福音と神の愛 – 張ダビデ牧師

福音の核心と神の愛 張ダビデ牧師が説教や講演の中で繰り返し強調している中心的テーマは、まさに「福音」である。彼は、福音を「神の御子であるイエス・キリストがこの地上に来られ、人間のあらゆる罪と苦しみを負って死なれ、そして復活によって人類に新たな命の道を開かれた救いの出来事全体」として理解している。彼にとって福音とは単なる宗教的教義ではなく、人類史から宇宙的次元に至るまで、すべてをひっくり返す決定的な出来事なのである。 福音を定義する際に、ヨハネの福音書3章16節は常に重要な出発点として提示される。すなわち「神はその独り子を惜しまず与えるほどに世を愛された……」というこの御言葉は、福音が何よりもまず「神の愛」を宣言していることを如実に示している。張ダビデ牧師はこの聖句に言及しながら、私たちが罪のせいで永遠に断絶されていた存在であったにもかかわらず、神は全面的な賜物としてイエス・キリストを送ってくださった事実を深く黙想すべきだと力説する。私たちが福音を喜び、胸を躍らせながら、同時に福音の前で敬虔な恐れとへりくだりを持つようになるのは、まさにこの神の愛の大きさによるのである。 彼はしばしばローマ書5章8節を引用する。「私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死なれたことによって、神はご自身の愛を明らかにしてくださった」というこの御言葉は、神が人間の何らかの資格を見て愛を注がれたわけではないことを示している。むしろ人間は罪のもとにあり、自力では救いに至ることが到底不可能な状態にあったにもかかわらず、神は一切の条件なしにイエス・キリストを送ってくださったというのである。ここで張ダビデ牧師は、福音を単なる道徳的手本や宗教儀式に限定せず、徹底して「恵みの出来事」として認識すべきだという。すなわち、福音は人間の善行や正しさによってではなく「神の贈り物」として与えられたものである以上、どんな人間的誇りが入り込む余地もないということだ。 張ダビデ牧師は、福音を「愛の出来事」と呼び、その愛が具体的に表される現場が十字架だと強調する。愛は口先だけで叫ぶと空虚になりうるが、神の愛はイエス・キリストのへりくだりと死、そして復活を通して「歴史的事実」となった。イエスがご自身を完全に空にして、人間のすべての罪を負い、代償の生贄となられた出来事は、ほかのいかなる形態の愛とも比べようのない、まさに絶対的かつ「比類なき」愛だという。この愛こそ、福音が伝える喜ばしい知らせのエッセンスである、と彼は語る。 そしてもし福音が愛であるなら、その愛を証しすることは避けられない当然の義務となる。すなわち、「神の御子がこの地上に来られ、私たちのために死なれ、死を打ち破って復活された」という事実を知った者は、必然的にそれを「証し」するようになるのだ。張ダビデ牧師は、使徒行伝で弟子たちや使徒たちがどのように証ししていたかをしばしば例に挙げる。ステパノは激しい迫害の中で石打ちに遭い殉教する直前まで、イエスこそ人類の救い主であると伝え続けた。ペテロはペンテコステの日に聖霊が下った後、エルサレムの大衆の前で福音を叫び、パウロは異邦の地を巡りながら福音の証言をやめなかった。彼らは自分の人生を懸け、どんな代価を払ってでもイエスが「真の命の道」であることを世に知らせたのである。 これほどの証しが可能だった理由は、彼らが福音を「知識」としてだけでなく、「愛」として体験していたからだ。張ダビデ牧師は、この愛の体験を「福音に捕らえられること」と表現する。福音が単に「イエスとは誰かを頭で理解すること」で終わるなら、それはパリサイ的な知識にすぎない。真の福音体験は、イエス・キリストの愛が自分の罪と絶望を解決してくれたことを悟り、存在全体が変えられる出来事である。だからこそ、イエス・キリストを知った人は自然に福音の証人となり、この地上に向かって「神の愛」を伝える使命を担うのだ。 張ダビデ牧師は、福音が万人に開かれていることも強調する。背景や学識、道徳的資格の有無に関係なく、すべての罪人に「罪の赦しと新しい命」が宣言されたのがイエス・キリストの十字架であるという。特に使徒行伝2章でペテロが説教する場面にある「だれでも主の御名を呼び求める者は救われる」(使徒2:21)という宣言を言及しつつ、福音は決して特定の民族や集団だけのためのものではないと明確に示す。ゆえに張ダビデ牧師のメッセージの中では、「神の愛」という共通分母が民族や言語の壁を超え、歴史と文化の限界を超えて、罪の中で苦しむすべての人生に訪れる全面的な恵みの実体として繰り返し示されるのだ。 さらに彼は、福音が宇宙的であると同時に個人的なメッセージでもあることを重ねて想起させる。すなわち、福音は宇宙的次元で人類全体の運命を変えた出来事であると同時に、一人ひとりの内面と生き方を転換させる力でもある。私たちが福音を受け取り信じるとき、それはもはや概念や教義ではなく、私たちの内面で爆発する「新しい命の力」として働く。愛を受けた者は愛を流さずにいられず、恵みを体験した者はその恵みを世に伝えずにはいられない。