福音と神の愛 – 張ダビデ牧師
福音の核心と神の愛 張ダビデ牧師が説教や講演の中で繰り返し強調している中心的テーマは、まさに「福音」である。彼は、福音を「神の御子であるイエス・キリストがこの地上に来られ、人間のあらゆる罪と苦しみを負って死なれ、そして復活によって人類に新たな命の道を開かれた救いの出来事全体」として理解している。彼にとって福音とは単なる宗教的教義ではなく、人類史から宇宙的次元に至るまで、すべてをひっくり返す決定的な出来事なのである。 福音を定義する際に、ヨハネの福音書3章16節は常に重要な出発点として提示される。すなわち「神はその独り子を惜しまず与えるほどに世を愛された……」というこの御言葉は、福音が何よりもまず「神の愛」を宣言していることを如実に示している。張ダビデ牧師はこの聖句に言及しながら、私たちが罪のせいで永遠に断絶されていた存在であったにもかかわらず、神は全面的な賜物としてイエス・キリストを送ってくださった事実を深く黙想すべきだと力説する。私たちが福音を喜び、胸を躍らせながら、同時に福音の前で敬虔な恐れとへりくだりを持つようになるのは、まさにこの神の愛の大きさによるのである。 彼はしばしばローマ書5章8節を引用する。「私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死なれたことによって、神はご自身の愛を明らかにしてくださった」というこの御言葉は、神が人間の何らかの資格を見て愛を注がれたわけではないことを示している。むしろ人間は罪のもとにあり、自力では救いに至ることが到底不可能な状態にあったにもかかわらず、神は一切の条件なしにイエス・キリストを送ってくださったというのである。ここで張ダビデ牧師は、福音を単なる道徳的手本や宗教儀式に限定せず、徹底して「恵みの出来事」として認識すべきだという。すなわち、福音は人間の善行や正しさによってではなく「神の贈り物」として与えられたものである以上、どんな人間的誇りが入り込む余地もないということだ。 張ダビデ牧師は、福音を「愛の出来事」と呼び、その愛が具体的に表される現場が十字架だと強調する。愛は口先だけで叫ぶと空虚になりうるが、神の愛はイエス・キリストのへりくだりと死、そして復活を通して「歴史的事実」となった。イエスがご自身を完全に空にして、人間のすべての罪を負い、代償の生贄となられた出来事は、ほかのいかなる形態の愛とも比べようのない、まさに絶対的かつ「比類なき」愛だという。この愛こそ、福音が伝える喜ばしい知らせのエッセンスである、と彼は語る。 そしてもし福音が愛であるなら、その愛を証しすることは避けられない当然の義務となる。すなわち、「神の御子がこの地上に来られ、私たちのために死なれ、死を打ち破って復活された」という事実を知った者は、必然的にそれを「証し」するようになるのだ。張ダビデ牧師は、使徒行伝で弟子たちや使徒たちがどのように証ししていたかをしばしば例に挙げる。ステパノは激しい迫害の中で石打ちに遭い殉教する直前まで、イエスこそ人類の救い主であると伝え続けた。ペテロはペンテコステの日に聖霊が下った後、エルサレムの大衆の前で福音を叫び、パウロは異邦の地を巡りながら福音の証言をやめなかった。彼らは自分の人生を懸け、どんな代価を払ってでもイエスが「真の命の道」であることを世に知らせたのである。 これほどの証しが可能だった理由は、彼らが福音を「知識」としてだけでなく、「愛」として体験していたからだ。張ダビデ牧師は、この愛の体験を「福音に捕らえられること」と表現する。福音が単に「イエスとは誰かを頭で理解すること」で終わるなら、それはパリサイ的な知識にすぎない。真の福音体験は、イエス・キリストの愛が自分の罪と絶望を解決してくれたことを悟り、存在全体が変えられる出来事である。だからこそ、イエス・キリストを知った人は自然に福音の証人となり、この地上に向かって「神の愛」を伝える使命を担うのだ。 張ダビデ牧師は、福音が万人に開かれていることも強調する。背景や学識、道徳的資格の有無に関係なく、すべての罪人に「罪の赦しと新しい命」が宣言されたのがイエス・キリストの十字架であるという。