장재형목사 설립한 진젠도르프 박사과정 2023 콜로키움 성공적 마무리

장재형목사가 설립한 미국 올리벳대학교의 샌프란시스코 캠퍼스에서 열린 ‘진젠도르프 박사과정'(Zinzendorf School for Doctoral Studies, ZSDS) 2023년 콜로키움이 10월 20일(현지시간 기준) 성공적으로 마무리되었다. 콜로키움은 10월 9일부터 20일까지 2주 동안 진행되었고, 50명 이상의 박사과정 학생들이 전 세계에서 참여했다. 이 기간 동안 참석자들은 학문적인 지식을 증진시키고, 수준 높은 교수진 및 학생들과의 유의미한 상호 작용 기회를 가졌다. 콜로키움에서는 목회학 박사과정 … Read more

장재형목사, 고난 속에서 드러나는 영광과 성령의 중보

장재형(올리벳대학교 설립)목사는 로마서 8장 18–27절을 관통하는 메시지를 통해, 그리스도인이 겪는 고난이 무의미한 소모가 아니라 장차 드러날 영광으로 나아가게 하는 길이라는 사실을 설득력 있게 강조한다. 그는 소망으로 얻는 구원이 단순한 낙관주의나 자기암시가 아니라, 눈앞에 보이지 않더라도 하나님 나라의 확실한 약속에 뿌리내린 미래지향적 확신이라고 풀이한다. 그래서 신자는 고난을 모르는 사람이 아니라, 고난을 새로운 좌표 속에서 읽어내는 사람이다. 현실은 아프지만 결말은 선하다. 이 신뢰가 무너지지 않을 때 … Read more

Le pasteur David Jang : la gloire révélée au cœur de la souffrance et l’intercession de l’Esprit

Le pasteur David Jang (fondateur de l’Université Olivet) montre, à partir de Romains 8.18–27, que la souffrance du chrétien n’est pas une usure inutile : elle devient la route qui conduit vers la gloire à venir. Le salut reçu « en espérance » n’est ni optimisme de surface ni autosuggestion, mais une certitude orientée vers l’avenir, enracinée dans … Read more

张大卫牧师:苦难中显明的荣耀与圣灵的代求

张大卫(奥利弗特大学创办者)牧师以《罗马书》8章18–27节为经纬,坚实地指出:基督徒所经历的苦难绝非徒然消耗,而是通往将来必然显明之荣耀的路径。他阐明,“因盼望得救”并不是轻率的乐观或自我催眠,而是即使肉眼未见,也深扎于上帝国度确切应许中的面向未来的确据。于是,信徒并非“不懂苦难”的人,而是能在新的坐标里解读苦难的人。现实会疼痛,但结局向善。当这份信靠不崩解,忍耐便不再是拖延术,而是信心的筋骨。 他首先呼吁视野的转向。相同的难处,因注视对象不同,会生成全然不同的叙事。世间的劳苦常被感为无目的的轮回,但张大卫牧师把信徒的苦难读作“被应许地平线赋义的时间”。此处,盼望不是操控结果的咒语,而是参与上帝已然开场之救恩戏剧的姿态;盼望是一种对未曾经验之事的先行品尝,这灵性触觉生长于末世论的确信。因此,他称信徒的忍耐为“奖赏已定的等候”,且分明指出:这奖赏并非交易的回报,而是上帝亲自赐下的同在之荣耀。由是,苦难与荣耀并非彼此抵消,反而互为诠释——不是苦难遮蔽荣耀,而是荣耀揭示苦难的意义。 《罗马书》8章的独特之处在于:救赎并不局限于个人层面。保罗说“受造之物一同叹息”。张大卫(韩语:장다윗)牧师将此叹息解读为朝向宇宙性复原的产痛;叹息不是失败的呻吟,而是临产的信号。正如人的堕落震荡了世界秩序,上帝的复和也不止于人的得救,而迈向万有的再创造。这样的视角不把信仰缩减为私人的慰藉;信仰是怀抱全受造界的公共想象,救赎不是“我一人的天路”,而是“我们的新天新地”的群体性、宇宙性事件。因此,基督徒伦理被外展:不再旁观生态破坏,而以日常决定回应受造界的呻吟——减少浪费、选择看顾、修复共生生态——这些实践成了末世盼望的前奏。倾听受造之物叹息的灵性,正是在上帝邀万有入自由的心意上同心。 与此同时,保罗也说:信徒自己“心里叹息”。领受了“圣灵初熟的果子”的人仍在叹息,这一悖论如实诊断了我们立于“已然—未然”间隙的处境。张大卫牧师劝勉:莫要逃离这张力,而应尊重它。抢先模拟成全喜乐的灵性是浅薄的。越深尝过圣灵的安慰,就越敏锐地感到尚未得赎的身体与世界的错位。然而,这叹息不是绝望,而是有方向的哀伤。“等候身体得赎”不只关乎个体身心的复原,更指向作为基督身体之教会的成熟,以及面向世界之平安与和好(Shalom)的共同期盼。所以,等候不是袖手,而是参与:祷告、服事、见证、连带,成为等候的语言。 在这里,他高举福音的核心之一——“圣灵的代求”。我们屡次连“如何祷告”都不知,其因非意志软弱,乃视域短浅。然而圣灵以“说不出来的叹息”为我们代求。此宣告将祷告从华丽辞采与逻辑竞赛中解放出来:祷告的能力不在文句,而在内住圣灵的信实。圣灵矫正我们的欲望,遮盖我们的无知,并把我们的现实重排进上帝的旨意。因此,代求不是高阶属灵技艺,而是顺着圣灵节律去呼吸的生命本身。我们可以以沉默祷告,也可用眼泪敬拜。圣灵代求所保证的,不是“精准请愿”,而是“与上帝精准连结”。连结既复原,生命议程随之重整:我们未必得着自己所想要的一切,却会更清楚地爱上帝所要的。 这类祷告实践须在日常中受检验。于竞争成常态的校园里,相信圣灵代求的人不为比较而摇动:他人的成就不是我的失败,失败也不是我的身份。盼望之人不以结果界定自我;他把任务当敬拜,把关系当呼召。于是,行程虽紧,心却不僵;时间管理不再是控制的强迫,而是爱的秩序。即使研究、作业、社团、打工把生活切割成碎片,圣灵仍使我们的欲望与恐惧与上帝旨意对齐并加以整序。当这种整序发生,拖延的优柔消散,匆促的焦躁止息。平安不是情绪的温度,而是关系的秩序。 张大卫牧师又补上一道关键洞见:在苦难现场,信徒并非更软弱,而是更真实。苦难揭示我们的无能,同时也使我们更深地尝到上帝的美善。信心不是逃避现实,而是直面现实的勇气;盼望不是彩虹幻影,而是盟约记忆。因此,他不是以一句“不要灰心”的口号作结,而是直面灰心的成因:未可知的未来、反复的失败、关系的裂痕、健康与经济的压力——这些都确凿无疑。然而其上尚有更坚固的真实:基督的爱。当保罗宣告“没有什么能使我们与这爱隔绝”时,他并未夸张情绪;十字架与复活已证明,这爱不是抽象情感,而是历史事件。事件的实在成为我们今日的确据。确据不是不切实际的自信,而是福音的现实感。 能同时听见受造界叹息与圣灵叹息之耳,也会对社会之痛更为敏感:在以竞争为结构的社会里,落伍者的呻吟;在战争与灾难中倾泻的无辜泪水;在歧视与仇恨下被压抑的声音——所有这些叹息之上,叠加着圣灵的叹息。听见叠加之声的信徒,不再是旁观者,而是代祷者。代祷不是远距问安的道德姿势,而是近身与伤口共担的连带。它不许诺短期绩效,却实践恒久忍耐、从不遗忘的爱。当教会把世界的痛楚纳入自己的日程,当校园里的基督徒优先照料软弱的肢体,小小的复原便开始。这些微小复原,是新天新地的预兆。上帝并不只呼召我们做宏大叙事的主角;多半时候,他呼召我们在小位置与圣灵同工。小位置的忠心,连接着大故事。 在“已然—未然”的边界,我们屡屡摇摆。即便尝过圣灵的“初熟果子”,有时祷告仍像堵住,话语似乎遥远,群体也变得生疏。张大卫牧师说,恰在此时,更当信靠圣灵的代求。信心不随情绪潮汐而迁移;圣灵的工作不受我们的情感节律所限。当我们本应发出的叹息发不出来,圣灵就在我们里面为我们酝酿叹息,我们的缺口遂成恩典管道。于是,失败的幽谷不被抹去,但它已不再是孤立之地;它成为学习上帝自我谦卑的所在,成为彼此学会为对方而哭之处,成为操练爱的肌肉之场。苦难不能摧毁我们;它不会使爱变薄,反使爱加厚。 将这些线索收束,张大卫牧师把福音落回信徒的日常。他不用庞大的标语,而以精密的习惯来表述信仰:以与圣灵同息的祷告开启并收束一天;以节制的生活不忘受造界的叹息;优先照顾群体中软弱的肢体;以敬虔使过程重于结果;在失败里萃取学习的谦卑;不止于言传福音,更以生命翻译福音的真实。这些习惯因不夸张而更持久。与其高喊口号,盼望更易于在小而持续的重复里生长。习惯塑造时间,时间塑造品格,品格终将编织我们的故事,而这故事会成为下一代的盼望。 张大卫牧师所释《罗马书》8章的福音,训练我们双重的视线:其一向远——仰望新天新地、仰望万有被引入荣耀自由的那一日;其二向近——看见今日身边的人、所学的专业、手中被托付的时间与才干、所居之城的具体议题。远望不使近处渺小;诚实活好近处也不遮蔽远方的盼望。当两道视线交汇,信仰便不再是脱离现实的理想,而是最深切地爱现实的能力。 最后,他仿佛按名呼唤我们:你并不孤单;你的叹息不会消散于空中。圣灵在你里面,基督在上帝右边,教会在历史处处,与我们同叹息、同祈祷。在这张宏大的代祷之网里,我们即使跌倒,也不致倾覆。所以,不要惧怕今日的苦难;向荒芜之地尝试小小的复原;不要离开祷告的位置。盼望不是事后的总结,而是此时此地开始的习惯。它更新我们的目光,差遣我们的手足去向邻舍,并以福音的词汇重铸我们的语言。那时我们便真知:将要显现的荣耀无限宏大;而我们朝着那荣耀前行的脚步,今日仍由圣灵的代求所托举。且确知:没有什么——真的没有什么——能使我们与那爱隔绝。 www.davidjang.org