だからこそ張ダビデ牧師は、福音こそが「この世に必要な唯一の希望」であり、その確固たる土台の上に教会と共同体が打ち立てられるべきだと力説する。 また彼は、福音を信じ従う人々の間で自然に現れる実りとして「互いの重荷を負い合い、愛し合え」(ガラテヤ6章2節)という御言葉を提示する。もし福音が愛であるならば、福音を伝える者たちの共同体も必ずや、愛の喜びと一致に満ちるべきだというのだ。イエスが「すでに世に勝った」(ヨハネ16章33節)と宣言されるとき、それは武力によって世を屈服させるという概念ではなく、愛と仕える姿勢によって勝つという逆説的な勝利であることを想起させる。ゆえに教会が福音を掴み、真に互いを愛する姿で世に仕えるなら、その姿自体が世に対する強力な証しになるのだ、と張ダビデ牧師は強調する。 結論として、張ダビデ牧師のメッセージの中では、「福音の核心とは、神の御子が私たちのために来られ、死なれ、そして復活によって愛を完成された」という宣言に要約される。どんな哲学的理論や倫理的教えでも代わりになりえない、この地上のすべての罪人に開かれた壮大な愛の物語こそが福音なのである。そしてこの福音の前に立つすべての人は、その愛の出来事に反応して変えられた生を生きるようになる—これが彼の第一の強調点である。 罪と義、そして代贖(だいしょく)の道 張ダビデ牧師が第二に深く取り上げる中心テーマは「罪と義、そして代贖」である。もし福音が愛であるとするなら、人間にはなぜこのような犠牲と救いが必要だったのか。その根底には、人間が自力では解決できない罪の問題がある、と彼は語る。 まず、罪とは何であるかを正しく認識しなければ、福音の愛と恵みを完全には理解できないというのが張ダビデ牧師の教えである。聖書全体を貫く概念である罪は、単に道徳的な誤りや社会規範の違反行為を越える。彼はローマ書1章でパウロが宣言した「人間は神を心に留めようとしない」ことこそが罪だ、という定義に注目する。人間には本質的に神を退け、自分が主人となろうとする態度が深く根を張っており、その結果として全世界が罪の支配下に置かれるようになったのだと説明する。 続いて張ダビデ牧師は、この罪がもたらす波及効果を「死が王として君臨する」という表現で要約する。つまり、人間が罪のもとに置かれると、その結末は死であるという。これは単に肉体的死だけでなく、永遠の滅びと断絶を意味している。したがって、人間はいくら善行を積み、律法を守ろうとしても、自力では罪と死の権威に打ち勝つことができない絶望的状況に直面しているというのだ。律法は罪が何であるかを明確にし、罪をより鮮明に暴く機能を果たすだけであって、罪からの完全な解放は与えてくれない。 まさにこの地点で、イエス・キリストの「代贖(だいしょく)」の出来事が炸裂する。代贖とは文字通り「誰かが代わりにその代価を支払うこと」を意味するが、張ダビデ牧師はこれを単なる商取引上の概念で終わらせてはならないと強調する。旧約の犠牲制度(特にレビ記16章の贖罪日)の儀式で、動物を屠って血を流し、人々の罪を覆った象徴が、イエス・キリストの十字架で「完全なかたち」で実現したのだ。すなわち、すべての罪人が犯した不従順と反逆、それに伴う死の刑罰をイエスご自身が背負われたということである。 張ダビデ牧師がローマ書5章18-19節をしばしば取り上げるのも、この代贖の概念を明確に説明するためである。「ひとりの人アダムによって全人類が罪のもとに置かれたが、もうひとりの人イエス・キリストによって多くの人が義とされ、命に至る道が開かれた」というパウロの宣言に、福音の核心がある。この言葉は、人類が罪の鎖から抜け出せなかった根本的限界を、イエス・キリストの従順と犠牲によって一気に覆したということを意味する。 張ダビデ牧師は、代贖の本質が「愛」であることを付け加える。もし代贖をひたすら律法的な視点だけで理解しようとするなら、私たちが思い描くイメージは「公正な裁き主が罪人に当然の刑罰を執行しなければならないので、誰かが代わりに血を支払った」という、どこか冷たい取引方式になりがちである。しかしイエス・キリストが十字架の上で血を流された場面は、単に「刑罰を代わりに受けた」という形而上学的・法廷的概念にとどまらない。それは神が私たちに与えてくださった「全面的な賜物」であり、イエスが自発的に進んで私たちに差し出された「自己犠牲の愛」なのだ、と張ダビデ牧師は言う。この点が理解されるとき、私たちは初めて十字架の出来事がいかに途方もない波及力を持っているかを悟ることができる。 こうして人間には、この代贖の愛を受け入れ、福音を信じることによって「義とされる」道が開かれる。パウロがガラテヤ書などで力説した「信仰による義(イシンチンギ)」の原理は、張ダビデ牧師が語る福音の論理と正確に結びつく。彼によると、私たちが福音を受け取った瞬間、もはや「罪人」の身分ではなくなり、神の前で「義人」と宣言されるという。それは私たちの内面に実際に道徳的な完璧さが生まれるからではなく、イエス・キリストがすでに罪の代価を支払われたからである。義が「転嫁(てんか)」されるという神学的概念が現実に適用されるわけだ。 