カナの婚礼 – 張ダビデ牧師

Ⅰ. カナの婚礼の奇跡とその象徴 カナの婚礼の物語は、『ヨハネの福音書』2章1節から11節に登場する、とても重要な本文です。ここでイエスが水をぶどう酒に変えられた最初の「しるし(表徴)」が記されています。「しるし」は、単に奇跡という言葉だけでは説明しきれない、より深い霊的意味とメッセージを含んだ出来事を指します。神学者たちはこの「しるし」を通して、『ヨハネの福音書』が伝えようとする核心的な信仰のメッセージが圧縮的に現れていると解釈してきました。特に、この奇跡が「最初のしるし」と呼ばれるのは、イエスの公の活動(宣教)の始まりを告げると同時に、神の国が到来するときに展開される栄光の祝宴を予告する性格を帯びているからです。そしてこのような解釈の中で、張ダビデ牧師がこの本文を通して強調しようとするメッセージは、「イエスによって人生の祝宴はますます豊かさを増し、水がぶどう酒に変わる奇跡が決して止まることはない」という希望へと結実します。 張ダビデ牧師によると、私たちがこの本文をよく観察するときに見出せる最初の重要な特徴は「場所と状況」です。『ヨハネの福音書』は、イエスがガリラヤのカナという地方の婚礼に招待され、参席されたことから物語を始めます。ガリラヤ、カナ、そしてナザレは互いに近い地理的特性をもつ地域であり、イエスが主に活動されたガリラヤでの働きの前哨ともいえます。福音書ではイエスが「ナザレのイエス」と呼ばれたり、人々は「ガリラヤのイエス」とも呼んだりします。そのほどイエスのアイデンティティはこの地域と密接につながっています。婚礼そのものは日常的でありながら、同時にユダヤ社会において重要な祝祭的意味をもっています。一つの家庭が築かれ、一つの家門が受け継がれる大切な儀式であるため、何日にもわたり盛大に行われるのが常です。しかしながら、この婚礼はごく普通の祝いの場では終わらず、イエスの最初のしるしが示される舞台となることで、霊的象徴が一気に強まっているのです。 ここで張ダビデ牧師は「神の国はしばしば私たちの日常のただ中で始まり、その日常を通路として神の恵みが現れることが多い」と力説します。カナの婚礼は人生で誰もが直面しうる「喜びの場」のようですが、突然の不足(欠乏)が訪れることで大きな当惑と恥辱に陥る可能性があることを示しています。つまり、「ぶどう酒が尽きた」という問題が生じたとき、この婚礼を取り仕切っていた人々にとっては、非常に重大な危機が到来したのです。ユダヤ人の伝統的な結婚慣習においては、婚礼で豊富な食べ物や飲み物を招待客に振る舞うことは欠かせません。それが足りなくなると、花婿側の不手際・準備不足とみなされかねず、新郎新婦やその家族にとっては大きな面目の失墜となります。そういう意味で、「ぶどう酒が切れた」という事実は、単に祝宴の雰囲気を壊す些細な問題ではなく、霊的に拡大して考えてみると、私たちの人生に訪れる根本的な欠乏や挫折を象徴しているのです。 イエスの母マリアが「ぶどう酒がありません」とイエスに申し上げたとき、イエスは「女の方、あなたは私と何の関係がありますか。まだ私の時は来ていません」(ヨハネ2:4)と答えます。ここで「時」という言葉は神学的に重要な含意を持っています。『ヨハネの福音書』全体においてイエスが「私の時」を言及される場合、それはしばしば十字架の死と復活、そして究極的には人類救済のための決定的な瞬間を指し示すことが多いのです。張ダビデ牧師は、この「時」の概念を、イエスのメシア的活動が頂点に達する時点、あるいは最終的に完成する神の国の栄光と結びつけて解釈します。しかし、そうした「時」がまだ到来していないにもかかわらず、イエスはこの婚礼の場で水をぶどう酒に変える驚くべき奇跡を行われます。これは、「まだ完全な時ではないものの、すでに主は欠乏と闇、絶望に陥った人々を顧みる方である」という事実を示しています。まだ「最終的なとき」ではないにもかかわらず、イエスは神の国の喜びと豊かさをあらかじめ味わわせてくださるお方なのです。 それにもかかわらず、イエスがまるで躊躇されるような返答をされた理由について、張ダビデ牧師は、「まだ私の時ではない」というイエスの表現は人間的な視点で見ると非常に冷淡に感じられるかもしれないが、実際にはイエスが地上で示される救いのドラマに関する予告だと説き明かします。私たちが置かれた欠乏がいかに緊急かつ重大に思えようとも、それより重要なのは結局、神のタイミングと大いなる救いのご計画だということです。しかし、その一方で主は、私たちの苦しみや状況を決して無視される方ではなく、必要ならば「まだ時が来ていない」場合でも、その全能の力によって私たちの人生に介入してくださいます。水がぶどう酒に変わるように、いかに不足し弱い人生であっても、イエスに出会うならば栄光と喜びに変わることができる、とカナの婚礼の「しるし」は力強く証言しているのです。 また、本件の中で登場する「六つの石の水がめ」は、ユダヤ人の潔めの儀式に使われていたものでした。ユダヤ人は律法的に汚れを取り除き、身体と心を清めるために、水で手や体を洗う儀式を行います。すなわち、この石の水がめは律法と結びついた古い慣習を象徴していると考えられます。ところがイエスは、その石の水がめにたっぷりと水を汲ませ、それが後にぶどう酒に変わるようにされました。これをめぐり、多くの神学者は「古い律法がイエスによって完成され、新しい恵みの時代へと移行すること」を暗示する出来事だと解釈します。張ダビデ牧師も同様に、この奇跡の本質を「イエス・キリストの到来によって、古い伝統や律法の影ではなく、本質である新しい契約が与えられ、真の喜びが訪れる」という福音の宣言とみなします。水がぶどう酒へと変化した出来事は、単に不足を満たした驚くべき奇跡というだけではなく、「今やイエスの内にこそ本当の祝宴、本当の喜び、本当の救いがもたらされる」という「しるし」だというのです。 イエスは下僕たちに「水がめに水を満たしなさい」と命じ、それに彼らが従順に応じたとき、水はぶどう酒に変わりました。この奇跡は、イエスご自身が自ら水の入った水がめに手を触れられて変化させたのではなく、下僕たちの従順な行いを通して現実になっています。これは弟子道(Discipleship)と従順(Obedience)の霊的原理をよく示す場面でもあります。張ダビデ牧師は「私たちの行いがどれほど微々たるものであっても、主の言葉に対する全面的な従順が起こるとき、そこに奇跡への扉が開かれる」と語ります。水をぶどう酒に変えるのは人間の力では成し得ない不可能なことですが、その不可能を可能にされるのはイエスであり、私たちはただイエスの言葉に従うことによって、その驚くべき御業の器となれるのです。しばしば教会や信仰生活の中では、「自分が一生懸命努力すれば」とか「自分にそれだけの能力があれば」奇跡が起こるのだと考えがちです。しかし、カナの婚礼の物語は「下僕たちが黙々と水を汲んだ従順」によって、イエスの全能が初めて明らかになったことを教えています。こうして、信徒たちの協力と祈りによって、教会共同体の中で新しく豊かな恵みが「しるし」として現れる可能性があるのだと、張ダビデ牧師は強調しています。 この出来事は、『ヨハネの福音書』2章11節で「イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。それで弟子たちはイエスを信じた」と締めくくられます。イエスが栄光を現し、その結果として弟子たちは一層確信をもってイエスをメシアだと信じるようになったということです。つまり、この奇跡の目的は単なる問題解決にとどまりません。人々はぶどう酒が尽きるという問題を解決され、婚礼の祝宴は再び活気を取り戻し、最後まで豊かに続けられたことでしょう。しかし、その背後には、はるかに大きな目的、すなわち「イエス・キリストが何者であるかが明らかにされ、人々がイエスを信じるようになること」が隠されています。奇跡には、不足を埋めてくれる一次的効用がありますが、最終的に奇跡が目指すのは「イエスに目を向けるように導くこと」です。そして、そのイエスを知り信じるようになった者たちは、もはや人生の祝宴が虚しさで終わらないことを悟るのです。 張ダビデ牧師は、この奇跡をめぐって「祝宴はますます良くなる(後のほうがもっと良い)」という表現をよく用いられます。世の中は一般的に、はじめは華やかで良いものを出し、時間が経つにつれてだんだんと情熱が冷め、倦怠に陥るのが常です。しかし、イエスが共におられる人生の祝宴では、その逆に、後半になればなるほど、より良いぶどう酒が現れ、最初よりもはるかに豊かな喜びを味わうことができるのです。これは私たちの信仰の方向性、すなわち「イエスにある歩みは、時が経つほど深まり、豊かになる祝宴」であるというメッセージを含んでいます。水がぶどう酒に変わる「しるし」は、単に過去のある一点で起きた外的な出来事ではなく、今でもイエスを信じる者たちにとって深遠な現実となり得ます。イエスは私たちの欠乏をまったく新しい次元の恵みで満たすだけでなく、究極的にはさらに深い栄光へと導いてくださるお方なのです。 このカナの婚礼の奇跡を通して、私たちは一つの信仰の核心的な問いを突きつけられます。「私たちの人生にイエスが臨在するとき、一体どのような変化が起きるのか」ということです。水がぶどう酒に変わるということは、私たちの日常的な労苦や手元にある材料が、キリストの力によってまったく別の価値と本質を帯びるようになることを意味します。同時に、これは終末論的な希望、すなわち『ヨハネの黙示録』21章に予告されている新天新地で開かれる永遠の婚礼の予兆でもあります。イエスは地上で一時的に「ぶどう酒」の喜びを味わわせてくださるだけではなく、やがて到来する神の国において永遠に続く完全な祝宴と喜びを保証してくださるのです。 結局、この奇跡が「最初のしるし」として紹介されたヨハネの意図は明確です。イエスが行われるすべての力としるしは、イエスこそ真の神であり、真の救い主であることを証言するためのものです。そしてそのしるしを通して、人々はイエスに栄光を帰し、イエスを信じるようになります。一方、イエスを信じる者たちは、「人生の不足がいかに絶望的でも、主のお言葉に従って進むとき、水がぶどう酒に変わる恵みの奇跡を体験できる」という信仰的確信を得ます。張ダビデ牧師は、このメッセージを一貫して説教と講義で伝え続けながら、カナの婚礼の核心精神を「霊的欠乏を霊的豊かさへと転換してくださるイエスに出会う場」と定義しています。 このように、カナの婚礼の奇跡は、ある個人や家族、あるいは共同体が単に欠乏から回復される物語を超えています。それ以上に、それはイエス・キリストの救いの働きと神の国の喜び、そして律法ではなく恵みによって生きる新しい時代の到来を示す「しるし(sign)」なのです。そしてその中心には必ずイエスとその御言葉に対する従順が据えられています。婚礼でぶどう酒が尽きるように、私たちの人生にも喜びが消え、希望が絶たれそうになるときがあります。ところが、その瞬間にイエスの声に耳を傾け、「どんなことでも、あの方が言われることはそのとおりにしなさい」というマリアの励ましのとおり、全面的な従順をもって進むならば、祝宴の家に新たな喜びが宿るのです。カナの婚礼において、最初よりもはるかに上質のぶどう酒が後に現れたように、私たちの人生も、後になるほど、より深く驚くべき恵みを体験できます。張ダビデ牧師は、これを繰り返し強調しながら、「教会共同体と信徒の信仰生活も、ますます熱く、より良いぶどう酒になっていかなければならない」と説きます。 このような観点からカナの婚礼は、信徒として生きる私たちの心の奥深くに何度も刻まれるべきメッセージを投げかけます。世の中は、時間が経つほどすべてが色あせ、結局は死と絶望で終わるのだといいます。しかし、イエスが主役となる祝宴では、時が経つほどより豊かな喜び、より成熟した愛、より溢れる恵みが与えられるのです。ここでいう「さらに良いぶどう酒」とは、単に品質や味の優秀さを意味するのではなく、人全体の変化と霊的豊かさを指します。私たちは世の基準では到底解決できない問題、たとえば死と罪の問題さえも、イエスにあって解答を得ることができます。この奇跡が「しるし」であり「象徴」である理由がまさにそこにあります。何よりも神がイエス・キリストを通して私たちのうちに臨在され、いかに苦しく絶望的な状況であっても、その中に永遠の希望を注いでくださることを教えてくれているのです。 さらに張ダビデ牧師は、「ぶどう酒が尽きる経験とは、人生に必然的に訪れる苦しみや不足の比喩であるが、この不足を通してこそ神の御業が本格的に現れるという事実を忘れてはならない」とも語ります。これは「私の弱さのうちに主の強さが現れる」と告白したパウロの言葉と同じ脈絡です。したがって信徒は、絶望が深まるほど、「すでに到来している神の国の力」がイエスを通して自分に与えられているという事実を、より強く握らなければなりません。カナの婚礼のイエスのように、今も主は私たちの小さな従順を通して、ぶどう酒が尽きた人生の場に奇跡を起こしてくださいます。それこそが、「最初のしるし」から始まったイエス・キリストの救いのドラマが今日まで続いている証拠でもあるのです。 最終的に、このすべてのメッセージが向かう結論は、「イエスによって私たちの人生は根本的に変わる」という点です。イエスに出会う前と出会った後では、人生が劇的に変化します。それは、イエスが私たちの欠乏を満たし喜びを回復させる「一時的」な恵みにとどまらず、私たちという存在を根本から新しく創り変えてくださる創造主の権能者だからです。カナの婚礼で味わった新しいぶどう酒は、最終的には『ヨハネの黙示録』21章に描かれる、新しいエルサレムで行われる永遠の祝宴の予告編といえます。水がぶどう酒へと変わる出来事は、神の国が到来するとき、私たちの朽ちる身体が復活の体へと変わり、私たちを縛りつける罪と死の権威が永遠に消え去る転換を予表しています。この奇跡を体験的に受け入れる者たちは、この地上ですでに神の国を先取りして味わいながら生きることができるのです。 一方、この理解の枠組みにおいて、カナの婚礼が与える教訓は、教会共同体の中で特に際立ちます。教会は、この地上で神の祝宴が先行して始まっている場所だといえます。聖餐を分かち合い、礼拝をささげることは、単なる宗教儀式ではなく、「尽きたぶどう酒」をイエス・キリストの恵みによって再び満たす象徴的瞬間でもあります。張ダビデ牧師は、教会がただ宗教活動を提供するところではなく、人々が真の喜びと命を享受するよう助ける「生きたからだ(キリストの体)」でなければならないと力説します。水がぶどう酒に変わる「奇跡」が実際に起こる場所、つまり傷ついた人々が癒され、絶望していた人々が希望を見いだし、罪人が義とされて生まれ変わる出来事が絶えず起こらなければならないというのです。 潔めの儀式のための石の水がめがイエスの手に委ねられたときに、驚くべき変化が起こったように、教会や信徒も私たちにあるすべてをイエスに惜しまず差し出すべきです。私たちの時間、才能、財産、そして人生の優先順位を主にお任せするとき、その地点で初めて水がぶどう酒へと変わるのです。この原理はいまも有効であり、かつての聖人や使徒だけに起こることではありません。信徒は日々の生活の中で、カナの婚礼が再現されるような「小さなしるし」を経験し得るのです。まさにそれが、「神の時はまだ完全には到来していないけれど、すでに部分的に到来している終末論的時間」を生きる信者の特権でもあります。カナの婚礼の奇跡は、イエス・キリストにあって今も有効に働いている福音の力をよく示す代表的な事例となっているのです。 結局、『ヨハネの福音書』の著者がカナの婚礼を配置した理由、そしてその物語を「最初のしるし」と呼んだ意図はきわめて明瞭です。イエスのアイデンティティとイエスがもたらす神の国の秩序を、ぶどう酒という隠喩を通して強烈に表現しているのです。イエスのおられるところには、「喜びと栄光」があります。そしてイエスが働かれるところには、不可能が可能になる恵みの出来事が起こります。その恵みを通じて主は私たちに、終末論的な希望を先取りして味わわせ、またこの喜びの福音を世に伝えるように私たちを派遣されるのです。張ダビデ牧師は、このメッセージを「あなたはこれまで良いぶどう酒を取っておいた」という宴会の世話役の驚きと結び付けて説教します。人生がだんだんしぼみ、弱くなっていくのではなく、むしろ後半に向かってより豊かになり、最終的には栄光の復活に至るというのがキリスト教信仰の核心的希望だからです。 このように、カナの婚礼の奇跡とその象徴は、単なる奇跡譚を超えて、イエスのメシア的アイデンティティと救いの働き、そして神の国の豊かさに関する重要な宣言となっています。不足と絶望ではなく、回復と命が強調されるこの「しるし」を通じて、信徒たちは一層はっきりした信仰の眼差しでイエスを仰ぐようになります。かくして、最終的には私たちの欠乏が神の豊かさによって置き換えられ、世の絶望が永遠の希望へと移されるのです。これこそが、張ダビデ牧師がカナの婚礼の本文を通して一貫して伝えている福音の核心だと言えるでしょう。 Ⅱ. 人生の欠乏とイエスにおける希望 私たちはしばしば人生を「苦海」と呼びます。「苦く辛い海」という意味で、人生に降りかかる大小の苦痛を表す言葉として用いられます。多くの哲学や文学は、人間の有限性と虚無感、そこから生じる苦痛や絶望を悲観的に描いてきました。『伝道の書(コヘレトの言葉)』もまた、時の流れと人生のむなしさを嘆きながら「空の空」と宣言します。