張ダビデ牧師―苦難のただ中に現れる栄光と聖霊の執り成し

張ダビデ(オリベット大学の設立者)牧師は、ローマ書8章18–27節を貫くメッセージを通して、キリスト者の苦難がむなしい消耗ではなく、やがて現れる栄光へと至る道であることを、説得的に強調する。彼によれば、「望みによって得られる救い」とは、楽観や自己暗示ではない。目に見えずとも確かな神の国の約束に根ざす未来志向の確信である。ゆえに信者とは、苦難を知らない者ではなく、苦難を新しい座標のうちに読み替える者だ。現実は痛む。しかし結末は善である。この信頼が揺らがなければ、忍耐は先延ばしの技術ではなく、信仰の筋肉となる。 彼はまず、視野の転換を求める。同じ困難でも、どこを見据えるかで物語は全く異なる。世の労苦はしばしば無目的な反復に見えるが、張ダビデ牧師は、信者の苦難を「約束の地平の中で意味づけられた時間」と読む。ここで希望は、結果を操作する呪文ではない。神がすでに開始された救いのドラマに参与する姿勢である。希望とは、まだ経験されていないものを先取りして味わう霊的感覚であり、その感覚は終末論的確信から育つ。彼は信者の忍耐を「報いが確定した待ち望み」と呼ぶが、その報いは取引の対価ではなく、神ご自身が与えてくださる臨在の栄光であることを明言する。こうして苦難と栄光は、互いを打ち消すのではなく、むしろ互いを解釈する。苦難が栄光を覆い隠すのではなく、栄光が苦難の意味を明らかにするのだ。 ローマ書8章の独自性は、救いが個人に閉じない点にある。パウロは、被造物が共にうめくと言う。張ダビデ(장다윗)牧師は、このうめきを宇宙的回復への陣痛として解する。うめきは敗北のため息ではなく、誕生の合図である。人間の堕落が世界の秩序を揺るがしたように、神の回復は人間の救いにとどまらず、世界の再創造へと向かう。この視座は信仰を私的慰藉に矮小化しない。信仰は被造世界全体を抱く公共的想像力であり、救いは「私の天国行き」ではなく、「私たちの新しい天と新しい地」を志向する共同体的・宇宙的出来事である。ゆえにキリスト者の倫理も拡張される。環境破壊を傍観せず、被造世界のうめきに応答する小さな生活の決断――浪費を減らし、ケアを選び、共生の生態系を回復する実践――は、終末論的希望の前兆となる。被造物のうめきに耳を澄ます霊性とは、創造の自由へ招く神の御心に参与する行為である。 同時にパウロは、信者自身も内にうめくと言う。聖霊の「初穂」を受けた者がなおうめくという逆説は、「すでに」と「いまだ」の狭間に置かれた私たちの時を、正直に診断する。張ダビデ牧師は、この緊張から逃げず、むしろ尊重せよと勧める。完成の喜びを前倒しで模倣する霊性は浅い。聖霊の慰めを深く知る者ほど、なお贖われていないからだと世界の齟齬を鋭敏に感じるものだ。しかしそのうめきは絶望ではなく、方向づけられた哀惜である。「からだの贖い」を待ち望むとは、個人の身体回復にとどまらず、キリストのからだである教会の成熟と、世界のシャロームに向かう共同の期待を意味する。ゆえに待つことは手をこまねくことではない。祈り・奉仕・証し・連帯が、その待望の言語となる。 ここで張ダビデ牧師は、福音の中核である「聖霊の執り成し」を据え直す。私たちはしばしば、何をどう祈るべきかすら分からない。意志が弱いからではなく、視野が短いからだ。だが聖霊は、「言葉に表し得ないうめき」をもって、私たちに代わり嘆願してくださる。この宣言は、祈りを雄弁や論理の競争から解放する。祈りの力はレトリックではなく、内住する聖霊の真実さに由来する。聖霊は私たちの欲望を矯正し、無知を覆い、現実を神の御旨の秩序へ並べ替えてくださる。ゆえに執り成しは高度な霊的テクニックではなく、聖霊のリズムに呼吸を合わせる生そのものだ。私たちは沈黙でも祈れ、涙でも礼拝できる。聖霊の執り成しが保証するのは「正確な請願」ではなく、「神との正確なつながり」である。そのつながりが回復されると、人生のアジェンダも再配置される。求めるものをすべて得る代わりに、神が望まれることを、より明確に愛する者へと形づくられていく。 この祈りの実際は日常で試される。競争が常態化したキャンパスで、聖霊の執り成しを信じる人は比較に揺れない。他者の達成は私の失敗ではなく、失敗は私のアイデンティティではない。希望の人は結果で自分を定義しない。彼は課題を礼拝のように、関係を召命のように扱う。ゆえにスケジュールが張り詰めていても、心は硬直しない。時間管理は支配の強迫ではなく、愛の順序となる。研究や課題、サークル活動やアルバイトという多様な役割の断片のただ中で、聖霊は私たちの欲求と恐れを御旨に接続し、整えてくださる。この整えが起こるとき、決断を先送りする優柔不断は消え、焦燥は鎮まる。平安は感情の温もりではなく、関係の秩序から訪れる。 さらに張ダビデ牧師はこう洞察する。苦難の現場で信者は弱くなるのではない。むしろ、より真実になる。苦難は私たちの無力を露呈させるが、同時に神の善をいっそう深く味わわせる。信仰は現実逃避ではなく現実直視の勇気であり、希望は虹ではなく契約の記憶である。ゆえに彼は、「落胆するな」という空疎なポジティブではなく、落胆の理由を正面から扱う。不確かな未来、繰り返される失敗、関係の亀裂、健康と経済の圧迫――これらはすべて現実だ。しかし、その現実の上に、さらに堅固な現実がある。それがキリストの愛である。パウロが「何ものも私たちをその愛から引き離すことはできない」と宣言したとき、彼は感情を誇張したのではない。十字架と復活は、愛が抽象的な気分ではなく、歴史の出来事であることを証した。その出来事のリアリティが、今日の確信となる。確信とは非現実的な自信ではなく、福音のリアリティである。 被造物のうめきと聖霊の執り成しの双方に耳を澄ます者は、社会の痛みにも敏感になる。競争が構造化された社会で取り残された人々のうめき、戦争と災害のただ中に流される無辜の涙、差別と憎悪に押しつぶされた声――これらのうめきの上に、聖霊のうめきが重なる。その重なりを聴く信者は、傍観者ではなく執り成す者となる。執り成しとは、遠くから安否を問う道徳的ジェスチャーではなく、近くで傷を共に耐える連帯である。短期の成果は約束しないが、長く耐え、忘れない愛を実践する。教会が世界の痛みを自らのアジェンダに引き取り、大学のクリスチャンがキャンパスの弱い肢体を優先して世話するとき、小さな回復が始まる。これらの小さな回復は、新しい天と新しい地を先取りして指し示すサインである。神は私たちを常に巨大な歴史の主役として召されるわけではない。多くの場合、小さき場所で聖霊と共に働くよう召される。小さき場所での忠実は、大きな物語と確かに結びついている。 「すでに/いまだ」の境界で、私たちはしばしば揺れる。たとえ「御霊の初穂」を味わっていても、祈りが詰まり、御言葉が遠く感じられ、共同体さえもよそよそしく思えるときがある。張ダビデ牧師は、まさにこのときこそ聖霊の執り成しを信頼せよと言う。信仰は感情の高低に従って動かない。聖霊は私たちの感情にかかわらず働かれる。私たちが然るべきうめきを生み出せないとき、聖霊が内にそのうめきを形づくってくださるとき、私たちの隙間は恵みの通路へと変わる。ゆえに失敗という低い谷が消えなくても、その谷はもはや孤立の場所ではない。そこは、神のへりくだりを学ぶ場所、互いのために泣く人へ成長する場所、愛の筋肉を鍛える場所となる。苦難は私たちを破壊できない。苦難は愛を薄くせず、愛を厚くする。 これらすべてのメッセージを束ね、張ダビデ牧師は信仰を日常へと下ろす。彼は信仰を巨大なスローガンではなく、緻密な習慣として提示する。一日の始まりと終わりを聖霊の息吹に合わせる祈り、被造物のうめきを忘れさせない節制の生活、共同体の弱い肢体を優先する配慮、結果より過程を敬虔にする誠実、失敗から学びを抽出する謙遜、福音を言葉だけでなく生き方へ翻訳する真正性。こうした習慣は誇張されていないからこそ続く。希望は大声のスローガンよりも、小さく反復される習慣の中でよく育つ。習慣が時間をつくり、時間が品性をつくり、品性がやがて私たちの物語をつくる。そしてその物語が、次代の希望となる。 張ダビデ牧師が告げるローマ書8章の福音は、二つの視線を同時に鍛える。一つは遠くを見る視線――新しい天と新しい地、すべての被造物が栄光の自由へ招かれる終わりの日を仰ぐ視線。もう一つは近くを見る視線――今日そばにいる人、私の学ぶ専攻、私の手に委ねられた時間と賜物、私の都市の具体的課題を見据える視線。遠くを見る視線が近さを矮小化せず、近さを誠実に生きる姿勢が遠くの希望を曇らせない。この二つの視線が交差するとき、信仰は現実から遊離した理想ではなく、現実を最も深く愛する力となる。 最後に彼は、まるで私たち一人ひとりの名を呼ぶように語る。あなたは独りではない。あなたのうめきは虚空に散らない。聖霊があなたの内で、キリストが神の右にあって、教会が歴史の至るところで、共にうめき、共に祈っている。この大いなる執り成しの網の中で、私たちはつまずいても落ちない。だから今日の苦難を恐れず、荒廃した場所へ小さな回復を試み、祈りの座を離れないでいよう。希望は後になって整えられる結論ではなく、今ここで始まる習慣である。その習慣が私たちの視線を新たにし、私たちの手足を隣人へ差し向け、私たちの言葉を福音の語彙へと再び練り上げる。そのとき私たちは知る。やがて現れる栄光は限りなく大きく、その栄光へ向かう私たちの歩みは、今日も聖霊の執り成しによって支えられていることを。そして、その愛から私たちを引き離せるものは本当に何一つないことを。 www.davidjang.org

