アンティオキア教会と聖霊 – 張ダビデ牧師

アンティオキア教会の世界宣教の基礎 使徒行伝13章は、新約教会の宣教史において大きな転換点を示す重要な章です。これ以前までは、使徒たちは主にエルサレムとその周辺地域で福音を伝えていましたが、アンティオキア教会を通して本格的な世界宣教が始まります。特に張ダビデ牧師は、このアンティオキア教会の使命と役割を強調し、現代の教会が見習うべき「世界宣教の前哨基地」としてしばしば言及しています。アンティオキア教会は、エルサレムではなく異邦の地でリバイバルと拡大を遂げ、またバルナバとサウロ(パウロ)を選び出して派遣するほどに聖霊の導きに敏感でした。まさにこの姿こそ、今日の教会が目指すべきモデルだというのです。 当時のアンティオキアは貿易が盛んな大都市であり、文化の交差点でもありました。エルサレムを離れた福音が異邦地域へ伝わった結果、ユダヤ人だけでなく多様な民族と異なる言語を持つ人々が福音を聞き、教会共同体に加わるようになりました。この教会が特筆すべき点は、「祈りと断食のうちに」聖霊の指示を受け、バルナバとパウロを世界宣教のために派遣したことです(使徒行伝13:2~3)。張ダビデ牧師はこの場面を大いに注目し、教会が現場で積極的に宣教師や働き手を発掘し派遣して、世界の至る所に福音の種をまくべきだと力説します。前方宣教だけでなく後方支援も同時に行われる必要があるのですが、これはアンティオキア教会が示したバランスの取れた宣教モデルに通じるものです。 このアンティオキア教会が最初に向かった宣教地は、キプロス(クプロ、サイプラス)の島でした。そこはバルナバとマルコ(ヨハネ・マルコ)の故郷でもあり、島全体を横断しながら福音を伝える場面が使徒行伝13章の前半に描かれています。バルナバとパウロ、そしてヨハネ(マルコ)は、約180キロメートルに及ぶ道のりを歩き、サラミスからパポスまで、一つひとつ福音を伝えました。小さな島キプロスにまで福音が伝わり、最終的には総督セルギオ・パウロのような指導層にも福音が届いたのです。張ダビデ牧師はこの事実に触れながら、「国全体が救いに至り、国家的リーダーさえ変革する力が福音にはある」と力強く語っています。教会は小さな地域を決して軽んじることなく、その地域に合った方法で福音を伝えるなら、必ず実を結ぶという教えです。 キプロスでの働きを終えたバルナバとパウロは、船に乗ってパンフィリアのペルガ(現在のトルコ南端)へ移動します。ここで問題となるのは、共に働いていたヨハネ(マルコ)がエルサレムへ帰る決断を下したことです(使徒行伝13:13)。聖書本文はその理由を詳しく説明していませんが、結果的にマルコの離脱によってバルナバとパウロの間に意見の衝突が起こり、後に二人は別々の地域へ旅立つことになります。張ダビデ牧師はここで重要な「神の主権」を強調します。人間的な対立は痛みを伴う場合もありますが、その衝突や争いを通して宣教の領域が広げられ、結果として福音がより多くの地に伝わる可能性もあるというのです。人が限界をあらわしても、神の御業は決して中断されません。むしろヨハネ・マルコが独立した働きを担い、パウロが第一・第二宣教旅行を行い、またバルナバが別の宣教行程に進むことで、福音は急速に拡大していきます。 こうしてペルガを経由して、パウロとバルナバはピシディアのアンティオキアに到着します(使徒行伝13:14)。ここもやはり異邦の地であり、同時に離散していたユダヤ人が集う会堂が存在しました。使徒行伝によると、パウロは町に到着した時、まずユダヤ人の会堂に入ったと記録されています。本文によれば「彼らは安息日に会堂に入り、座った(使徒行伝13:14)」とあります。これはパウロが常にとっていた伝道手段、すなわち「神の言葉はまずユダヤ人に、それからギリシア人に」というローマ書1章16節の原則を体現しているのです。