しかしキリスト教信仰、特にカナの婚礼の奇跡が示す核心的メッセージは、そうした悲観的世界観を根本から覆します。欠乏や苦痛は確かに現実ですが、イエス・キリストの内にあって、その欠乏さえも奇跡の通路となり得ることを教えてくれるからです。そしてそこには、張ダビデ牧師が絶えず強調する「変化と希望」の神学が凝縮されています。 カナの婚礼でぶどう酒が尽きたとき、祝宴の会場は一瞬にして絶望的な雰囲気に包まれたことでしょう。この状況は、私たちが実際の生活でしばしば直面する問題を象徴します。たとえば、青年期には無限の可能性と熱い情熱にあふれているものの、年を重ね、人生の重荷が増すにつれて、だんだんと喜びや余裕が消え、最終的には死という現実が待ち受けているという認識が典型的な例です。身近にある結婚式場での祝辞やスピーチでも、多くの人は二人の長続きする幸せを祈りますが、実際には最初のときめきが薄れ、葛藤や大きな責任感が重くのしかかるという経験をすることが少なくありません。さらに『伝道の書』12章が描写する「老年に訪れる崩壊」――視力が衰え、聴力が落ち、味覚を失い、肉体的欲求までもが消えていく光景――は、最終的にすべての人間が避けられない限界を赤裸々に表しています。 しかしながら、カナの婚礼の奇跡が語る福音とは、このように祝宴が終わりかけるように見えるときこそ、むしろさらに良いぶどう酒が用意されているということです。イエスが共におられる人生の祝宴は、時が経つほど喜びが大きくなるのであって、決して小さくなりません。張ダビデ牧師は、この希望のメッセージをキリスト教信仰が最も輝く部分の一つとしてたびたび説き明かします。彼は「世の結婚式や祭りは、いかに頑張っても時の経過とともに熱気が冷めざるを得ない。しかしイエスがおられる祝宴には、絶えず新しい恵みと喜びが供給される」と言います。言い換えれば、人生の欠乏はイエスの内にあってさらに大きな恵みを味わう機会になり、時が経つほどその恵みはいっそう深く豊かになるということです。 この希望は、単に死後に天国へ行くという死後的な信仰にとどまりません。もちろんキリスト教は「死後にも命がある」という復活信仰を宣言します。しかし、「水がぶどう酒に変わる出来事」は、今この地上で神の国の実体を先取りして体験させる福音の力を可視化しているのです。これは、「生きている間にできるだけ楽しみ、死を前にしたらやむなく諦めるしかない」というような世俗的な価値観とは完全に異なります。信徒に与えられた人生は、時が経つほど闇が深まっていく旅ではなく、時が経つほどさらに明るくなり、命に満ちた道となるのです。世の人々が「結局は虚無と死しかない」と嘆くとき、イエスを信じる者は「最後の瞬間にも、もっと良いぶどう酒が用意されている」と宣言するのです。 このように、カナの婚礼が示す「欠乏から奇跡への転換」は、信徒にとって実際的な生き方の指針となります。私たちの生活の中でしばしば出くわす「ぶどう酒の尽きる」瞬間――経済的困窮、身体の病、対人関係の衝突、心の不安や憂鬱など――は、すべてイエスの介入と力を求めうる祈りの課題です。張ダビデ牧師は「祈りは天の扉を開く鍵だ」とよく述べますが、その理由は、私たちが祈るとき、初めて神の「時」を開かれた心で待ち望むことができ、同時に下僕たちが水を汲んだように、私たちも行動に移して従順する準備を整えられるからです。そしてその結果、「水がぶどう酒に変わる奇跡」を自分の目で確かめることができます。これこそ聖書が語る「信仰によって得られる奇跡の原理」です。 張ダビデ牧師は、実際の宣教・牧会の現場で、人々が自分の欠乏や苦痛を抱えて来るとき、カナの婚礼の物語をよく例示に出します。なぜなら、この物語は「まったく行き詰まった状況でも、イエスによる逆転が起こり得る」という強いメッセージを含んでいるからです。イエスを人生に招くなら、私たちの力ではどうにもならない問題でも、主権的なみ心と憐れみのうちに新たな道が開かれるのです。「奇跡」という言葉はしばしば誇張や誤解を招くこともありますが、実際、聖書の奇跡は、神が創造主であり万物の主権者であることを示す「しるし(sign)」でありメッセージだと考えられます。そして、カナの婚礼の出来事から、こうした奇跡が今日私たちの人生にも起こり得るのだという根拠を得るのです。 ここで重要なのは、イエスが水をぶどう酒に変えられる前、下僕たちが積極的に従順を示したという点です。「水がめに水をいっぱい満たしなさい」という命令を聞いたとき、彼らは文句を言わずに水を満たしました。続く「さあ、それを汲んで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」という指示にも、そのとおりに従いました。こうして宴会の世話役は、水がぶどう酒になったものを味わって驚嘆しました。この場面は、私たちの信仰生活における「従順の大切さ」を劇的に際立たせます。神が働かれる方法は、多くの場合、人間の協力を要請します。私たちが祈るだけでなく、その祈りの課題にふさわしい行動を起こすとき、すなわち信仰の実践が伴うときに、奇跡が完成されるのです。張ダビデ牧師はこれを「量的増大が質的変化をもたらす」と表現することがあります。下僕たちが水をあふれるほど満たした結果、まるでその量的な充満が質的な変容――つまり水がぶどう酒になる奇跡――をもたらしたように、私たちの祈りと従順がある臨界点を超えると、神が定められた時に驚くべき事が現実に起こるというのです。 これは「行いによる功績」と混同してはいけません。奇跡はあくまで神の主権的な賜物です。しかし同時に神は、人間の自主的な従順を通して働かれます。その従順は私たちの義を誇示する手段ではなく、神の摂理を尊び、神がお喜びになる道へ自分自身を差し出す行為です。信仰を持たない人々には「水でできたぶどう酒」の話はただ愚かに見えるかもしれません。けれどもイエスの言葉にそのまま応答する者は、その奇跡の現場を直接目撃することができるのです。『ヨハネの福音書』2章9節で「宴会の世話役は、どこから来たのか知らなかったが、水を汲んだ下僕たちは知っていた」とある通り、神のわざは従った者たちが体験して知る恵みです。 張ダビデ牧師が繰り返し強調する点はまさにこれです。世の人々は「いまだにそんな奇跡を信じているのか」と嘲笑するかもしれません。しかし、実際にイエスを信じ、その御言葉に従って生きる者たちは、少なくとも自分の人生の中で起こる数多くの「小さなしるし」を通して神の臨在を体験し、その実在を知っています。それは科学的に証明しなければならない実験データではなく、人格的な出会いと関係の中で確信する真理です。水を汲んで宴会の世話役へ持って行った下僕たちのように、私たちが御言葉に従って一歩ずつ進んでいくとき、初めて目の前で「水がぶどう酒に変わる」様子を目撃するのです。 さらに、この体験的信仰は私たちを絶望の淵から救い出します。張ダビデ牧師は「イエスを抜きにした世は、根本的に暗く絶望的だ」と診断します。死という現実は、人間がどうにも克服できない限界であり、その何物も死の問題の前では有効な解答になり得ないからです。しかしイエスがおられるところでは、死さえも新しい命への扉となり得ます。カナの婚礼の奇跡は直接、死という根源的な闇を扱ってはいませんが、その欠乏と闇の予兆を「ぶどう酒が尽きた」という出来事で象徴的に示し、イエスの介入によって、その闇が喜びの祝宴へと転換される瞬間を捉えています。これは、人生全体で起こり得る「より大いなる転換」――罪と死の権威から解放され、永遠の命へと移される救い――を予告するものといえます。 張ダビデ牧師は説教でしばしば「私たちは死の列車に乗っていたが、イエスを信じて天国を見据えた瞬間、列車の終着駅が変わった」と表現することがあります。世の論理では、人生の終わりは死という闇ですが、イエスによって私たちは天上の祝宴へと続く道に変えられるのです。死の絶望が、永遠の命という希望へと転換されます。このようにキリスト教の福音が持つ根本的な力こそ、「水がぶどう酒に変わる奇跡」を堅く信じさせる根拠となります。なぜなら、死すら克服された方であれば、何ものも私たちを永遠の絶望に追いやることはできないからです。 このような観点から、「人生の欠乏とイエスにおける希望」は、単なる心理的な慰めや宗教的ポジティブシンキングを超える深みをもっています。カナの婚礼の出来事の中で「まだ私の時ではありません」とイエスが言われたことは、やがて時が至るとイエスが十字架にかかられ、復活されることで「すべての欠乏の極み」を解決されるという予告でもあります。実際に、イエスの死と復活によって私たちは罪と死から完全に解放される道を得ました。そしてイエスが再び来られる時(再臨)に完成される神の国には、もはや「ぶどう酒が尽きる状況」そのものが存在しない、永遠の喜びの婚礼が開かれるのです。『ヨハネの黙示録』21章が描く新しいエルサレムの祝宴こそ、それを示しています。そこには涙がなくなり、死ももはや存在せず、悲しみや苦しみが再びあることはないと言われています。これこそ「さらに良いぶどう酒」が象徴するものです。 したがって、この地上で私たちが欠乏を経験するとき、それは決して虚無や失敗だけを意味しません。むしろそれを通して、私たちはいっそう切に神を求め、イエスの力を願い、御言葉に従う道へ進むことができます。そしてそこで私たちは、自分の人生の水がめに水をいっぱい汲む「従順の行い」を実践することで、水がぶどう酒に変わる神の神秘を体験し得るのです。その体験は、単に個人の満足を目的とする私的な経験ではなく、教会共同体と世界に「神が生きておられる」ことを証言するものとなります。宴会の世話役のような人々は「どこからこのぶどう酒が来たのか」を知らないかもしれませんが、水を汲んだ者たちはその秘密を知っているように、キリストを信じる信徒たちは世が知らない深い霊的現実を味わって生きるのです。 張ダビデ牧師は、これを「救われた者の大胆さ」と呼びます。私たちはもはや絶望の地点で立ちすくんだり、へたり込んだりしません。たとえ世が虚無や死へと突き進んでいると診断したとしても、イエスにあって私たちは命と栄光を目指して進めるのです。そしてこの確信を持って世に「福音」を伝えるとき、私たちは物乞いのような態度で伝道をする必要がありません。まるで托鉢に回る僧侶が喜捨を乞うようにするのではなく、「イエスがくださる命と喜び」を共に分かち合い、招くのです。相手にも「もっと良いぶどう酒」を味わうよう勧める、権威ある伝道者となることができるのです。これは「私たちが伝道することで神の国を拡大してあげる」という発想ではなく、「神がすでに成し遂げておられる豊かな祝宴に、人々を招いて連れてくる」という認識です。その結果、人々は、自分たちを苛んでいた欠乏や絶望がイエスによってどのように変わり得るかを初めて知ることができます。 こうした「欠乏と希望」の対比は、今日の教会がどのようなアイデンティティを持つべきかを再確認させてくれます。教会の内側にも欠乏があるかもしれません。実際、財政難、信徒間の対立、宣教の限界など、さまざまな問題が生じます。しかし教会が真にイエス・キリストを主としてお迎えし、その御言葉に従っていくなら、その欠乏すら奇跡へと変わる可能性があります。教会の歴史を見ても、最も困難な時期にこそ驚くべきリバイバルや改革が起こった例は数多くあります。初代教会が迫害のただ中でかえって強くなり、宗教改革期には腐敗した中世教会から御言葉が回復され、新しい教会運動が起こったように、欠乏や危機は霊的刷新を引き起こす大切な転機となるのです。張ダビデ牧師はこれを「教会は世で最も強力な組織ではなく、最も強靭な生命体である」と表現します。お金や権力ではなく、命の力と信仰によって動く共同体だという意味です。だからこそ世に向かって「嘆き」ではなく「希望」を叫ぶ使命を持っています。 人生の欠乏からイエスを通して得る希望は、時空を超えてあらゆる状況を変える根源的なメッセージです。カナの婚礼で尽きたぶどう酒がイエスの御言葉によって豊かに満たされたように、私たちの人生のさまざまな現場でも同じ原理が働きます。問題は、しばしば私たちが「ぶどう酒が切れた」事実を隠したり、見ないふりをしたりすることにあります。イエスの母マリアのように私たちが「主よ、ぶどう酒が切れてしまいました」と正直に告白するとき、初めて主が働かれます。そして「どんなことでも、この方の言うとおりにしてください」というマリアの言葉どおりに従順し始めるとき、奇跡は現実になるのです。このプロセスを通して、私たちの信仰は理論上のものではなく、生きたものとして身につきます。 カナの婚礼でイエスはご自分の栄光を現され、その結果弟子たちはイエスを信じました(ヨハネ2:11)。この構造は今も有効です。欠乏が大きいほど奇跡が明らかにされる余地が大きくなり、その奇跡を通してイエスの栄光が示され、信じる者の信仰がさらに強められます。張ダビデ牧師は、これをキリスト教信仰のダイナミズム(Dynamic)と呼び、「信仰が深まるほど、より大きな欠乏の前で、より驚くべき奇跡を体験できるようになる」と語ります。だからこそ、私たちは苦痛や苦難をただ否定的に受け止めるのではなく、神にいっそう近づく触媒として用いるべきなのです。これは決して「苦しみを美化」したり「問題を軽視」することではありません。むしろ苦しみが神を探し求める通路になり得るという事実を肯定することなのです。 また、張ダビデ牧師は同時に、信徒や宣教者たちが過度な「幸福論」や「繁栄の神学」に陥らないように注意を促しています。欠乏を扱う過程で、ひたすら「イエスを信じれば何もかも上手くいく」といった単純化されたメッセージを伝えるなら、かえって人々を落胆させる危険があります。というのも、現実にはクリスチャンであってもときに失敗し、病に苦しみ、経済的困難に直面することがあるからです。しかし、カナの婚礼の奇跡は「この地上でただちに私たちのあらゆる問題がなくなる」ことを保証するものではありません。それよりも、「祝宴が終わりかける絶望的な瞬間であっても、イエスは決して私たちを見捨てない」という保証を与えてくれるのです。そしていつでも「私たちの欠乏を満たしてなお余る、さらに良いぶどう酒をくださることができる方」がイエスであることを教えてくれます。ゆえに信徒は、何でも楽観視するのではなく、欠乏や痛みを客観的に認めつつも、それをイエスに訴え、ゆだねる「信仰の姿勢」を学ぶのです。 このようにカナの婚礼の奇跡は、「人生の欠乏とイエスにおける希望」というテーマを最も劇的に示す本文の一つです。水がぶどう酒へと変わる転換は、すなわち「絶望から希望へ、死から命へ」と続く転換を暗示しており、イエスが信仰共同体の中でいかなるお方なのかをはっきり刻印します。そしてこの出来事は、単に過去のある時点で起きた歴史的出来事ではなく、今も聖霊の働きの中で同じ原理が再現され得るものです。教会がこの真理をしっかり握るとき、世の人々から見れば欠乏だらけの共同体に見えたとしても、実際には「もっと良いぶどう酒」を生み出し続ける神の国の大使館となるのです。張ダビデ牧師は、この点を「教会は希望を生み出す場所というより、すでに与えられた希望を証しし、分かち合う場所だ」と表現します。なぜなら、希望は私たちが創り出すものではなく、イエスがすでに約束してくださったものだからです。 カナの婚礼は、イエスの宣教がいかなる性質を帯びているかを象徴的に示す代表的な序幕です。「最初のしるし」という名称は決して偶然ではありません。先に述べたように、この「しるし」は私たちに「絶望は終わりではなく、新たな恵みの始まりとなり得る」という洞察を与えてくれます。人生を歩んでいると、私たちの予想や準備がまったく役に立たないほど突然で深刻な欠乏が襲ってくることがあります。けれどもイエスを信じる者たちにとって、それは決して最後ではなく、むしろ神の栄光が現される契機になり得るという信仰的確信が与えられています。だからこそ、私たちもマリアのようにイエスに「ぶどう酒がありません」と申し上げ、下僕たちのように「何でも言われたとおりに行う」従順を実践することができるのです。そのとき、私たちの人生のただ中で水がぶどう酒へと変わる恵みが現実のものとなります。 張ダビデ牧師が強調するように、この希望こそが教会と信徒が世に提供できる最も尊い贈り物です。世は絶えず「ぶどう酒が尽きる」経験、すなわちあらゆる欠乏や不安に苛まれています。人々はそうした欠乏を忘れるため、一時的な快楽や依存症に陥ったり、極端な選択によってすべてを放棄したくなったりします。しかし、教会はきっぱりと「まだもっと良いぶどう酒が残されている」と叫ばなければなりません。そしてその叫びが空虚にならないように、教会共同体の中に実際に奇跡が起こる現場が必要です。たとえば、不可能に思えた人間関係の回復や癒しが現実に起こり、絶望していた人が希望を取り戻す物語が教会の内にあふれなければなりません。そのとき世の人々は「どこからこんなぶどう酒が来たのだ」と驚き、秘密を知る者たちは「イエスの言葉に従ったら、水がぶどう酒になったのだ」と証しするようになるのです。 人生の欠乏とイエスにある希望は、切り離せないテーマです。私たちは皆、欠乏の中を生きていますが、イエスにあって永遠の豊かさへと進めることを忘れてはなりません。カナの婚礼でイエスの最初のしるしが示したように、イエスはいつでも私たちの想像を超えた方法で、最高のものを最後に出してくださる方です。ですから、今の痛みや挫折は永遠に続くものではなく、主の奇跡はいつでも私たちのもとへ、さらに驚くべき、さらに豊かな形で訪れるのです。このメッセージを抱いて生きる信徒は、欠乏の前で揺らがず、世に向かって大胆に福音を語り伝えることができます。これこそが、張ダビデ牧師がカナの婚礼本文を通して一貫して宣べ伝えている福音の精髄です。そしてこの福音は、今この瞬間にも私たちの中で生きて働き、個人と教会共同体を変え、「もっと良いぶどう酒」の祝宴を絶えず繰り広げるよう導くのです。 www.davidjang.org