張ダビデ牧師はまた、ヘブライ書にある「私たちもキャンプの外へ出て行こう」という表現を好んで引用する。旧約の犠牲制度では、罪を負わされたヤギや羊は陣営の外へ追い出され、そこで屠られた。イエスもエルサレムの城門の外にあるゴルゴタの丘で十字架にかけられ、「贖罪の子羊」の役割をまっとうされたというのである。「私たちもキャンプの外へ出て行こう」という勧めは、イエスの苦難にあずかり、代贖の道を見習え、という挑戦として読める。 ここで重要なのは、代贖をただ神学用語として学び、頭だけで理解して終わらせないことだ。張ダビデ牧師は、代贖が福音の核心部分である以上、私たちもイエスが歩まれた道に倣うべきだと説く。すなわち、私たちがこの地で福音を生きるとき、互いの重荷を負い合い、ときには迫害や誤解をも受け入れつつ、愛をもって仕える生き方を選ばなければならない。これこそイエスの「代贖的愛」を私たちも生き方として受け入れる具体的な表れなのだ。私たちは世を裁く指さしや暴力で変えることはできないが、イエスがなさったように、愛をもってご自身を差し出し「キャンプの外」へと踏み出す姿勢こそが、世界を癒やすことのできる道だというのである。 張ダビデ牧師は、代贖が最終的に「復活」と結び付くときに完全に完成する点を重ねて強調する。もしイエスの十字架が人類の罪を身代わりに負った決定的な犠牲だったとするなら、イエスの復活は「死の権勢さえも打ち破った」という神の究極的宣言となる。もしイエス・キリストが死からよみがえられなかったなら、代贖のメッセージは途中で終わってしまうかもしれない。だが実際に復活の出来事が起こったゆえに、罪と死の束縛が完全に断ち切られ、新たな命が与えられる救いの力が証明されたのだ。代贖が罪の赦しを意味するならば、復活はその赦しを受け取った者たちが得る「永遠の命」を保証する出来事と言える。 要するに、張ダビデ牧師が語る「罪と義、そして代贖の道」は、福音の骨格そのものである。罪のもとに囚われ、律法では到底解決できなかった人間が、イエス・キリストの代贖的犠牲と復活によってついに義の身分を得るに至ったという宣言だ。そしてその義を経験した人は、自分中心の生き方を脱却し、互いの重荷を担い、喜んでキャンプの外へ出て行き、苦難の中でも愛と従順に生きるようになる。この道は世の価値観とはまったく異なる「十字架の道」という逆説的なスタイルだが、それこそ真の救いの力だというのだ。 宇宙的出来事としての救いと復活 張ダビデ牧師が第三に強調するテーマは、福音が単なる個人の霊的体験や教会の敬虔生活の次元を越えた「宇宙的出来事」であるという事実である。イエス・キリストの誕生と十字架、そして復活は、特定の時空間で起きた歴史的出来事であると同時に、全宇宙と歴史のすべての局面に影響を及ぼす決定的転換点だというのだ。 彼はしばしばローマ書5章を例に挙げ、アダムひとりによって罪が全人類に広がったように、イエス・キリストひとりによって「罪の赦しと義とされる道」がすべての人に開かれたと説明する。この言葉は、イエス・キリストの救いのみわざに、人類の運命を丸ごとひっくり返す宇宙的意味が内包されていることを示す。もし私たちが福音を単に「個人的な救いの体験」や「何らかの特別な不思議な出来事」としてだけ理解するなら、そのスケールを狭めてしまうことになる、と彼は言う。 張ダビデ牧師は、この宇宙的視点をはっきりと示すために、旧約の預言と福音書に描かれるイエスのエルサレム入城の場面をしばしば関連づけて解釈する。ダニエル書7章に登場する「雲に乗って来る人の子」は、当時のユダヤ人が待ち望んでいた終末論的王、すなわち全世界を裁き治める絶対的主権者のイメージを反映している。しかしイエスは実際にエルサレムに入城される際、ゼカリヤ書9章9節の預言どおり「ろばに乗って、へりくだって」おいでになった。これは「全能の王であるが、自分の民と苦難をともにするへりくだった王」という、複合的なイメージとして成就するのである。 張ダビデ牧師は、このような姿を「神の顕現の方式」と呼ぶ。世の権力者たちは戦車や軍馬に乗って凱旋将軍のように登場し、自らの権勢と力を誇示する。しかし神の御子であるイエスは、むしろ最も低い者の姿で、最も卑しい姿で入城された。彼が指摘するのは、これは世の人々には愚かで弱々しく見えるが、神の救いの方法はまさにこの逆説の上に築かれているということである(参照:コリント第一1章)。 そして、イエスが十字架で死なれる場面は、群衆の期待とは正反対にあまりにも惨めに見えた。ローマ人にとっても十字架刑は極悪非道な犯罪者に適用される「呪いの処刑」だったし、ユダヤ人にとっても「木にかけられた者は呪われている」(申命記21章23節)という律法の文言からして、十字架刑は決してメシアにふさわしい死に方ではなかった。しかし張ダビデ牧師は、この点で「愛の王」であり「苦難を受けるしもべ」として預言されたイザヤ書53章を引き合いに出し、イエスの死は決して敗北や呪いではなく、むしろ罪と死を背負う贖い(救い)の勝利なのだと解釈する。神の全能性は人間の常識を打ち破る方法で歴史を導き、その究極の目的が愛と救いにあるがゆえ、十字架こそが栄光のしるしになるのだという。 