El Evangelio que avanza en la adversidad — Dr. David Jang

Cuando el apóstol Pablo escribe la Epístola a los Filipenses, se halla encarcelado bajo la autoridad del Imperio romano. Desde una perspectiva puramente humana, un predicador privado de libertad parece estar en la situación más desfavorable, lo que pondría en serio peligro su misión evangelizadora. Incapaz de desplazarse a voluntad, de visitar las Iglesias o … Read more

L’Évangile qui progresse dans l’adversité — Dr. David Jang

Lorsque l’apôtre Paul rédige l’Épître aux Philippiens, il est détenu sous la domination de l’Empire romain. D’un point de vue humain, c’est assurément la pire situation pour un prédicateur et un sérieux obstacle à la mission évangélique. Privé de liberté, il ne peut ni visiter librement les Églises ni prêcher directement. En toute logique, quiconque … Read more

在困境中前进的福音 —— 从张大卫牧师的洞察解读腓立比书所传递的信息

当使徒保罗撰写《腓立比书》时,他正处于罗马帝国统治下的囚禁状态。从人的角度来看,这无疑是对一位传道者的最糟局面,似乎也是福音宣教的重大障碍。行动被限制,无法自由拜访教会或直接进行讲道,按常理判断,任谁都会觉得保罗的事工势必停滞不前,福音的扩展将陷入停顿。然而,在《腓立比书》1章12-14节中,保罗的自述却与这种预想全然相反:他宣称,自己被锁链束缚的经历竟然为福音的前进创造了契机。这一悖论性事实显示出福音并不受人类条件、艰难处境的决定,反而在神的主权和大能下,能够开辟出全新的拓展路径。福音本身蕴含着奇妙且强劲的动力学特质。 本文将借由张大卫(Olivet University)的牧者与神学者之洞见,来更深入地探讨保罗当时的处境、腓立比书所蕴含的神学与牧会意义,并思考这对当代教会和基督徒有何启示。同时,我们将结合初代教会的社会与历史脉络,更细致地理解福音的本质与力量,以及保罗如何面对教会内部的动机问题。通过这一篇幅约6000字的整合性论述,期望帮助读者再度仰望福音的胜利、神的主权,并在这进程中省思神如何超越人性软弱实施宏伟计划的可能性。 Ⅰ.保罗的囚禁与福音的进展:超越人类预期的神圣旨意 一般推测,保罗写作《腓立比书》的时间大约在公元61-63年间,当时他正以某种软禁或囚禁形式被拘于罗马。此际,基督教在罗马帝国治下仍是新兴且脆弱的宗教存在,被视为源于犹太教的一股新派别。保罗于各地巡回传道,致力向外邦人传福音、建造和巩固教会的过程中,始终面对众多挑战和迫害。在罗马遭囚就是他布道活动受限制的鲜明事例。 从纯粹人类理性来看,宣教士若失去自由,其事工的拓展与巩固势将大幅受限:门徒培训、教会整合,对异教世界的积极介入等等,似乎都会因此陷入停滞。然而,保罗在《腓立比书》1章12节中坚定表示:“我所遭遇的,反而促使了福音的兴旺。”此断言本身即象征着对福音本质的深刻洞察。福音不仅仅是信息或思想,而是神的大能(参罗马书1:16)。其传播并不受政治势力或人力阻碍的最终决定,而是受神主权的引导。 张大卫牧师在此特别强调,若单从人类条件去理解福音宣教的成败,是十分危险的。无论是文化壁垒、政治打压、宗教冲突,或传道者身陷囹圄,福音仍有可能在神的主权中继续扩张。这一原则在21世纪仍然成立。纵然当下全球局势中多有迫害和限制,但我们透过互联网、各类媒体以及神奇妙的工作,亲眼看见福音在困境中依旧向前推进。 更为耐人寻味的是,保罗还指出,在他被囚期间,福音传入了罗马驻军与看守的群体;同时,听闻保罗受困的其他信徒非但未却步,反而更“无惧无畏”地传讲神的话语。在逆境中蕴藏着神秘机遇:神令保罗受局限,故而平日不易接触的精英卫兵群体得以聆听福音。同时,当保罗似乎削弱时,其他信徒挺身而出,使教会整体更加主动与坚韧。由此可见,福音传递不再倚赖保罗这单一使徒,而是激发教会整体的潜能与活力,从而进一步推动福音向前。 