張ダビデ牧師はこのアプローチについて、「まず自分の民に目を向け、その中で失われた羊を回復し、そこから備えられた働き手を見出すこと」と語ります。実際、初代教会ではエルサレム神殿だけでなく、各地の会堂を通して体系的に福音が広まっていきました。 特に張ダビデ牧師は、21世紀にこそこの「アンティオキアの精神」を回復すべきだと説きます。アンティオキア教会は祈りから始まり、祈りによって歩み、聖霊の導きに敏感だったからこそ、大いなる派遣と世界宣教が可能になったというのです。技術が発達しマスコミュニケーションが進歩して、もはや「足」だけでなくインターネットやメディア、ビジネスネットワークなど新たな宣教手段が生まれましたが、本質は変わりません。すなわち、教会が一つになって前方宣教と後方支援をバランスよく担い、一方でさまざまな国や地域へ宣教師を派遣し、同時に本部教会や宣教本部では祈り・財政・教育のサポートを確固たるものとしていく必要があるのです。 アンティオキア教会がパウロとバルナバを派遣し、キプロスや小アジア(現トルコ)へ旅立たせた場面は、最終的に「小さな教会からでも世界宣教は始まる」ということを示しています。ゆえに今日の教会のリバイバルも、規模や財政、そのほか条件によって左右されるのではなく、「聖霊の指示」をどれほど見分け、従うことができるかにかかっている、と張ダビデ牧師は繰り返し強調します。そのような教会は、どんな環境下にあっても神ご自身が道を開かれるのです。したがって教会と信徒個人は未来に備えなければなりません。農耕時代、産業時代、情報と技術の時代を経ても、福音を伝える目的と熱意は変わらないはずです。アンティオキア教会の歴史は21世紀にもそのまま当てはまり、聖霊の声に目を覚ましている教会こそ世界を変革しうるのだと語られています。 大胆な福音伝播と核心メッセージ ピシディアのアンティオキアに到着したパウロとバルナバは、安息日の会堂で御言葉を語る機会を得ます(使徒行伝13:15)。当時は、会堂長と共に礼拝を捧げる会衆が律法と預言書を朗読した後、外部から来た人にも説教の機会を与えていました。パウロはこの機会を逃さず、立ち上がって手を振りながらユダヤ人と神を敬う異邦人の聴衆に向かって説教しました(使徒行伝13:16)。張ダビデ牧師は、ここで「断固とした態度」が福音の伝播においてどれほど決定的な役割を果たすかに注目します。パウロは躊躇したり、遠慮がちになったりせず、すでに十分に用意していたメッセージを大胆に語ったのです。「第一ペテロ3章15節にあるように『あなたがたの内にある希望について問う人にはいつでも弁明できるように備えておきなさい』という御言葉のとおり、パウロは常に備えられた証人だったのだ」と言えるでしょう。 パウロの説教の中心は、イスラエルの歴史を語りながら究極的には「イエス・キリストの死と復活」を強調することでした。彼は旧約時代の選びから、エジプトでの奴隷生活の解放、荒野の40年、カナン征服、士師の時代、サウル王やダビデ王の時代に至るまで、イスラエルが待ち望んできた真の救い主がイエスであることを短く明確に説き明かします(使徒行伝13:17~23)。この歴史的な流れの中でイエスが「ダビデの裔」として来られ、ヨハネ(バプテスマのヨハネ)がその道を備え、エルサレムの指導者たちは無知のゆえにイエスを十字架につけたものの、神はイエスを再び生かされたという福音の出来事を宣言したのです(使徒行伝13:30)。張ダビデ牧師は、この場面について「福音伝播の最も重要な二つの柱は、イエス・キリストの身分(王であり救い主)と、その復活の出来事である」と語ります。福音には倫理や哲学的な内容も大切ですが、それを超えてイエス・キリストの死と復活が核心であることを決して外してはならないというのです。 パウロが「この方こそメシアだ」と宣言し、「神はこの方を死者の中から甦らせた」と福音の本質を力強く提示したことで、会堂の内外の聴衆は大きく動かされました。