患難の中でも味わう希望 – 張ダビデ

1. 義と認められた者が受ける平和と恵み  張ダビデ牧師は、ローマ書5章3節から5節に至る前に、まず1節と2節を注視すべきだと強調する。ローマ書5章1節と2節は、イエス・キリストを信じることによって義と認められた者が、どのような恩恵を受けるかを示している。1節では「私たちは主イエス・キリストによって神との平和を得ている(平安を持とうではないか)」と宣言されており、これは義と認められた信者が過去の罪責から解放され、神との平和を得たという事実を告げている。 張ダビデ牧師は、「罪責に囚われ苦しんでいた人間が、いまやその罪から自由を得たこと、そして神とともに真の平和を享受できるようになったことが、義と認められた者の第一の祝福だ」と説明する。これはキリストにあって罪責を脱ぎ捨てた私たちに新たに与えられる和解、すなわち神の御心と共に歩むことのできる平和を指している。パウロは「私たちは信仰によって義と認められた」(ローマ5:1)という前提の上に、キリスト・イエスを通して得たこの「平和の祝福」を告げ知らせているのだという。  さらに張ダビデ牧師は、ローマ書5章2節の「このキリストによって、私たちは信仰によって今立っているこの恵みの中に導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」という箇所に注目する。ここで言われる「恵みの中に導き入れられた」という表現は、罪の中にいた人間には到底近づけなかった領域――たとえば至聖所のような聖なる場へ、大胆に入って神を礼拝できるようになったことを意味する。これを解説しながら張ダビデ牧師は、「罪人であった私たちが自由を得たならば、その次は王の御前へ、神の臨在の前へ進む力を得たのではありませんか?」と語る。旧約時代には聖所と至聖所に仕切られた神殿の制度のもと、誰もが勝手に至聖所へ入れるわけではなかった。だが、今やキリストの代赎の働きによって罪が清められたので、神の臨在のもとに存分に近づくことができるようになったというわけである。パウロはこれを「この恵みの中に導き入れられた」と表現し、信仰によって到達したこの聖なる領域で私たちは神の栄光を仰ぎ見て喜ぶ。 張ダビデ牧師は「狭い港から船が出て広い海へと乗り出すイメージも悪くないが、むしろ荒波の海から逆に穏やかな港へ戻って錨を下ろす安定感のほうが、より正確な比喩かもしれない」とも付け加える。このようにキリスト者の人生は、罪責に押し潰されていた状態から解放され、神の平安のうちに留まり、さらに恵みの場へと入り神の栄光に希望を置いて喜ぶ生き方となる。 しかしながら、張ダビデ牧師はローマ書5章1節と2節に示されるこの驚くべき恵みがすべてではないと語る。パウロは続くローマ書5章3節で「そればかりでなく(それだけではない)」という言葉で話を始める。これは「義と認められた者が受ける祝福はまだ他にもある」ということを暗示している。それはすなわち「患難の中でも喜ぶ」という宣言である。私たちが義と認められ、罪から解放され、真の平和を得たのだから、人生の道のりはすべて順調に思えるかもしれない。だが、パウロはキリスト者の人生にも多くの患難が待ち受けていることをはっきりと知っていた。 張ダビデ牧師はここで、「イエスを信じ、神の子どもとなったからといって、これからは良いことばかりが起こるのだ、というのは聖書の教えとまったく合致しない」と強調する。イエスも山上の説教で「狭い門から入りなさい」と仰せられ、使徒の働き14章22節ではパウロが「私たちが神の国に入るには多くの患難を経なければならない」と明言している。これは私たちが信仰の道を歩む過程で必然的にぶつかる葛藤と苦しみがあることを示している。重要なのは、キリストの外にいる人々にとって患難は患難で終わってしまうが、信仰の内にある者にとって患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み、そして最後にはさらに堅固な希望へ導かれるという真理である。  パウロはローマ書5章3節で「私たちは患難をも喜んでいます」と断言する。世の目から見ると患難は決して喜ばしいものではない。しかし張ダビデ牧師は、ここにある深い逆説に注目する。信仰によって義と認められた者にとって、患難はもはや破滅や絶望ではなく、その内に忍耐を作り出し、最終的に私たちを鍛え上げ、より高い段階へ引き上げてくれるからである。張ダビデ牧師はここで「種を蒔く」比喩を用いる。良い土地に蒔かれた種が成長し、30倍、60倍、100倍の実りを結ぶためには、忍耐の時間が必要である。一瞬で実がなるわけではないように、信仰の道にも忍耐の期間があってこそ完成に至る。だからこそローマ書5章4節でパウロが「忍耐は練達を、練達は希望を生むと知っているのです」と述べる背景には、神が私たちの魂を段階的に鍛え、より大きな栄光へ導く摂理があるのだ。  では患難は無駄なのかというと、決してそうではない。聖書のさまざまな箇所でも、同じメッセージを見いだすことができる。たとえばヤコブの手紙1章2節でヤコブは「さまざまな試練に遭うときは、それをこの上ない喜びと思いなさい」と言う。これは、いま受けている試練が無意味に私たちを苦しめるのではなく、私たちの信仰を強固にし、完成へと導くという確信に基づく言葉だ。またペテロの手紙第一1章6節、7節でも「さまざまな試練のゆえにしばらくの間は悲しまなければならないでしょうが、むしろ大いに喜んでいます。あなたがたの信仰が確かなことは、火で精錬しても消えてなくなる金よりも尊いのです……」と述べており、患難の中で受ける練達を尊ぶべきことを強調している。張ダビデ牧師はこれを解きほぐして「苦難が深まるほど、私たちは神の助けを切実に求めるようになり、その過程で『神だけに頼る方法』を学ぶのです。ゆえに患難は、愛する者に与えられた神の尊い訓練なのです」と説明する。  このように、張ダビデ牧師が注目するのは、患難自体が尊いということではない。また患難そのものに私たちを生かすような神秘的な力があるわけでもない。ただ、信仰の内にあり、すでに「義と認められた」信者に臨む患難が、その人をより成熟させ、さらに希望へ導くという事実である。コリント人への手紙第二1章でパウロはアジアで受けた患難について「力に余るほどの辛い苦しみに会い、生きる望みさえ失うほどで、死刑宣告を受けた思いでした」と告白する。それでもパウロがそこから「神の慰め」を発見し、「これは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせる神だけに頼るようになるためでした」という驚くべき悟りを得ている。張ダビデ牧師は「パウロの言う患難は、パウロ一人が受けた極限の苦痛というだけでなく、そのあらゆる極限の状況の中で神の国を見つめる信仰の視点を示している。信じる者の内にある患難とは、究局的には神のより大いなる計画(greater plan)へ私たちを導く過程なのだ」とまとめる。  このように、ローマ書5章3節以下で語られる「患難の中でも喜ぶ」という宣言について、張ダビデ牧師は決して単純な楽天主義や、現実に鈍感になる態度として誤解してはならないと指摘する。聖書が語る「患難の中でも喜ぶ」とは、現実の困難や悲しみを無視したり、見ないふりをすることではない。むしろ「究極的には私たちは希望へと向かっており、今の患難はその希望へと至る道に不可欠なプロセスである」と信じることを促しているのだ。だからこそ張ダビデ牧師は、この箇所を「最も真実で、最も現実的な喜び」と表現する。人間的には苦しく辛い時間を生きざるを得なくても、義と認められた者に保証されている栄光の未来があるからこそ、そしてその未来に対する確信が現在を圧倒するからこそ、患難の中でも喜ぶことができるのである。  もちろん私たちの罪性はこれを容易に受け入れない。張ダビデ牧師は、信仰によって義と認められているにもかかわらず、依然として「無情さ、感謝のなさ」が私たちのうちに残っていることが多いと指摘する。本当に法廷で無罪が宣言された人が歓声を上げて喜ぶのは自然なことだが、霊的には「義と認められた」という恵みがそれ以上に驚くべき出来事であるにもかかわらず、私たちはすぐ慣れてしまって平然とした態度に陥りがちである。そこで張ダビデ牧師は、マタイの福音書11章でイエスが「無情な時代」を嘆かれた場面に言及する。「笛を吹いても踊らず、嘆いても胸を打たない」というたとえは、主の恵みと愛が注がれても感激せず、悔い改めるべき状況が来ても心が動かない様子を指摘している。しかしローマ書5章が示す結論ははっきりしている。「私たちが患難の中でも喜ぶ」という事実そのものが、義と認められた者にとって明白な特徴として現れる、ということだ。ゆえに「患難の中でも享受するこの喜びこそが、救われた者の証であり、神と平和を得た者の印なのだ」と張ダビデ牧師は繰り返し強調する。 2. 患難の中の忍耐と練達、そして希望  張ダビデ牧師は、ローマ書5章3節から5節までの核心は「患難 → 忍耐 → 練達 → 希望」という構図に集約されると見る。これはキリスト者の実際の信仰の旅路を簡潔に示す動的な流れだ。ただ「患難が起こったら希望を持てばよい」という省略された図式ではなく、間に「忍耐」と「練達」という重要な段階を必ず通ることになる。パウロが「患難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むと知っているのです」(ローマ5:4)と言った際、その言葉は「どんな患難も自動的に希望へ直結する」という意味ではなく、信仰の中でこのプロセスを受け入れ、歩む者に与えられる結果であることを示唆している。  忍耐は簡単に言えば「こらえ、耐え忍ぶこと」だが、聖書における忍耐は、受動的で屈辱的なものとは異なる。張ダビデ牧師は「忍耐は、未来への信仰なくしては不可能です」と語る。種を蒔く農夫が忍耐をもって実りを待つように、キリスト教信仰でも「たとえ今は目の前が行き詰まっていても、神が与えてくださる実りを思い描きながら待つ」という姿勢こそが忍耐の本質だという。だからこそ私たちは、現在の困難かつ辛い状況においても、こらえながら希望を捨てない。なぜなら「信仰とは、望んでいる事柄を確信すること」(ヘブル11:1)であり、その「望んでいること」を確信しているからこそ喜んで待てるのである。張ダビデ牧師はこれを「やがて現れる栄光が現在を呑み込んでしまう」と表現する。すなわち、将来に現れる栄光と比べれば、今の苦難はあまりにも軽く一時的だという事実に目が開かれると、人は苦難を単なる苦難としてだけでなく、「神の御業の中で必要な過程」として見るようになるというわけだ。  忍耐を通して得られるもう一つの益が「練達」である。張ダビデ牧師は練達を解き明かしながら、「土から金を精錬し取り出すように、私たちの信仰もときに炉のような試練を通して、あらゆる不純物が取り除かれてはじめて真の精金となる」と強調する。ペテロの手紙第一1章6節、7節で語られている「あなたがたの信仰が確かなことは、火で試される金より尊い」という箇所も同じ趣旨である。またヘブル書12章8節以下では、懲らしめを受ける者こそ真の子であり、懲らしめがない者は私生児だという厳しい警告があるが、これは「愛されているからこそ神は必ず練達の機会を与えられる」という意味である。張ダビデ牧師は、「私たちは練達そのものが辛いから避けようとするが、実はその練達こそが私たちを真の子へと育て上げるための、神の必然的な訓練方法なのです。信仰に深みや成熟が生まれるには、ある時点でどうしてもこの熱い炎を通過しなければならない」と主張する。  練達は私たちをさらに清く、かつ強固にする。張ダビデ牧師は「渋柿が熟して甘くなるように、生臭い魚も適切な調理過程を経て美味しい料理になるように、私たちの内面にある荒々しい部分は、絶えず取り除かれ磨かれなければならない」と説明する。私たちの内にある激情や怒り、無分別などが徐々に神の御前で練られ清められてこそ、神が喜ばれる人として立てるようになるのだ。モーセを例に挙げれば、もしミディアンの荒野での40年の練達がなければ、民族の指導者としては十分に用いられなかっただろうと想起させ、「荒野で羊を飼う40年の間にモーセの激情と暴力性は、練達を通して柔和で穏やかな性格へと変えられていった。こうして彼は出エジプトを担う備えができたのです」と説く。ただし、モーセが「岩を二度打った」際に激情を結局抑えきれず、カナンの地に入れなかった逸話にも言及し、人が最後まで耐え忍べないときにどのような結果を迎えるか警鐘を鳴らす。  こうしたプロセスを経て最終的に実を結ぶのが「希望」である。信仰の中で患難を経験し、それが私たちに忍耐を生み、その忍耐が私たちを練達し、最後には希望へと導く。張ダビデ牧師は「希望という言葉は漠然とした楽観的思考ではなく、神が成し遂げられる未来の栄光に対する確信」であり、これこそが信仰者の人生を支える最も強力な原動力だと力説する。そしてローマ書5章5節にある「この希望は失望に終わることがありません」という宣言に特に注目する。当時パウロが獄中に囚われ、教会は迫害を受け、指導者が殉教する状況では、一見、希望などまったく見いだせないように思われたかもしれない。実際、テモテへの手紙第二を見ると、パウロが投獄された後に人々が去っていく痛ましい事実もあったし、彼を恥じる者たちもいた。それでもパウロは「希望は失望に終わらない」と大胆に言い切る。なぜなら、この希望は人間が作り出した不確実な幻想ではなく、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」(ローマ5:5)という根拠があるからだ。  張ダビデ牧師はここで「聖霊は私たちの感情をただ高揚させる力ではありません。聖霊は神の愛を実際に私たちの心へ注ぎ、いかなる状況でもその愛を思い出し、しっかりと掴むことができるようにしてくださるお方なのです」と説く。世の困難や患難に直面しても後ずさりしない力、そこには「聖霊による神の愛への確信」が最大の原動力としてある。だからこそパウロは「人間的に見れば、私が牢に囚われていることは恥かもしれない。しかし私は恥じない。私が信じているお方を知っており、その方が私の委ねたものを守る力をお持ちだと信じているからだ」と確信をもって語ることができた。張ダビデ牧師はテモテへの手紙第二での「あなたは私が鎖につながれていることを恥じてはならない」というパウロの嘆願に注目し、患難に直面している牧会者、あるいは苦難の只中にいる教会を見る際、どのような態度を取るべきかを学ぶことができるという。福音が世で当面は華やかな栄光を約束していないとしても、聖霊による神の愛の確信が私たちを最後まで支えてくださるという事実を忘れてはならないのだ。  結局、ローマ書5章1節から5節が描く姿は、次の結論点へと導かれる。「こういうわけで私たちは信仰によって義と認められたのだから」という前提から始まり、罪責の束縛と決別して神との平和を得る。さらに恵みのうちにとどまりながら神の栄光を仰ぐ喜びを得る。そして日常のさまざまな患難でさえ、キリストにあっては忍耐と練達を通じて最終的には希望を生み出す材料となる。そしてその希望が無駄に終わらないのは、聖霊によって私たちの心に注がれた神の愛が確かな保証となるからだ。そこで張ダビデ牧師はローマ書5章5節を指して「この一連のプロセスを可能にする決定的な実体が『聖霊によって注がれた神の愛』なのです。これがなければ、患難はやはり患難として苦しいだけであり、忍耐はただの辛い我慢に終わるでしょう。しかしこの愛が注がれているからこそ、私たちは患難の中でも喜び、どんなに不可能に思える道でも歩んでいくことができるのです」と結論づける。  さらに、この希望の土台を「すでに私たちが信仰によって義と認められたからだ」というところに求める点も重要だとする。張ダビデ牧師は、「私たちの救いと義と認められた事実が揺るがぬ基盤となるからこそ、いかなる試練も究極的な断罪や破滅にはなり得ない」というパウロの確信を浮き彫りにする。もしまだ自分が罪責の中にあると思うなら、患難は神が下す刑罰のようにしか思えず、その中で忍耐と練達を学ぶ代わりに敗北感と自暴自棄に陥りやすいだろう。しかしローマ書5章1節でパウロが断言するように、私たちは「義と認められた者」として神と和解したのだから、どのような患難も「神が私たちを愛しておられない」という証拠にはならない。むしろその反対で、神が私たちにより良いものを与えるために私たちを練られている過程だと正しく解釈すべきである。だからこそ、私たちがこの患難に臨む姿勢はまったく変わってくる。張ダビデ牧師は「義と認められたという事実だけでも、私たちは十分に喜ぶ資格があり、その喜びが私たちの現在の苦難と栄光に満ちた未来を貫いていく力になるのです」と語る。  最終的にローマ書5章3節以下の本文が伝える核心的メッセージはこうだ。「あなたがたには患難が訪れる。しかしそれによって落胆してはならない。その患難は忍耐を生み、忍耐は練達を生じ、練達はついにより大きな希望へと導く。そしてその希望は決して失望に終わらない。