特に使徒行伝2章でペテロが説教する場面にある「だれでも主の御名を呼び求める者は救われる」(使徒2:21)という宣言を言及しつつ、福音は決して特定の民族や集団だけのためのものではないと明確に示す。ゆえに張ダビデ牧師のメッセージの中では、「神の愛」という共通分母が民族や言語の壁を超え、歴史と文化の限界を超えて、罪の中で苦しむすべての人生に訪れる全面的な恵みの実体として繰り返し示されるのだ。 さらに彼は、福音が宇宙的であると同時に個人的なメッセージでもあることを重ねて想起させる。すなわち、福音は宇宙的次元で人類全体の運命を変えた出来事であると同時に、一人ひとりの内面と生き方を転換させる力でもある。私たちが福音を受け取り信じるとき、それはもはや概念や教義ではなく、私たちの内面で爆発する「新しい命の力」として働く。愛を受けた者は愛を流さずにいられず、恵みを体験した者はその恵みを世に伝えずにはいられない。だからこそ張ダビデ牧師は、福音こそが「この世に必要な唯一の希望」であり、その確固たる土台の上に教会と共同体が打ち立てられるべきだと力説する。 また彼は、福音を信じ従う人々の間で自然に現れる実りとして「互いの重荷を負い合い、愛し合え」(ガラテヤ6章2節)という御言葉を提示する。もし福音が愛であるならば、福音を伝える者たちの共同体も必ずや、愛の喜びと一致に満ちるべきだというのだ。イエスが「すでに世に勝った」(ヨハネ16章33節)と宣言されるとき、それは武力によって世を屈服させるという概念ではなく、愛と仕える姿勢によって勝つという逆説的な勝利であることを想起させる。ゆえに教会が福音を掴み、真に互いを愛する姿で世に仕えるなら、その姿自体が世に対する強力な証しになるのだ、と張ダビデ牧師は強調する。 結論として、張ダビデ牧師のメッセージの中では、「福音の核心とは、神の御子が私たちのために来られ、死なれ、そして復活によって愛を完成された」という宣言に要約される。どんな哲学的理論や倫理的教えでも代わりになりえない、この地上のすべての罪人に開かれた壮大な愛の物語こそが福音なのである。そしてこの福音の前に立つすべての人は、その愛の出来事に反応して変えられた生を生きるようになる—これが彼の第一の強調点である。 罪と義、そして代贖(だいしょく)の道 張ダビデ牧師が第二に深く取り上げる中心テーマは「罪と義、そして代贖」である。もし福音が愛であるとするなら、人間にはなぜこのような犠牲と救いが必要だったのか。その根底には、人間が自力では解決できない罪の問題がある、と彼は語る。 まず、罪とは何であるかを正しく認識しなければ、福音の愛と恵みを完全には理解できないというのが張ダビデ牧師の教えである。聖書全体を貫く概念である罪は、単に道徳的な誤りや社会規範の違反行為を越える。彼はローマ書1章でパウロが宣言した「人間は神を心に留めようとしない」ことこそが罪だ、という定義に注目する。人間には本質的に神を退け、自分が主人となろうとする態度が深く根を張っており、その結果として全世界が罪の支配下に置かれるようになったのだと説明する。 続いて張ダビデ牧師は、この罪がもたらす波及効果を「死が王として君臨する」という表現で要約する。つまり、人間が罪のもとに置かれると、その結末は死であるという。これは単に肉体的死だけでなく、永遠の滅びと断絶を意味している。したがって、人間はいくら善行を積み、律法を守ろうとしても、自力では罪と死の権威に打ち勝つことができない絶望的状況に直面しているというのだ。律法は罪が何であるかを明確にし、罪をより鮮明に暴く機能を果たすだけであって、罪からの完全な解放は与えてくれない。 まさにこの地点で、イエス・キリストの「代贖(だいしょく)」の出来事が炸裂する。代贖とは文字通り「誰かが代わりにその代価を支払うこと」を意味するが、張ダビデ牧師はこれを単なる商取引上の概念で終わらせてはならないと強調する。旧約の犠牲制度(特にレビ記16章の贖罪日)の儀式で、動物を屠って血を流し、人々の罪を覆った象徴が、イエス・キリストの十字架で「完全なかたち」で実現したのだ。すなわち、すべての罪人が犯した不従順と反逆、それに伴う死の刑罰をイエスご自身が背負われたということである。 張ダビデ牧師がローマ書5章18-19節をしばしば取り上げるのも、この代贖の概念を明確に説明するためである。