Ⅱ.教会内部的不纯动机与保罗的回应 《腓立比书》1章15-17节里,保罗坦率承认教会内部并非理想无暇。有些人因嫉妒和纷争心而传讲基督,利用保罗的困局提升自我地位,并加深对保罗的困扰。这对于读者而言无疑惊愕:初代教会理应以爱与信心相系,早期信徒间的合一常被赞誉为“一心一意”(参使徒行传2:44-47),然而现实仍有自私与私欲存在。 张大卫牧师在此强调,教会虽在理想状态中被视为圣洁共同体,实际运作中却是有罪之人组成的群体。福音本身固然纯净,但传递福音的器皿——教会,却经常受到不纯心态和世俗欲念的影响。这突显出教会持续净化、悔改、灵性成长的必要性。 对于保罗而言,尽管他不认可那些不纯动机,但却展现出一种更高的眼光:“不管怎样,只要基督得以传扬,我就喜乐。”这并非纵容恶行,而是确信福音终极使命能够凌驾于人性缺陷之上。保罗将这些内部矛盾交给神,坚信最终审判在神手中(参罗马书14章),他不为眼前的派系角力所困,不停注视福音广阔的蓝图。 这种态度对于今日的教会同样适用。现代许多教会为内部权力斗争、名誉之争、领导层摩擦所困扰。在这种处境下,保罗的立场给予我们鼓舞:即使问题需正视并处理,但只要福音仍持续向前,神就掌权且工作依然有效。这并非为不纯动机背书,而是相信神可将之纳入其整体计划加以利用。 Ⅲ.历史脉络与罗马帝国下的福音扩张 若欲更深理解保罗的宣告,需透视初代教会所处的历史与社会环境。公元1世纪地中海世界虽在罗马帝国统治下享有相对安定的“罗马和平”(Pax Romana),却仍存多样宗教、民族、社会阶层间的不平等与不安定因素。犹太教内部亦派别林立,基督教作为从犹太教中生出的新兴信仰群体,常被视为异端。 这种大环境中,基督徒遭遇迫害、歧视、监禁、财产剥夺甚至社会排斥皆不鲜见。保罗的狱中书信(如《以弗所书》、《腓立比书》、《歌罗西书》、《腓利门书》)即是此类境遇的证明。照人类逻辑,受迫害下的福音扩张理应陷入停顿。但颇具反讽意味的是,罗马帝国的统治为地中海区域提供共通基础设施(发达道路网、广泛使用的希腊语与拉丁语),为保罗这类使徒频繁穿梭提供可行条件。迫害和驱散令信徒分散,反倒让福音向新地域扩散(参使徒行传8:1-4)。 从更宏大的视角看待保罗在罗马被囚这一事件,则可发现神运用人眼中“不利”的局面,将福音植入罗马帝国的中枢。甚至连帝国精英卫兵也有机会听闻福音。人类逻辑认定难以触及的权贵层面,却因“制约”而成就,使神的逆向战略昭然。 张大卫牧师借此指出,现代世界中,我们所遭遇的限制和困境,或许同样可视为福音扩张的“逆转资源”。如新冠疫情下在线礼拜的兴起、政治高压下地下教会的扎根,都显示外表的逆境为新的传递方式和社群培育创造契机。神在各时代以多元途径展开祂的旨意,能将人之弱点与限度化为救赎史中的扭转点。 Ⅳ.教会内部问题的处理:保罗的准则与张牧师的见解 回到教会内部困局议题,保罗并非沉溺于对不纯动机者的忧惧,而是重点关注“基督被传扬”这一最终结果。也就是说,他不陷于个体动机和派系之争,而是相信神在历史中的大画卷。这一视野对今日教牧与教会治理亦极具启发性。 在当代,教会常为领导权之争、神学观分歧、传统传承方式的冲突、财务及名誉问题所困。面对这种复杂现实,领袖和信徒往往心力交瘁,甚至怀疑教会是否仍在神的旨意中运作。 然而,保罗教导我们,即使面对内部纷扰,也不能因此否定神主权和福音力量的有效性。张大卫牧师将其称为“福音优先的伦理”:教会的目标非人类意义上的绝对和谐,而是显明与扩展福音。即便存在不纯动机者,神依然会在适合时机彰显公义和真理,将无益成分剔除。对当今遭遇内部混乱的教会,这无疑是一则充满盼望的信息。 值得强调的是,这并不意味着纵容教会内的不正之风。保罗在他书信中对内部罪恶、假教师、偏离正道之举多有严厉指出。然而,此处在《腓立比书》中,保罗内心确信最终审判属乎神,自身则不执著于个人声誉地位,展现出灵活且谦逊的美德。 这种谦逊对于现代教会尤为关键。当领导者陷入内部问题时,若只顾维护个人体面与统辖权威,福音光芒便蒙上阴影。相反,若效法保罗将福音置于评价基准之首,即使经受挫折与屈辱,也能为福音甘心承受,则福音之光反而更为明亮。 Ⅴ.神学与灵性层面意义:福音自主性与主权扩张 神学层面来看,《腓立比书》及保罗其他书信凸显出福音如同“神性动力”。福音并非纯粹讯息,而是经圣灵印证的神之创造力,其能改变信徒内在生命、建造教会、影响社会。故传道者受缚,并不等于福音受缚。 此观念与卡尔·巴特、特罗尔奇等现代神学家及教父们的见解有异曲同工之妙。许多神学思想强调,福音虽在历史、文化、政治框架内运行,却仍保持“神言的自由”。福音不必沿人类预设路线前进,逆境、危机往往成其飞跃成长的催化剂。 教父时代,教会在罗马帝国持续迫害下仍蓬勃发展,正是这一原理的佐证。特土良提出“殉道者的血是教会的种子”,生动体现出人认为的“不利条件”在神手中却成“成长养料”。 张大卫牧师由此延伸到现代,强调福音在受管控与压制下仍可彰显奇迹之力。