なぜなら、神はすでに聖霊によってあなたがたの心に神の愛を注いでおられるからだ」。ここに張ダビデ牧師が付け加える「私たち信仰者が日常生活の中で改めるべき視点」がある。世的な視点は患難を災いとしか見ない。だが、信仰の視点は患難を通した練達を見る。この根本的な解釈の転換が、私たちに「患難の中でも喜ぶ生き方」を可能にする。そしてこのような姿勢こそ、世と区別された「義と認められた者」の真のアイデンティティなのだ。  張ダビデ牧師は最後に、ローマ書5章5節で語られる聖霊の注ぎについて強調し、これが単に何らかのしるしや賜物だけを意味するものではないことを想起させる。「聖霊が神の愛を私たちの心に注ぐ」とは、本質的に「イエス・キリストの十字架によって証明された神の愛を、全人的に悟り、体験させる」という意味だ。ゆえに患難や試練が襲ってきても、その愛の確信があれば決して崩れ落ちることはない。私たちの心はその愛によって満たされているからだ。張ダビデ牧師は、これこそ「一見遠くにおられるように感じる神を、実際に近く感じさせ、福音の真髄が人生の中で根付くようにするカギ」と解説する。もし私たちの心に神の愛が十分に注がれていないなら、教理的な知識や信仰の形式がいくら厳かであろうとも、患難の前では簡単に揺らいでしまうだろう。しかし聖霊が注いでくださる神の愛に満たされているなら、獄中にあってさえパウロが「私は恥じない。私が信じるお方を私は知っており、また私が委ねたものを守る力があると確信している」と歌ったように、いかなる状況でも神と共にある喜びを享受できる。  これに関連して張ダビデ牧師は、実際の信徒たちの体験談を分かち合うことを好む。彼が牧会する地域教会でも、多くの患難が襲ったとき、人々は動揺した。ときには財政的な危機、人間関係の衝突、世からの非難など、さまざまな形の「狭い道」があった。それでもそのたびに「神は別の扉を開かれるだろう」という確信を手放さなかったという。「最後まで耐えなければならない最も苛酷な時期にこそ、むしろ希望がいっそう鮮明になる」という証言を信徒同士で共有しながら共に耐えた結果、驚くべき回復と成長が何度ももたらされた。こうした証しは、パウロが説いた「患難が忍耐を、忍耐が練達を、練達が希望を生む」という言葉を実際に証明するものだった。そしてそのように現実において結果が現れると、あらためて「希望は決して私たちを失望に終わらせない」という事実を確認することになる。張ダビデ牧師は「牧会の現場で向き合う患難は決して甘くないが、それによって教会が滅びるのではなく、かえって教会を鍛え、信徒たちの信仰を精錬する機会となることがあった」と振り返る。  結局、これが信仰の逆説である。患難は私たちを打ち倒すために来るように見えても、義と認められた者にとっては、その患難が忍耐を生み、忍耐は練達を通して私たちの信仰から不純物を取り除き、ついにはより大きな希望と神の栄光へ向かわせる。そしてその希望が失望に終わらない理由は、神がすでに聖霊によって私たちの心に注いでくださった愛があるからだ。ゆえに張ダビデ牧師は「これほど偉大な恵みと愛のうちに生きる私たちが、どうして患難を単なる患難としか見ないでしょうか。むしろその患難を越えて、もっと大きな神の摂理を見るようになるので、悲しみの中にも真の喜びがあり、心の内には揺るぎない平安があるのです」と総括する。  こうして本文の流れを整理すると、まずイエス・キリストを信じて義と認められた者は過去の罪責から解放されて平和を得、神の栄光を望む希望の中に生きる。同時に人生の環境の中で多くの患難が襲ってきたとしても、それは私たちを落胆させたり廃墟へ追いやるのではなく、かえって忍耐と練達を通じて最終的に希望へと導くプロセスとなる。そしてその希望は無駄にならない。聖霊によって注がれた神の愛が私たちのうちに現実として存在するからだ。張ダビデ牧師は「どんな患難も、どんな試練も私たちを永遠の破滅へと追いやることはできません。むしろ神の子どもであるからこそ受ける必然的な過程であり、主が私たちを苦難へ追い込むときには必ず慰めてくださり、立ち返らせてくださり、新しい道を開いてくださる善なるご計画があります。それを信仰によって受けとめるならば、患難の最中でも私たちは喜ぶことができるのです」と結論を下す。  このように張ダビデ牧師は、ローマ書5章3節から5節を解釈する際、信徒の実際の生活に密接に適用される真理を引き出そうと努める。「日々直面する無数の問題に対して、信仰は一体私たちに何をもたらすのか?」という問いに対し、彼は明確な答えを提示する。すなわち、義と認められた私たちはすでに神との平和を享受しており、その関係の中でどんな苦難や逆境が訪れようとも、必然的に忍耐と練達を経て、いっそう確固たる希望を抱くに至るのだ。そしてこの希望は決して私たちを失望に至らせない。なぜなら、それは人間が生み出した幻想や誤解ではなく、聖霊によって私たちの心に神の愛が注がれるという実質的な経験に基づいているからだ。  ローマ書5章の前半に示されるメッセージは、信仰者の歩みが「神の栄光だけを見て生きるからすべてがバラ色」というような甘い幻想ではない。荒野のような人生を通り抜けねばならないし、時には投獄され、蔑まれる状況もやって来る。それでも私たちの内に働く聖霊の内的な満ち溢れ、すなわち神の愛への確信は、「どんな境遇にあっても揺るがない平安」をもたらす。だからこそ、私たちは患難の中でも喜び得、決して途中で萎縮したり、恥じたりして引き返すことがない。これこそパウロが語る福音の力であり、張ダビデ牧師が「理論を超えて、体験として掴むべき真理」と強調する中心点である。  患難が私たちを襲うとき、世は「すべてが失敗に終わった」と簡単に断じる。しかし信じる者にとって、患難は「新たな飛躍の出発点」となることがある。張ダビデ牧師は、神が愛する者たちをより完全にするため、ときに「荒野」へ導かれると語る。このとき荒野は、神の愛と臨在をいっそう深く体験する場であると同時に、自分の中にある不純物を取り除く練達の場ともなる。結局、見捨てられたかのように思える荒野のただ中でこそ、私たちは「神だけに頼る道」を学ぶ。そしてその結果としてもたらされるのが、「さらに深められた信仰、そして決して失望に終わらない希望」なのである。これがローマ書5章の原理だ。  さらに張ダビデ牧師は、現代を生きるキリスト者に対して、この御言葉が「教会の中だけで使われるユートピア的な言葉」で終わらないためには、実際に患難を直視したときどのように反応するかを自省しなければならないと助言する。患難が来たとき「なぜ私にこんな試練が?」と不平ばかり言うのか、それとも「この中にも神のより深い御旨があるはずだ」と忍耐の態度を取るのか、その差こそが実践の分かれ道になるのだ。張ダビデ牧師は「不平と絶望に陥るのは世の論理であり、信仰はその絶望の中でただ希望を探すのでもなく、すでに内なる人に種として宿っている聖霊の御業によって確信をもって前進することです。パウロも獄中で苦難を負う間、決して恥じたり諦めたりしなかった。そうして私たち信徒も『神の愛が注がれている』という事実ゆえに恐れを振り払い、患難の中でも喜ぶことを学ぶべきなのです」と語る。  張ダビデ牧師がローマ書5章1節から5節を通して伝えようとするメッセージは明快である。第一に、信仰によって義と認められた者は罪責から解放されて神との平和を享受し、その関係のうちに真の安息と栄光の喜びを見つめる。第二に、それでもその道に患難がないわけではない。キリスト者の生もまた狭い門を通らねばならず、使徒の働きに登場する初代教会やパウロのように多くの試練や迫害に遭うこともあり得る。しかし、その患難は私たちを打ち壊すのではなく、忍耐を育て、忍耐が練達をもたらし、練達が堅実な希望を生み出す。そしてこの希望が決して空しく終わらない根拠は、聖霊によって私たちの心に神の愛が注がれていることにある。ゆえにどんな状況でも恥じる必要はない。こうした文脈で「患難の中でも喜べ」と言うパウロの言葉は、少しも空疎なスローガンではない。それは聖霊によって与えられる実際的な力であり、信仰を持つすべての者が味わうことのできる喜びとなる。  張ダビデ牧師はこのローマ書5章の原理を教えながら、「私たち一人ひとりの人生で本当の患難に遭遇するとき、その患難をどう解釈するかこそが私の信仰の現状を表す」と語る。もし患難に直面したとき「神は私を見捨てられたのでは?」と絶望してしまうなら、まだ義と認められた者としての確信が十分ではないか、あるいは聖霊による神の愛を実際に味わっていない状態かもしれない。しかし「いまの患難も主のご計画のうちにある。この患難が忍耐を生み、やがて練達を経て、さらに大きな希望へと導かれるだろう」と確信をもって祈るなら、ローマ書5章で語られる救われた者の人生の実が実際に現れることだろう。張ダビデ牧師はこれを「使徒パウロが自ら証言した道であり、初代教会の信徒たちが命を懸けて歩んだ道」と評し、この道こそ真の弟子としての歩みだと力説する。  ローマ書5章3節以下に示される福音の力は、単なる感情的な慰め以上のものである。それは私たちがどんな状況にあっても神への信仰を失わずにいられる「堅固な現実」である。聖霊の力によって神の愛が心に注がれているという事実は、患難や試練が押し寄せても、心の奥底から湧き出る慰めと喜びの泉が枯れないことを意味する。そしてその結果こそが、「患難の中でも喜んでいます」という生き方に現れる。張ダビデ牧師は「この御言葉を黙想し続けると、いったい誰がこの愛から私たちを引き離せるのかと語るローマ書8章のパウロの別の告白が自然に思い出されます。本当に義と認められ、聖霊の内住を体験した人にとって、どんな困難も究極的破滅にはなり得ません。むしろさらに堅い信仰と確固たる希望へと導く道となるのです」と結論づける。  要するに、張ダビデ牧師がこの本文を説き明かす際の中心目的は、信徒たちに「すでに得た救いの喜びと、患難のただ中で経験する練達のプロセスとを絶対に切り離して考えないように」ということを伝えることである。患難をただ避けようとしたり、患難に出会うと信仰の本質が揺らぐ人々に対して、ローマ書5章3節から5節は明確に語っている。「その患難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むのだ。そしてその希望は決してあなたを失望させはしない。なぜなら神が聖霊によってすでにあなたの心にご自身の愛を注がれているからだ」。この偉大な愛への確信こそが、本当の喜びと大胆さを与える根源である。この御言葉を握る信徒たちにとって、患難も恐れも絶望も、もはや究極的な挫折の理由にはなり得ない。義と認められたのだから、すでに救われた者の地位を得たのだから、心を尽くして喜び感謝せよというのだ。そしてその道のりの中で、神がいかに私たちの信仰を練られ、より大きな希望へ導かれるかを体験せよというのである。  パウロがローマ書5章で展開する「患難の中でも喜ぶ」という御言葉は、張ダビデ牧師が常に強調してきた「神の主権と愛への絶対的な信頼」が前提になるときにのみ可能となる。私たちには十分に理解し尽くせない神の摂理があり、時に私たちを未知の道へ導かれるが、神の知恵と善良さを信じるがゆえに私たちは怖れない。その信頼が患難を通過していく中で忍耐を生み、忍耐の実が練達を経て最終的に希望へと結実する。そのとき私たちは感謝と賛美を捧げざるを得なくなる。そしてこうして神の栄光にあずかることは、人間的な誇りではなく、すべて神の恵みによるものである。この恵みを受けた者として、「だからこそ今は神と平和を得ているゆえ、どんな患難でも喜ぶ」という驚くべき宣言が私たちの人生に実際に成就する。それこそ聖書が語る福音の力なのだ。  こうして張ダビデ牧師は、ローマ書5章3節から5節を通して、救われた者の現在的な喜びと未来的な希望、そしてそれらの間に存在する患難と練達の緊張関係を一望できるよう案内してくれる。「イエスを信じればすべてうまくいく」という表層的な解釈ではなく、「イエスを信じて義と認められた者にとって、患難はもはや刑罰ではなく成長のための道具だ」という聖書的な解釈を提示する。そしてその道を歩む中で私たちが落胆せずにいられる理由こそ、「聖霊によって注がれた神の愛」にあると力説する。世が何を言おうと、目の前に荒波が押し寄せようと、すでに神と平和を得ており、聖霊の内住を有する信者は決して破滅しない。むしろそうした苦難を通じて、より強められ、さらに成熟し、最後には「希望は私たちを失望させない」という真理を体験することになるのだ。  ローマ書5章3節から5節に示されるメッセージは、患難の中でも喜ぶことができる根拠が、単なる楽観的な態度や感情的な慰めではなく、義と認められた救いの確信と、聖霊の注ぎによる神の愛への絶対的な信頼にあることを教えてくれる。張ダビデ牧師はこれを「救われた者の特権」と呼び、もし私たちがこの特権を現実に享受できていないとすれば、それは決して福音自体の欠陥ではなく、私たちの「不十分な信仰と御言葉への無知」に原因があるのだと指摘する。逆に言えば、福音を正しく知り、信仰の上に立つ者は、どんな患難ももはや怖れることなく、それを未来の栄光へ備えるプロセスとして喜んで受け入れることができる。これが張ダビデ牧師が一貫して伝えてきた、ローマ書5章3-5節の説教の骨子である。  こうして「患難の中でも喜ぶ」という主題をめぐるローマ書5章3節から5節のメッセージは、単なる理論ではなく、実際的な信仰のガイドとなることがはっきりする。張ダビデ牧師が繰り返し強調するように、義と認められた者として神の愛のうちに生きる教会と信徒は、人生のどの局面でも「患難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」というパウロの叫びを思い起こさなければならない。そして私たちのその希望は決して失望に終わらない。なぜなら、聖霊によってすでに神の愛が私たちの心に「豊かに注がれて」いるからだ。まさにここに、ローマ書5章が示す救済論と聖霊論が絶妙にかみ合い、完全な喜びと大胆さをもたらす。そしてこの尊い福音を信仰によって受け止める者にとって、患難はついには神のより大いなる栄光と愛を味わわせる案内人となる。これこそ張ダビデ牧師が繰り返し説き、ローマ書5章の本文が力強く証言する、祝福に満ちた真理なのである。 www.davidjang.org

新しい戒めによって開かれる愛 – 張ダビデ牧師

1. 十字架と復活、そして信仰の道 ヨハネの福音書13章は、イエス様が弟子たちと最後の晩餐を共にされた夜の情景を伝えています。その中でも、31節から38節までは、イスカリオテのユダの裏切りによる十字架の死が本格的に近づく緊迫した状況が背景となっています。イスカリオテのユダがイエス様を裏切り、闇の中へと消えてしまう場面は、イエス様の死がもはや覆らない事実として決定づけられたことを示します。その最後の晩餐の席で、イエス様は弟子たちに最後に残したい言葉を伝えられます。その言葉の中で最初に登場するのが、「今や人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになった」(ヨハネ13:31)という驚くべき宣言です。 張ダビデ牧師は、この言葉を通して、イエス様の死が始まるこの重苦しくも恐ろしい場面に、どのようにして「栄光」という言葉が宣言され得るのかを深く注目すべきだと強調します。人間的に見れば、十字架の道は徹底的な敗北と絶望に映ります。死を前に皆が震え、恐怖を感じるのは当然のことです。死という現実は、いかなる人間の知恵や財力でも乗り越えがたい最後の壁のように思えます。ところがイエス様は、その道について「今や人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになった」と言われます。 イエス様が進まれる道が、空しい死や無意味な犠牲で終わる道ではなく、栄光の道であり勝利の道であると信じることこそが福音の核心です。福音は十字架と復活で成り立っています。十字架なしに復活はなく、復活なしに十字架も完全にはなりません。しかし、すべては結局十字架から始まります。ヨハネの福音書13章後半に記されているユダの裏切りは十字架の始まりであり、19章30節でイエス様が宣言される「完了した(すべてが終わった)」という言葉が、十字架の完成であり結論です。イエス様は十字架が迫ったときから一切揺らぐことなく、また一歩も退かずにその道を歩まれました。 張ダビデ牧師は、イエス様の揺らぎなき姿こそが「信仰」から生まれたものであると説きます。ここで言う信仰とは、状況や環境に屈しない、絶対的な信頼と従順を指します。世の目には死は敗北でしかありませんが、イエス様にとって十字架はまさに栄光であり勝利でした。なぜならイエス様は十字架の先にある復活という神の究極的なみわざを見通され、それを少しも揺るがず信じておられたからです。人間的に見れば、十字架は屈辱的な死であり失敗の象徴ですが、イエス様はその場で「今や人の子は栄光を受けた」と宣言されます。これこそ、イエス様の信仰が示す深い神秘です。 実際に福音書を通して見れば、イエス様は教えの一つひとつ、そしてすべての歩みにおいて「父がわたしに委ねられたこの道、つまり十字架の道こそ栄光の道だ」という確信に満ちておられました。ゆえに、ローマ書5章でパウロが語る「不従順の歴史と従順の歴史」が鮮明に対比されるように、イエス様はアダムの不従順によって始まった罪と死の歴史を覆すため、完全な従順の道を歩まれました。