張ダビデ牧師は特に「復活」に焦点を合わせる。もしイエスが十字架で死なれてそこで終わっていたなら、宇宙的出来事と呼ぶ根拠は弱まるかもしれない。だがイエスは三日目に死を打ち破ってよみがえられた。福音書は共通してこの復活の場面を記録し、その結果弟子たちは恐怖から大胆さへ、落胆から情熱的な証人へと変えられた。これは、死という全宇宙的かつ普遍的な限界を越えて新しい世界が開かれた決定的証拠となる。死という人類最大の敵を断ち切り、永遠の命の時代を開いたのだから、その影響は個人を越えて全宇宙に及ぶという解釈である。 張ダビデ牧師は、ホーリーウィーク(受難週)と呼ばれるイエス最後の一週間を黙想しながら、このわずか一週間の中に歴史と宇宙が圧縮されていると説明する。シュロの主日(棕櫚の主日)にイエルサレムへ入城するイエスの姿に始まり、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、十字架刑、そして復活へと至る一連の流れを追うと、人間と歴史の運命を変える救いの叙事詩が完結するというのだ。特にゲッセマネの園で、イエスが血のような汗を流して祈られた場面は、イエスが十字架への道を能動的に選ばれたことを示している。イエスはただ不当に犠牲にされた子羊ではなく、人類の罪を担い、死を打ち破るための王としての戴冠式を前に、壮絶な霊的闘いをなさったのだ。 したがって張ダビデ牧師は、イエスの死と復活が決して小さく局所的な出来事ではなく、すべての時代とすべての空間を貫く「宇宙的結晶」だという。この事実が分かるとき、信仰者は単に宗教行事に参加するレベルを越え、存在全体がひっくり返される体験をするようになる。私たちがこの世で直面する苦しみや挫折も、イエスがすでに十字架によって引き受けてくださり、その結果復活によって最終的に勝利されたのだから、どのような状況でも絶望に縛られなくてすむ、という希望を抱くことができるというのだ。 張ダビデ牧師は、この宇宙的救いの出来事が各個人の人生に「具体的現実」となるように祈っている。彼が宣教や教育の現場で一貫して強調しているのは、「福音が世界を変える」という壮大な言葉が、実際に教会と信徒の日常に適用されなければならないということだ。もし日常において福音の力を経験しなければ、宇宙的救いの出来事の雄大さも、単なる教義や理論にとどまる可能性が高い。しかし日常生活でイエスの歩まれた道に倣って愛と仕え合いを実践し、復活の力に頼るとき、共同体の内でも世の中でも「神の統治」が具現化されるような奇跡が起こるのだ、と彼は言う。 さらに、聖書が語る「新しい天と新しい地」(黙示録21章)は、復活の完全なる結論であり最終的な指向点だと張ダビデ牧師は解釈する。それは死後にのみ享受する天国にとどまらず、すでにイエス・キリストの復活によって始まった永遠の命の統治であるという。すなわち、イエスを信じることにより、私たちは今この地上においても復活の命にあずかることができ、究極的には世全体がイエスの再臨とともに完成された救いの世界へと入り込む。こうした意味で、復活はすでに成就しつつも、まだ完全には到来していない未来の領域を同時に示す「成就と緊張」を内包している、と彼は語る。 ホーリーウィークを経てイースター(復活祭)に至るまで、教会の伝統はこの過程で「十字架と復活」を中心主題として記念してきた。張ダビデ牧師は、イエスが十字架へ進む道は苦難と恥辱の道だったことを詳しく解き明かす一方で、その道が最終的には「栄光と勝利の道」という逆説的結末に至ることを強調する。イエスは正しい者としてではなく、罪人の姿で世の罪を担うために十字架刑に処せられたが、その死の場所で宇宙的な愛と救いが爆発したのである。そしてこれを信じて受け入れるすべての人間は、過去・現在・未来を問わず、イエスとともに復活にあずかることになる、と宣言する。 加えて、彼はこの復活信仰が教会共同体において具体的にどのように実現されるべきかを提示している。教会がイエス・キリストの体であるならば、教会は「復活の命」を世に示す場所でなければならない。すなわち、貧しい人々に対して憐れみや分かち合いを実践し、不正な権力や世の風潮に対して真理を宣言し、互いに仕え合い愛し合うことで、この世にはない真の和解と平和を示すべきだ。これこそ復活されたイエスに従う共同体なら当然生じる実である、と張ダビデ牧師は語る。 結論として、宇宙的出来事としての救いと復活は、張ダビデ牧師のメッセージの中で最も広大な地平を開くテーマである。人間個人の罪問題と義認、代贖による自由と喜びを越えて、この出来事は歴史と宇宙全体を再編する。張ダビデ牧師は繰り返しこの点を強調し、福音を単なる「宗教的教義」や「敬虔な知識」に縮小せず、人類と宇宙のすべてが参加する壮大なドラマとして受け止めるよう呼びかける。そしてこのドラマの核心は、イエス・キリストの十字架と復活が見せた「逆説的愛の力」である、と語る。その愛は、世のいかなる神話や叙事詩も担いきれない真の命と真理を内包しており、信じる者にとっては永遠の希望となる。 