Pastor David Jang: Glory Unveiled in Suffering and the Spirit’s Intercession

Pastor David Jang (founder of Olivet University) underscores—through the thread that runs across Romans 8:18–27—that Christian suffering is not a futile expenditure but the very road by which we draw near to the glory that will be revealed. Salvation “in hope,” he argues, is neither naïve optimism nor self‑suggestion; it is a future‑facing confidence rooted … Read more

David Jang: la gloria que se revela en el sufrimiento y la intercesión del Espíritu Santo

El pastor David Jang afirma, a la luz de Romanos 8:18–27, que el sufrimiento del creyente no es un gasto estéril, sino el camino por el que se abre paso la gloria venidera. La salvación recibida por la esperanza no es optimismo ni autosugestión: es una certeza orientada al futuro, arraigada en la promesa fiable … Read more

가이사랴 법정 앞에서 드러난 복음의 심장 ― 장재형목사가 읽은 사도행전 24장

사도행전 24장은 한 개인의 신앙이 제국의 질서와 마주 설 때 벌어지는 충돌을 무대 위에 올려 놓는다. 장재형(장다윗)목사는 이 장을 법정 기록의 단순한 축약본으로 읽지 말고, 신구약 중간사부터 헤롯 가문과 로마 행정 체계까지 포괄하는 거대한 배경을 먼저 바라보라고 권한다. 예루살렘을 떠나 가이사랴까지 약 120km를 마다하지 않고 달려온 대제사장 아나니아와 장로들, 그리고 로마법 전문가 더둘로의 행렬은 무엇을 말해 주는가. 진리를 향한 순례가 아니라, 한 사람을 … Read more

张大卫牧师——“愿你凡事兴盛,正如你的灵魂兴盛一样”