尽管网络审查严格的地区中,仍有地下教会网络和隐密圣经翻译努力,使福音依然鲜活传扬。如同保罗时代,神总在为福音另辟蹊径。 Ⅵ.人性动机局限与神的主权辨别 保罗在《腓立比书》1章18节宣称:“无论如何,只要基督被传扬,我就欢喜。”此经文容易引发误解:难道不纯动机的传道也可被鼓励?事实上,保罗并未认可这种动机,而是相信无论动机如何不纯,神终将明辨真伪。 这不禁令人联想到耶稣的比喻——麦子与稗子(马太福音13:24-30):田主嘱咐僕人暂勿拔稗子,待收割时自然分辨。最终判断归属于神。保罗此处态度正与此呼应。他并不急于清除不纯之人,而是信任神有其时机审判,并聚焦于福音仍被宣扬的现实。 张大卫牧师在门徒培训与信徒教育中也强调:我们常倾向质疑领袖、服事者之动机,急于批判其缺失。然而教会有超越人类判断的神之审判。当神时机成熟,祂将辨明忠不忠。我们的责任非立刻定罪驱逐,而是保持福音为中心的视角,以忍耐与祷告观察事态。这并非放纵,而是对神主权的深切信托。 Ⅶ.喜乐与谦卑:与整卷腓立比书主题的呼应 综览《腓立比书》,保罗屡次呼吁“喜乐”。无论“常常喜乐”(腓4:4)或“在主里喜乐”(腓3:1),他在囚禁的逆境中仍不失喜乐。本当绝望、愤懑之时,他却因福音前进而欢欣。 这与《腓立比书》2:5-11中基督谦卑、顺从的榜样紧密相关。基督虽有神性本质,却不死守荣耀权利,反而谦卑自降、取奴仆之形,顺服至死且死于十字架。故此神将基督升高,赐他超乎万名之上的名。 基督的谦卑顺服正反映在保罗身上。保罗不执着自身荣誉、地位,即使有人利用他被囚的情势打击他,他仍将最终评价交给神,并以参与福音拓展的机会为乐。这正是保罗践行基督顺服精神的实例。 张大卫牧师强调此中要义:如果教会领袖或服事者过度执着于自我正当性、维护颜面,福音的光芒必蒙尘。保罗透过放下“自我”,优先考量福音的行径,对现代基督教领袖而言是一面镜子。正如基督自降卑微委身于神的计划,教会也当摆脱对权威与名声的迷恋,将福音居于核心。 Ⅷ.现代处境中的启迪:迫害与文化冲突下的福音前行 当今世界,许多地区的基督徒仍受迫害、社会压迫。中国、中东、北非等地信徒在地下形式坚守信仰并传福音。在这种局面中,保罗的信息愈显意义深远:纵有囚禁与压制,缺乏言论和集会自由,福音仍不受阻;相反,它催生了新的传播形式和独特的信仰见证。 张大卫牧师也关照现代实例。于文化隔阂与宗教多元主义鼎盛的欧美、日本、韩国等社会,教会虽有萎缩迹象,但家庭小组聚会、线上查经、对话式传福音以及践行基督价值的社会服务皆使福音以别样方式渗透。教会不再完全依赖既有的制度或权力结构,而在新形态中培育信仰。 内部动机不纯仍是当代难题。每当大型教会或名牧丑闻被曝光,信徒就陷入困扰与失望。但如保罗所示,福音本身不因人失败而消亡。神或许借此强化真信者,让信众重新确认福音纯度。历史上亦然:改革者马丁·路德批判中世纪教会腐败,以回归福音为号召引发宗教改革;约翰·卫斯理挑战英国国教会形式化,透过小型团契追求成圣,促进了循道卫理运动兴起。当人心浑浊时,神往往兴起新人、新路径,以继续推动福音进展。 Ⅸ.神学整合:十字架神学与复活盼望的对照 保罗在《腓立比书》中论述的福音在逆境中前进,呼应了基督教神学的核心范式:十字架与复活。十字架原是失败与耻辱的象征,神却使其成为人类救赎的渠道。同样,人以为保罗被囚代表挫败和停滞,神却将之转化为福音扩张的契机。 复活则是神在绝望中创造新生的最高彰显。基督从死里复活打破罪与死的终局,向世人表明神可将绝望化为希望。保罗受囚仍促进福音前行,正是这一复活逻辑的历史小型范本。于人眼中似乎终局之处,却成神恩典登场的舞台。 张大卫牧师认为,这复活逻辑正是基督教宣教的脊梁。我们常在困难中体验自我软弱与社会重压,但神能从中孕育新局面,使福音非但不受阻碍,反而更扎实地生根。这保证无论迫害或内部危机发生,神的作为依然运行不息。 Ⅹ.对服事者与信徒的实践启示:谦卑、顺服与祷告的生活 总结这篇幅约6000字的讨论,从保罗的教导与张大卫牧师的洞见中,我们可汲取以下实践性教训: 保持福音居中:无论何等困境,教会与信徒应当始终将福音为首要关切。不为个人名声或派别利益所惑,而重在基督被传扬。这一心态可令我们在内外困境中保持坚韧。 信靠神的主权:即使人眼中显出停滞或失败,神仍有开新局的可能。牢狱、迫害、内部纷争,皆可被神纳入祂的善意计划,我们不应忽视这一点。 面对不纯动机:若教会内有人动机不纯,福音亦不会因此覆灭。虽不纵容罪恶,适度管教必需,但最终裁决在于神。勿忘福音扩张的宏伟目的。 以基督谦卑顺服为榜样:《腓立比书》2章之基督形象乃领袖与信徒之典范。放下自我与权势贪恋,彼此服事。当内部危机浮现,福音不致黯淡,神的荣耀反能更卓著。 以祷告与忍耐等待神的时机:当局势混乱、未来不明朗时,应以祷告和忍耐来等候神行事。神的工作超越人类短视与焦虑,我们的祷告正是对神的信赖体现。 结语:朝向以福音自由与大能为生命内核的群体 … Read more