信仰と従順を通して死を越え、復活の新しいいのちへと続く道を開かれたのです。 張ダビデ牧師は、私たちがイエス様の道を真に従おうとするならば、まず十字架という現実の前で揺るがない信仰を持たなければならないと力説します。この十字架は、単にイエス様だけが負われたものではなく、弟子たちもまた後に続くべき道であることが、ヨハネの福音書13章~17章の主要な教えとなっています。イエス様は弟子たちにも「わたしの行く道をあなたがたも知っている」と言われ、「あなたがたもわたしに従ってきなさい」と語られました。しかし問題は、弟子たちにその信仰がまだ十分には根づいていなかったことにあります。 代表的なのがペテロの姿です。彼は「主をお守りします。たとえ死に至るまでもご一緒します」と豪語しましたが、いざイエス様が捕えられる夜にその決意は粉々に砕かれました。大祭司の庭でイエス様を三度も否認し、逃げてしまったのです。イエス様が「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(ヨハネ13:38)と予告されたとおりになってしまいました。十字架の前で崩れ落ちたのはペテロだけではありません。他の弟子たちもまた恐れに駆られて散り散りになりました。 これは、人間的な勇気や決意だけでは十字架という苦難の場を最後まで守り通すことはできないという事実を示しています。十字架は、自分の意志や力で負える重荷ではなく、信仰と聖霊の力によってのみ負うことができる道です。イエス様は誰よりもこの事実を深くご存じだったがゆえ、ゲッセマネの園で汗が血のしずくになるほど祈られ、ただひたすら父の御心に絶対服従することで死の道に打ち勝たれました。 張ダビデ牧師は続けて、福音とは結局「十字架と復活」を通して現された神の全能と愛を信じ、従うことだとまとめます。イエス様が死を目前にしても「今や人の子は栄光を受けた」とおっしゃった理由は、神の御心がまさに成就し、その御心が勝利へと帰結するという事実を絶対的に信頼していたからです。だからこそイエス様は「もし神が人の子によって栄光をお受けになったのなら、神もご自分によって人の子に栄光をお与えになるであろう。すぐにお与えになるであろう」(ヨハネ13:32)と宣言されます。ここで「すぐにお与えになるであろう」とは、十字架の後に復活の栄光が訪れることを見据えた、はっきりとした信仰の表現なのです。 続いてイエス様は弟子たちに別れを告げられます。「子たちよ、わたしはまだしばらくの間あなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを探すことになるだろうが…今わたしはあなたがたにも言っているのだ」(ヨハネ13:33)という言葉によって、ご自身の死が間近であることを示されます。人間的には非常に悲しく胸を痛める瞬間です。弟子たちにとっても、イエス様を失わねばならないという事実は恐れであり苦痛でした。しかしイエス様は、このような状況の中でも弟子たちに最後の託し、すなわち「新しい戒め」を与えられます。その新しい戒めの核心が「互いに愛し合いなさい」という命令です。 死を直前に控えた状況で、イエス様は「あなたがたが互いに愛し合うなら、すべての人はそれによって、あなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」(ヨハネ13:35)と言われます。ヨハネの福音書13章31節以下が示している光景は、十字架という極限的な苦難を前にしても確信に満ちたイエス様の姿と、その道をまだ理解できずに右往左往する弟子たちの対比です。明らかに弟子たちは、イエス様が歩まれる十字架の道がどのような意味を持つのか、まだ十分には悟っていませんでした。その後、ペテロが「主よ、どこへおいでになるのですか」(ヨハネ13:36)と問う場面は、そのことをよく示しています。 イエス様は「わたしの行くところへ、あなたは今はついてくることはできないが、あとでついてくるようになる」(ヨハネ13:36)と答えられます。つまり、今は理解も不十分で信仰も弱いが、いつかは真の信仰によってイエス様の道に参与するようになるだろうという約束です。ペテロはその瞬間までも「主のために命を捨てます」と勇気を示しましたが、イエス様はそのような人間的決意では不可能であることを指摘されます。「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(ヨハネ13:38)という言葉は、十字架という道が、信仰の本質的な芯が備わっていなければ、どれほど大きな決意であろうと崩れてしまうという事実を示しています。 結局、十字架を負うことは、まったく信仰によってのみ可能であるという真理、これこそが張ダビデ牧師の強調する核心メッセージの一つです。イエス様は十字架の後に復活の栄光が確実であることを信じていたがゆえ、苦難と死の前にあっても大胆に語ることができました。私たちの道もそうあるべきです。キリスト者の人生は、人の目には愚かに見える十字架を「栄光」と信じて歩む道です。パウロが語るように「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことによって…」(ローマ5:8)救いが与えられたと知るのなら、十字架は決して敗北ではなく、むしろ勝利のしるしであることが分かります。 イエス様が最後に「完了した」(ヨハネ19:30)と宣言される時まで、微塵の揺らぎもなく歩まれたこの道は、まさに「十字架と復活」が結合された信仰の道でした。張ダビデ牧師は、これを私たち個々の人生に適用する際、今現在経験している苦難や困窮、あるいは絶望感の中でも、復活の栄光をあらかじめ見つめる信仰が必要だと教えます。ローマ書でパウロが言った「希望のうちに喜びなさい」(ローマ12:12)のように、私たちに与えられている希望が確かなものであるならば、どんな困難も突き抜けていくことができます。 さらに、その希望は私たちが「すでに」勝利を約束されているという事実に基づきます。イエス様は十字架と復活を通して完全な勝利を成し遂げられました。ですから、私たちも十字架の道に同参しようと決心する瞬間、キリストの勝利がすでに私たちにも移されている(転移している)ことを信じなければなりません。ゆえに「主が十字架を負われたのだから、私も自分の人生に与えられた小さな十字架をしっかりつかみたい。自分の力ではなくイエス様のものに拠り頼む」という告白こそが、十字架を仰ぎ見る真の信仰の姿勢となります。 もちろん、この道は決して容易ではありません。ペテロのようにつまずき、否認してしまう場合もあるでしょう。しかしイエス様が「あとでついてくるようになる」と言われたように、真実な悔い改めと聖霊の助けを求めるとき、いずれ私たちも主が歩まれた道をたどることができるようになります。使徒行伝以降においてペテロが見せた変化がそのことをよく証明しています。彼は復活のイエス様と出会い、聖霊を受けて大胆に福音を宣べ伝える者となりました。 結局、十字架は死ではなく新しい命の始まりであり、敗北ではなく真の栄光へ向かう門であるということです。これに対する絶対的な信仰こそが、私たちがしっかりとつかむべき本質であると、張ダビデ牧師は繰り返し強調しています。イエス様が「今や人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになった」とおっしゃったこの文言が持つ重みは、そういう理由でいっそう大きく感じられます。十字架にかけられる直前、あの苛酷な苦しみの時を前にしても、イエス様は復活と神の計画を見据えておられ、決して後退されませんでした。 私たちがこの信仰に倣うとき、人生のさまざまな状況の中でも同じ確信を持つようになります。世的には敗北や失敗にしか見えない状況も、神の視点から見れば栄光へと変わり得るのです。なぜなら、私たちが最終的により頼むお方は全能の神であり、すでに復活によって死の権威を打ち破られたイエス・キリストだからです。張ダビデ牧師は、この事実に私たちの視線を固定すべきだと教えます。すなわち、「十字架が目の前に迫ったときにも、むしろ復活の栄光を見る信仰をつかんでください」という教えです。 このように、小主題1では、ヨハネの福音書13章31節以下に込められた「今や人の子は栄光を受けた」というイエス様の言葉をもとに、十字架と復活、そしてその道を歩む信仰の本質を探りました。続いて小主題2に移ると、イエス様が最後に与えてくださった新しい戒め、すなわち「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という言葉について、より集中して扱うことになります。 2. 新しい戒め ヨハネの福音書13章34-35節で、イエス様はこう言われます。 「新しい戒めをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。あなたがたが互いに愛し合うなら、それによってすべての人は、あなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう。」 これはイエス様が最後の晩餐の中で弟子たちに与えられた、非常に重要な遺言のような言葉です。もともとイスラエルの民には多くの律法や戒め、特に隣人愛の戒めも存在しました。しかしイエス様はここで「新しい戒め」という表現を使われます。 張ダビデ牧師は「なぜイエス様は、すでに律法に存在していた『隣人を自分のように愛しなさい』(レビ記19:18)という言葉を、改めて『新しい戒め』として宣言されたのだろうか?」という問いを投げかけます。その答えは「わたしがあなたがたを愛したように」という文言にあると説明します。イエス様が与える愛の戒めは、単なる文字として存在する旧約の律法的「命令」を超えるものです。イエス様ご自身の生き方、すなわち犠牲と代償、そして赦しによって具体化された愛が基準となるのです。 旧約の時代にも確かに「愛しなさい」という戒めは存在しましたが、ユダヤ人たちはそれを文字通りの解釈や限定的な適用で生きてしまうことがしばしばでした。イエス様は人間の罪性を見抜かれ、旧約の愛の戒めが単に「文字」にとどまっていては命にならないことをご存じでした。そこでイエス様はみずから人間の体をとってこの地に降り、罪人たちのために、また敵のために、そしてご自分を裏切る者のためにもご自身を差し出す愛を示されました。とりわけ姦淫の現場で捕らえられた女性を断罪しようとする人々の前で、その女性を赦して立ち上がらせる場面(ヨハネ8章)、また取税人や娼婦など社会的に疎外されていた人々と交わる場面などは、イエス様の愛がいかに具体的で犠牲的であるかを如実に示しています。 そしてその頂点が十字架です。イエス様は「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)として来られ、私たちが受けるべき刑罰を代わりに負われました。この代償と犠牲こそ、神の愛がどれほど大きいのかを私たちに直接示してくださった決定的な出来事です。「わたしがあなたがたを愛したように」という一節が決して抽象的ではないのは、このためです。イエス様が自ら示された愛、すなわち罪人を断罪せず、代わりに荷を負い、徹底的に赦し、受け入れる愛こそが、私たちが従うべき「新しい戒め」なのです。 今やイエス様はその愛を弟子たちに継承させようとされます。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」これが教会共同体が守るべき最も本質的で代表的なしるしとなります。「あなたがたが互いに愛し合うなら、それによってすべての人はあなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」(ヨハネ13:35)という言葉は、キリスト者が世の中でどのような姿を示すべきかを明らかにしています。 張ダビデ牧師は、この言葉を解釈しながら、教会がほかの宗教や団体と区別され得る根本的基準は「愛」にあると語ります。世の中には無数の団体があり、それぞれが自分たちのアイデンティティを示すしるしを持っています。例えば、シク教徒はターバンを巻き、仏教の僧侶は頭を剃るといったように、外面的なしるしによって所属やアイデンティティを表します。しかしイエス様は、キリスト者のアイデンティティを「兄弟姉妹への愛」で示しなさいと命じられました。 実際、初代教会の時代、ローマ帝国のもとで迫害を受けていたキリスト者たちが示した相互の仕え合いや愛は世を驚かせました。苦難や貧しさの中でも互いに助け合い、自分の財産を売って貧しい兄弟に分け与えるといった愛によって共同体を築く姿は、外部の人々に「見よ、彼らが互いに愛し合っている様はなんとすばらしいことか!」と感嘆させるほどでした。これこそが真の伝道であり、教会の証しです。愛の戒めを実践するとき、世は初めてキリストがどのようなお方であり、どのような道を歩まれたのかを垣間見るのです。 しかしこれは容易なことではありません。人間的視点で見ると、愛は常に限界を伴います。自分が好意を抱く人や、自分に好意を示す人に対しては比較的愛を示しやすいですが、自分に害を与えたり、気に入らなかったり、あるいは負担に感じる人を愛することは簡単ではありません。さらに、自分自身ですら失望や怒りを感じる瞬間が多い人間にとって、他者への真の愛を持続させるのは難しいのです。 ここで張ダビデ牧師は、再び十字架の霊的意味を強調します。イエス様の愛は「断罪」ではなく「赦し」、そして「断絶」ではなく「代償」を実現されました。十字架は、イエス様が私たちに示してくださった最も劇的な愛の証印です。そしてイエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられます。つまり、自分の中にある断罪の思いを捨て去り、兄弟姉妹の罪や弱さを抱き、必要であれば自分が代わりに背負うという姿勢を持つとき、初めてキリストにある真の愛を実践することになるのです。 こうした愛が実現されるとき、教会共同体の中で多くの癒しや変化が起こります。傷ついた人、社会から疎外されてきた人、罪悪感に押しつぶされていた人々が、互いの重荷を分かち合うことで真の自由と喜びを味わうようになります。パウロが「互いの重荷を負い合いなさい。そうしてキリストの律法を全うしなさい」(ガラテヤ6:2)と勧めたのも、同じ文脈です。互いの重荷を負うことこそが「互いに愛し合うこと」、すなわち十字架の愛を実践する道です。 教会がこの愛の戒めを失ったとき、世は教会に対する信頼を失い、非難の声を上げるようになります。「口先では愛を叫ぶが、実際には争い、分裂ばかりしている」という評価は、教会がキリストの弟子であるというしるしを自ら否定するに等しいのです。だからこそイエス様は最後の晩餐という非常に貴重な場面で、「あなたがたが互いに愛し合うなら、すべての人はそれによって、あなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」とおっしゃったのです。 張ダビデ牧師は、この「互いに愛し合いなさい」という戒めこそが、私たちが一生涯握り続けるべき実践課題であると語ります。私たちの救いはただイエス・キリストの恵みと信仰によって得るものですが、救われた者が教会として共に生きるとき、世に対して証しすべきはまさにこの「愛」というしるしです。もし愛がなければ、どれほど素晴らしい賜物や知識も空しくなります(コリント第一13章)。愛のないまま叫ぶ信仰は空虚になり、愛のない弟子道は偽善へと堕してしまいます。 主が「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と宣言されたのは、ご自身で示された模範があるからです。イエス様は弟子たちの足を自ら洗われ(ヨハネ13:1-20)、さらにはご自分を裏切るユダの足さえも洗われました。そして「わたしがしたように、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われます。兄弟姉妹の最も低いところに降りて仕える姿勢、それこそイエス様の愛のあり方なのです。教会の中で誰かが最もへりくだった態度で仕えるとき、そこにイエス様の新しい戒めが輝きます。 しかし、弟子たち、特にペテロはこうしたイエス様のお言葉をすぐには理解できませんでした。「主よ、どこへ行かれるのですか」(ヨハネ13:36)というペテロの問いににじむ切なさは、十字架がイエス様の愛の戒めの中心であることを悟れていなかったことを示唆します。ペテロは人間的な勇気と決意ばかりを前面に出し、「主のために命を捨てます」と言いましたが、イエス様が示された「仕えと代償」の道、つまり十字架の道を知らなかったがゆえに失敗したのです。 しかしイエス様はこの弱い弟子たちを最後まで愛されました(ヨハネ13:1)。「今はついてくることはできないが、あとでついてくるようになる」(ヨハネ13:36)という言葉には、主の深い信頼と希望が込められています。実際、復活の後にイエス様と再会したペテロは、悔い改めて立ち返り、真に主を愛し、教会を愛し、ついには殉教の道を歩むまでになりました。かつては剣を抜くことで、あるいは感情的な豪語でイエス様を守ろうとして失敗した彼が、後には十字架の愛の本当の意味を悟り、完全に従うようになったのです。 張ダビデ牧師は、教会もまさにこの過程を踏まなければならないと強調します。私たちは初めから完璧な愛を実践できるわけではありません。