結論 第一に、「福音の核心と神の愛」では、福音を神の全面的な愛と結びつけて説明し、イエス・キリストの来臨と死、そして復活のすべてが罪深い人間を救うための神の贈り物であることを浮き彫りにする。福音こそ単なる教義や情報ではなく、命の力であり、神の愛の表現であり、誰でもこの福音を信じ受け入れる者は新しい命を得て、その愛を証しする生き方をするようになる、というメッセージが伝えられる。 第二に、「罪と義、そして代贖の道」では、人間が置かれている罪と死の実存的問題を深く考察し、律法では到底解決できないこの問題をイエス・キリストの代贖的犠牲によってのみ救われることを説く。イエスはあらゆる罪人の立場に立たれ、その血の流しと復活を通して私たちを罪から解き放ってくださったという宣言は、ローマ書やヘブライ書など聖書の多くの箇所と結びつき、強力な解放の真理となる。代贖を単なる法廷言語に閉じ込めるのではなく、イエスの自己犠牲的愛として捉え体験することによって、私たちの生き方もまた変革されるべきだという勧めが核心である。 第三に、「宇宙的出来事としての救いと復活」では、イエス・キリストの誕生、死、復活が特定の民族や歴史の一場面を越えて、宇宙全体を揺り動かす決定的転換点だと強調される。ダニエル書やゼカリヤ書、イザヤ書と福音書が交わるところで、十字架と復活がどのように神の顕現の方式を示しているのかを張ダビデ牧師は解説する。そして復活は死さえ克服された神の絶対的勝利であり、その喜びと力を信じる者は、今もこれからも永遠の命を享受し得る、と確信させる。 以上三つの軸に沿って福音を眺めるなら、結局イエス・キリストの道は愛と救いの道であり、主が示された苦難と復活はすべての時代と宇宙における唯一の希望として位置づけられる。張ダビデ牧師は、この事実を回心と信仰、そして生涯の献身へとつなげるよう信徒を励ましている。たとえ人生で試練や誘惑、絶望に直面しようとも、主がすでに歩まれた十字架と復活の道が真理であり命の道であることを堅く信じ続けよ、というのである。そのとき人の生は完全に新しくされ、福音は私たちの内面や共同体、さらには世界を変革する力となる。 要するに、張ダビデ牧師の説教は「福音とは何か」という神学的・教理的説明を超え、「その福音をいかに生きるか」という具体的実践を促す。イエスのへりくだりと従順、そして仕えと犠牲、何より代贖的な愛こそが、この地に何よりも必要な価値であり、神の国が到来するかたちだというのだ。そしてその中心にある出来事が「十字架と復活」であり、それこそが人類の罪と死の問題を根底から解決し、個人と全世界に対して新時代を切り開いた「宇宙的福音」であると、彼は力強く語る。 このメッセージは、教会の礼拝や宣教活動、信徒の霊的生活、さらには社会における教会の役割といった幅広い領域に適用可能である。十字架の愛にならい互いをケアし、キャンプの外へともに踏み出し、復活の喜びを世と分かち合うことは、決して容易な課題ではない。しかしすでにイエスが私たちにその道を示され、復活によって力を保証してくださった、と張ダビデ牧師は強調する。ゆえにこの愛と力を信じ頼る者は恐れを捨てることができ、むしろ世の闇の中でも動揺せず真理を証しする人生を送れるというのである。 結論として、張ダビデ牧師のあらゆる教えは、「福音」という壮大な主題を三つの軸―「神の愛」、「代贖の道」、「宇宙的救い」―に還元して語ることができる。この三つの軸は互いに切り離せず、ともに織り合わさって私たちをイエス・キリストの真の救いへと導く。したがって、このメッセージを聞き黙想する者は、クリスマスにイエスの来臨を喜び、受難週にイエスの十字架を覚え、イースターにイエスの勝利を讃えるとき、このすべての出来事が一つの救いの物語であることを繰り返し思い返すようになる。そしてこれは、全宇宙と歴史、そして私たちの日常を貫いて進行する神の救いのドラマが、どれほど荘厳で驚くべきものであるかを改めて実感させる契機ともなる。 このように福音は、人間の限界と罪があるにもかかわらず、罪人を最後まで愛される神のご性質を体得させ、その愛を見習って世に出て互いに仕える共同体を形成させる。代贖は、罪と罰という法廷的概念を越えて、神の子どもという新たな身分とともに真の自由と喜びを私たちに贈る。宇宙的救いと復活の出来事は、個人の問題解決を越えて世界全体に及ぶ神のご計画を明らかにする。そこにあずかる者は、すでに新しい時代を生き始めており、完成する未来を希望のうちに待ち望むのだ。 これらすべての洞察が一つに集約されるとき、私たちは張ダビデ牧師が説く福音のメッセージが、単なる理論ではなく、現実の人生のあらゆる領域を一変させる「生きた御言葉」であることを悟るようになる。結局、人間の歴史と宇宙が、自力で自らを救う力は持たないゆえに福音が必要なのである。神の御子イエス・キリストのご降誕、死、復活を通じてこそ、罪と死が克服される道が開かれ、その道を歩むすべての者に永遠の命と勝利が与えられる。これこそが、張ダビデ牧師が繰り返し繰り返し宣言する福音の核心であり、私たちすべてへの最大の招きであり、贈り物なのだ。

福音与上帝的爱 —— 张大卫牧师