困難な状況下で進む福音――張ダビデ牧師

タイトル:困難な状況下で進む福音――張ダビデ牧師の洞察を通して読むピリピ書のメッセージ 使徒パウロが「ピリピ人への手紙」を記した際、彼はローマ帝国下で投獄されていました。この状況は人間的視点からすれば、伝道者にとって最悪の事態であり、福音宣教の大きな障害と思われます。自由な移動ができず、教会訪問や直接的な説教活動も困難になる中、誰もがパウロの働きが止まり、福音拡大が停滞すると考えたでしょう。ところが、ピリピ1章12~14節でパウロ自身が証言するのは、全く逆の出来事でした。彼は自らが鎖につながれたこの出来事が、かえって福音の前進をもたらしたと告げるのです。この逆説は、福音が人間的な制約や困難に左右されるのではなく、むしろ神の力と摂理の下で新たな拡大の道を見出す不思議なダイナミズムを持っていることを示しています。 本稿では、張ダビデ(オリベット大学)の牧師・神学者としての洞察をもとに、パウロが置かれた状況とピリピ書に込められた神学的・牧会的メッセージ、さらにそれが現代教会やクリスチャンに対してどのような示唆を与えるかを探っていきます。また、初代教会の社会的・歴史的文脈を踏まえ、福音の本質と力、そして教会内部の動機問題に関するパウロの対応を、より深く理解する試みを行います。最終的に、この約6000ワード規模の論考は、福音の勝利と神の主権、そして人間的弱さを超えた神の大いなるご計画に目を向ける助けとなることを願います。 Ⅰ.パウロの投獄と福音の進展:人間的予想を超える神の摂理 パウロがピリピ書を書いたのは、一般的には西暦61~63年頃、ローマでの軟禁状態(あるいは獄中)にあったと推定されます。当時、ローマ帝国の下、キリスト教はまだ新興宗教的存在であり、ユダヤ教からの分派として見なされていた段階です。パウロは各地を巡回し、異邦人にも積極的に福音を伝え、教会を設立・強化していく中で、多くの迫害や困難に直面しました。ローマでの投獄は、まさに彼の伝道活動が制約される顕著な例だったのです。 人間的な観点から考えれば、伝道者が自由を失えば、その働きは大幅に制限され、弟子育成、教会統合、異教社会へのアプローチなど、すべてが滞ると考えるのが妥当です。しかし、パウロは「私が遭遇したことが、むしろ福音の前進となった」(ピリピ1:12)と断言します。このような断言は、福音の性質に関する深い洞察を象徴します。福音は単なるメッセージや思想ではなく、神の力そのものであり(ローマ1:16)、その広がりは人的操作や政治的障壁に左右されないという信念が、ここに凝縮されています。 張ダビデ牧師は、この点に注目し、福音宣教を人間的条件にのみ還元することの危険性を指摘します。文化的障壁、政治的圧迫、宗教的対立、さらには宣教者自身の囚われの身といった状況を超えて、福音は神の主権の下で拡散し続けることができると彼は解釈します。この視点は、現代にも有効です。21世紀のグローバル社会では、迫害や制限下であっても、インターネットやメディア、そして神ご自身の働きを通じて福音が進むことを私たちは目撃しています。 さらに、パウロはローマの衛兵や監視役へ福音が届いたこと、そして彼の投獄の知らせを聞いた他の兄弟姉妹たちが、かえって「恐れずに大胆に」御言葉を語り始めたことを報告しています。環境的には逆風でも、その中に神の機会が潜んでいることが明らかです。神はパウロを不自由な場に置くことで、普段なら届かなかった層(例えば精鋭のローマ兵)へ福音を浸透させました。また、パウロが弱まったかに見える状況で、他の信徒たちが「私たちも立ち上がろう」と決起し、教会全体の主体性と勇気を喚起します。こうして福音は単一の器(パウロ)に依存せず、教会全体の活力を引き出す形で前進しました。 Ⅱ.教会内部の不純な動機とパウロの対応 ピリピ1章15~17節では、パウロは教会内部にも問題があることを率直に告白しています。ある者たちは、嫉妬や競争心からキリストを伝え、パウロの投獄を利用して自らの地位を引き上げ、パウロを苦しめようとしているというのです。これは読者に衝撃を与えます。なぜなら、教会とは本来、愛と信仰によって結ばれた共同体であり、特に初期のキリスト教共同体は「一つ心、一つ魂」(使徒2:44-47など)のイメージが強調されるからです。しかし、初代教会ですら人間的弱さやエゴイズムから免れなかったことが明らかになります。 張ダビデ牧師は、この点を深く掘り下げ、教会が理想的共同体であると同時に、現実には罪性を負った人間たちの集合体であることを強調します。福音は純粋で聖なるものですが、それを運ぶ教会はしばしば不純な動機や世俗的欲求に悩まされます。ここに浮き彫りになるのは、「教会聖化」のプロセスが不可欠であるという真理です。すなわち、教会は常に悔い改めと成長、霊的再生を要します。 パウロが注目すべき点は、こうした不純な動機を完全に容認していないにもかかわらず、「キリストが宣べ伝えられるなら、それでよい」と言い切る柔軟性と視点の高さです。