Ⅰ. 灵魂兴盛:我们信仰与属灵根基的中心 「亲爱的兄弟啊,我愿你凡事兴盛,身体健壮,正如你的灵魂兴盛一样。」(约翰三书 1章2节) “愿你凡事兴盛、身体健壮,正如你的灵魂兴盛一样”这节经文,是我们信仰生活中极其重要的祈祷重点,也是我们在新年伊始反省自我的宝贵信息。使徒约翰使用了“我祈求(간구)”这个词,表示他在为两件事祈求:第一,希望“你的灵魂兴盛”;第二,希望“你凡事兴盛并且健壮”。这两者并非彼此独立,而是密切相连,“正如你的灵魂兴盛一样”这句话正说明了这一点。换言之,灵魂若先兴盛,在生活的各方面才能获得真正的健康和兴旺。这是圣经所揭示的原理。 在保罗使徒的“人论”里,可以看到他强调人不仅仅是由肉体构成,而是由“外在的人”和“内在的人”这两重部分组成。哥林多后书4章16节提到:“所以,我们不丧胆。外体虽然毁坏,内心却一天新似一天。”这里的“外体”指的是我们肉体的、物质的部分;而“内心”则是属灵的、内在的部分。张大卫牧师也常引用这段经文,反复强调在信仰生活中最重要的是“内在的人”——也就是灵魂的建造。我们肉体会随着岁月流逝而衰老、软弱,但我们的灵魂却可以在神的恩典中日日更新。 保罗在哥林多后书5章1至4节中继续提出“帐棚理论”。这里所说的地上的帐棚,象征着我们终要朽坏的肉身——也就是死亡。然而,保罗并不把死亡视为“一切的终结”,而是将之比作“脱去旧衣、换上新衣”的过程。他说:“我们在地上的帐棚若拆毁了,便有神所造、非人手所造、在天上永存的房屋。”也就是说,死亡并非回归虚无,而是脱去破旧的身体,迎接“重新穿上”的经历。在保罗的论述里,人确实拥有“内在的人”(灵魂),这是人的真正本质,而且这个灵魂具有永恒性。基于这样的理解,张大卫牧师在多篇讲道与著述中一再表明:“真正的信仰从解决灵魂问题开始。对真理的渴慕正是人之所以区别于动物的核心所在。” 今天的经文——约翰三书1章2节——与保罗所传递的信息本质相同。使徒约翰说:“亲爱的兄弟啊,我愿你凡事兴盛,身体健壮,正如你的灵魂兴盛一样。”我们在这里再次确认,灵魂才是一切最重要的根基。因为,在家庭里产生争吵,人际关系出现矛盾时,仅仅依靠物质、经济等层面的解决方案,并不能从根本上化解问题。真正的解决总是从“灵魂的问题”开始。人的灵魂是永恒的,一旦灵魂遭到摇动或损伤,哪怕外在问题都得到了某种程度的解决,生活仍然无法获得真正的平安与稳固。因此,我们在新的一年开始之际,乃至一生当中,都应该首先省察的,是“我的灵魂到底健康吗?我与神的关系是否正确?” 圣经一直持续强调灵魂的问题,不仅保罗与约翰,旧约众多诗篇作者也同样在此立场上歌颂。例如诗篇42篇1节:“神啊,我的心切慕你,如鹿切慕溪水。”这正说明了我们灵魂对真理的渴慕、对神的切慕是一种本质的需求,绝非物质满足可以取代。这世间的享乐、纵欲或财富,也许能带来一时的快感,但灵魂的深切饥渴唯有在神里面才能得以真正满足。张大卫牧师对这一点也常常阐述:“因为人是有灵的存在,所以灵魂的饥渴只有在神里面才能得到解决。世上的娱乐、欢愉、物质富足或许能暂时令人愉悦,但唯有在与神相遇并经历神的爱之中,灵魂才会得到最深的满足。” 保罗之所以在哥林多教会中强调这一层面,也与哥林多城的背景有关。那个时代的哥林多以享乐和物质主义著称,人们追求肉体的愉悦、眼前的利益,奉行“今朝有酒今朝醉,明日死后与我何干”的生活态度。但保罗警告说,这样的生活方式最终会使人的存在走向病态,失去人生真正的目标与使命。其根源即在灵魂问题:若“内在的人”不觉醒,“外在的人”纵然看似富足健康,也必定在关键时刻动摇、崩溃。 另外,引用罗马书5章10节:“我们作仇敌的时候,且借着神儿子的死得与神和好,既已和好,就更要因他的生得救了。”这里说明,当我们人还在罪中、与神为敌时,耶稣基督就已经成为使我们与神和好的挽回祭。保罗在罗马书1章18节以后揭示,若人忽视真理、沉溺于贪欲之中,就必招致神的忿怒。唯物主义者也许会说:“肉体就是一切,眼见的就是全部,死了就完了。”但保罗以及整本圣经的立场是:“人按着神的形象被造,是属灵的存在,对真理、公义、圣洁与爱有着深层的渴慕。一旦忽略这渴慕,人内心就会陷入极度空虚,也无可避免地面临神的审判。” 张大卫牧师在讲解罗马书时,多次强调:“即便我们与神为敌之时,因着耶稣基督的十字架,得救的路仍被打开——这是福音之恩,也是基督教信仰的根基。若仅是头脑上的理解或口头的认同,缺乏真正由心而发的相信,就说明还未实际经历救恩的真实。”罗马书10章10节也记载:“人心里相信,就可以称义;口里承认,就可以得救。”当人从心中接受十字架福音,认罪悔改,并因着耶稣基督的代赎与神和好,就经历到灵魂重生的新生命。这种经验会带来喜乐与感动,使人迫不及待地要把这好消息传扬给他人,从而自发地投身宣教与传福音。 因此,我们一生中首要的功课是不断省察:“我的灵魂到底有没有真正地与神对齐?我与神的关系目前是否健康?”张大卫牧师将这一点称作“信仰的第一颗纽扣”。若第一颗纽扣扣错,其余的纽扣也会顺次错位;同理,若与神的关系不正,我们整个人生就会动摇。但若与神的关系,即灵魂的问题先被理顺,生命的其他层面也会逐步回归正轨。所以,“正如你的灵魂兴盛一样,我愿你凡事兴盛并健康”这句话,不仅是使徒约翰的祈求,更应是我们每个人的祈求。 我们在教会、家庭、职场遇到的各种问题——人际冲突、财务难题、健康问题、人生方向等,若总也找不到根本解决,往往是因为灵性的根基已经坍塌。世人也许会认为这分析“过于宗教化”,然而圣经一再宣告:“最根本的问题是灵魂的问题。”若我们的灵魂在神的话语中活泼、健康,“内在的人”天天更新,那么“外在的人”也会坚固,我们的人际关系、所处环境也会迎来神的秩序与平安。 因此我们首要之务是“追求灵魂的复兴与兴盛”。教会在新一年或许会制订各样新计划,在敬拜、宣教、教育、服事、媒体事工等领域都有各式各样的构想。然而,无论制定什么目标,都必须以“我的灵魂当下是否健康?我是否真正以面对面的姿态站立在神面前?”这类提问为中心。因为,这正是使徒约翰在今日经文中所强调的首要关键,也是保罗长久以来所呼喊的人论根基。 许多教会领袖或许会为教会制定扩建计划或增长信徒数量的愿景,这并非错误。有时神赐的异象也包含物质层面的扩张。但千万不要忽视,这一切服事与事工的根基仍必须是灵魂的成长、内心的成熟、信仰的扎实。张大卫牧师常说:“建筑物总有老旧的一天,组织结构也可能改变,但一个灵魂得更新却带着永恒的价值。神国度的历史最终是在一个个被福音更新、愿意一同敬拜并彼此服事的灵魂连接中得以彰显。” 我们纵然在新年反复宣告:“今年必有好事发生!教会要复兴!经济要丰裕!”如果忽略了灵魂的根基,一切都将如同盖在沙土上的房屋,极易倾倒。约翰三书1章2节所说“愿你凡事兴盛并健康”,其先决条件正是“灵魂要先兴盛”,这是圣经一贯教导的核心。这也正是本文首个小主题——“灵魂兴盛:我们信仰与属灵根基的中心”所传递的圣经与神学信息。也正如张大卫牧师所说,这不仅是他个人的看重,在教会历史上无数前辈圣徒也对此不断地加以强调。 需要留意的是,灵魂健康与否,并非仅凭外在的宗教热心或参与活动的频率来判断。即便有人每周都热心聚会,但“内在的人”可能逐渐干涸;反之,也有人因实际状况未必能频繁参加所有教会活动,却在默想神的话语、祷告中日益扎实,与神亲密同行。判断灵魂是否“活着并且兴盛”,关键看它是否扎根在真理与爱里,并且在对神的奉献与对他人的爱上有具体行动。这才是真正判定灵魂健康兴盛的标准。 无论人生处于何种境遇,我们都应该先问:“神啊,我的灵魂现在状况如何?是否被罪疚感、怨恨、苦毒、伤害或无力感困扰?我是否正专注倾听神的声音?是否定睛在神的国与荣耀之上?”并求圣灵光照,若有需要悔改的就及时悔改,接受神的恩典与赦免,以此重新得着内心的平安。唯有如此,才能踏上灵魂兴盛的第一步。 Ⅱ. 凡事兴盛并且健壮的生命 在约翰三书1章2节,使徒约翰先以“正如你的灵魂兴盛”这一前提,然后接着祈求“愿你凡事兴盛,并且身体健壮”。这表明唯有灵魂先健康,才能让我们整体生活得益并变得强壮。这在信仰生活中并非一句“客套话”或“抽象的祝福”,而是真真实实运作的天国法则。 