彼らは次の安息日にも同じ御言葉を聞きたいと望み(使徒行伝13:42)、実際に次の週には「町中のほとんどの人が神の言葉を聞こうとして集まった(使徒行伝13:44)」と記されています。張ダビデ牧師はこの場面を例に挙げ、伝道の成功要因として「伝える側が福音の核心メッセージに集中し、大胆に宣言するとき、人の魂は本能的にその真理を見極め、渇望する」と述べます。人の霊的な渇きや真理への探求は極めて深く、強いものです。したがって、伝道者が卑屈になったり萎縮した姿勢で臨むのではなく、「私にあるものをあなたにあげよう(使徒行伝3:6参照)」というペテロの告白のように堂々と宣言するとき、大いなる御業が起こるというのです。 では、どうすればその大胆さを維持できるのでしょうか。張ダビデ牧師は、その秘訣を二つにまとめています。第一に、聖霊の共におられる助けです。イエスも弟子たちを派遣する際に「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます(マタイ28:20)」と約束しました。使徒行伝全体が示すように、聖霊が臨むと建物が揺れ、迫害を突破し、ついには異邦人にまで福音が広がるという歴史が起こります。第二に、伝道者のアイデンティティの確立です。パウロはエルサレムで当時最も将来を嘱望されていた律法学者の一人でしたが、ステパノを殺害する事件以降、イエスと出会って決定的に悔い改め、すべてを福音宣証に捧げました。その過程で「私はローマも見なければならない(使徒行伝19:21)」と言い放ち、世界の中心へ福音を運ぶというビジョンを抱いて生きました。すなわち、自分の人生全体を福音の証に捧げることが目的であると明確に自覚していたので、どんな状況でも機会が与えられれば大胆にイエス・キリストを伝えることができたのです。 このように大胆な福音証しは、当時であれ現代であれ、福音を伝える上での鍵です。21世紀に入り、新しいメディア環境やグローバルネットワーク、ビジネスの機会が大幅に増えました。張ダビデ牧師は、この時代的変化を「農耕時代と産業時代を経て、技術と情報の時代に入った」と表現します。もはや福音を伝えるために、物理的に遠い距離を「足」で歩くだけではなく、インターネット映像やSNS、ビジネスミーティング、オンライン講義など多様なチャネルを通して届くことができます。しかし、どれだけ時代や手法が変わっても、最終的に人の心を動かすのは福音の「核心メッセージ」に他なりません。「キリストが私たちの罪のために死なれ、復活によって私たちに永遠の命を与えてくださった」という宣言が明確に伝えられるとき、魂が目覚め、その渇きが癒されるのです。 パウロが大胆に宣言した結果、ピシディアのアンティオキアの街全体が心を開きました。一部のユダヤ人は嫉妬によってパウロを拒絶しましたが、異邦人たちはその御言葉を喜び、神を賛美しました(使徒行伝13:48)。教会の大小を問わず、福音を宣べ伝える共同体としてはっきり立つとき、人々はそのメッセージを聞いて心に響きを覚えます。張ダビデ牧師はこれを「霊的直観」と呼んでおり、幼子でも学識のある大人でも、福音が宣言されるとそれが真のいのちの水かどうかを本能的に感じ取るのだと解説します。 また彼は「金銀は私にはないが、私にあるものをあなたに与えよう。すなわちナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい(使徒行伝3:6)」と語ったペテロの宣言を代表例として挙げます。実際、教会は物質や権力を十分に提供できない状況にぶつかることも多いですが、それ以上に尊い贈り物を与えられるのが福音です。張ダビデ牧師は、この分かち合いの価値こそが教会を生かし、都市や国家を生かし、最終的には世界を変革すると強調します。そして、この命の福音を伝える際に最も必要なのは「大胆さと確信、そして聖霊の力」であると改めて力説しています。 