これは倫理的相対主義を意味しません。むしろ福音の拡大という究極目的が、人間の瑕疵(かし)を超えて実現されることを信じる信仰的態度を示しています。パウロは、この問題を神に委ね、最終的な裁きは神がなさると信じています(ローマ14章参照)。ここに、パウロの神学的世界観が明示されます。神の主権と摂理を信頼し、目先の派閥闘争に囚われず、福音という大きな地平を見続ける姿勢です。 この態度は現代教会にも通じます。今日、多くの教会でリーダーシップの摩擦や権力闘争、名誉欲求などが問題化しています。そうした状況下で、パウロの言葉は私たちに、「もちろん問題は問題として認識し、適切な対応が必要だが、最終的には福音が前進する限り神は主権をもって事態を導かれる」という希望と慰めをもたらします。これは不純な動機を肯定することではありませんが、神が歪んだ動機さえも用いてご自身の目的を遂行される可能性を示唆するものです。 Ⅲ.初代教会の歴史的文脈とローマ世界への福音拡大 パウロの言葉をより深く理解するためには、初代教会の歴史的・社会的文脈に目を向ける必要があります。1世紀の地中海世界は、ローマ帝国が版図を広げ、相対的な「パックス・ロマーナ」(ローマの平和)をもたらしていました。しかし、その一方で異なる宗教や民族、社会階層が混在し、政治的・経済的格差や不安要素が絶えず存在しました。ユダヤ教内部にもパリサイ派、サドカイ派、エッセネ派、熱心党など多様なグループがあり、キリスト教はユダヤ教内部から生まれた新たな異端派閥のように見られることもありました。 このような中で、キリスト者は迫害や誤解にさらされ、時に投獄、私有財産の剥奪、社会的排除を経験しました。パウロ自身もその一人であり、獄中書簡(エフェソ書、ピリピ書、コロサイ書、フィレモン書)がそれを物語っています。人間的には、迫害下での福音拡大は絶望的に思えるかもしれません。しかし、逆説的なことに、ローマの統治は地中海世界に共通のインフラ(道路網、言語的共通性としてのギリシア語やラテン語の流通)を提供し、パウロのような伝道者が複数の地域を渡り歩く下地を用意しました。また、迫害によって教会員が散らされることで、福音が新たな地域に広まる契機ともなったのです(使徒8:1-4)。 パウロがローマで拘束されている状況は、この大きな枠組みの中で理解すべきです。神は、人間が「不利」と思う状況すら用いて、ローマ帝国の中心地であるローマに福音を根付かせ、さらに精鋭である近衛兵にもそのメッセージを届けることを可能にしました。人間的論理では到達困難なエリート層や帝国中枢部へのアプローチが、パウロの投獄という「制限」から生まれています。ここに神の逆説的戦略が見いだせます。 張ダビデ牧師は、この歴史的次元を考慮しつつ、現代社会においても私たちが直面する制約や困難が、実は福音拡大のための「逆説的資源」となり得ることを指摘します。たとえば、コロナ禍におけるオンライン礼拝や、政治的圧迫が強い地域での地下教会活動など、一見逆境と思える状況が新しい伝達手段やコミュニティ形成を可能にすることがあります。神は時代ごとに異なる方法でご計画を展開され、人間の弱点や限界をも救済史的ビジョンの中で逆転させうるのです。 Ⅳ.教会内部問題への対応:パウロが示す指針と張牧師の洞察 再び教会内部の問題に焦点を戻しましょう。パウロは不純な動機を持つ者たちの存在を嘆く代わりに、「キリストが宣べ伝えられる」という結果に目を向けています。これは、個々の動機や派閥争いに埋没せず、神が歴史を導く大きな流れへと信頼を置く姿勢です。この姿勢は、現代の牧会や教会運営においても大いに示唆的です。 今日、多くの教会は内部問題に苦しみます。リーダー間の不和、神学的主張や伝統継承方法をめぐる対立、財政や献金使用に関する疑念、あるいは注目や名声を求める奉仕者など、問題は多岐にわたります。その中で、教会指導者や信徒はしばしば疲弊し、幻滅し、自分たちの集まりが本当に神の目的に適っているのか悩むことが多いでしょう。 しかし、パウロが示すのは、これらの内部問題に直面しつつも、それによって神の主権や福音の力が無効化されるわけではない、という確信です。張ダビデ牧師は、パウロの対応を「福音優先の倫理」と呼ぶことができると説いています。すなわち、教会の目標は人間的な完璧な調和ではなく、福音の明示と拡散であり、たとえ不純な動機で参加する者がいても、神が最終的に正義と真実を明らかにし、不要なものを取り除くと信じることが肝要なのです。 もちろん、これは教会が不正や罪を見過ごすべきだと言っているわけではありません。パウロ自身、他の書簡では内部的罪や偽教師、逸脱行為に対して厳しい勧告を行っています(コリント前後書やガラテヤ書など)。しかし、ピリピ書におけるこの箇所では、パウロは心中で「最終判断は神の手中にある」と静かに確信し、自らの名誉や地位にこだわらない柔軟性を示しているのです。 