「ひとりの人アダムによって全人類が罪のもとに置かれたが、もうひとりの人イエス・キリストによって多くの人が義とされ、命に至る道が開かれた」というパウロの宣言に、福音の核心がある。この言葉は、人類が罪の鎖から抜け出せなかった根本的限界を、イエス・キリストの従順と犠牲によって一気に覆したということを意味する。 張ダビデ牧師は、代贖の本質が「愛」であることを付け加える。もし代贖をひたすら律法的な視点だけで理解しようとするなら、私たちが思い描くイメージは「公正な裁き主が罪人に当然の刑罰を執行しなければならないので、誰かが代わりに血を支払った」という、どこか冷たい取引方式になりがちである。しかしイエス・キリストが十字架の上で血を流された場面は、単に「刑罰を代わりに受けた」という形而上学的・法廷的概念にとどまらない。それは神が私たちに与えてくださった「全面的な賜物」であり、イエスが自発的に進んで私たちに差し出された「自己犠牲の愛」なのだ、と張ダビデ牧師は言う。この点が理解されるとき、私たちは初めて十字架の出来事がいかに途方もない波及力を持っているかを悟ることができる。 こうして人間には、この代贖の愛を受け入れ、福音を信じることによって「義とされる」道が開かれる。パウロがガラテヤ書などで力説した「信仰による義(イシンチンギ)」の原理は、張ダビデ牧師が語る福音の論理と正確に結びつく。彼によると、私たちが福音を受け取った瞬間、もはや「罪人」の身分ではなくなり、神の前で「義人」と宣言されるという。それは私たちの内面に実際に道徳的な完璧さが生まれるからではなく、イエス・キリストがすでに罪の代価を支払われたからである。義が「転嫁(てんか)」されるという神学的概念が現実に適用されるわけだ。 張ダビデ牧師はまた、ヘブライ書にある「私たちもキャンプの外へ出て行こう」という表現を好んで引用する。旧約の犠牲制度では、罪を負わされたヤギや羊は陣営の外へ追い出され、そこで屠られた。イエスもエルサレムの城門の外にあるゴルゴタの丘で十字架にかけられ、「贖罪の子羊」の役割をまっとうされたというのである。「私たちもキャンプの外へ出て行こう」という勧めは、イエスの苦難にあずかり、代贖の道を見習え、という挑戦として読める。 ここで重要なのは、代贖をただ神学用語として学び、頭だけで理解して終わらせないことだ。張ダビデ牧師は、代贖が福音の核心部分である以上、私たちもイエスが歩まれた道に倣うべきだと説く。すなわち、私たちがこの地で福音を生きるとき、互いの重荷を負い合い、ときには迫害や誤解をも受け入れつつ、愛をもって仕える生き方を選ばなければならない。これこそイエスの「代贖的愛」を私たちも生き方として受け入れる具体的な表れなのだ。私たちは世を裁く指さしや暴力で変えることはできないが、イエスがなさったように、愛をもってご自身を差し出し「キャンプの外」へと踏み出す姿勢こそが、世界を癒やすことのできる道だというのである。 張ダビデ牧師は、代贖が最終的に「復活」と結び付くときに完全に完成する点を重ねて強調する。もしイエスの十字架が人類の罪を身代わりに負った決定的な犠牲だったとするなら、イエスの復活は「死の権勢さえも打ち破った」という神の究極的宣言となる。もしイエス・キリストが死からよみがえられなかったなら、代贖のメッセージは途中で終わってしまうかもしれない。だが実際に復活の出来事が起こったゆえに、罪と死の束縛が完全に断ち切られ、新たな命が与えられる救いの力が証明されたのだ。代贖が罪の赦しを意味するならば、復活はその赦しを受け取った者たちが得る「永遠の命」を保証する出来事と言える。 要するに、張ダビデ牧師が語る「罪と義、そして代贖の道」は、福音の骨格そのものである。罪のもとに囚われ、律法では到底解決できなかった人間が、イエス・キリストの代贖的犠牲と復活によってついに義の身分を得るに至ったという宣言だ。そしてその義を経験した人は、自分中心の生き方を脱却し、互いの重荷を担い、喜んでキャンプの外へ出て行き、苦難の中でも愛と従順に生きるようになる。この道は世の価値観とはまったく異なる「十字架の道」という逆説的なスタイルだが、それこそ真の救いの力だというのだ。 宇宙的出来事としての救いと復活 張ダビデ牧師が第三に強調するテーマは、福音が単なる個人の霊的体験や教会の敬虔生活の次元を越えた「宇宙的出来事」であるという事実である。