福音的核心与上帝的爱 张大卫牧师在讲道和演讲中反复强调的核心主题,就是“福音”。在他的理解中,福音不仅仅是耶稣基督作为上帝之子降临世上,为了承担人类一切罪恶和苦难而受死,并藉着复活为人类开辟了新生命之路的这一救赎事件本身,更是从人类历史到宇宙层面都被彻底翻转的决定性事件。 对于福音的定义,他常常从《约翰福音》第3章第16节开始:“上帝爱世人,甚至把他的独生子赐给他们……”。这节经文清楚地显示,福音首先宣告的就是“上帝的爱”。张大卫牧师提到这段话时,总是强调:即使我们因罪而与上帝永远隔绝,上帝依然完全出于恩典,把耶稣基督赐给了我们。这就是为什么我们在福音面前会欢喜、激动,却也怀着敬畏与谦卑——因为感受到这份上帝之爱的浩大与深沉。 他也常常引用《罗马书》第5章第8节:“惟有基督在我们还作罪人的时候为我们死,上帝的爱就在此向我们显明了。”经文表达的重点在于:上帝并不是因为人有什么资格而赐下他的爱,反而是在我们都陷于罪中、无力自救的绝望状态下,仍然毫无条件地把耶稣基督赐给了我们。在这里,张大卫牧师提醒信徒,绝不能把福音只局限于道德榜样或宗教仪式,而应该彻底地把它当作“恩典的事件”来认识。也就是说,福音并非因为人的善行或公义才临到,而是作为“上帝的礼物”赐下,人根本没有任何可夸口之处。 张大卫牧师把福音称为“爱的事件”,并强调“十字架”就是这爱具体彰显之处。爱若只是挂在口头上,便显得空洞,但上帝的爱通过耶稣基督的降卑、受死与复活,成为了“历史事实”。耶稣完全倒空自己,承担了人类一切的罪,并成为赎罪祭的这一事件,是任何人间的爱都无法比拟的、具有绝对“独一性”的爱。对此,他认为这份爱正是福音之“喜讯”的精髓所在。 如果福音就是爱,那么见证这爱的“使命”便成为不可回避的责任。也就是说,那些知道“上帝的儿子降世、为我们死、并战胜死亡复活”这一事实的人,必然会去见证它。张大卫牧师经常举《使徒行传》中门徒和使徒们的见证作为例子:司提反在极度逼迫中,甚至被石头打死之前,依旧传扬耶稣是人类的救主;彼得在五旬节圣灵降临后,当着整个耶路撒冷百姓的面宣讲福音;保罗则不停奔走于外邦之地,为福音作见证,不惜付出任何代价。他们把生命都摆上,只为向世界宣告耶稣才是真正的生命之路。 之所以能够作出这样的见证,是因为他们不止是“在头脑层面”知道福音,而是“在爱中”体验了福音。张大卫牧师将这爱的体验称为“被福音所掳获”。如果福音仅仅停留在“耶稣是谁”的知识性理解,就会沦为法利赛式的认知。真正的福音体验,是在意识到耶稣基督的爱已挽救了自己的罪与绝望,从而使整个人生彻底更新。因此,认识耶稣基督的人自然而然就会成为福音的见证者,并接受将“上帝的爱”传递给世人的使命。 张大卫牧师也强调,这福音对所有人都敞开。无论出身、学识,亦或道德上的资格如何,耶稣基督的十字架都向所有罪人宣告“罪得赦免与新生命”。特别是在《使徒行传》第2章中彼得的讲道场景里所引用的:“凡求告主名的,就必得救”(徒2:21),更清晰地说明了福音绝非只属于特定民族或团体。因而,在张大卫牧师的信息中,“上帝的爱”这个共同主题,不仅跨越民族、语言的藩篱,也突破历史与文化的局限,成为那向所有因罪痛苦的人生而来、并且完全出于恩典的实体。 他反复提醒,福音既具“宇宙性”又具“个人性”。从宏观层面看,福音翻转了整个人类的命运;从微观层面看,它又改变了个人的内心和生活方式。当我们接受并相信福音时,它便不再是单纯的概念或教义,而是在我们内心“爆发”的一种新生命的力量。蒙受爱的人必定会流露爱,经历恩典的人也必定会把那恩典分享给世人。因此,张大卫牧师坚称福音乃是世界唯一所需的“盼望”,教会与群体正应该在这坚实的基础上被建立起来。 此外,他提到信奉并跟随福音的人之间应该自然而然地结出“彼此担当重担、彼此相爱”的果子(参《加拉太书》6章2节)。如果福音就是爱,那么传福音之人的团契也一定要充满爱的喜乐与合一。耶稣说过“我已经胜了世界”(《约翰福音》16章33节),其中并不是指以武力去征服世界,而是以爱与服事赢得的反差性胜利。因此,教会若紧紧抓住福音,彼此真诚相爱并服事世界,本身就会成为对这个世界强而有力的见证,正如张大卫牧师常常所强调的。 总的来说,张大卫牧师的信息可以归纳为这样一句宣告:“福音的核心在于上帝的儿子为我们降世、为我们死、且因复活完成了对我们的爱。”没有任何哲学理论或伦理教导可以替代这面向所有罪人的宏大爱的故事,这就是福音。而凡站在这福音面前的人,都将在这爱的事件里作出回应,并过上被改变的生命。它之所以充满喜乐与敬畏,正因为这是一份只因“上帝的恩典”而临到的不可思议的爱。 罪与义,以及代赎之路 在“福音是爱”的前提下,张大卫牧师第二个深入探讨的主题便是“罪与义,以及代赎”。既然福音是如此大的爱,为什么人类需要这样的牺牲与拯救?其根基就在于人类自身无法解决的罪之问题。 张大卫牧师认为,唯有先正确认识“罪”,才能完全领悟福音之爱与恩典。贯穿整本《圣经》的罪,不仅仅是道德上的过犯或社会规范的违背。他关注《罗马书》第1章中保罗的宣告——“罪就是不愿意在心里尊崇上帝”。人性本质上背离上帝、想要自己作主的态度根深蒂固,结果使整个世界都被罪的权势所辖制。 紧接着,张大卫牧师把罪的影响形容为“死亡作王”。换言之,人在罪中最终面对的结局就是“死”。这不仅意味着肉体的死亡,更象征着永远的灭亡与隔绝。