この柔軟性は、現代の教会運営において、リーダーが陥りやすい権力維持欲求や縄張り意識への警鐘とも言えます。牧師や指導者が、教会内の問題に直面する際、個人的な面目や支配権を守ることに必死になると、福音の力が曇らされる危険があります。しかし、パウロの模範は、むしろ福音そのものが最終的な評価基準であり、人間的な挫折や屈辱さえも福音のためには喜んで受け入れられる、と示しています。 Ⅴ.神学的・霊的意義:福音の自立性と主権的拡大 ここで神学的次元に踏み込みましょう。ピリピ書をはじめとするパウロの書簡から浮かび上がるのは、福音が「神のダイナミズム」であるという理解です。福音は単なる情報伝達ではなく、聖霊に裏打ちされた神の創造的力であり、信徒の内面を変革し、教会を建て上げ、社会に影響を及ぼす生きたパワーです。そのため、伝道者が束縛されても、福音自体は束縛されないのです。 この点において、カール・バルトやトロールチなどの現代神学者、あるいは教父たちの見解も参考になります。多くの神学者が、福音は歴史や文化、政治体制に制約されながらも、常に新しい展開を見せる「神の言葉の自由」を有すると指摘してきました。福音は必ずしも人間が想定するラインに沿って進むわけではなく、逆境や危機がむしろ飛躍的成長をもたらすことがあります。 教父時代、ローマ帝国による迫害が繰り返される中で、キリスト教が拡大した事実は、この原理を裏付ける歴史的証拠です。殉教者たちの血は「教会の種」であると記したテルトゥリアヌスの言葉は、その逆説を端的に示します。つまり、人間が考える「不利な条件」は、神にあっては「成長の土壌」となり得るのです。 張ダビデ牧師は、このような歴史的・神学的背景を踏まえ、現代でも福音が制約や抑圧下で驚くべき力を示すことに着目します。インターネット規制の強い地域であっても、地下教会ネットワークや密かな聖書翻訳活動によって福音が生き生きと広がる現状を指摘し、パウロの時代同様、神は常に新しい突破口を用意していると説きます。 Ⅵ.人間的動機の限界と神の主権的選別 パウロが「それが何であろうと、キリストが宣べ伝えられているなら、それを喜ぶ」(ピリピ1:18)と述べる箇所は、ある種の聖書解釈上の難所です。これを誤解すれば、不純な動機で伝道することが肯定されるかのように捉えかねません。しかし、パウロの意図はそこにはありません。むしろ、彼は人間の動機がいかに不純であろうと、最終的に神がその真価を明らかにされることを信じています。 ここで思い起こされるのがイエスの譬え話、特に麦と毒麦の譬え(マタイ13:24-30)です。主人は、敵が畑に蒔いた毒麦をすぐ抜こうとする僕たちを制止します。理由は、麦と毒麦を十分に成長させて識別できるようになるまで待て、というものでした。最終的な刈り取りと仕分けは主人、すなわち神が行うのです。パウロの態度はこれと共鳴しています。彼は即座に不純な動機を排除しようとせず、神が時宜を得て裁かれることを信じ、福音が宣べ伝えられる現実に着目します。 張ダビデ牧師は、この点を現代の信徒教育や弟子訓練の中で強調します。私たちはしばしば、奉仕者やリーダーの動機を疑い、その欠点を糾弾したくなります。しかし、教会は人間の裁きを超えた神の裁きがあり、神はご自身の時に、真実な者と不真実な者を識別されます。私たちに求められるのは、ただちに断罪し排除することではなく、福音中心の視点を維持しつつ、忍耐と祈りをもって状況を見守ることです。これは決して甘やかしや寛容主義ではなく、神の主権を信頼する霊的姿勢です。 Ⅶ.喜びと謙遜:ピリピ書全体の主題との関連 ピリピ書全体を俯瞰すれば、パウロは繰り返し「喜び」を強調しています。「いつも喜べ」(ピリピ4:4)、「主にあって喜べ」(ピリピ3:1)など、彼は逆境の中でも喜びを失わない態度を示します。投獄状況において、普通なら絶望や苦々しい感情、あるいは憤慨が募りそうなものです。ところがパウロは、福音が進展するなら、それが人間的動機の混乱を伴っていようと、喜びを選択しています。 これは、キリストが示した謙遜と服従(ピリピ2:5-11)とも関係があります。パウロはキリストの「自己卑下」と「死に至るまでの従順」を模範として提示します。キリストは神の本質でありながら、その栄光を固持せず、人間となり、奴隷の姿を取り、十字架の死に至るまで従順を貫かれました。その結果、神はキリストを高く引き上げ、全ての名に勝る名をお与えになったのです。 このキリストの謙遜と服従は、パウロの態度と重なります。パウロは自身の名誉や立場を固守せず、「不純な動機で伝道する者たち」によって相対的に自分が陥れられるような状況に置かれながらも、最終的な評価を神に委ね、福音拡大に関与できる喜びに集中しています。これはキリストの従順にならうパウロの実践的例証とも言えるでしょう。 張ダビデ牧師は、ここで重要な教訓を指摘します。