イエス・キリストの誕生と十字架、そして復活は、特定の時空間で起きた歴史的出来事であると同時に、全宇宙と歴史のすべての局面に影響を及ぼす決定的転換点だというのだ。 彼はしばしばローマ書5章を例に挙げ、アダムひとりによって罪が全人類に広がったように、イエス・キリストひとりによって「罪の赦しと義とされる道」がすべての人に開かれたと説明する。この言葉は、イエス・キリストの救いのみわざに、人類の運命を丸ごとひっくり返す宇宙的意味が内包されていることを示す。もし私たちが福音を単に「個人的な救いの体験」や「何らかの特別な不思議な出来事」としてだけ理解するなら、そのスケールを狭めてしまうことになる、と彼は言う。 張ダビデ牧師は、この宇宙的視点をはっきりと示すために、旧約の預言と福音書に描かれるイエスのエルサレム入城の場面をしばしば関連づけて解釈する。ダニエル書7章に登場する「雲に乗って来る人の子」は、当時のユダヤ人が待ち望んでいた終末論的王、すなわち全世界を裁き治める絶対的主権者のイメージを反映している。しかしイエスは実際にエルサレムに入城される際、ゼカリヤ書9章9節の預言どおり「ろばに乗って、へりくだって」おいでになった。これは「全能の王であるが、自分の民と苦難をともにするへりくだった王」という、複合的なイメージとして成就するのである。 張ダビデ牧師は、このような姿を「神の顕現の方式」と呼ぶ。世の権力者たちは戦車や軍馬に乗って凱旋将軍のように登場し、自らの権勢と力を誇示する。しかし神の御子であるイエスは、むしろ最も低い者の姿で、最も卑しい姿で入城された。彼が指摘するのは、これは世の人々には愚かで弱々しく見えるが、神の救いの方法はまさにこの逆説の上に築かれているということである(参照:コリント第一1章)。 そして、イエスが十字架で死なれる場面は、群衆の期待とは正反対にあまりにも惨めに見えた。ローマ人にとっても十字架刑は極悪非道な犯罪者に適用される「呪いの処刑」だったし、ユダヤ人にとっても「木にかけられた者は呪われている」(申命記21章23節)という律法の文言からして、十字架刑は決してメシアにふさわしい死に方ではなかった。しかし張ダビデ牧師は、この点で「愛の王」であり「苦難を受けるしもべ」として預言されたイザヤ書53章を引き合いに出し、イエスの死は決して敗北や呪いではなく、むしろ罪と死を背負う贖い(救い)の勝利なのだと解釈する。神の全能性は人間の常識を打ち破る方法で歴史を導き、その究極の目的が愛と救いにあるがゆえ、十字架こそが栄光のしるしになるのだという。 張ダビデ牧師は特に「復活」に焦点を合わせる。もしイエスが十字架で死なれてそこで終わっていたなら、宇宙的出来事と呼ぶ根拠は弱まるかもしれない。だがイエスは三日目に死を打ち破ってよみがえられた。福音書は共通してこの復活の場面を記録し、その結果弟子たちは恐怖から大胆さへ、落胆から情熱的な証人へと変えられた。これは、死という全宇宙的かつ普遍的な限界を越えて新しい世界が開かれた決定的証拠となる。死という人類最大の敵を断ち切り、永遠の命の時代を開いたのだから、その影響は個人を越えて全宇宙に及ぶという解釈である。 張ダビデ牧師は、ホーリーウィーク(受難週)と呼ばれるイエス最後の一週間を黙想しながら、このわずか一週間の中に歴史と宇宙が圧縮されていると説明する。シュロの主日(棕櫚の主日)にイエルサレムへ入城するイエスの姿に始まり、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、十字架刑、そして復活へと至る一連の流れを追うと、人間と歴史の運命を変える救いの叙事詩が完結するというのだ。特にゲッセマネの園で、イエスが血のような汗を流して祈られた場面は、イエスが十字架への道を能動的に選ばれたことを示している。イエスはただ不当に犠牲にされた子羊ではなく、人類の罪を担い、死を打ち破るための王としての戴冠式を前に、壮絶な霊的闘いをなさったのだ。 したがって張ダビデ牧師は、イエスの死と復活が決して小さく局所的な出来事ではなく、すべての時代とすべての空間を貫く「宇宙的結晶」だという。