こうした確信のもと、張ダビデ牧師が進めているグローバル宣教ネットワークは、すでに多くの国で教会を設立し、教区(ノ会)を組織し、大きいものから小さなものまで(ミッションセンター、ビジネスセンター、教育センター等)さまざまな拠点を通して現地の人々に福音を教えています。教会がリバイバルを願っていても、多くの人を受け入れられる礼拝施設や教育インフラがなければ、せっかく神が人を送ってくださっても受け止められません。ですから、建物を建設したり購入したりすること自体も決して世俗的な行為ではなく、大胆に福音を伝えるための宣教戦略の一環と見なせるのです。張ダビデ牧師は「未来を準備することが信仰である」と語り、教会が祈りの中で段階的に拡張していくとき、神はさらに多くの魂を送ってくださると教えています。 結局、大胆な福音伝播と核心メッセージに忠実であることで、教会は世へ向かって進み続けます。そのとき必ず知っておくべき事実は、福音を伝えると常に嫉妬や反対、さらに迫害までもが付きまとうということです。しかし使徒行伝は、この過程を通じてむしろ福音がより遠く、より広く伝えられたと語っています。エルサレムの教権が迫害を加えたとき、福音はサマリアや異邦の地へと移っていき(使徒行伝8章)、ピシディアのアンティオキアで一部のユダヤ人が嫉妬したときには、かえって異邦人たちが喜んで福音を受け入れました(使徒行伝13章)。したがって、大胆さは単なる無謀さではなく、「神が働かれる」という信仰と「反対があっても前進する」という決断の結合から生まれるのです。 嫉妬と迫害の中で得られる喜びと聖霊の満たし 使徒行伝13章の後半が示すもう一つの重要なテーマは、「福音伝播に対する反対や嫉妬、そしてその過程で得られる喜びと聖霊の満たし」です。ピシディアのアンティオキアの会堂で多くの人に福音が伝えられると、一部のユダヤ人たちは嫉妬からパウロの言葉を罵り、パウロとバルナバに積極的な迫害を加え始めます(使徒行伝13:45)。それにもかかわらず、異邦人たちは喜びに満ちました。「永遠のいのちに与るよう定められていた人は皆信じた(使徒行伝13:48)」という一節のように、むしろ反対や迫害が大きければ大きいほど福音はより鮮明となり、備えられた魂は御言葉をつかむのです。これは教会史において繰り返されるパターンでもあります。 張ダビデ牧師は、この出来事で「足の埃を払い落として(使徒行伝13:51)」他の町へ向かうパウロとバルナバの態度に注目します。「あなたがたが福音を拒むならば、私たちは思い切って立ち去り、さらに開かれた門へ進む」という宣言です。あらゆる人を救おうと努力はしますが、頑なに拒絶し続ける者たちに対しては執着せず、靴の埃を払い、次の地域へ進む決断が必要だということです。この姿勢は冷淡で人間味がないようにも見えますが、実は非常に重要な原理です。福音は自発的な受容を前提としており、強制や嘆願によって得られた実りは長続きしません。さらに「嫉妬する者たちによって宣教が止められるのではなく、その迫害によってむしろ広い門が開かれる」のだと本文は強調します。 結局、その結果は13章の最後の節に明確に示されています。「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた(使徒行伝13:52)」。パウロとバルナバが追い出され、一見失敗に終わったかのように見えても、実際には弟子たちの心は喜びにあふれていました。なぜでしょうか。それは福音が町全体に伝わり、多くの異邦人がイエスを受け入れて新たな弟子が生まれたからです。その結果、ピシディアのアンティオキアだけでなく周辺地域にも福音が広がっていきました。張ダビデ牧師は、ここで「伝道の最大の報いは物質的な成功ではなく、救われる魂を目にする喜びと、そのとき共に与えられる聖霊の満たしである」と言います。 現代の教会も同様です。