ときに失敗し、関係が壊れ、傷つけ合うこともあるでしょう。しかし、十字架の恵みを思い起こしながら、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という言葉を心に刻み、訓練し続けるとき、その愛が私たちの生き方と共同体に次第に根づいていくのです。 ゆえに、今日の教会が回復すべき核心はまさにこの新しい戒めです。真実な愛をもって互いに接し、断罪するよりも赦し、自己中心的な態度ではなく、互いに献身し合う姿勢を身につけるとき、世は初めて教会がイエス様の弟子たちの共同体であることを認めるようになります。福音の証しは華やかな弁舌や知識だけで成り立つのではなく、十字架の愛を実際に生きる教会の姿から自然に流れ出てくるものです。 張ダビデ牧師は最後に、この新しい戒めを守ることは決して私たちの努力だけでできるのではなく、イエス様の十字架から注がれる恵みと聖霊の助けが必要なのだと言います。私たちは日々の祈りのうちに聖霊の力を求め、イエス様に目を留めなければなりません。そうしてこそ、この世とはまったく異なる次元の愛、すなわち犠牲的で赦す愛を実践することができるのです。 さらに、「十字架と復活」という小主題1で述べた信仰の道は、実は「愛の道」ともそのままつながっています。十字架によって私たちは罪の赦しと新しい命を得ましたが、その感激があるなら、当然それは兄弟姉妹を愛することによって表現されるべきです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という御言葉は、受けた愛を分かち合うことで神の栄光を現し、私たち自身もその栄光にあずからせる招きなのです。イエス様は、「わたしはすでにその道を行ったのだから、あなたがたも心配せずについてきなさい」と励ましてくださいます。 結論として、ヨハネの福音書13章31節から38節までの御言葉は、死が眼前に迫った危機の瞬間であっても「今や人の子は栄光を受けた」と宣言されるイエス様の揺るぎない信仰と、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という新しい戒めを与えられるイエス様の教えが含まれています。張ダビデ牧師は、この本文を解き明かしながら「十字架は恐れや絶望ではなく、栄光と勝利への道であり、その道の核心的な原動力は愛である」と強調します。 私たちに与えられた挑戦は、イエス様のように死よりも強い復活の望みを抱いて十字架を負いつつ、同時に「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めを握り、日常生活の中で愛を実践することです。イエス様がすべての罪人たちのために赦しと代償の道を開いてくださったように、私たちも互いを断罪するのではなく、赦し建て上げる交わりを築くべきです。そうするとき、世は私たちがイエス様に従う共同体であることを知るようになるでしょう。 ペテロがイエス様を三度否認しても、復活された主は再び彼を探し出し、「あなたはわたしを愛するか?」(ヨハネ21章)と問われ、彼を教会の礎とされました。イエス様の愛は失敗や弱さを乗り越えさせる力です。今日の私たちもまたペテロと変わりません。しかし張ダビデ牧師がしばしば語るように、「結局は私たちも恵みによって立ち返り、イエス様の道を従う者となりうる」という希望が与えられています。それこそが福音の喜ばしい知らせです。 ゆえに私たちは「十字架と復活」という信仰に堅く立ちながら、「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めを守りつつ生きるべきです。死と絶望を栄光へと変えたイエス様の偉大な道を思い起こしましょう。そしてイエス様が弟子たちの足を洗われたときに示された、その愛の模範を私たちの生活の中で具体的に実践してみましょう。教会の内外を問わず、互いに十字架の愛を施し合う人となるとき、私たちは世が知らない喜びと平安を得ることができ、世はその愛を通してイエス・キリストの栄光をかいま見ることになるのです。 この道は決して楽ではなく、ときに苦い犠牲を要求することもあります。しかしイエス様は「もし神が人の子によって栄光をお受けになったのなら、神もご自分によって人の子に栄光をお与えになるであろう。すぐにお与えになるであろう」(ヨハネ13:32)と明言されました。十字架の後に復活の栄光が必ずあるという約束です。私たちが互いに仕え、愛し合いながら十字架に従うとき、神様は私たちをも栄光へと導いてくださるという希望が間違いなく存在します。 まさにこれがヨハネの福音書13章、そして福音書全体が強調する「十字架の道、愛の道」です。張ダビデ牧師は、この教えを中心に、弟子道とは単なる外的規律や知識の蓄積ではなく、十字架の精神が私たちの内に根づき、互いに愛し合う関係へと広がっていくことであると重ねて説いてきました。もし私たちがイエス様に従う弟子となるなら、最終的には私たちも互いに愛し、仕え合う姿で示されなければなりません。 今日、この御言葉を要約しつつ、私たちの心に深く刻むべき核心は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という主の御命令です。これはイエス様が最後に残された別れのメッセージであり、キリスト者の霊的アイデンティティを最も端的に示す言葉です。張ダビデ牧師が繰り返し述べるように、これはオプションではなく、必ず守らねばならない戒めです。互いに愛し合わないならば、私たちはイエス様の弟子としてのしるしを自ら喪失してしまうのです。 最終的に私たちは信仰生活の中で、日々主の十字架を黙想しつつ、その道が栄光の道であるという事実を改めて思い返さねばなりません。そして、その十字架が示してくださった赦しと犠牲に倣い、真に兄弟姉妹を愛するところまで進んでいく必要があります。この二つが同時に進むとき、私たちの生き方は世と区別される真の弟子の姿となります。これこそがヨハネの福音書13章が宣言する福音のエッセンスであり、また張ダビデ牧師が強調してきた実践的な霊的歩みの中心です。 さらに教会共同体がこの御言葉をいつも胸に抱き、実践し続けるならば、イスカリオテのユダのような裏切りの闇や、ペテロの否認のような失敗の痛みすらも、最終的には愛によって回復されるでしょう。イエス様はすでにペテロを回復し、愛の力が失敗者を新しい岩へと変えられた例を私たちに示してくださいました。教会の中でも、私たちの個人の人生の中でも、イエス様の思いに近づけば近づくほど、このような奇跡が起こるのです。 したがって、ヨハネの福音書13章31節以下から私たちは大きく二つの教えを学ぶことができます。第一に、十字架は栄光であり勝利であると信じることです。世から見る観点とは異なり、イエス様は死を前にして「今や人の子は栄光を受けた」と宣言されました。第二に、その十字架が示した代償と赦しの愛を、私たちも見習って互いに実践すべきだということです。これがイエス様が残された「新しい戒め」であり、教会が存在する理由でありアイデンティティです。 総合すると、「今や人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになった」(ヨハネ13:31)という言葉が宣言された直後、すぐに「あなたがたが互いに愛し合うなら、それによってすべての人は、あなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」(ヨハネ13:35)というお願いが続く事実はきわめて意味深です。一方は、十字架と復活の栄光を見つめる絶対的な信仰を示し、他方は、その信仰が具体化される姿としての「兄弟姉妹への愛」を命じています。 張ダビデ牧師は、この二つが分離されることなく一つにつながっていなければならないと繰り返し語ります。信仰がまことならば、愛へと現れ、愛が本当であるためには、十字架の栄光を信じる深い信仰がその根底になくてはならないということです。私たちもこの御言葉を握り、十字架と復活の信仰を所有すると同時に、新しい戒めの実践、すなわち互いに愛し合う行いによって主の弟子であることを示していくべきです。 そうすることで、ようやく私たちの属する教会や共同体の中に、「あなたがたが互いに愛し合うなら、それによってすべての人は、あなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」という御言葉が生き生きと働き始めるのです。十字架を仰ぎ見て復活の希望を握った者同士が互いに愛し合う共同体になればなるほど、世は私たちの姿を通して神の栄光とイエス・キリストの力を目にすることになるでしょう。 … Read more

太陽を止められる神 ― 張ダビデ牧師

1. 太陽と月の停止、そして失われた時間を取り戻す信仰の歩み ヨシュア記10章に記されている、太陽と月が止まるという奇跡の物語は、旧約聖書の中でもきわめて独特で印象深い出来事として数えられます。張ダビデ牧師はこの本文を通して、歴史的な奇跡そのものを強調するだけではなく、「時間の主は神である」という、より深い次元の信仰メッセージを私たちの心に刻むよう説きます。 ヨシュアがアモリの連合軍と戦っていた当時、日が沈めば戦闘の状況が不利にならざるを得ませんでした。そこで彼はただ信仰により、太陽がギベオンの上で止まり、月がアヤロンの谷でとどまるよう命じました。この壮大な祈りと、その祈りに応えてくださった神のわざは、物理的な時間や自然の秩序を超越して、歴史の支配者がただ神であることを証しします。張ダビデ牧師は、この奇跡を文字どおりに理解するだけでなく、その中に込められた霊的原理とメッセージを正しく捉えることが重要だと強調します。すなわち、人間がどれほど多くの業績を積み、時間を管理しようとしても、結局時間を止めたり巻き戻したりできる方は神おひとりしかいない、ということです。 この事実は、現代の私たちにも強烈な挑戦として迫ってきます。特にアメリカで20年以上にわたって展開してきた教会共同体の歩みを振り返るとき、私たちは神から与えられた時間を本当に有効に活用してきたのか、自問せざるを得ません。張ダビデ牧師は過去20年におよぶアメリカ宣教の結実について、率直で痛烈な評価を示します。多くの働きが失敗し、ビジネスを通した自立もままならず、新学校やランゲージ・スクール、音楽大学など多様な機関を設立したものの、結実より挫折を多く経験したというのです。その過程で、一部の指導者は神の視線や御心を正しく見分けられず、個人的な欲や安逸に陥り、むしろ共同体に重荷を負わせる場合もありました。だからこそ張ダビデ牧師は、「私たちはこの過ぎし日々を本当に正しく生きてきたのか。神が与えてくださった時間を空しく浪費してしまったのではないか」と何度も問いかけるのです。 こうした状況で、ヨシュアが示した大胆な信仰的決断は、私たちの現在と直接結びついています。太陽を止め、月を静止させたあの超越的な奇跡は、神がご自分の民のために戦い、働かれることを明らかにします。どんな状況にあっても、神の大いなるみこころと力を仰ぎ、切なる祈りをもって全身全霊で進むとき、「失われた時間が取り戻される」回復の御業が可能になるということです。実際、聖書は神の民が困難に直面するとき、彼らが罪と悔い改め、そして信仰をもって神に近づく過程を通して、逆転と回復の驚くべき知らせを語ります。神はイスラエルの民に勝利を与えるために、物理的な自然法則さえ超越されるお方です。小さなことひとつもおろそかにされない全能の主であり、その方のみこころを求め、従い、切に願う者を決して見捨てない――ヨシュア記10章の物語はこの事実をはっきりと教えてくれます。 張ダビデ牧師はこのみ言葉を黙想しながら、太陽と月が止まった出来事は単に過去に一度だけ起こった前代未聞の出来事ではなく、「神は今もいくらでも私たちの時間を逆転させたり止めたりできることを示す象徴的事件」として解釈します。私たちが神のために何かしようとしていても、すでにあまりにも多くの時間を浪費してしまい、何度も失敗を重ね、指導者たちの分裂や責任回避によって宣教の現場が荒廃してしまったとしても、「真実な悔い改めと再び燃え上がる情熱」があるなら、神は依然として私たちに奇跡への道を開いてくださるというのです。ここで鍵となる問いは「では私たちはこれからどうするのか?」というものです。単に過ぎ去った過ちを責めたり、傷や怒りの中に留まるだけでは時間は止まりません。ただ神の御前にへりくだってひれ伏し、改めて与えられた使命を再点検し、そのみこころがなされるよう召しに忠実に応える道こそが、「失われた時間」を取り戻す唯一の方法だと語ります。 さらに張ダビデ牧師は、このような信仰の刷新は個人の次元を超えて、共同体の次元でともに行われなければならないと強調します。なぜならヨシュア記の記録によれば、太陽が止まり月が静止した結果は、ヨシュアひとりの利益のためではなかったからです。そこにはイスラエルの民全体が勝利し、生き残るための神の介入があり、さらに神の契約が歴史の中で継続していくための救いの物語があったのです。同様に今日においても、ひとりの切なる信仰が共同体全体の転機をもたらすかもしれません。しかしそのひとりの信仰は最終的に共同体の祈りへとつながり、指導者をはじめとするすべての構成員が悔い改めと献身をもってともに応答するとき、持続的かつ強力な結果がもたらされるのです。 20年間のアメリカ宣教の歴史を振り返ると、張ダビデ牧師は何度か機会や挑戦があったにもかかわらず、多くの指導者が霊的覚醒や決断を先延ばしにしたり、正しい方向性を打ち立てることができなかったと診断します。その結果、働きの多くが停滞あるいは崩れ、現実的な困難や財政的負担、そして構成員たちの信仰の弱化が同時に生じたというのです。ところがまさにこの点において、ヨシュアが太陽と月を止めるほどの信仰を示したように、すなわち神が私たちの現実的状況を変え、時間さえも逆行させて恵みをお与えになれるという確信が、改めて求められるのだといいます。 特にパンデミックの時期、多くの教会や共同体が困難を経験しましたが、その期間中であってもミッドウエスト地域で土地を手に入れたり、西部地域のビジネスセンターが確定するなど、神の劇的な導きを体験する事例があったそうです。張ダビデ牧師は、これを単なる「幸運」として片付けるのではなく、「神の時間と方法は人間の計算とは違う」という原理を示す生き証しとして受け止めるべきだと強調します。それだけでなく、カリフォルニア州パサデナ地区に新たな門が開かれ、フラー神学校周辺の寄宿舎が売りに出され、有名な教会が紹介されるなど、一連の出来事は何を意味するのでしょうか。「ある時代が終われば、次の時代が来る。そして使命者は絶えず建てられる」という霊的真理を改めて確認させるのです。 それにもかかわらず、過去の失敗や挫折がもたらした傷が、なお指導者たちに残っている可能性があります。かつて自分が推進した働きが失敗したことを思い出して再挑戦を恐れる人もいれば、すでに心が冷めきって「今さら遅い」とあきらめてしまう人もいるかもしれません。しかしヨシュア記10章がもたらす重要なメッセージは、私たちの側から見て「もう遅い」と思われる時点でも、神がお望みならば太陽と月を止める新たな歴史を切り開くことができるということです。その事実を信じて従うことこそ、真の指導者の姿勢であり、今日の教会が取り戻すべき信仰の本質だと張ダビデ牧師は語ります。 特に時間という観点で考えるとき、私たちはしばしば「失われた20年」という表現を使い、何ひとつ得るものもなく手ぶらになったような気持ちを抱きがちです。しかし神のうちには「失われた20年」ですら、まだ活用することが可能です。今からでも切に祈り、悔い改め、信仰をもって進めば、その年月が生み出す実を遅ればせながら収穫することができるかもしれないのです。太陽が止まる奇跡、月が静止する驚くべき出来事は、「回復不可能に見える時間も、神の御手の中ではいくらでも回復され得る」という強力な希望を与えます。ある指導者は罪によって倒れ、ある指導者は倦怠と惰性の中で働きを失敗させ、また別の者は状況論理に引きずられ世俗的な方法で問題を解決しようとして挫折を経験しました。しかしそれらすべての欠けや失敗を前にしても、神に悔い改めと切なる祈りをささげるならば、私たちにも太陽が止まり月が静止するしるしのような奇跡が起こり得る――張ダビデ牧師は繰り返しそう強調します。 結論は明白です。いまこの瞬間も時間の主は神であり、その方は私たちの人生や働きに、いつでも決定的な介入をなさることができる。ヨシュアの物語から私たちはその事実を目の当たりにし、パンデミック後の混乱する世界にあっても、なお働かれる神に目を向けなければなりません。「主のみこころを求め、悔い改め、全力で進め」という張ダビデ牧師の叫びは、不可能に見えることをも可能にされる神を信頼せよ、という招きにほかならないのです。いま私たちがすべきことは、太陽が止まるようにと祈ること、そしてその祈りとともに行動しつつ、信仰の戦いに挑むことです。そのとき私たちの知り得なかった奇跡、過去数十年もの歳月さえひっくり返すような逆転が始まるかもしれません。この信仰こそが第一の小テーマが提示する核心メッセージであり、張ダビデ牧師が繰り返し強調してきた「失われた時間の回復」という実践的課題なのです。 2. ヒゼキヤの悔い改めと命の延長、そして新たな働きのビジョン 列王記下20章に記されているヒゼキヤ王の病の癒しの物語と、日時計が後戻りした奇跡は、ヨシュア記10章の太陽停止の出来事とつながっています。