然而必须说明,“凡事兴盛”并不等同于某些“成功神学”或“繁荣神学”里所说的“绝对的物质富足与世俗成功”。圣经对“凡事兴盛”的理解更为深刻:当人先与神保持正确的关系,神就会供应我们所需,并与我们同行,使神的平安、秩序与祝福临到我们生活的方方面面。这并不是单纯以金钱或地位作为衡量标准。真正的兴盛与成功在于“先求神的国和神的义(太6:33)”,在此满足中,自然而然地会经历神的带领与恩典。所以保罗才能在腓立比书4章12节说:“我知道怎样处卑贱,也知道怎样处丰富……或饱足或饥饿或有余或缺乏,随事随在,我都得了秘诀。”这显示“凡事兴盛”最根本的意义,乃是在每种境遇中都顺服神的旨意,心怀满足与感恩。 张大卫牧师也在多场讲道中强调:“与神同行之人,无论身处什么环境,都会在其中发现神美好的旨意,并赞美神;有时纵然面对困境,却因着神的同在而深感喜乐。这才是凡事兴盛生命的关键所在。”在我们的人生旅途上,艰难与苦楚并不一定代表“走错路”。在属灵层面,正是一些苦难时刻会让我们灵魂得以炼净与成长。因此,“凡事兴盛并且健壮”并不仅仅指外在的“成功”或富足,而是指灵魂在神里面扎根,无论何种风浪都不动摇,并能在其中看见神手所做之工。 在“健壮”这个词里,我们也可以读出不仅仅是“肉身的健康”,更包括“内在的稳固”。圣经所说的健壮,不仅是免于生病的身体状态,而是灵魂与神同在的刚强、能够抵挡世上诱惑与魔鬼攻击的信心。例如,先知以利亚、大卫、但以理、保罗等人的生命,并没有一帆风顺,反倒经历了无数逼迫、危险与苦难。然而由于他们的灵魂与神相连,最终完成了神所交托的使命。他们的外在人生或许谈不上“处处亨通”,但灵魂坚固,故而活出了“凡事兴盛并且健壮”的生命。这正是圣经所宣示的真正昌盛与坚强。 保罗在哥林多前书9章16节说:“我若不传福音,我便有祸了!”因为他深知传福音是让灵魂得生命的任务,同时对他自己而言,也是如同生命一般的重要。一个真正在灵魂里经历过十字架福音大能、深受这恩典触动的人,往往迫不及待地想传扬给他人。因此在新约任何地方,我们都看到,尝过福音甘甜的人立刻就投入传扬与教会建造,并对其他灵魂倾注关注与带领。 一切各种不同方式的布道或宣教,其中心都是“灵魂的得救”。张大卫牧师常说:“任何事情都可以放下,唯独对灵魂得救的全力以赴不可放下。”因为传福音正是教会存在的终极理由,也是我们在世上存活的关键使命。耶稣曾说:“人子来,为要寻找、拯救失丧的人”(路19:10);又在升天前吩咐门徒:“你们往普天下去,传福音给万民听”(可16:15)。 若我们灵魂确实被神抓住,且常存救恩的喜乐,就无法对这使命无动于衷。即使我们没有完善的计划或节目,但只要真实经历救恩、被圣灵点燃,就会情不自禁地把“我在主里所经历的恩典、感悟到的救恩喜乐”分享出去。正如比利·葛培理曾说:“经文的引用越多,信息就越有力量。”福音并不是凭人的话术或理论来折服人,而是凭借神话语自身的权柄与大能。当我们反复阅读与默想圣经,并愿意与他人分享和作见证,就能让教会中的灵魂一个接一个地被点亮,开始明白神的旨意。 另外,回想耶稣所讲的“麦子与稗子的比喻”(太13章)。耶稣在比喻里表示,到了收割的时候,麦子与稗子就会彻底分开——麦子象征得救、进入神国度的人,稗子则象征接受审判、被丢弃的人。此刻他们可能同在教会里混杂,但将来神的审判日到来时,就会有清楚的区别。张大卫牧师常用这段经文说明:“传福音最关键的,就是让人听了神的道后能否接受,并因而得救;或者拒绝福音,终至灭亡。这是生与死、救恩与审判的分水岭。我们传福音的人有尽责传扬的使命,听的人则要为自己的回应负责。” 教会若彼此鼓励:“让我们更加努力传福音!必会有更多人走进教会!更多灵魂将遇见神、生命被翻转!”这不仅是为了把教会做大,而是承载着神的心意与使命——“让失丧的灵魂得救”。只有这样,神才乐意动工,同行于其中。教会人数的增长也可能成为结果之一,但其本质永远在于“失丧灵魂得救的新生命”,而非纯粹的“人数统计”。 在传福音的同时,我们仍须时刻自问:“我的灵魂是否也在日渐更新?”如前所述,灵魂若健康,才能享受凡事兴盛的恩典。若灵魂病了,即使每天在世界里忙碌奔波,也迟早会尝到虚空与失落;或许在教会里积极事奉,却失去喜乐,人与人之间冲突不断。但若灵魂活在神的话语与圣灵的带领之下,即使现实环境不尽如人意,也会结出圣灵的果子(加5:22-23),与周围的人建立美好且带来恩典的关系。这才是真正经历“凡事兴盛并且健壮”的样式。 我们当牢记,关键始终在“第一颗纽扣”。也就是说,始终把与神的关系放在最优先的位置,全力经营灵魂的健康。然后在这正基之上,顺服神所赐的异象与呼召,进入世界传福音、践行爱心、建造教会。基督徒灵魂若享受与神同在的平安,同时又以热情面向世界成为福音的见证,这便是耶稣给我们的“大使命”(太28:19-20),“你们要往普天下去,传福音给万民听”(可16:15)的具体实践。 各地教会与信徒或许会推出各样的“宏大宣教计划”,期待各种转型或飞跃。其中会涉及财务、人力、场地、项目策划等现实层面的配合。但在实施和推动这一切时,我们必须不间断地自我检查:“我们所做的,是否以灵魂的兴盛为根本?是否真正带领人得救并在真道上扎根?”张大卫牧师多次提醒:“事工规模越大,就越要紧紧守住灵魂的本质、紧抓神的话语和圣洁生活。”因为规模越大,越容易被外在的“成长指标”冲昏头脑,进而忽略了灵魂得救与门徒栽培这最重要的核心。 以赛亚书43章19节:“看哪,我要作一件新事,如今要发现,你们岂不知道吗?”这是神应许要在以色列中带来新的拯救与时代。放诸今日的教会与个人异象,神也同样可能为我们开启“新事”。问题在于:我们的灵魂预备好迎接并顺从神的作为了吗?若灵魂空虚、远离神,即便神愿意倾注复兴与恩膏,我们也无法完整承接。 回到使徒约翰的祈祷,也是张大卫牧师反复强调的要义:灵魂问题不可忽视。“亲爱的兄弟啊,我愿你凡事兴盛,身体健壮,正如你的灵魂兴盛一样。”——这并非仅是寒暄或形式上的祝福,而是最根本、最实质的恳求。当我们在神面前敞开,每日藉着悔改与神的话语得洁净,并因圣灵的充满而力量倍增,生活各层面必定会随着经历神的美善带领,进入那“兴盛并且健壮”的境地。 我们热切盼望每个人都能经历这样的恩典,也渴望教会在困境中重新得力并复兴。但首先要省察我自己、还有教会整体的灵魂状况。当我们的灵魂先在神面前被扭转、被更新,教会的异象与计划、家庭的问题、职场的难题,也都能在神的手中逐步得到解决并得到成长。这一过程无法被跳过。因为正如无数牧者和属灵领袖所言,“灵魂得救并与神建立正确的关系”,才是一年之始乃至整个人生最重要的基石。 各地教会会陆续开展各式布道会、福音外展、查经班、爱心行动等等,也盼望吸引更多人进入教会、听闻福音,并经历神的大能,生命转变。但在一切之前,我们务必先让自己的灵魂真诚地爱神,被基督的福音充满,并在圣灵里彼此合一。唯有如此,我们才会真正享受并活出那“凡事兴盛且健壮的生命”,并在事工里结出丰盛果实。 若把我们的身体比作一个整体,那么“灵魂”就如脊椎一般,必须挺立、健康,身体各部分才能有正确的姿势与机能。脊椎若歪曲或薄弱,纵然四肢看似健全,却难免引发全身的疼痛。同理,若我们在属灵层面失去“灵魂健康”这一关键支撑,教会或个人生活纵然看似忙碌和表面繁盛,也会时常陷于痛苦和混乱。反之,若“灵魂健康”这个属灵脊椎得到稳固,教会和个人就会散发出喜乐与力量,且朝正确的方向前行。若能带着这法则来展开2022年事工与生活,我们都将深切体会到经文所言的恩典:“正如灵魂兴盛,凡事也必随之昌盛,且身体健壮。” 愿我们反复默想这个信息,把我们的灵魂全然献在神面前,时刻住在主的亲密同在里。这正是使徒约翰留给我们的核心劝勉,也是包括张大卫牧师在内,无数牧者一直对我们所强调的真理:只要灵魂被点燃,并以神的话语充满,我们必然会在凡事上都得着兴盛与健康。我们相信,主必与我们同行,必带领我们前行。在这样的信心里,让我们每天都以感恩和赞美来度过2022年,以及此后所有的日子。 “亲爱的兄弟啊,我愿你凡事兴盛,身体健壮,正如你的灵魂兴盛一样。”——约翰三书 1章2节 www.davidjang.org