因此,无论人多么努力行善、遵守律法,都无法依靠自身的力量战胜罪与死的权势,可以说是绝望的处境。律法只能指出何为罪,并让罪显得更加清晰,但并不能完全释放我们脱离罪的捆绑。 正在此时,耶稣基督的“代赎(代贖)”事件便闪耀出来。所谓代赎,意指“有人替你付上该付的代价”。张大卫牧师提醒我们,不可把代赎仅仅用商业概念去理解。旧约中的献祭(尤其《利未记》第16章所记载的赎罪日仪式)里,用牲畜流血来遮盖百姓罪恶的象征,到了耶稣基督的十字架上,变成了“完全实现”的实体。也就是说,人类所犯下的一切不顺服与悖逆,以及因此理应受到的死亡刑罚,都由耶稣承担了。 为更清楚地阐明代赎的概念,张大卫牧师常常引用《罗马书》第5章18-19节:“因一人(亚当)的过犯,众人都成了罪人;照样,因一人(耶稣基督)的顺从,许多人也就被称义得生命了。”这意味着,本来整个人类都被罪的锁链束缚,没有出路,但藉着耶稣基督的顺服与牺牲,一切都被彻底翻转。 张大卫牧师补充说,“代赎的本质就是爱”。若仅从律法视角来理解,我们或许会得到“公义的法官必须对罪犯执行应得的惩罚,因此由某个代赎者替罪犯付出(流血)”这样冷冰冰的交易印象。然而耶稣在十字架上流血的画面并非只是“替我们承受惩罚”的法庭场景,而是上帝给我们的“完全礼物”,耶稣以自愿牺牲的方式向我们呈现的“自我舍弃之爱”。当我们明白这一点,就更能领悟十字架事件拥有如此巨大影响力的原因。 因此,人可以透过接受这代赎之爱、相信福音,而得到“称义”。保罗在《加拉太书》等书信中所强调的“因信称义”原则,正是张大卫牧师所讲之福音逻辑的核心。只要我们领受福音,就不再是“罪人”的身份,而是在上帝面前被宣告为“义人”。这并非因我们自己有任何道德的完美,而是耶稣基督已经为我们的罪付清代价的缘故。神学上称之为“义被转嫁(归算)”,在实际生活中也真实地运作着。 张大卫牧师还喜欢引用《希伯来书》中“要往营外去”的说法。在旧约献祭中,那些背负罪的山羊或绵羊,都要被赶到营外,在那里被宰杀。耶稣也同样是在耶路撒冷城门外的各各他山上被钉十字架,从而完成了“赎罪羔羊”的角色。“我们也当出到营外去”这句话,其实是在呼唤我们去与耶稣的苦难同在,并效法他的代赎之路。 重点在于,不要只把“代赎”当成一个神学名词或只停留在头脑理解上。张大卫牧师说,代赎是福音的“核心支柱”,我们也要效法耶稣所行的道路。当我们在世上活出福音,就要彼此担当重担,在遭受逼迫与误解时仍然选择以爱服事。这正是把耶稣“代赎之爱”当作我们生活方式的具体实践。我们无法用指责或暴力改变世界,却可以像耶稣那样,通过爱与舍己、甘愿走向“营外”的姿态,来医治这个世界。 张大卫牧师还反复强调,只有当代赎与“复活”结合在一起时,才算真正完成。如果说耶稣基督在十字架上的牺牲是为人类背负罪债的终极付出,那么他的复活则是“连死亡的权势都被粉碎”这一上帝最终宣告。一旦耶稣基督没有从死里复活,代赎的消息就只能算半途而止。然而,正因为复活真实地发生,罪与死的捆绑已被彻底打破,并且赐予我们新生命的救恩能力得以彰显。若说代赎意味着罪被赦免,那么复活便标志着“得到赦免的人”要进入“永生”的完全应许。 总的来说,张大卫牧师提出的“罪与义,以及代赎之路”构成福音的骨架:人因罪而陷入无法自救之境地,律法也无能为力;然而耶稣基督以代赎性牺牲与复活,使我们得以脱离罪的轭,并得称为义。经历过这称义之人,自然也会脱离以自我为中心的活法,学会彼此担当重担,甘心出到“营外”,即使在苦难中也以爱与顺服为生命准则。这样一条以“十字架”为标志的道路,看似悖谬,却正是彰显真正救恩的大能。 作为宇宙性事件的救恩与复活 张大卫牧师所强调的第三个主题,是“福音不仅涉及个人属灵体验或教会的敬虔生活,而更是一个影响宇宙的事件”。耶稣基督的降生、十字架与复活,虽在特定时空的历史中发生,却同时影响到整个宇宙和人类历史所有层面,是一次决定性的转折。 他常常举《罗马书》第5章为例,指出:正如亚当一人带来罪蔓延至全人类,耶稣基督一人也使所有人获得“罪得赦免、被称义”的道路。这意味着基督的救赎工程中,蕴含着使全人类命运被彻底翻转的宇宙性内涵。如果我们仅把福音理解为“个人得救经历”或“某种神秘事件”,就会缩小它的宏大格局。 为更加清晰地展现这个宇宙性视角,张大卫牧师常把旧约先知书与福音书中耶稣骑驴荣进耶路撒冷的场景联系起来解读。《但以理书》第7章中预言“乘云而来的仁子”,象征以色列人所盼望的末世君王——审判并统治全地的绝对主权者。可是耶稣进入耶路撒冷时,却如《撒迦利亚书》第9章第9节所预言,骑着驴、以谦卑的姿态而来。这正是将“全能王”与“与子民同甘共苦的谦卑王”这两种形象奇妙地结合与应验。 张大卫牧师把这称为“上帝的显现方式”。世上的权势者常以战车或骏马、宛若凯旋将军般隆重进城,夸示权势与力量;而作为上帝儿子的耶稣,却选择最低微、最卑贱的样式进城。在世人眼中也许愚拙软弱,但正如《哥林多前书》第1章所言,上帝的方式往往超出人的常规思维,其终极目的是为了爱与拯救,所以十字架反而成为了荣耀的标志。 接下来,耶稣钉十字架的景象更是与当时众人的期望大相径庭,看起来极度悲惨。就罗马人而言,十字架刑罚是给罪大恶极者的“极度羞辱”之刑;对犹太人来说,“挂在木头上的人是被咒诅的”(参《申命记》21章23节),绝不可能是弥赛亚的命运。