どちらの物語も、「時間と命の主権は神にある」という真理を鮮やかに示しているからです。 ヒゼキヤはもともと神に従順な王でしたが、後に信仰が弱くなり罪を犯すようになって、重い病にかかります。そのとき彼が取った行動は、涙を流して切に祈り、悔い改めることでした。張ダビデ牧師は、この場面でいくら敬虔な王でも罪に陥る可能性があり、その罪ゆえ人生の終わりに追い込まれることもあると指摘します。しかし重要なのは、まさにその状況において「神に立ち返る悔い改め」が起こった点です。ヒゼキヤが涙で祈ったとき、神はその祈りを聞き入れ、彼を癒してくださり、さらに15年も命を延ばされました。しかも日時計を後戻りさせるという奇跡まで示され、神の約束が必ず実現することを力強く証明されたのです。 これは私たちが失敗や挫折を経験したとき、あるいは霊的に病んだ状態に陥ったときに、何をすべきかを明確に教えてくれます。張ダビデ牧師は、ヒゼキヤの物語を通じて「神が私たちの祈りを聞かれるとき、どのようなわざが起こるのか」を強調し、とりわけ指導者たちがまず悔い改めて祈らなければならないと指摘します。アメリカ宣教20年の歴史で多くの働きが頓挫した原因は、外部環境だけではなく、内面的な罪や信仰の弱体化による部分が大きかったかもしれません。もし指導者たちが神の方法ではなく人間的な方法に重点を置き、世俗的成功に執着しすぎたり、霊的高慢に陥って秩序と愛を失ったのだとすれば、その責任は決して軽くはありません。したがって私たちの直面している状況は、病に倒れ、死の淵にあったヒゼキヤの姿とさほど変わりないのです。教会共同体全体が深刻な危機を迎えたとき、まずすべきことは「涙ながらに悔い改める祈り」だというのです。 ヒゼキヤが涙ながらに祈ったとき、神は彼を癒し、15年の命を与えられただけでなく、アッシリア帝国からエルサレムを守るという約束までくださいました。しかもその約束の確実性を証明するために、日時計を後戻りさせる――まさに時間を逆行させるしるしを示されたのです。張ダビデ牧師は、この出来事が「悔い改める者に神がお与えになる恵みの大きさ」を端的に示していると解釈します。ときには私たちが犯した罪があまりにも大きく、働きの現場が完全に荒廃し、一度失敗した歴史はもはや取り戻せないと思われるかもしれません。しかし実際には、神は「悔い改めて戻ってくる者」に対しては、時間を逆転させるような奇跡までもお与えになることがおできになるというのです。 こうした恵みを受けたヒゼキヤは、再び信仰を回復し、王としての責務を全うしていきます。もちろんその後も人生には多くの試練や失敗があったかもしれませんが、神から与えられた延長の生涯は決してむだにはなりませんでした。張ダビデ牧師はここを非常に重要な点だと指摘し、「15年という追加の時間が与えられたとき、果たして私たちは何をするのか」という問いを自らに投げかけるべきだと語ります。ヒゼキヤに与えられた余分な時間は、彼個人の安楽のためだけではなく、神のわざを継続し、民を守り、信仰共同体を正しい道へ導くために用いられるべきものでした。同様に私たちがもし、悔い改めと祈りを通して何らかの新たなチャンスを得たなら、その時間もまた自分の満足のためではなく、共同体の回復と神の国の拡張のために用いられるべきだというメッセージを、張ダビデ牧師は強調するのです。 過去、多くの働きが失敗に終わり、指導者の不注意や無知、あるいは罪のせいで事業が停滞し、いまだに悔い改めていない人がいるかもしれません。しかし神は、その空っぽの網を奇跡的に満たすことがおできになるお方です。ヒゼキヤが命を延ばしてもらい、日時計が後戻りするしるしを得たように、私たちが切に悔い改めて祈るならば、神の御業は今も進行形であるのです。 張ダビデ牧師は特に、指導者たちに対して強く訴えています。時間はあまり残されていないのです。指導者が一夜にして倒れることもあれば、20年あるいは30年も準備してきた働きが、結局何の実もなく終わる可能性もある。しかしまだ息をしているこの瞬間、神に祈りすがることができるならば、ヒゼキヤのしるしは現実のものとなり得るのです。そのしるしとは、ただ「日時計が後戻りした、不思議だな」ということではなく、「神が私たちの悔い改めと祈りを聞いて、想像もしなかった恵みと機会をくださる出来事」です。ヨシュアが太陽を止める超自然的な恵みを経験したように、ヒゼキヤが15年の命と、アッシリアからエルサレムが守られる奇跡を享受したように、私たちもまた霊的な暗闇を突き破って新たな光を見ることができる――これが力強いメッセージなのです。 総括すると、この二つの本文が教える核心は互いに連動しています。ヨシュア記10章は「神がご自分の民のために太陽と月を止めることがおできになる方」であると宣言し、列王記下20章は「神が一人の人間の祈りに応えて命を延ばされ、時間を逆行させることすらできる方」であることを示します。この二つの物語が交わる点こそ、「神は私たちの時間を変えてくださることがおできになる方」という事実です。張ダビデ牧師はこれを現代の働きに適用して、「私たちが20年をまるで無益に費やしたように思えるとしても、今日、悔い改めて祈るならば、神はそのすべての時間を取り返すような新しいリバイバルを起こしてくださる可能性がある」と力説します。これこそが今、私たちに与えられたチャンスであり、ヒゼキヤの悔い改めのように涙ながらに神の憐れみを求めるときに成就される約束なのです。 最後に張ダビデ牧師は、この霊的原理を実践するために「祈りの場」に戻るよう促します。パンデミックを経て教会や共同体は様々な形で散り散りになり、弱体化しましたが、まさに今こそ最も真実に祈るべきタイミングだというのです。与えられた各々の働きの場や礼拝堂、キャンパスにおいて、あまりにも多くの時間を失ったと嘆きたくなる状況だとしても、そこから再出発できるのです。ヒゼキヤが死を宣告された場所で悔い改めと祈りに立ち返ったように、私たちもこの絶望の場所が恵みの出発点となり得ます。神は、張ダビデ牧師が長らく強調してきたように、真実にご自分を求める者を決して無視されません。むしろ驚くべき方法で、その人々の時間を巻き戻してくださるお方なのです。そしてそのとき私たちは「なぜ神は時間をくださったのか。なぜ15年を延ばしてくださったのか。なぜ太陽を止めてくださったのか」という問いに直面します。それは結局、神の国のために、私たちに与えられた使命を全うさせるためだという答えに行き着くでしょう。 したがって、私たちはこの20年に及ぶ停滞や失敗、悔い改めない指導者たちの分裂状態、事業の失敗や財政難など、そうした問題ばかりに焦点を当てるのではなく、それらすべてを打ち破ることのできる神の御力に目を据えなければなりません。ヒゼキヤの悔い改めがもたらした日時計の逆転、そしてヨシュアの祈りによって止まった太陽と月の奇跡を思い巡らしながら、今この瞬間、「神よ、私たちの時間も巻き戻してください。悔い改めますので、新しいいのちへの道を開いてください」と切に祈るべきなのです。張ダビデ牧師が強く訴えるように、残された時間は長くないかもしれませんが、その短い時間の中でも神が働かれるなら十分に奇跡は起こり得るのです。重要なのは私たちがその神の働きを信じ、「太陽が止まらなければ戦いを完遂できないように、神が働かれなければ私たちの働きは回復し得ない」という信仰で進むことです。 これこそが、ヒゼキヤが涙をもって祈ったときに見た「後戻りした日時計」の意味であり、ヨシュアが目の当たりにした「静止した太陽と月」の真の意味なのです。時間の主権者となってくださる神、悔い改める民のために時間と自然の秩序さえ覆される神、その神を私たちはもう一度信頼すべきです。そしてその方がくださるチャンスをつかむべきなのです。もしこの機会を逃すなら、過去20年の失敗から一歩も抜け出せず、そのまま座り込むことになるでしょう。しかし私たちがヒゼキヤとヨシュアの信仰を学び、その悔い改めと嘆願を見習うならば、神は今回も私たちの失われた時間と浪費してきた歳月を、豊かな実りに変えてくださる可能性があります。これこそ張ダビデ牧師が一貫して強調してきた核心メッセージであり、アメリカ宣教20年後に開かれる新しい時代と働きのビジョンの大きな柱なのです。 結局、この二つの物語は一つの結論へと収束します。第一に、太陽と月を止められる神の御前で、私たちはへりくだってひれ伏さなければなりません。第二に、日時計を後戻りさせることのできる神の御前で、私たちは心から悔い改め、新たなチャンスをつかまなければなりません。時間があまり残されていないという事実こそが、いっそう切実な祈りへと私たちを駆り立てます。指導者ならばなおさらです。名誉や権力を下ろし、「本当に神のみこころを実現するために、私に残された時間はあとどれだけなのだろうか」と厳粛に問わなければなりません。その答えを見い出す人は、ヒゼキヤがそうしたように、一度の心からの祈りによって人生をまるごと変えることができます。そのとき神は「わたしはあなたの涙を見た」と応えてくださいます。そして「わたしはあなたに15年を加えよう。あなたに止まった太陽を与えよう。日時計を後戻りさせよう。だからイスラエルを、わたしの民を生かし、回復へ導け」と語られるのです。こうして神は私たちの時間が閉ざされていないことをお示しになります。私たちの涙がその方へと流れる瞬間、時間さえも逆行し、神の御業はふたたび動き始めるという希望をつかむこと――これこそがヒゼキヤの物語とヨシュアの物語、そして張ダビデ牧師が一貫して叫び続けてきた「悔い改めの福音」にほかなりません。

福音と神の愛 – 張ダビデ牧師

福音の核心と神の愛 張ダビデ牧師が説教や講演の中で繰り返し強調している中心的テーマは、まさに「福音」である。彼は、福音を「神の御子であるイエス・キリストがこの地上に来られ、人間のあらゆる罪と苦しみを負って死なれ、そして復活によって人類に新たな命の道を開かれた救いの出来事全体」として理解している。彼にとって福音とは単なる宗教的教義ではなく、人類史から宇宙的次元に至るまで、すべてをひっくり返す決定的な出来事なのである。 福音を定義する際に、ヨハネの福音書3章16節は常に重要な出発点として提示される。すなわち「神はその独り子を惜しまず与えるほどに世を愛された……」というこの御言葉は、福音が何よりもまず「神の愛」を宣言していることを如実に示している。張ダビデ牧師はこの聖句に言及しながら、私たちが罪のせいで永遠に断絶されていた存在であったにもかかわらず、神は全面的な賜物としてイエス・キリストを送ってくださった事実を深く黙想すべきだと力説する。私たちが福音を喜び、胸を躍らせながら、同時に福音の前で敬虔な恐れとへりくだりを持つようになるのは、まさにこの神の愛の大きさによるのである。 彼はしばしばローマ書5章8節を引用する。「私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死なれたことによって、神はご自身の愛を明らかにしてくださった」というこの御言葉は、神が人間の何らかの資格を見て愛を注がれたわけではないことを示している。むしろ人間は罪のもとにあり、自力では救いに至ることが到底不可能な状態にあったにもかかわらず、神は一切の条件なしにイエス・キリストを送ってくださったというのである。ここで張ダビデ牧師は、福音を単なる道徳的手本や宗教儀式に限定せず、徹底して「恵みの出来事」として認識すべきだという。すなわち、福音は人間の善行や正しさによってではなく「神の贈り物」として与えられたものである以上、どんな人間的誇りが入り込む余地もないということだ。 張ダビデ牧師は、福音を「愛の出来事」と呼び、その愛が具体的に表される現場が十字架だと強調する。愛は口先だけで叫ぶと空虚になりうるが、神の愛はイエス・キリストのへりくだりと死、そして復活を通して「歴史的事実」となった。イエスがご自身を完全に空にして、人間のすべての罪を負い、代償の生贄となられた出来事は、ほかのいかなる形態の愛とも比べようのない、まさに絶対的かつ「比類なき」愛だという。この愛こそ、福音が伝える喜ばしい知らせのエッセンスである、と彼は語る。 そしてもし福音が愛であるなら、その愛を証しすることは避けられない当然の義務となる。すなわち、「神の御子がこの地上に来られ、私たちのために死なれ、死を打ち破って復活された」という事実を知った者は、必然的にそれを「証し」するようになるのだ。張ダビデ牧師は、使徒行伝で弟子たちや使徒たちがどのように証ししていたかをしばしば例に挙げる。ステパノは激しい迫害の中で石打ちに遭い殉教する直前まで、イエスこそ人類の救い主であると伝え続けた。ペテロはペンテコステの日に聖霊が下った後、エルサレムの大衆の前で福音を叫び、パウロは異邦の地を巡りながら福音の証言をやめなかった。彼らは自分の人生を懸け、どんな代価を払ってでもイエスが「真の命の道」であることを世に知らせたのである。 これほどの証しが可能だった理由は、彼らが福音を「知識」としてだけでなく、「愛」として体験していたからだ。張ダビデ牧師は、この愛の体験を「福音に捕らえられること」と表現する。福音が単に「イエスとは誰かを頭で理解すること」で終わるなら、それはパリサイ的な知識にすぎない。真の福音体験は、イエス・キリストの愛が自分の罪と絶望を解決してくれたことを悟り、存在全体が変えられる出来事である。だからこそ、イエス・キリストを知った人は自然に福音の証人となり、この地上に向かって「神の愛」を伝える使命を担うのだ。 張ダビデ牧師は、福音が万人に開かれていることも強調する。背景や学識、道徳的資格の有無に関係なく、すべての罪人に「罪の赦しと新しい命」が宣言されたのがイエス・キリストの十字架であるという。特に使徒行伝2章でペテロが説教する場面にある「だれでも主の御名を呼び求める者は救われる」(使徒2:21)という宣言を言及しつつ、福音は決して特定の民族や集団だけのためのものではないと明確に示す。ゆえに張ダビデ牧師のメッセージの中では、「神の愛」という共通分母が民族や言語の壁を超え、歴史と文化の限界を超えて、罪の中で苦しむすべての人生に訪れる全面的な恵みの実体として繰り返し示されるのだ。 さらに彼は、福音が宇宙的であると同時に個人的なメッセージでもあることを重ねて想起させる。すなわち、福音は宇宙的次元で人類全体の運命を変えた出来事であると同時に、一人ひとりの内面と生き方を転換させる力でもある。私たちが福音を受け取り信じるとき、それはもはや概念や教義ではなく、私たちの内面で爆発する「新しい命の力」として働く。愛を受けた者は愛を流さずにいられず、恵みを体験した者はその恵みを世に伝えずにはいられない。だからこそ張ダビデ牧師は、福音こそが「この世に必要な唯一の希望」であり、その確固たる土台の上に教会と共同体が打ち立てられるべきだと力説する。 また彼は、福音を信じ従う人々の間で自然に現れる実りとして「互いの重荷を負い合い、愛し合え」(ガラテヤ6章2節)という御言葉を提示する。もし福音が愛であるならば、福音を伝える者たちの共同体も必ずや、愛の喜びと一致に満ちるべきだというのだ。イエスが「すでに世に勝った」(ヨハネ16章33節)と宣言されるとき、それは武力によって世を屈服させるという概念ではなく、愛と仕える姿勢によって勝つという逆説的な勝利であることを想起させる。ゆえに教会が福音を掴み、真に互いを愛する姿で世に仕えるなら、その姿自体が世に対する強力な証しになるのだ、と張ダビデ牧師は強調する。 結論として、張ダビデ牧師のメッセージの中では、「福音の核心とは、神の御子が私たちのために来られ、死なれ、そして復活によって愛を完成された」という宣言に要約される。どんな哲学的理論や倫理的教えでも代わりになりえない、この地上のすべての罪人に開かれた壮大な愛の物語こそが福音なのである。そしてこの福音の前に立つすべての人は、その愛の出来事に反応して変えられた生を生きるようになる—これが彼の第一の強調点である。 罪と義、そして代贖(だいしょく)の道 張ダビデ牧師が第二に深く取り上げる中心テーマは「罪と義、そして代贖」である。もし福音が愛であるとするなら、人間にはなぜこのような犠牲と救いが必要だったのか。その根底には、人間が自力では解決できない罪の問題がある、と彼は語る。 まず、罪とは何であるかを正しく認識しなければ、福音の愛と恵みを完全には理解できないというのが張ダビデ牧師の教えである。聖書全体を貫く概念である罪は、単に道徳的な誤りや社会規範の違反行為を越える。彼はローマ書1章でパウロが宣言した「人間は神を心に留めようとしない」ことこそが罪だ、という定義に注目する。人間には本質的に神を退け、自分が主人となろうとする態度が深く根を張っており、その結果として全世界が罪の支配下に置かれるようになったのだと説明する。 続いて張ダビデ牧師は、この罪がもたらす波及効果を「死が王として君臨する」という表現で要約する。つまり、人間が罪のもとに置かれると、その結末は死であるという。これは単に肉体的死だけでなく、永遠の滅びと断絶を意味している。したがって、人間はいくら善行を積み、律法を守ろうとしても、自力では罪と死の権威に打ち勝つことができない絶望的状況に直面しているというのだ。律法は罪が何であるかを明確にし、罪をより鮮明に暴く機能を果たすだけであって、罪からの完全な解放は与えてくれない。 まさにこの地点で、イエス・キリストの「代贖(だいしょく)」の出来事が炸裂する。