福音を伝えるほど、誤解や反発、あるいは他宗教や世俗文化の抵抗に直面することがあります。それが激しくなるほど心は弱くなりやすいものですが、むしろそういう状況において「聖霊が与えてくださる喜び」を味わうのが弟子の生き方です。これはローマ書8章28節の「神を愛する者たち、すなわちそのご計画に従って召された者たちには、万事が共に働いて益となる」という御言葉と通じます。張ダビデ牧師は「小さな葛藤や苦難があっても、それがむしろ私たちがさらに広い領域へ進む踏み台となる」と励ましています。 同様の原理は使徒行伝8章にも表れています。エルサレム教会が強烈な迫害に遭って散らされたとき、結果的にサマリアやアジア、そして後にはヨーロッパにまで福音が伝わる実りを得ました。「悪を善に変える」という旧約のヨセフの物語も同じです。兄たちの嫉妬と憎しみによって奴隷として売られたヨセフが、結局は兄弟たちとエジプト全体を救う通路になったように、パウロとバルナバもまた、嫉妬と排斥を通して異邦人に福音が届く道を開きました。だからこそ張ダビデ牧師は、「イエス・キリストの彩りの衣を着せられた者は誰しも、いずれ嫉妬を受ける運命にある」が、その過程を通じて神はより大いなる救いを成し遂げられると本文を引用して解釈しています。 ここで大切なのは、福音宣伝に対するパウロの執念と情熱です。パウロはユダヤ人が福音を受け入れない度に「靴の埃を払い落とす」と宣言しながらも、別の面では繰り返しユダヤ人の会堂を訪れています(使徒行伝14章、17章、19章など)。ユダヤ人を完全にあきらめたわけではなく、扉が開かれうる可能性を最後まで探っていたのです。ただ、特定の地域やタイミングで激しい反対に遭うなら、そこに固執せず、より「開かれた門」を求めて進んでいきました。張ダビデ牧師は、この姿勢を宣教現場で非常に重要だと紹介しています。「どこかで門が閉ざされても、別の場所ではさらに大きな門が開かれる」ということです。そして、その開かれた場所で弟子たちは喜びと聖霊の満たしをさらに深く体験します。 実際、現代の宣教現場でも、ある国や地域で宗教的・政治的な制約によって宣教が阻まれると、別の経路、たとえばビジネスや教育を通した伝道が可能になったり、移民コミュニティやディアスポラ共同体を通じて福音が広がっていくことがあります。その過程で、ときに現地政府や地域団体の反対、あるいは宗教的偏見に直面することもありますが、最終的には別の道が開かれ、他の地域でさらに多くの魂が回心する「喜びの実り」を目の当たりにするという証が多く語られます。こうした経験は、使徒行伝13章の原理が今日でもまったく変わらず再現されていることを示す事例でもあります。 「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた(使徒行伝13:52)」という御言葉は、結局、福音が安易に受け入れられる「順風」だけでなく、嫉妬や迫害が伴う「逆風」の中でも成就された結果なのです。聖霊は弱い人間を大胆にし、迫害の只中でも祈りと賛美を導き、最終的には福音がより遠くへ伝わる道を備えられます。張ダビデ牧師は、この言葉を通して現代の多くの地域教会や働き手が勇気を得るべきだと強調しています。教会が大きくなればなるほど、あるいは多くの国にノ会(教区)が増えれば増えるほど、それに比例して攻撃も増すかもしれません。しかし、その攻撃に押しつぶされて夢をあきらめるのではなく、最後まで祈りながら光を探し求めるべきです。そうするなら、むしろ「迫害と嫉妬に打ち勝った者たちが得る喜びと聖霊の満たし」を体験し、それこそが真の教会の力になるのだと説きます。 張ダビデ牧師は、世界各地で数多くの教会やセンターを買い取り整備する際、しばしば「将来性を失った教団や教会は建物を売却する」という例を示します。一方で将来性のある教会は「新しい教会建物を獲得し、リバイバルの夢を見る」のです。