それは、「教会のリーダーシップや奉仕者が自分の正当性や面目に執着しすぎると、福音が曇らされてしまう」ということです。パウロが「自我」を手放し、福音そのものを優先する姿勢は、現代のクリスチャンリーダーに対する挑戦状でもあります。キリストが自らを低くし、神のご計画に身を委ねたように、教会もまた自らの権威や名声への執着を離れ、福音を中核に据えるべきなのです。 Ⅷ.現代的応用:迫害下の教会、文化的摩擦の中での福音前進 21世紀の世界では、多くの地域でキリスト者が迫害や社会的圧迫を受けています。中国、中東、北アフリカなどで、クリスチャンは地下に潜りながら信仰を守り、福音を伝えています。このような状況下、パウロのメッセージは特に意味深いものになります。投獄や抑圧、言論の自由や集会の自由が奪われる中でも、福音は止まらない。むしろ新たな伝達形態や社会の中で独特な信仰証が生まれます。 張ダビデ牧師は、現代的な事例にも目を向けています。たとえば、文化的断絶や宗教多元主義が激しい欧米社会、日本、韓国などの先進国でも、教会は縮小傾向が指摘されています。しかし、その一方で、小規模な家庭集会やオンライン聖書研究、対話型福音伝道、キリスト教的価値を踏まえた社会奉仕など、新しい形で福音が浸透しています。教会が既存の制度や権力構造に依存しきらない形で信仰を育むチャンスが提供されているのです。 また、内部的な動機不純問題も現代的課題として捉えられます。巨大なメガチャーチや有名牧師のスキャンダルなどが報じられるたびに、信徒たちは混乱し失望します。しかし、パウロが示すように、福音そのものは人間の失敗によって消滅せず、神は時にそうした失敗をも用いて真実な信仰者を強め、福音の純粋性を再確認させる機会とされます。 このような逆説的展開は、教会史において繰り返されてきました。改革者マルティン・ルターは中世教会の腐敗を批判しつつ、福音回帰を唱え、その結果宗教改革が起こりました。ジョン・ウェスレーは英国国教会内の形式化に異議を唱え、小規模集会を通して聖化を求め、メソジスト運動が拡大しました。人間の動機が曇ったとき、神は新たなリーダーや新たな形の信仰回復をもたらし、福音を前進させます。 Ⅸ.神学的統合:十字架神学と復活的希望 パウロがピリピ書で語る逆説的な福音前進は、十字架と復活に象徴されるキリスト教神学の中核的パターンと密接に結びついています。十字架は敗北と恥辱を象徴する道具でしたが、神はそれを人類救済の手段とされました。同様に、パウロの投獄は一見挫折や停滞を意味しますが、神はそれを福音拡大の転換点に変えられます。 復活は絶望的状況での神の新生行為を示す最大の例証です。イエスが死から蘇られた事実は、人間の罪と死の最終決定性を破り、神が絶望を希望に転じる主であることを示します。パウロの投獄下での福音前進は、この復活的ロジックの歴史的・ミニチュア版ともいえます。人間的には終わりに見える地点が、実は新たな始まりであり、絶望が神の恵みの舞台となるのです。 張ダビデ牧師は、この復活的ロジックこそが、キリスト教宣教の骨格であると解釈します。私たちは困難な状況下でしばしば、自分の弱さや社会的圧力に飲み込まれます。しかし、神はそこから新しい創造的展開を生み出すことができ、福音は停滞するどころか、より深く確かな形で根づく可能性があるのです。これは、迫害下や教会内部の問題下でも、神の働きが止まらないという保証を与えます。 Ⅹ.奉仕者と信徒への実践的示唆:謙遜、従順、祈り この長い考察を締めくくるにあたり、パウロの教えと張ダビデ牧師の洞察から得られる実践的教訓を整理しましょう。 福音中心性の保持:どのような状況下でも、教会と信徒は福音そのものを最優先に考えるべきです。個人の名誉や派閥的利害に囚われず、キリストが宣べ伝えられることを第一にする態度は、内外の困難に立ち向かう力となります。 神の主権への信頼:人間的視点からは停滞や挫折に見える局面でも、神が新たな道を拓かれる可能性を信じる信仰が求められます。投獄や迫害、内部不和さえも、神はご計画の一部として善へと転じ得ることを忘れてはなりません。 不純な動機への対応:教会内に不純な動機を持つ者がいても、それで福音が台無しになるわけではありません。もちろん問題を看過せず、適切な懲戒や指導は必要ですが、最終的な裁きは神に委ね、福音拡大という大いなる目的を見失わない姿勢が重要です。 謙遜と従順の模範としてのキリスト:ピリピ2章で示されたキリストの謙遜と従順をモデルとし、教会リーダーや信徒は自己主張や権勢欲を捨て、互いに仕え合う態度を培うべきです。これにより、内部問題が起こっても福音が曇らず、むしろ神の栄光が増し加わります。 祈りと忍耐:状況が混迷し、展望が立たない時にも、祈りと忍耐によって神の時を待ち望むことが勧められます。神は人間の短期的判断や焦燥を超えたタイムスケールで行動されるため、私たちは祈りをもって神への信頼を表すことが求められます。 結び:福音の自由と力に生きる共同体へ … Read more