代贖とは文字通り「誰かが代わりにその代価を支払うこと」を意味するが、張ダビデ牧師はこれを単なる商取引上の概念で終わらせてはならないと強調する。旧約の犠牲制度(特にレビ記16章の贖罪日)の儀式で、動物を屠って血を流し、人々の罪を覆った象徴が、イエス・キリストの十字架で「完全なかたち」で実現したのだ。すなわち、すべての罪人が犯した不従順と反逆、それに伴う死の刑罰をイエスご自身が背負われたということである。 張ダビデ牧師がローマ書5章18-19節をしばしば取り上げるのも、この代贖の概念を明確に説明するためである。「ひとりの人アダムによって全人類が罪のもとに置かれたが、もうひとりの人イエス・キリストによって多くの人が義とされ、命に至る道が開かれた」というパウロの宣言に、福音の核心がある。この言葉は、人類が罪の鎖から抜け出せなかった根本的限界を、イエス・キリストの従順と犠牲によって一気に覆したということを意味する。 張ダビデ牧師は、代贖の本質が「愛」であることを付け加える。もし代贖をひたすら律法的な視点だけで理解しようとするなら、私たちが思い描くイメージは「公正な裁き主が罪人に当然の刑罰を執行しなければならないので、誰かが代わりに血を支払った」という、どこか冷たい取引方式になりがちである。しかしイエス・キリストが十字架の上で血を流された場面は、単に「刑罰を代わりに受けた」という形而上学的・法廷的概念にとどまらない。それは神が私たちに与えてくださった「全面的な賜物」であり、イエスが自発的に進んで私たちに差し出された「自己犠牲の愛」なのだ、と張ダビデ牧師は言う。この点が理解されるとき、私たちは初めて十字架の出来事がいかに途方もない波及力を持っているかを悟ることができる。 こうして人間には、この代贖の愛を受け入れ、福音を信じることによって「義とされる」道が開かれる。パウロがガラテヤ書などで力説した「信仰による義(イシンチンギ)」の原理は、張ダビデ牧師が語る福音の論理と正確に結びつく。彼によると、私たちが福音を受け取った瞬間、もはや「罪人」の身分ではなくなり、神の前で「義人」と宣言されるという。それは私たちの内面に実際に道徳的な完璧さが生まれるからではなく、イエス・キリストがすでに罪の代価を支払われたからである。義が「転嫁(てんか)」されるという神学的概念が現実に適用されるわけだ。 張ダビデ牧師はまた、ヘブライ書にある「私たちもキャンプの外へ出て行こう」という表現を好んで引用する。旧約の犠牲制度では、罪を負わされたヤギや羊は陣営の外へ追い出され、そこで屠られた。イエスもエルサレムの城門の外にあるゴルゴタの丘で十字架にかけられ、「贖罪の子羊」の役割をまっとうされたというのである。「私たちもキャンプの外へ出て行こう」という勧めは、イエスの苦難にあずかり、代贖の道を見習え、という挑戦として読める。 ここで重要なのは、代贖をただ神学用語として学び、頭だけで理解して終わらせないことだ。張ダビデ牧師は、代贖が福音の核心部分である以上、私たちもイエスが歩まれた道に倣うべきだと説く。すなわち、私たちがこの地で福音を生きるとき、互いの重荷を負い合い、ときには迫害や誤解をも受け入れつつ、愛をもって仕える生き方を選ばなければならない。これこそイエスの「代贖的愛」を私たちも生き方として受け入れる具体的な表れなのだ。私たちは世を裁く指さしや暴力で変えることはできないが、イエスがなさったように、愛をもってご自身を差し出し「キャンプの外」へと踏み出す姿勢こそが、世界を癒やすことのできる道だというのである。 張ダビデ牧師は、代贖が最終的に「復活」と結び付くときに完全に完成する点を重ねて強調する。もしイエスの十字架が人類の罪を身代わりに負った決定的な犠牲だったとするなら、イエスの復活は「死の権勢さえも打ち破った」という神の究極的宣言となる。もしイエス・キリストが死からよみがえられなかったなら、代贖のメッセージは途中で終わってしまうかもしれない。だが実際に復活の出来事が起こったゆえに、罪と死の束縛が完全に断ち切られ、新たな命が与えられる救いの力が証明されたのだ。代贖が罪の赦しを意味するならば、復活はその赦しを受け取った者たちが得る「永遠の命」を保証する出来事と言える。 要するに、張ダビデ牧師が語る「罪と義、そして代贖の道」は、福音の骨格そのものである。罪のもとに囚われ、律法では到底解決できなかった人間が、イエス・キリストの代贖的犠牲と復活によってついに義の身分を得るに至ったという宣言だ。そしてその義を経験した人は、自分中心の生き方を脱却し、互いの重荷を担い、喜んでキャンプの外へ出て行き、苦難の中でも愛と従順に生きるようになる。この道は世の価値観とはまったく異なる「十字架の道」という逆説的なスタイルだが、それこそ真の救いの力だというのだ。 宇宙的出来事としての救いと復活 張ダビデ牧師が第三に強調するテーマは、福音が単なる個人の霊的体験や教会の敬虔生活の次元を越えた「宇宙的出来事」であるという事実である。イエス・キリストの誕生と十字架、そして復活は、特定の時空間で起きた歴史的出来事であると同時に、全宇宙と歴史のすべての局面に影響を及ぼす決定的転換点だというのだ。 彼はしばしばローマ書5章を例に挙げ、アダムひとりによって罪が全人類に広がったように、イエス・キリストひとりによって「罪の赦しと義とされる道」がすべての人に開かれたと説明する。この言葉は、イエス・キリストの救いのみわざに、人類の運命を丸ごとひっくり返す宇宙的意味が内包されていることを示す。もし私たちが福音を単に「個人的な救いの体験」や「何らかの特別な不思議な出来事」としてだけ理解するなら、そのスケールを狭めてしまうことになる、と彼は言う。 張ダビデ牧師は、この宇宙的視点をはっきりと示すために、旧約の預言と福音書に描かれるイエスのエルサレム入城の場面をしばしば関連づけて解釈する。ダニエル書7章に登場する「雲に乗って来る人の子」は、当時のユダヤ人が待ち望んでいた終末論的王、すなわち全世界を裁き治める絶対的主権者のイメージを反映している。しかしイエスは実際にエルサレムに入城される際、ゼカリヤ書9章9節の預言どおり「ろばに乗って、へりくだって」おいでになった。これは「全能の王であるが、自分の民と苦難をともにするへりくだった王」という、複合的なイメージとして成就するのである。 張ダビデ牧師は、このような姿を「神の顕現の方式」と呼ぶ。世の権力者たちは戦車や軍馬に乗って凱旋将軍のように登場し、自らの権勢と力を誇示する。しかし神の御子であるイエスは、むしろ最も低い者の姿で、最も卑しい姿で入城された。彼が指摘するのは、これは世の人々には愚かで弱々しく見えるが、神の救いの方法はまさにこの逆説の上に築かれているということである(参照:コリント第一1章)。 そして、イエスが十字架で死なれる場面は、群衆の期待とは正反対にあまりにも惨めに見えた。ローマ人にとっても十字架刑は極悪非道な犯罪者に適用される「呪いの処刑」だったし、ユダヤ人にとっても「木にかけられた者は呪われている」(申命記21章23節)という律法の文言からして、十字架刑は決してメシアにふさわしい死に方ではなかった。しかし張ダビデ牧師は、この点で「愛の王」であり「苦難を受けるしもべ」として預言されたイザヤ書53章を引き合いに出し、イエスの死は決して敗北や呪いではなく、むしろ罪と死を背負う贖い(救い)の勝利なのだと解釈する。神の全能性は人間の常識を打ち破る方法で歴史を導き、その究極の目的が愛と救いにあるがゆえ、十字架こそが栄光のしるしになるのだという。 張ダビデ牧師は特に「復活」に焦点を合わせる。もしイエスが十字架で死なれてそこで終わっていたなら、宇宙的出来事と呼ぶ根拠は弱まるかもしれない。だがイエスは三日目に死を打ち破ってよみがえられた。福音書は共通してこの復活の場面を記録し、その結果弟子たちは恐怖から大胆さへ、落胆から情熱的な証人へと変えられた。これは、死という全宇宙的かつ普遍的な限界を越えて新しい世界が開かれた決定的証拠となる。死という人類最大の敵を断ち切り、永遠の命の時代を開いたのだから、その影響は個人を越えて全宇宙に及ぶという解釈である。 張ダビデ牧師は、ホーリーウィーク(受難週)と呼ばれるイエス最後の一週間を黙想しながら、このわずか一週間の中に歴史と宇宙が圧縮されていると説明する。シュロの主日(棕櫚の主日)にイエルサレムへ入城するイエスの姿に始まり、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、十字架刑、そして復活へと至る一連の流れを追うと、人間と歴史の運命を変える救いの叙事詩が完結するというのだ。特にゲッセマネの園で、イエスが血のような汗を流して祈られた場面は、イエスが十字架への道を能動的に選ばれたことを示している。イエスはただ不当に犠牲にされた子羊ではなく、人類の罪を担い、死を打ち破るための王としての戴冠式を前に、壮絶な霊的闘いをなさったのだ。 したがって張ダビデ牧師は、イエスの死と復活が決して小さく局所的な出来事ではなく、すべての時代とすべての空間を貫く「宇宙的結晶」だという。この事実が分かるとき、信仰者は単に宗教行事に参加するレベルを越え、存在全体がひっくり返される体験をするようになる。私たちがこの世で直面する苦しみや挫折も、イエスがすでに十字架によって引き受けてくださり、その結果復活によって最終的に勝利されたのだから、どのような状況でも絶望に縛られなくてすむ、という希望を抱くことができるというのだ。 張ダビデ牧師は、この宇宙的救いの出来事が各個人の人生に「具体的現実」となるように祈っている。彼が宣教や教育の現場で一貫して強調しているのは、「福音が世界を変える」という壮大な言葉が、実際に教会と信徒の日常に適用されなければならないということだ。もし日常において福音の力を経験しなければ、宇宙的救いの出来事の雄大さも、単なる教義や理論にとどまる可能性が高い。しかし日常生活でイエスの歩まれた道に倣って愛と仕え合いを実践し、復活の力に頼るとき、共同体の内でも世の中でも「神の統治」が具現化されるような奇跡が起こるのだ、と彼は言う。 さらに、聖書が語る「新しい天と新しい地」(黙示録21章)は、復活の完全なる結論であり最終的な指向点だと張ダビデ牧師は解釈する。それは死後にのみ享受する天国にとどまらず、すでにイエス・キリストの復活によって始まった永遠の命の統治であるという。すなわち、イエスを信じることにより、私たちは今この地上においても復活の命にあずかることができ、究極的には世全体がイエスの再臨とともに完成された救いの世界へと入り込む。こうした意味で、復活はすでに成就しつつも、まだ完全には到来していない未来の領域を同時に示す「成就と緊張」を内包している、と彼は語る。 ホーリーウィークを経てイースター(復活祭)に至るまで、教会の伝統はこの過程で「十字架と復活」を中心主題として記念してきた。張ダビデ牧師は、イエスが十字架へ進む道は苦難と恥辱の道だったことを詳しく解き明かす一方で、その道が最終的には「栄光と勝利の道」という逆説的結末に至ることを強調する。イエスは正しい者としてではなく、罪人の姿で世の罪を担うために十字架刑に処せられたが、その死の場所で宇宙的な愛と救いが爆発したのである。そしてこれを信じて受け入れるすべての人間は、過去・現在・未来を問わず、イエスとともに復活にあずかることになる、と宣言する。 加えて、彼はこの復活信仰が教会共同体において具体的にどのように実現されるべきかを提示している。教会がイエス・キリストの体であるならば、教会は「復活の命」を世に示す場所でなければならない。すなわち、貧しい人々に対して憐れみや分かち合いを実践し、不正な権力や世の風潮に対して真理を宣言し、互いに仕え合い愛し合うことで、この世にはない真の和解と平和を示すべきだ。これこそ復活されたイエスに従う共同体なら当然生じる実である、と張ダビデ牧師は語る。 結論として、宇宙的出来事としての救いと復活は、張ダビデ牧師のメッセージの中で最も広大な地平を開くテーマである。人間個人の罪問題と義認、代贖による自由と喜びを越えて、この出来事は歴史と宇宙全体を再編する。張ダビデ牧師は繰り返しこの点を強調し、福音を単なる「宗教的教義」や「敬虔な知識」に縮小せず、人類と宇宙のすべてが参加する壮大なドラマとして受け止めるよう呼びかける。そしてこのドラマの核心は、イエス・キリストの十字架と復活が見せた「逆説的愛の力」である、と語る。その愛は、世のいかなる神話や叙事詩も担いきれない真の命と真理を内包しており、信じる者にとっては永遠の希望となる。 結論 第一に、「福音の核心と神の愛」では、福音を神の全面的な愛と結びつけて説明し、イエス・キリストの来臨と死、そして復活のすべてが罪深い人間を救うための神の贈り物であることを浮き彫りにする。福音こそ単なる教義や情報ではなく、命の力であり、神の愛の表現であり、誰でもこの福音を信じ受け入れる者は新しい命を得て、その愛を証しする生き方をするようになる、というメッセージが伝えられる。 第二に、「罪と義、そして代贖の道」では、人間が置かれている罪と死の実存的問題を深く考察し、律法では到底解決できないこの問題をイエス・キリストの代贖的犠牲によってのみ救われることを説く。イエスはあらゆる罪人の立場に立たれ、その血の流しと復活を通して私たちを罪から解き放ってくださったという宣言は、ローマ書やヘブライ書など聖書の多くの箇所と結びつき、強力な解放の真理となる。代贖を単なる法廷言語に閉じ込めるのではなく、イエスの自己犠牲的愛として捉え体験することによって、私たちの生き方もまた変革されるべきだという勧めが核心である。 第三に、「宇宙的出来事としての救いと復活」では、イエス・キリストの誕生、死、復活が特定の民族や歴史の一場面を越えて、宇宙全体を揺り動かす決定的転換点だと強調される。ダニエル書やゼカリヤ書、イザヤ書と福音書が交わるところで、十字架と復活がどのように神の顕現の方式を示しているのかを張ダビデ牧師は解説する。そして復活は死さえ克服された神の絶対的勝利であり、その喜びと力を信じる者は、今もこれからも永遠の命を享受し得る、と確信させる。 以上三つの軸に沿って福音を眺めるなら、結局イエス・キリストの道は愛と救いの道であり、主が示された苦難と復活はすべての時代と宇宙における唯一の希望として位置づけられる。張ダビデ牧師は、この事実を回心と信仰、そして生涯の献身へとつなげるよう信徒を励ましている。たとえ人生で試練や誘惑、絶望に直面しようとも、主がすでに歩まれた十字架と復活の道が真理であり命の道であることを堅く信じ続けよ、というのである。そのとき人の生は完全に新しくされ、福音は私たちの内面や共同体、さらには世界を変革する力となる。 要するに、張ダビデ牧師の説教は「福音とは何か」という神学的・教理的説明を超え、「その福音をいかに生きるか」という具体的実践を促す。イエスのへりくだりと従順、そして仕えと犠牲、何より代贖的な愛こそが、この地に何よりも必要な価値であり、神の国が到来するかたちだというのだ。そしてその中心にある出来事が「十字架と復活」であり、それこそが人類の罪と死の問題を根底から解決し、個人と全世界に対して新時代を切り開いた「宇宙的福音」であると、彼は力強く語る。 このメッセージは、教会の礼拝や宣教活動、信徒の霊的生活、さらには社会における教会の役割といった幅広い領域に適用可能である。十字架の愛にならい互いをケアし、キャンプの外へともに踏み出し、復活の喜びを世と分かち合うことは、決して容易な課題ではない。しかしすでにイエスが私たちにその道を示され、復活によって力を保証してくださった、と張ダビデ牧師は強調する。ゆえにこの愛と力を信じ頼る者は恐れを捨てることができ、むしろ世の闇の中でも動揺せず真理を証しする人生を送れるというのである。 結論として、張ダビデ牧師のあらゆる教えは、「福音」という壮大な主題を三つの軸―「神の愛」、「代贖の道」、「宇宙的救い」―に還元して語ることができる。この三つの軸は互いに切り離せず、ともに織り合わさって私たちをイエス・キリストの真の救いへと導く。したがって、このメッセージを聞き黙想する者は、クリスマスにイエスの来臨を喜び、受難週にイエスの十字架を覚え、イースターにイエスの勝利を讃えるとき、このすべての出来事が一つの救いの物語であることを繰り返し思い返すようになる。そしてこれは、全宇宙と歴史、そして私たちの日常を貫いて進行する神の救いのドラマが、どれほど荘厳で驚くべきものであるかを改めて実感させる契機ともなる。 このように福音は、人間の限界と罪があるにもかかわらず、罪人を最後まで愛される神のご性質を体得させ、その愛を見習って世に出て互いに仕える共同体を形成させる。代贖は、罪と罰という法廷的概念を越えて、神の子どもという新たな身分とともに真の自由と喜びを私たちに贈る。宇宙的救いと復活の出来事は、個人の問題解決を越えて世界全体に及ぶ神のご計画を明らかにする。そこにあずかる者は、すでに新しい時代を生き始めており、完成する未来を希望のうちに待ち望むのだ。 これらすべての洞察が一つに集約されるとき、私たちは張ダビデ牧師が説く福音のメッセージが、単なる理論ではなく、現実の人生のあらゆる領域を一変させる「生きた御言葉」であることを悟るようになる。結局、人間の歴史と宇宙が、自力で自らを救う力は持たないゆえに福音が必要なのである。神の御子イエス・キリストのご降誕、死、復活を通じてこそ、罪と死が克服される道が開かれ、その道を歩むすべての者に永遠の命と勝利が与えられる。これこそが、張ダビデ牧師が繰り返し繰り返し宣言する福音の核心であり、私たちすべてへの最大の招きであり、贈り物なのだ。