いかなる教団であっても、希望を見いだせず次世代を見渡せなければ、最終的には縮小し消滅していきます。この原理は使徒行伝にもはっきり現れています。嫉妬し妨げることに終始したユダヤの宗教指導者たちは、滅びへと近い道を進みましたが、福音の前に心を開いて喜んで受け入れた異邦人たちは、新しい歴史の主役となりました。教会が喜びと聖霊の満たしを享受するというのは、まさにこうした未来志向の態度と神の摂理が交わる地点なのです。 結論:アンティオキア教会に学ぶ、喜びと聖霊に満ちた世界宣教 最終的に使徒行伝13章が私たちに投げかけるメッセージは極めて明確です。福音伝播は決して平坦ではなく、そこには嫉妬や妨害、迫害が絶えません。しかし神の人々は、その反対を通じてより忍耐を鍛えられ、むしろ救われる魂の数を拡大していきます。そしてその先頭に立つ人々は「喜びと聖霊に満たされる」のです。21世紀の教会も同じ原理を適用すべきでしょう。世界のどこであれ、たとえ反対や迫害があっても、神は常に別の道を備えており、備えられた魂たちが福音を受け入れるようにしてくださいます。この過程を見るとき、私たちの内側に真の喜びが湧き上がり、聖霊の働きがいっそう鮮明になるのです。 張ダビデ牧師が強調する最終的な結論は、「アンティオキア教会が模範となったように、今日の教会も世界宣教のために祈り、絶えず挑戦し続けるべきだ」ということです。新たに開かれた門を見つけたら、そのチャンスをつかんで福音を分かち合い、教会が多分野(ビジネス、教育、メディア、文化など)へと伸びていくように力を注ぐべきです。そうすると、使徒行伝に記されているとおり「主の御言葉はその地方一帯に広まった(使徒行伝13:49)」という出来事が、現代にも同じように再現されると確信できます。その結果として「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」という結論に至ります。この喜びは単なる感情的な興奮ではなく、いのちを救う福音の働きに参画する者が得る霊的充実と共同体的歓喜なのです。エルサレム、アンティオキア、ピシディアのアンティオキア、そして地中海を越えてローマにまで及んだ宣教の歩みが、今日の日本や中国、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカなど全世界に広がることを、張ダビデ牧師は絶えずビジョンとして宣言しています。そうして教会は絶えず拡大し、多くの魂が生かされるのです。 結局、使徒行伝が示した初代教会の歴史こそ、現代の教会が学ぶべき最も重要な教訓といえます。小さな教会であっても聖霊の御業が臨むなら世界へ進み出られますし、大きく華やかな教会であっても聖霊を欠いて形だけになってしまえば自壊してしまいます。ですから、嫉妬や迫害という外的な挑戦、また対立や不和という内的な問題に直面しても、絶望する必要はありません。むしろ大胆な信仰によって、福音の核心、すなわちイエス・キリストの死と復活を熱心に宣べ伝えるとき、アンティオキア教会のように喜びと聖霊に満たされ、ついには「地の果てにまで福音を伝える」と言われた神の召しを実現していくことができるのです。そしてこの使命こそ、私たちの時代、私たちの教会が継承すべき至上命令でもあります。張ダビデ牧師が強調し続けてきたこのメッセージとビジョンが、21世紀のグローバル社会の中で輝きを放ち続け、イエス・キリストの福音が全世界へと広がる通路となることを願ってやみません。

Title: The Antioch Church and the Holy Spirit – Pastor David Jang