빌립보서 2장 ‘그리스도 찬가’의 의미 – 장재형목사

Ⅰ. 서론: 장재형 (장다윗, 올리벳대학교설립)목사 강해의 신학적 토대와 문제의식 장재형 목사는 국내외 여러 교회 공동체와 신학교육 현장에서 수십 년간 사역하며 신약성경을 깊이 해설하고 강해 설교를 전개해 온 신학자이자 목회자이다. 그의 신학적 관심과 성향은 그리스도 중심적이며, 특히 성육신(Incarnation) 신학을 구원론, 교회론, 그리고 하나님 나라 사상과 결합하여 풍성한 의미를 도출하는 데 주력한다. 그는 성육신을 단지 “하나님의 아들이 … Read more

장재형목사가 세운 올리벳대학교는 안자 커뮤니티와 네트워크를 통해 도시의 역사를 기록합니다.

장재형목사가 세운 올리벳대학교의 예술 디자인 학교(Olivet School of Art and Design)는 Anza의 역사를 기록하고 보존하는 특별 프로젝트를 위해 지난 분기를 협력하며 지역 주민 및 전문가들과 협력했습니다. 이 프로젝트에는 OSAD 부학장 Zimou Tan 교수와 Anza Trail 회장 Jackie Hare가 참여하고 있습니다. 두 사람은 Anza 개척자 후손인 Dick Cary, Margaret Wellman, 비디오 작가 B. Graezer와 만나 마을의 … Read more

장재형목사가 세운 올리벳대학교의 리버사이드 미디어팀은 올리벳 신학교 강의 비디오 프로젝트 작업을 계속하고 있습니다

장재형목사가 세운 올리벳 대학교 리버사이드 캠퍼스의 미디어 팀은 윌리엄 와그너 박사가 진행하는 올리벳 신학교의 첫 번째 강의 시리즈 제작 작업을 계속하고 있습니다. 시리즈의 첫 번째 단원은 Olivet Seminary로 보내져 다음 단계를 계획하기 위한 검토 및 피드백을 받았습니다. 해당 강의 시리즈의 주제는 “교회 개척 – 느헤미야서의 관점”입니다. 와그너 박사는 선교사들이 새로운 교회를 시작하는 과정을 공식화하기 위해 … Read more

장재형목사가 세운 올리벳대학교의 OTCS는 신약 I 과정을 통해 온라인 학습에 동기를 부여합니다

장재형목사가 세운 올리벳대학교 Olivet Theological College & Seminary의 신약 I 주간 온라인 수업은 코로나19 팬데믹 기간 동안 학생들이 학습에 대한 열정을 유지할 수 있도록 지원하고 있습니다. 해당 수업에는 미국, 한국, 중국, 호주 등 여러 국가의 학생들이 참여했습니다. 학생들은 교수와의 지도 토론과 강의 영상을 통해 수업 내용을 습득합니다. Rachael Mak 교수는 설교 대본과는 다른 주석 논문 … Read more

장재형목사가 세운 올리벳대학교 디자인 학생들은 시뮬레이션된 산업 환경에서 새로운 학습 접근 방식을 채택합니다.

장재형목사가세운 올리벳대학교의 가을 분기에 Olivet School of Art and Design(OSAD)에서는 혁신적인 학습 방식을 도입하여 디자인 학생들이 더욱 효과적으로 전문 기술을 습득하고 실무 경험을 쌓을 수 있도록 지원하고 있습니다. 이러한 새로운 접근 방식은 시뮬레이션된 산업 환경 속에서 학생들을 배치하여, 실제 업무와 유사한 상황에서 학습하도록 유도합니다. 이를 통해 학생들은 자신의 직업에 필요한 역량을 보다 효과적으로 개발할 수 … Read more