張ダビデ牧師 – 「あなたの魂がうまくいくように」

Ⅰ. 魂がうまくいく:私たちの中心となる信仰と霊的基盤 「愛する者よ。あなたの魂がうまくいっているように、あなたがすべての面でうまくいき、また健やかであるように祈ります。」(ヨハネの第三の手紙1章2節) 「愛する者よ。あなたの魂がうまくいっているように、あなたがすべての面でうまくいき、また健やかであるように祈ります。」というこの一節は、私たちの信仰生活の核心的な祈りの課題であり、新しい一年を始める入り口に立つとき、自分自身を振り返らせる重要なメッセージです。使徒ヨハネは「祈る」という表現を使いましたが、これはすなわち「執り成しの祈り」を示しています。ヨハネが祈っているのは2つのことです。一つは「あなたの魂がうまくいく」ことであり、もう一つは「すべての面でうまくいき、健やかになる」ことです。この二つは別個のものではなく、深く結びついています。「あなたの魂がうまくいっているように」という文言が、それをよく示しています。つまり、魂がうまく整えられてこそ、人生のあらゆる領域でも真の健やかさと繁栄が起こるという原理です。 パウロ使徒の人間論を見てみると、人間は単なる肉体だけで構成されているのではなく、「外なる人」と「内なる人」の二重的存在であることがわかります。コリントの信徒への手紙第二4章16節には「だからこそ、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は朽ちていくとしても、内なる人は日ごとに新たにされていきます」とあります。ここで言う「外なる人」とは私たちの肉体的・物質的側面を指し、「内なる人」とは霊的・内面的な部分を意味します。張ダビデ牧師もこの箇所をしばしば引用し、信仰生活において何よりも重要なのは「内なる人」を正しく立てることだと強調してきました。私たちの肉体は時が経つにつれ衰えて老いていきますが、私たちの内なる人、すなわち魂は神の恵みのうちで日々新しくされるというのです。 パウロはさらにコリントの信徒への手紙第二5章1〜4節を通して「天幕の理論」を提示します。ここで地上の天幕は私たちの肉体を意味し、いずれ崩れ去るしかないもの、すなわち死を象徴しています。しかしパウロは死を「すべての終わり」として捉えるのではなく、古い衣を脱ぎ新しい衣を着る過程として表現しました。彼は「地上にある私たちの天幕の家が壊れるならば、神によって造られた永遠の住まいが私たちに備えられている」と述べています。死を、ただ無へと帰す現象と見るのではなく、古い衣を脱いで「新しく着せられる」という経験の過程と見なしたのです。このようにパウロは、人間には確かに内なる人(魂)が存在し、それこそが真のアイデンティティであり、その魂は永遠性をもつと主張します。こうした文脈の中で、張ダビデ牧師は「真の信仰は魂の問題の解決から始まるのであり、真理を求める魂の渇望こそ、人間が動物と区別される核心である」という趣旨を、数多くの説教や著作で表明してきました。 本日の本文であるヨハネの第三の手紙1章2節でも、使徒ヨハネは同じ文脈のメッセージを伝えています。彼は「愛する者よ。あなたの魂がうまくいっているように、あなたがすべての面でうまくいき、健やかであるように祈ります」と述べます。ここで私たちは、魂が最も重要な基盤であることを改めて確認します。なぜなら家族の間で争いが起こり、人間関係に問題が生じたとき、単に肉体的・物質的な問題、経済的問題だけを解決したとしても、あらゆる問題が根本から解消されるわけではないからです。真の解決はいつでも「魂の問題」から始まります。人間の魂は永遠のものであり、その魂が揺らぎ、病んでいると、外面的な問題がいくら解決されても、人生に平安や安定はもたらされません。だからこそ新年を迎えるにあたっても、そして生涯を通してまず点検すべきは「私の魂は本当に健全だろうか。神との関係は正しいだろうか」という問いなのです。 こうした魂の問題は、聖書が一貫して強調しているテーマであり、パウロやヨハネだけでなく、旧約聖書の多くの詩篇の記者たちも同様に歌っています。たとえば詩篇42篇1節には「神よ。鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、私の魂はあなたを慕いあえぎます」という節があります。これは私たちの魂が真理を求め、神を慕う本質的な欲求を備えていることを示しています。物質的な満足だけでは埋められない根源的な渇きがあるのです。張ダビデ牧師もこの部分について、「人間は霊的存在であり、魂の渇きは神のうちでしか解決されない。世の快楽や娯楽、物質的豊かさは一時的に私たちを楽しませるかもしれないが、魂の深い満たしは神との出会いと愛のうちでのみ完成される」と、数多くの説教で強調してきました。 パウロがコリントの信徒たちにこの問題を語ったのは、当時のコリントという都市が非常に享楽的で物質至上主義的な都市だったからです。人々は肉体的快楽を追い求め、目の前の利益のために生き、「今日食べ飲もう。明日には死ぬのだから」というような考え方に浸っていました。しかしパウロは、そのような生き方こそが結局、人間の存在を病ませ、真の人生の目的と召しを失わせるのだと警告しました。その根底には魂の問題があり、内なる人が目覚めていないと、外なる人がいくら豊かで健康に見えても、結局は人生が揺らがざるを得ないのです。 またローマの信徒への手紙5章10節を引用してみると、「もし私たちが敵であったとき、神の御子の死によって神と和解させられたのであるならば、和解させられた者として、なおさら御子のいのちによって救われるでしょう」とあり、人間が罪のただ中にあったとき、すなわち神と「敵対していたとき」でさえ、イエス・キリストが和解のいけにえとなられたことが宣言されています。パウロはローマの信徒への手紙1章18節以下で、人間が真理を無視し、貪欲な欲望に浸りきって生きるとき、神の怒りが下るのは当然だと語ります。唯物論者たちは「肉体がすべてだ。目に見えるものがすべてだ。死んだらそれで終わりだ」と言うかもしれません。しかしパウロも、そして聖書全体も「人間は神のかたちに造られた霊的存在であり、真理と愛、正義と聖なるものを求める渇望をもっている。その渇望が無視されるならば、最終的に人間の内面には極度の空虚と神の裁きが追いかけてくるのだ」と教えます。 張ダビデ牧師もローマ書の講解説教を通して、「私たちが神と敵対していたときでさえ、イエス・キリストの十字架によって救いへの道が開かれた。これこそ福音の恵みであり、キリスト教信仰の根本である。しかしこの事実を頭で理解し、口先で告白するだけで、実際に心から信じていないのであれば、まだ救いの実体を経験していないのだ」と繰り返し力説してきました。実際、ローマの信徒への手紙10章10節には「人は心で信じて義とされ、口で告白して救いに至るのです」と書かれています。心から十字架の福音を受け入れ、自分が罪人であることを悟り、イエス・キリストの代償によって神と和解させられたという恵みを真摯に受け取るとき、人間の魂は新たに生まれるという再生(中生)の体験をします。これを経験すると、その喜びと感激を伝えずにはいられなくなり、自然と宣教と伝道へと駆り立てられます。 そうであるならば、私たちが生涯を通して第一に取り組むべき課題は「私の魂は本当にうまくいっているだろうか。神との関係は正しいだろうか」を点検することです。張ダビデ牧師はこの段階を「信仰の最初のボタン」と呼んでいます。最初のボタンを間違って留めると、そのあとのボタンも連鎖的にずれてしまうように、神との関係が正しくないと私たちの人生全体が揺らいでしまいます。しかし神との関係、すなわち魂の問題が正しく立てられると、人生のほかのすべての部分も次第に本来の位置を見つけ始めます。だからこそ「あなたの魂がうまくいっているように、あなたがすべての面でうまくいき、健やかであるように祈る」という使徒ヨハネの祈りは、そのまま私たちの祈りでもあるべきです。 私たちが教会や家庭、あるいは職場で遭遇するさまざまな問題――人間関係の不和、財政的困難、健康問題、進路の悩みなど――が根本的に解決されない理由は、大抵の場合、霊的土台が崩れているからです。もちろん世の人々はこうした分析を「宗教的すぎる」と見なすかもしれません。