The Foundational Role of the Antioch Church in World Missions Acts chapter 13 is a pivotal chapter in the history of missions within the New Testament Church. Prior to this point, the apostles primarily preached the gospel in Jerusalem and the surrounding areas, but through the Antioch church, full-scale world missions began in earnest. In … Read more

La Iglesia de Antioquía y el Espíritu Santo – Pastor David Jang

La base misional mundial de la Iglesia de Antioquía Hechos 13 es un capítulo clave que marca un punto de inflexión en la historia misionera de la Iglesia del Nuevo Testamento. Antes de este momento, los apóstoles se habían concentrado en Jerusalén y las regiones aledañas para predicar el evangelio, pero es a través de … Read more

안디옥교회와 성령 – 장재형(장다윗)목사

안디옥 교회의 세계 선교 기초 사도행전 13장은 신약 교회의 선교 역사에 있어 하나의 전환점을 보여주는 핵심 장(章)이다. 이 이전까지 사도들은 주로 예루살렘과 주변 지역에서 복음을 전했지만, 안디옥 교회를 통해 본격적인 세계 선교가 시작된다. 특히 장재형목사는 이 안디옥 교회의 사명과 역할을 강조하며, 현대의 교회가 본받아야 할 ‘세계 선교의 전초기지’로서 안디옥 교회를 자주 언급한다. 안디옥교회는 예루살렘이 아닌 이방 땅에서 부흥과 확장을 이루었고, 바나바와 사울(바울)을 따로 세워 파송할 만큼 성령의 인도하심에 민감했다. 이 모습이 곧 오늘날 교회가 지향해야 할 모델이라는 것이다. 당시 안디옥은 무역이 번성한 대도시이자 문화의 교차로였다. 예루살렘을 떠나 이방 지역으로 복음이 전해지면서, 유대인만이아니라 다양한 민족과 언어를 가진 이들이 복음을 듣고 교회 공동체에 합류하게 되었다. 이 교회가 특별한 점은 ‘기도와 금식중’에 성령의 지시를 받고 바나바와 바울을 세계 선교를 위해 파송했다는 사실이다(행 13:2~3). 장재형목사는 이 대목을 크게주목하며, 교회가 현장에서 적극적으로 선교사와 사역자를 발굴·파송해 세계 곳곳에 복음의 씨앗을 뿌려야 한다고 역설한다. 전방선교뿐 아니라 후방선교도 함께 이루어져야 하는데, 이는 곧 안디옥교회가 보여준 균형 잡힌 선교 모델과 맞닿아 있다. 이 안디옥교회가 향한 첫 번째 사역지는 구브로(사이프러스) 섬이었다. 그곳은 바나바와 마가(요한 마가)의 고향이었는데, 섬전체를 횡단하며 복음을 전하는 장면이 행전 13장 초반부에 묘사되어 있다. 바나바와 바울, 그리고 요한(마가)은 약 180킬로미터에 달하는 거리를 걸어서 살라미에서 바보(바포스)까지, 일일이 복음을 전했다. 작은 섬 구브로에까지 복음이 전해짐으로써, 결국 그곳의 총독 세르기오 바울과 같은 지도층에까지 복음이 도달했다. 장재형목사는 이 사실을 언급하며 “나라 전체가 구원에이를 수 있고, 국가적 지도자까지 변화시키는 힘이 복음에 있다”라고 힘주어 말한다. 