この事実が分かるとき、信仰者は単に宗教行事に参加するレベルを越え、存在全体がひっくり返される体験をするようになる。私たちがこの世で直面する苦しみや挫折も、イエスがすでに十字架によって引き受けてくださり、その結果復活によって最終的に勝利されたのだから、どのような状況でも絶望に縛られなくてすむ、という希望を抱くことができるというのだ。 張ダビデ牧師は、この宇宙的救いの出来事が各個人の人生に「具体的現実」となるように祈っている。彼が宣教や教育の現場で一貫して強調しているのは、「福音が世界を変える」という壮大な言葉が、実際に教会と信徒の日常に適用されなければならないということだ。もし日常において福音の力を経験しなければ、宇宙的救いの出来事の雄大さも、単なる教義や理論にとどまる可能性が高い。しかし日常生活でイエスの歩まれた道に倣って愛と仕え合いを実践し、復活の力に頼るとき、共同体の内でも世の中でも「神の統治」が具現化されるような奇跡が起こるのだ、と彼は言う。 さらに、聖書が語る「新しい天と新しい地」(黙示録21章)は、復活の完全なる結論であり最終的な指向点だと張ダビデ牧師は解釈する。それは死後にのみ享受する天国にとどまらず、すでにイエス・キリストの復活によって始まった永遠の命の統治であるという。すなわち、イエスを信じることにより、私たちは今この地上においても復活の命にあずかることができ、究極的には世全体がイエスの再臨とともに完成された救いの世界へと入り込む。こうした意味で、復活はすでに成就しつつも、まだ完全には到来していない未来の領域を同時に示す「成就と緊張」を内包している、と彼は語る。 ホーリーウィークを経てイースター(復活祭)に至るまで、教会の伝統はこの過程で「十字架と復活」を中心主題として記念してきた。張ダビデ牧師は、イエスが十字架へ進む道は苦難と恥辱の道だったことを詳しく解き明かす一方で、その道が最終的には「栄光と勝利の道」という逆説的結末に至ることを強調する。イエスは正しい者としてではなく、罪人の姿で世の罪を担うために十字架刑に処せられたが、その死の場所で宇宙的な愛と救いが爆発したのである。そしてこれを信じて受け入れるすべての人間は、過去・現在・未来を問わず、イエスとともに復活にあずかることになる、と宣言する。 加えて、彼はこの復活信仰が教会共同体において具体的にどのように実現されるべきかを提示している。教会がイエス・キリストの体であるならば、教会は「復活の命」を世に示す場所でなければならない。すなわち、貧しい人々に対して憐れみや分かち合いを実践し、不正な権力や世の風潮に対して真理を宣言し、互いに仕え合い愛し合うことで、この世にはない真の和解と平和を示すべきだ。これこそ復活されたイエスに従う共同体なら当然生じる実である、と張ダビデ牧師は語る。 結論として、宇宙的出来事としての救いと復活は、張ダビデ牧師のメッセージの中で最も広大な地平を開くテーマである。人間個人の罪問題と義認、代贖による自由と喜びを越えて、この出来事は歴史と宇宙全体を再編する。張ダビデ牧師は繰り返しこの点を強調し、福音を単なる「宗教的教義」や「敬虔な知識」に縮小せず、人類と宇宙のすべてが参加する壮大なドラマとして受け止めるよう呼びかける。そしてこのドラマの核心は、イエス・キリストの十字架と復活が見せた「逆説的愛の力」である、と語る。その愛は、世のいかなる神話や叙事詩も担いきれない真の命と真理を内包しており、信じる者にとっては永遠の希望となる。 結論 第一に、「福音の核心と神の愛」では、福音を神の全面的な愛と結びつけて説明し、イエス・キリストの来臨と死、そして復活のすべてが罪深い人間を救うための神の贈り物であることを浮き彫りにする。福音こそ単なる教義や情報ではなく、命の力であり、神の愛の表現であり、誰でもこの福音を信じ受け入れる者は新しい命を得て、その愛を証しする生き方をするようになる、というメッセージが伝えられる。 第二に、「罪と義、そして代贖の道」では、人間が置かれている罪と死の実存的問題を深く考察し、律法では到底解決できないこの問題をイエス・キリストの代贖的犠牲によってのみ救われることを説く。イエスはあらゆる罪人の立場に立たれ、その血の流しと復活を通して私たちを罪から解き放ってくださったという宣言は、ローマ書やヘブライ書など聖書の多くの箇所と結びつき、強力な解放の真理となる。