たちの人生のさまざまな現場でも同じ原理が働きます。問題は、しばしば私たちが「ぶどう酒が切れた」事実を隠したり、見ないふりをしたりすることにあります。イエスの母マリアのように私たちが「主よ、ぶどう酒が切れてしまいました」と正直に告白するとき、初めて主が働かれます。そして「どんなことでも、この方の言うとおりにしてください」というマリアの言葉どおりに従順し始めるとき、奇跡は現実になるのです。このプロセスを通して、私たちの信仰は理論上のものではなく、生きたものとして身につきます。 カナの婚礼でイエスはご自分の栄光を現され、その結果弟子たちはイエスを信じました(ヨハネ2:11)。この構造は今も有効です。欠乏が大きいほど奇跡が明らかにされる余地が大きくなり、その奇跡を通してイエスの栄光が示され、信じる者の信仰がさらに強められます。張ダビデ牧師は、これをキリスト教信仰のダイナミズム(Dynamic)と呼び、「信仰が深まるほど、より大きな欠乏の前で、より驚くべき奇跡を体験できるようになる」と語ります。だからこそ、私たちは苦痛や苦難をただ否定的に受け止めるのではなく、神にいっそう近づく触媒として用いるべきなのです。これは決して「苦しみを美化」したり「問題を軽視」することではありません。むしろ苦しみが神を探し求める通路になり得るという事実を肯定することなのです。 また、張ダビデ牧師は同時に、信徒や宣教者たちが過度な「幸福論」や「繁栄の神学」に陥らないように注意を促しています。欠乏を扱う過程で、ひたすら「イエスを信じれば何もかも上手くいく」といった単純化されたメッセージを伝えるなら、かえって人々を落胆させる危険があります。というのも、現実にはクリスチャンであってもときに失敗し、病に苦しみ、経済的困難に直面することがあるからです。しかし、カナの婚礼の奇跡は「この地上でただちに私たちのあらゆる問題がなくなる」ことを保証するものではありません。それよりも、「祝宴が終わりかける絶望的な瞬間であっても、イエスは決して私たちを見捨てない」という保証を与えてくれるのです。そしていつでも「私たちの欠乏を満たしてなお余る、さらに良いぶどう酒をくださることができる方」がイエスであることを教えてくれます。ゆえに信徒は、何でも楽観視するのではなく、欠乏や痛みを客観的に認めつつも、それをイエスに訴え、ゆだねる「信仰の姿勢」を学ぶのです。 このようにカナの婚礼の奇跡は、「人生の欠乏とイエスにおける希望」というテーマを最も劇的に示す本文の一つです。水がぶどう酒へと変わる転換は、すなわち「絶望から希望へ、死から命へ」と続く転換を暗示しており、イエスが信仰共同体の中でいかなるお方なのかをはっきり刻印します。そしてこの出来事は、単に過去のある時点で起きた歴史的出来事ではなく、今も聖霊の働きの中で同じ原理が再現され得るものです。教会がこの真理をしっかり握るとき、世の人々から見れば欠乏だらけの共同体に見えたとしても、実際には「もっと良いぶどう酒」を生み出し続ける神の国の大使館となるのです。張ダビデ牧師は、この点を「教会は希望を生み出す場所というより、すでに与えられた希望を証しし、分かち合う場所だ」と表現します。なぜなら、希望は私たちが創り出すものではなく、イエスがすでに約束してくださったものだからです。 カナの婚礼は、イエスの宣教がいかなる性質を帯びているかを象徴的に示す代表的な序幕です。「最初のしるし」という名称は決して偶然ではありません。先に述べたように、この「しるし」は私たちに「絶望は終わりではなく、新たな恵みの始まりとなり得る」という洞察を与えてくれます。人生を歩んでいると、私たちの予想や準備がまったく役に立たないほど突然で深刻な欠乏が襲ってくることがあります。けれどもイエスを信じる者たちにとって、それは決して最後ではなく、むしろ神の栄光が現される契機になり得るという信仰的確信が与えられています。だからこそ、私たちもマリアのようにイエスに「ぶどう酒がありません」と申し上げ、下僕たちのように「何でも言われたとおりに行う」従順を実践することができるのです。そのとき、私たちの人生のただ中で水がぶどう酒へと変わる恵みが現実のものとなります。 張ダビデ牧師が強調するように、この希望こそが教会と信徒が世に提供できる最も尊い贈り物です。世は絶えず「ぶどう酒が尽きる」経験、すなわちあらゆる欠乏や不安に苛まれています。人々はそうした欠乏を忘れるため、一時的な快楽や依存症に陥ったり、極端な選択によってすべてを放棄したくなったりします。しかし、教会はきっぱりと「まだもっと良いぶどう酒が残されている」と叫ばなければなりません。そしてその叫びが空虚にならないように、教会共同体の中に実際に奇跡が起こる現場が必要です。たとえば、不可能に思えた人間関係の回復や癒しが現実に起こり、絶望していた人が希望を取り戻す物語が教会の内にあふれなければなりません。そのとき世の人々は「どこからこんなぶどう酒が来たのだ」と驚き、秘密を知る者たちは「イエスの言葉に従ったら、水がぶどう酒になったのだ」と証しするようになるのです。 人生の欠乏とイエスにある希望は、切り離せないテーマです。私たちは皆、欠乏の中を生きていますが、イエスにあって永遠の豊かさへと進めることを忘れてはなりません。カナの婚礼でイエスの最初のしるしが示したように、イエスはいつでも私たちの想像を超えた方法で、最高のものを最後に出してくださる方です。ですから、今の痛みや挫折は永遠に続くものではなく、主の奇跡はいつでも私たちのもとへ、さらに驚くべき、さらに豊かな形で訪れるのです。このメッセージを抱いて生きる信徒は、欠乏の前で揺らがず、世に向かって大胆に福音を語り伝えることができます。これこそが、張ダビデ牧師がカナの婚礼本文を通して一貫して宣べ伝えている福音の精髄です。そしてこの福音は、今この瞬間にも私たちの中で生きて働き、個人と教会共同体を変え、「もっと良いぶどう酒」の祝宴を絶えず繰り広げるよう導くのです。 www.davidjang.org