然而,张大卫牧师借此结合《以赛亚书》第53章关于“受苦的仆人”的预言来解释:耶稣的死并非失败或被咒诅,而是为了背负世人罪孽而受苦的“救赎性胜利”。上帝的全知全能往往打破人类常识,而其终极目标在于“爱与拯救”,所以十字架在这一意义上反而显出了荣美。 张大卫牧师尤其聚焦于“复活”。若耶稣只是在十字架上死去,一切就结束了,那么要说这是“宇宙性事件”未免势单力薄。然而,耶稣在第三天战胜死亡、复活了。四福音书一致记载了这复活事件,门徒因此从惧怕变得刚强,从灰心变为炽烈的见证者。这正是打破“死亡”这宇宙性且普遍性桎梏的决定性证据。死亡是人类最大的敌人,如今却被终结,开启了永生之门,所以其影响超越个人,甚至影响整个宇宙。 张大卫牧师时常提到“圣周”(Holy Week),并解释在耶稣最后的一周里,历史与宇宙都被浓缩在其中。从棕树主日进耶路撒冷开始,到最后的晚餐、客西马尼园的祷告、十字架的刑罚,再到复活,整个过程构成了上帝翻转人类与历史命运的救赎大剧。尤其在客西马尼园中,耶稣“汗如血滴”地祷告这一幕,体现出他是主动选择背负十字架之路的君王。他并非一个被动被捕的牺牲品,而是为担当人类罪孽、击碎死亡而进行的王者加冕礼前的重大属灵争战。 因此,张大卫牧师坚称,耶稣的死与复活绝不是一场小规模或局部性的事件,而是穿透所有时代与空间的“宇宙性结晶”。当我们领悟此点,信仰就不仅停留在教会礼仪的参加,还会在我们整个生命中带来翻天覆地的改变。就算我们在世上经历种种痛苦与挫败,也能因耶稣已经在十字架上担当了这些,并最终以复活得胜,所以我们就不会陷于绝望,而是拥有永不动摇的盼望。 张大卫牧师渴望把这“宇宙性救恩事件”转化为每个人生命的“实际体验”。他在事工与教育中不遗余力地强调:如果我们只是在口头上说“福音能改变世界”,却未能在教会与信徒的日常生活中看见果效,那么再宏伟的主张也只停留在教义与理念上。然而,一旦我们在日常生活中信守并实践耶稣的道路,用爱和服事见证“复活的大能”,那么在教会、在社会,就会真实地出现“上帝掌权”的奇迹。 此外,《启示录》第21章所预言的“新天新地”,是复活最终的结局与目标。张大卫牧师解释,这不仅仅是人死后才去的天国,而是藉着耶稣基督的复活已经开始的永生国度。通过对基督的信靠,我们在现今世界也能活在这“复活的新生命”里,并且终有一天,当耶稣再临,这个国度将全面完成。换言之,复活同时蕴含“已经实现”与“尚未完全”之间的张力。 从圣周到复活节,教会传统一直以“十字架与复活”为核心主题。张大卫牧师在详尽阐释耶稣走向十字架那条苦难与羞辱之路的同时,也强调那条路其实直通“荣耀与胜利”的道路。耶稣作为无罪的义者,却以“罪人的身份”被钉在十字架上,是为了担当世人的罪;然而就在那死之地,却爆发了面向全宇宙的爱与救恩。凡相信并接受的人,无论过去、现在或将来,都必与耶稣一同经历复活的生命。 此外,他也指出,教会若作为“基督的身体”,就应该成为把“复活生命”带到世界的群体。也就是说,教会应当在穷乏人中实行怜悯和分享,勇敢抵挡不公正的权力或世俗潮流,并以相互服事与相爱,彰显世人所不知的真正和解与和平。这是跟随复活主的教会自然会结出的果子,张大卫牧师屡次加以呼吁。 总之,“作为宇宙性事件的救恩与复活”在张大卫牧师的信息中开拓了最宏大的视野:人不但从罪与死中因耶稣的代赎与称义而得自由与喜乐,更重要的是,耶稣基督在十字架与复活中翻转了整个人类和历史的秩序。张大卫牧师多次提及这一点,提醒信徒切莫把福音简化成一种“宗教教义”或“敬虔知识”,而要视之为人类与全宇宙共同参与的宏伟大剧。而此大剧的核心,就是在耶稣基督的十字架与复活中展现的“反差性爱的力量”。这是任何世间神话或故事都无法容纳的真生命与真理,并且为所有相信的人带来永远的盼望。 总结而言,若以三大支柱来概括张大卫牧师对于福音的讲解,就可以归纳为:“上帝的爱”、“代赎之路”、“宇宙性救恩”。这三者彼此密不可分,并且彼此融合,引领我们进入耶稣基督的真救恩。因此,当我们在圣诞节欢庆主的降生,在受难周默想主的十字架,在复活节赞美主的得胜时,都要再次确认:这一切其实是一出完整的救恩故事。它贯穿整个宇宙与历史,也同样发生在我们每个人的日常生活当中。它让我们看见上帝何等宏伟而奇妙的拯救计划。 正因为如此,福音使我们即便在面临罪和人性软弱时,也可以更多地经历上帝不离不弃的慈爱,并且学习去效法这爱,形成一个彼此服事、走向世界的教会团体。代赎不再只是司法式的概念,而是我们得着“上帝儿女”崭新身份,并享受真正自由与喜乐的礼物。宇宙性救恩与复活则不仅帮助个人解决罪的问题,也宣告整个世界都在上帝永恒的计划之下。所有属于基督的人,现已活在“新纪元”里,并且展望那将要彻底完成的未来国度。 当这所有洞见融汇于一处,我们就能领会,张大卫牧师所传讲的福音信息,不是停留在理论层面,而是真正能够翻转生命的“活的真道”。人类历史和宇宙之所以需要福音,是因为我们无法靠自己拯救自己。唯有耶稣基督——上帝的儿子——的降临、受死与复活,打开了战胜罪与死的唯一道路,并赐予那行走其上的所有人永生与得胜。这正是张大卫牧师一再宣告的福音核心,也是对所有人的最大邀请与礼物。