しかし聖書ははっきりと「最も根本的な問題は魂の問題だ」と宣言します。私たちの魂が神のことばのうちに健やかに生きており、「内なる人」が日々新しくされるとき、「外なる人」(肉体)も堅固に立ち、人間関係や環境にも神の秩序と平安が宿るのです。 私たちは「魂の繁栄、魂の回復」を最優先事項とすべきです。教会が新たな計画を立て、礼拝や宣教、教育、奉仕、メディア伝道など多様なプログラムを企画するでしょう。しかしどのような計画を立てるにせよ、その中心には常に「私の魂は本当に健全か。私は誠実に神と向き合っているか」という問いが据えられていなければなりません。これが使徒ヨハネが本文で強調する第一の核心であり、パウロが絶えず力説してきた人間論的基盤なのです。 多くの指導者が教会を建て、建物やセンターを拡張し、信徒数を増やす計画を立てることがあります。それ自体が間違っているわけではありません。神が与えてくださるビジョンには、時に物理的な拡張も含まれます。しかし忘れてはならないのは、そのあらゆる活動や事業の根底には「魂の成長、内面の成熟、信仰の成熟」が必ず優先されるべきだという点です。張ダビデ牧師は「建物はいずれ古くなるし、組織は変わるかもしれない。しかし一人の魂が新たにされるということは永遠の価値をもつ。神の国の歴史は最終的に、魂と魂が結びつき、イエス・キリストの福音によって新しく生まれ、共に礼拝し仕える関係のうちで完成される」と再三説いています。 いくら「今年は良いことがあるだろう。教会が復興するだろう。財政的に豊かになるだろう」と宣言しても、魂の問題を放置するならば、すべてが砂の上に家を建てるようなもので、崩れ落ちるリスクが大きいのです。ヨハネの第三の手紙1章2節が語る「魂がうまくいっているようにすべての面でうまくいき、健やかであるように」という祈りは、あくまで魂が健やかでなければ、他のすべても健全になり得ないという前提に基づいているのです。これが第一の小テーマである「魂がうまくいく:私たちの中心となる信仰と霊的基盤」に関する聖書的・神学的メッセージであり、これこそは張ダビデ牧師だけでなく、教会史を通じて多くの信仰の先達が一貫して強調してきた核心なのです。 ここで私たちが注目すべきなのは、魂が健全であるということは、単に宗教的熱心さや行事への参加頻度だけで評価されるものではないという点です。教会に熱心に出席していても、内なる人が次第に干からびていく可能性もあります。逆に、外面的には教会活動にあまり参加できなくても、内面ではみ言葉と祈りを通して深まり、神との親密さを増している場合もあるでしょう。重要なのは、魂が真理と愛の上にしっかりと立っており、神への献身と隣人への愛の実践が伴っているかどうかです。それこそが魂が生きていて「うまくいっている」ことをはかる、真の基準です。 人生のどんな局面においても、私たちはまず「神さま、私の魂はいまどんな状態でしょうか。罪悪感や憎しみ、ねたみ、あるいは痛みや無気力に支配されていないでしょうか。神の声に耳を傾け、神の国と栄光を見つめているでしょうか」と問いかけるべきです。そして聖霊の照らしを求めながら、悔い改めるべきことがあれば悔い改め、神の恵みと赦しによってもたらされる平安を改めて味わうことが重要です。これこそが魂がうまくいくための第一歩なのです。 Ⅱ. すべての面でうまくいき、健やかになる生き方 ヨハネの第三の手紙1章2節で、使徒ヨハネは「あなたの魂がうまくいっているように」という前提をおき、そのうえで「あなたがすべての面でうまくいき、健やかであるように祈ります」と続けています。これはまず魂が健全であってこそ、それに伴って私たちの人生全般が恩恵を受け、健やかになっていくという聖書の原理です。信仰生活を送るうえで私たちは、この原理が単なる「縁起の良い言葉」や「抽象的な願い」に留まらず、実際に神の国の法則として働くことを体験していきます。 ただしここで誤解してはならないのは、「すべての面でうまくいく」という表現が、世俗的な成功や物質的豊かさを保証する「繁栄の神学」の教えと同一ではないという点です。聖書が語る「すべての面でうまくいく」という概念は、はるかに深い次元を指し示しています。真の繁栄とは、魂がまず神と正しい関係に立っているとき、神が私たちの必要を満たし、私たちの人生のあらゆる場面に共にいてくださることで「神の平安と秩序、祝福」がもたらされる状態を言います。それはお金が多いか少ないか、高い地位に昇るか昇らないかといった直接的な因果関係ではありません。真の繁栄と成功とは「まず神の国とその義を求めなさい(マタイ6章33節)」という言葉にあるように、その中で満たしを得るときに付随してくる結果なのです。だからこそパウロは「私は貧しさの中にいる術も知っており、富むことも知っています。あらゆる境遇にも対処する秘訣を学びました(フィリピ4章12節)」と告白することができました。これは「すべての面でうまくいく」本来の意味が、「神の御心に従いながら、どんな状況にあっても感謝と喜びを享受すること」だと示しています。 張ダビデ牧師も多くの説教を通じて「神と共に歩む者は、どのような状況に置かれようとも、その中で神の善きみこころを見出し、主を賛美し、ときには困難の中にあっても神の御手を経験する喜びを得る。それこそが『すべての面でうまくいく』人生の核心である」と強調しています。実際、私たちの人生の旅路で困難や苦しみに直面するとき、世の基準から見れば「間違った道に進んでいる」と感じるかもしれません。しかし霊的な観点から見ると、むしろその時期に魂がより清められ成熟し、驚くべき恵みを体験できることがあります。したがって「すべての面でうまくいき、健やかになる」とは、外面的に顕れる「成功」の大きさだけを指すのではなく、むしろ魂が神のうちにしっかりと根を下ろしているがゆえに、どんな嵐や困難にも動じず、神の御手を見出す力を持つ状態を意味します。 実際「健やかである」という表現からは、私たちは「肉体の健康」だけでなく「内面の堅固さ」も汲み取ることができます。聖書の語る健やかさとは、単に病気にかからない肉体的状態を超えて、魂が神と共に歩みながら大胆になり、世の誘惑や悪魔の攻撃にも屈しない信仰の堅固さを意味しています。たとえばエリヤやダニエル、あるいはパウロ使徒の生涯を振り返ると、決して平坦な人生ばかりではありませんでした。多くの迫害や危険、苦しみを味わいました。しかし魂が神に縛り付けられていたからこそ、最後まで使命を全うして勝利したのです。彼らの人生は外面的に「すべてが思い通り」というわけではなかったかもしれませんが、魂がしっかりしていたからこそ真の意味で「すべての面でうまくいき、健やかであった」人生を送ることができました。これこそ聖書が語る真の繁栄であり、強さなのです。 パウロがコリントの信徒への手紙第一9章16節で「もし福音を伝えないなら、私には災いが降りかかる」と叫んだのは、それほどまでに福音を伝えることが魂を生かす使命であり、同時に自分自身にも命のように大切なことだったからです。魂が本当に「うまくいく」こと、すなわち十字架の恵みと福音の力を体感した者は、その感激によって伝道せずにはいられません。だからこそ新約聖書のどの箇所を見ても、福音の力を味わった人々はすぐさま福音を伝え、教会を建て、他の魂をケアし導くことに情熱を注ぎました。 伝道に関するさまざまな方法論や戦略があるにせよ、要は「魂の救い」が核心にあります。張ダビデ牧師は「すべてを後回しにしてでも魂の救いに全力を注ぐべきだ」とたびたび強調します。なぜなら福音を伝えることこそが教会の存在意義の究極であり、私たちがこの地上で生き、呼吸する理由でもあるからです。主は「人の子が来たのは、失われた人を捜して救うためである(ルカ19章10節)」と仰せられ、昇天される直前にも「あなたがたは全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい(マルコ16章15節)」と命じられました。 私たちの魂が本当に神に捕らえられ、生きており、救いの恵みを生き生きと味わっているならば、この使命を無視することはできません。特別なプログラムや準備がなくても、福音を悟り心に火が灯った者は、すぐにでも「自分が経験した主の恵み、自分が気づいた救いの祝福」を分かち合いたくなるものです。