代贖を単なる法廷言語に閉じ込めるのではなく、イエスの自己犠牲的愛として捉え体験することによって、私たちの生き方もまた変革されるべきだという勧めが核心である。 第三に、「宇宙的出来事としての救いと復活」では、イエス・キリストの誕生、死、復活が特定の民族や歴史の一場面を越えて、宇宙全体を揺り動かす決定的転換点だと強調される。ダニエル書やゼカリヤ書、イザヤ書と福音書が交わるところで、十字架と復活がどのように神の顕現の方式を示しているのかを張ダビデ牧師は解説する。そして復活は死さえ克服された神の絶対的勝利であり、その喜びと力を信じる者は、今もこれからも永遠の命を享受し得る、と確信させる。 以上三つの軸に沿って福音を眺めるなら、結局イエス・キリストの道は愛と救いの道であり、主が示された苦難と復活はすべての時代と宇宙における唯一の希望として位置づけられる。張ダビデ牧師は、この事実を回心と信仰、そして生涯の献身へとつなげるよう信徒を励ましている。たとえ人生で試練や誘惑、絶望に直面しようとも、主がすでに歩まれた十字架と復活の道が真理であり命の道であることを堅く信じ続けよ、というのである。そのとき人の生は完全に新しくされ、福音は私たちの内面や共同体、さらには世界を変革する力となる。 要するに、張ダビデ牧師の説教は「福音とは何か」という神学的・教理的説明を超え、「その福音をいかに生きるか」という具体的実践を促す。イエスのへりくだりと従順、そして仕えと犠牲、何より代贖的な愛こそが、この地に何よりも必要な価値であり、神の国が到来するかたちだというのだ。そしてその中心にある出来事が「十字架と復活」であり、それこそが人類の罪と死の問題を根底から解決し、個人と全世界に対して新時代を切り開いた「宇宙的福音」であると、彼は力強く語る。 このメッセージは、教会の礼拝や宣教活動、信徒の霊的生活、さらには社会における教会の役割といった幅広い領域に適用可能である。十字架の愛にならい互いをケアし、キャンプの外へともに踏み出し、復活の喜びを世と分かち合うことは、決して容易な課題ではない。しかしすでにイエスが私たちにその道を示され、復活によって力を保証してくださった、と張ダビデ牧師は強調する。ゆえにこの愛と力を信じ頼る者は恐れを捨てることができ、むしろ世の闇の中でも動揺せず真理を証しする人生を送れるというのである。 結論として、張ダビデ牧師のあらゆる教えは、「福音」という壮大な主題を三つの軸―「神の愛」、「代贖の道」、「宇宙的救い」―に還元して語ることができる。この三つの軸は互いに切り離せず、ともに織り合わさって私たちをイエス・キリストの真の救いへと導く。したがって、このメッセージを聞き黙想する者は、クリスマスにイエスの来臨を喜び、受難週にイエスの十字架を覚え、イースターにイエスの勝利を讃えるとき、このすべての出来事が一つの救いの物語であることを繰り返し思い返すようになる。そしてこれは、全宇宙と歴史、そして私たちの日常を貫いて進行する神の救いのドラマが、どれほど荘厳で驚くべきものであるかを改めて実感させる契機ともなる。 このように福音は、人間の限界と罪があるにもかかわらず、罪人を最後まで愛される神のご性質を体得させ、その愛を見習って世に出て互いに仕える共同体を形成させる。代贖は、罪と罰という法廷的概念を越えて、神の子どもという新たな身分とともに真の自由と喜びを私たちに贈る。宇宙的救いと復活の出来事は、個人の問題解決を越えて世界全体に及ぶ神のご計画を明らかにする。そこにあずかる者は、すでに新しい時代を生き始めており、完成する未来を希望のうちに待ち望むのだ。 これらすべての洞察が一つに集約されるとき、私たちは張ダビデ牧師が説く福音のメッセージが、単なる理論ではなく、現実の人生のあらゆる領域を一変させる「生きた御言葉」であることを悟るようになる。結局、人間の歴史と宇宙が、自力で自らを救う力は持たないゆえに福音が必要なのである。神の御子イエス・キリストのご降誕、死、復活を通じてこそ、罪と死が克服される道が開かれ、その道を歩むすべての者に永遠の命と勝利が与えられる。これこそが、張ダビデ牧師が繰り返し繰り返し宣言する福音の核心であり、私たちすべてへの最大の招きであり、贈り物なのだ。