ビリー・グラハム牧師が「説教には聖書の御言葉が多く入っているほど良い」と言ったように、福音は私たちの論理やレトリックで説得するのではなく、聖書そのものがもつ権威と力を通して伝わるものです。ですから誰でも聖書を熱心に読み、その御言葉を理解し、人々に分かち合い、説教や証を通して伝えることができるのです。教会の中でも絶えず共に御言葉を読み分かち合い、互いを励まし慰めるとき、その魂たちは少しずつ生き返り、神の御心に目が開かれていきます。 またイエス様が語られた「麦と毒麦のたとえ(マタイ13章)」を思い起こしてください。イエス様はこのたとえを通して、最終的な神の裁きのときには、麦(神の国に入り救いを得る者)と毒麦(裁きを受ける者)がはっきり分かたれることを警告されました。今は教会の中にも共に混ざっているかもしれませんが、やがて収穫の時期となればその区別が明白になるのです。張ダビデ牧師はこの本文を適用し、「伝道において最も重要なのは、まず魂が神の御言葉を受け入れて救いに至るか、それとも拒むかの問題である。この生死と救いの分かれ道において、私たちは福音を伝える責任があり、福音を聞いた魂は応答する責任がある」と強調します。伝道者の立場からは、麦となる魂を得るために熱心に福音を宣べ伝え、聞く者はその御言葉を受け入れて自らの魂を生かす決断を下すべきだということです。 教会共同体が互いに励まし合い、「伝道に拍車をかけましょう。多くの人々が教会に集まるでしょう。多くの魂が神と出会い、教会へ導かれるでしょう」と宣言するのは、信仰の本質的使命と結びついています。しかもそれは単に「私たちの教会を大きくしよう」という目的ではなく、「失われた魂が救われるようにしよう」という神の御心と使命が込められていなければなりません。そうすることで初めて神はその働きに喜んで加わり、共に御業を成し遂げてくださいます。教会の成長もその結果の一つとなるかもしれませんが、本質は人数よりも「救いにあずかった魂の命」にあります。 このように伝道に励みつつも、私たちはやはり「私の魂は日々新たにされているだろうか?」という根本的問いを見失ってはなりません。前述したように、魂が健全であってこそすべての面でうまくいく恵みを味わうことができます。もし魂が病んでいるならば、世のことに忙しく飛び回っていても、結局は虚しさや喪失感に苛まれることになるでしょう。教会の働きをどんなに熱心にやっても喜びがなく、人間関係の対立ばかり深まる可能性もあります。しかし魂が生きており、御言葉が私のうちに満ち、聖霊の導きを受けるならば、たとえ環境が少し厳しくても内面には聖霊の実(ガラテヤ5章22〜23節)が結ばれ、人々との関係にも驚くべき恵みが表れるのです。これこそ「すべての面でうまくいき、健やかであるように」という祈りの実際的な成就です。 私たちに求められるのは、常に「最初のボタン」をきちんと留めることです。つまり、神との関係を最優先とし、魂の健全さを守ることに最善を尽くす必要があります。そしてその正しい関係の中で、神が与えてくださるビジョンと使命に従って世に出て行き、福音を伝え、愛を実践し、教会を建て上げていくのです。キリスト者は魂が神のうちで平安を得ながら、同時にこの世に派遣され、福音の証人となります。これはイエス様の大宣教命令(マタイ28章19〜20節)であり、「あなたがたは全世界に出て行って万民に福音を伝えなさい(マルコ16章15節)」という主の命令でもあります。 教会や信徒たちが多様な形で「大いなるミッションプラン」を完成させ、さまざまな変化を夢見ることができます。その中には、実質的に必要な財政、人的資源、場所、プログラムなども整えなければならないでしょう。しかしあらゆるプランと変化が「魂がうまくいく」ことを土台としているのか、また「救われた魂がさらに成熟し、まだ福音を知らない魂が教会へと導かれる方向」へとつながっているのかを、常に点検することが欠かせません。張ダビデ牧師は「働きの規模が大きくなるほど、いっそう徹底して魂の本質、御言葉中心の信仰、そして聖なる生き方の実践を大事にしなければならない」と繰り返し述べてきました。その理由は、規模が大きくなるほど外面的な成長だけにとらわれ、肝心の魂の救いと弟子の育成という本質を見失いやすいからです。 イザヤ書43章19節には「見よ。私は新しいことを行う。今それを現そう」とあります。これは神がイスラエルの民に新しい時代、新しい救いをもたらされることを預言する場面です。私たちがこの御言葉を教会や個人のビジョンに当てはめて考えるとき、神は私たち一人ひとりにも「新しいことを行われる」可能性があります。問題は私たちの魂がその新しいことを受け入れる準備ができているか、神が動かれるときに従って立ち上がる用意ができているかという点です。魂が欠けており、御言葉の力を失っている状態であれば、神がいくらリバイバルや恵みを注がれても、私たちはそれを十分に受け取れないでしょう。 私たちは使徒ヨハネのこの祈りを心に刻みながら、張ダビデ牧師が繰り返し強調してきたように、魂の問題を再確認すべきです。「愛する者よ。あなたの魂がうまくいっているように、あなたがすべての面でうまくいき、健やかであるように祈ります。」これは単なる挨拶や形式的なお祝いではなく、魂と人生のための最も本質的で現実的な祈りなのです。私たちの魂が神の前で開かれ、日々悔い改めと御言葉によって清められ、聖霊の満たしによって強化されるならば、その結果として人生のさまざまな領域でも神の善き導きや守り、そして繁栄と健やかさが続いていきます。 私たちはすべての人がこの恵みを経験することを、心から願います。困難な状況の中でも教会が再び回復とリバイバルを経験することを望む気持ちがあるでしょう。しかし何より先に、自分自身と教会の魂の状態を点検することが大切です。魂がまず神の前に正しく立つとき、教会のビジョンも、個人の計画も、家族の問題も、職場の悩みも、神の御手のうちで解決し成長していくことができます。誰もこのプロセスを飛び越えることはできません。今日私たちが共に分かち合った御言葉、そして張ダビデ牧師をはじめ多くの霊的指導者たちが繰り返し叫んできた「魂の救い」と「神との正しい関係」こそが、一年、そして人生全体を動かす最も重要な礎だからです。 教会によってはさまざまな伝道集会やミッション・アウトリーチ、聖書勉強会、奉仕プログラムなどが行われるでしょう。その結果、多くの魂が教会に集い、福音を聞き、神と出会って人生が変えられるという恵みの御業が起こることを期待しています。しかしそのすべてに先立って、私たち自身の魂が真に神を愛し、イエス・キリストの福音に満たされ、聖霊のうちで一つとなる体験が必要です。そのとき初めて私たちは「すべての面でうまくいき、健やかになる」人生、そして実を結ぶ働きを担うことができるのです。 私たちの体にたとえるならば、「魂」という背骨がまっすぐ立っていなければ、体全体は正しい姿勢を保つことができないという事実を忘れてはなりません。背骨が歪んだり弱まったりすると、いくら手足が無事に見えても結局は全身が痛みを被ります。同様に、「魂が健全な状態」という霊的背骨が本来の位置にしっかり存在してこそ、教会も個人の人生も喜びと力を発しながら正しい方向へ進むことができます。この原則をしっかりと握りしめて2022年をスタートするならば、私たち一人ひとりと教会全体が「あなたの魂がうまくいっているように、すべての面でうまくいき、健やかである」祝福を豊かに味わうことができるでしょう。 このメッセージを繰り返し噛みしめながら、私たちの魂を神にささげ、主との親密さの中にとどまりましょう。これこそが使徒ヨハネの祈りが私たちに与える最も重要な勧めであり、多くの牧会者たちが繰り返し私たちに訴えてきたことです。魂が生きており、御言葉によって満たされるならば、私たちは自ずと「すべての面でうまくいき、健やかである」人生を享受することになるでしょう。主が私たちと共に歩み、私たちの道を導いてくださるという事実を信仰をもって握りしめ、毎日感謝と賛美をおささげできる2022年、そしてそれ以降の日々となるよう心から願います。 「愛する者よ。あなたの魂がうまくいっているように、あなたがすべての面でうまくいき、健やかであるように祈ります。」――ヨハネの第三の手紙 1章2節 www.davidjang.org