이는 교회가 작은 지역을 결코 가볍게 여기지 말고, 그 안에서도 적합한 방법을 통해 복음을 전하면 반드시 열매가 맺힌다는 가르침이다. 구브로 사역을 마친 바나바와 바울은 배를 타고 밤빌리아 버가(현재 터키 남단)로 이동한다. 여기서 문제는 함께했던 요한(마가)이 예루살렘으로 돌아가는 결정을 내렸다는 점이다(행 13:13). 성경 본문은 이에 대해 자세한 이유를 설명하지 않지만, 결과적으로 마가가 떠난 문제로 인해 바나바와 바울 사이에 분쟁이 생기고, 나중에 둘은 갈라져서 각기 다른 지역으로 떠나게 된다. 장재형목사는 여기서 중요한 ‘하나님의 주권’을 강조한다. 인간적인 갈등은 아픔을 가져올 수 있지만, 그 갈등과 분쟁을 통해 선교의 지경이 넓어지고, 결과적으로 복음이 더 많은 땅에 전파되는 일도 가능하다는 것이다. 사람이 한계를 드러내더라도 하나님의 역사는 결코 중단되지 않는다. 오히려 마가 요한의 독립된 사역, 바울의 1차·2차 전도여행, 그리고 바나바의 또 다른 선교 행보로 이어지면서 복음이 빠르게 확산된다. 이렇게 버가를 거쳐서 바울과 바나바는 비시디아 안디옥에 이른다(행 13:14). 이 지역 역시 이방 세계에 속하였고, 또 한편으로는 유대인 디아스포라가 있던 회당이 존재했다. 사도행전은 바울이 도착한 도시에서 먼저 유대인 회당을 방문했다고 기록한다. 본문에 따르면 “저희는 안식일에 회당에 들어가 앉았다(행 13:14).” 바울이 늘 취한 전도 방식, 즉 “하나님의 말씀은 먼저 유대인에게, 그리고 헬라인에게” 전해진다는 로마서 1장 16절의 원리를 보여주는 것이다. 장재형목사는 이러한 접근을 두고 “자기백성을 먼저 돌아보고, 그 안에 잃어버린 양들을 회복하며, 그곳에서 준비된 일꾼을 발견해내는 것”이라 말한다. 실제로 초기 교회는 예루살렘 성전뿐 아니라 각지의 회당을 통해 복음 전파가 체계적으로 이루어졌다. 특히 장재형목사는 21세기에 이 ‘안디옥 정신’을 회복해야 한다고 역설한다. 안디옥교회가 기도로 출발해 기도로 행하고, 성령의 지시에 민감했기에 거대한 파송과 세계 선교가 가능했다면, 오늘날 교회 역시 깊은 기도와 성령의 인도하심이 필수라는 것이다. 기술이 발전하고 메스커뮤니케이션이 발달하여 ‘발’이 아닌 인터넷, 미디어, 비즈니스 네트워크 등 새로운 선교 수단이 생겼지만, 그 본질은 동일하다. 즉, 교회가 하나되어 전방선교와 후방선교를 균형 있게 감당해야 하며, 한편으로는 다양한 나라와 지역을 향해 파송하고, 또 한편으로는 본부 교회나 선교본부에서 기도와 재정·교육 지원을 탄탄히 제공해야 한다는 것이다. 안디옥교회가 바울과 바나바를 파송해 구브로와 소아시아(지금의 터키)로 떠나도록 이끈 장면은 결국 “작은 교회로부터 세계선교가 시작될 수 있음”을 보여준다. 그러므로 오늘날 교회의 부흥도 규모나 재정, 그 외의 조건으로 좌우되는 것이 아니라, ‘성령의 지시’를 얼마나 잘 분별하고 순종하느냐에 달려 있다고 장재형목사는 거듭 설파한다. 이러한 교회는 어떤 환경에 놓이든하나님이 친히 길을 열어 주신다. 그러므로 교회와 성도 개인은 미래를 준비해야 한다. 농경시대, 산업시대, 정보와 기술의 시대를 거쳤지만, 복음 전파의 목적과 열정은 변함이 없어야 한다. 안디옥교회의 역사는 21세기에도 동일하게 적용되며, 성령의 음성에 깨어 있는 교회가 세상을 뒤바꿀 수 있다는 것이다. 담대한 복음 전파와 핵심 메시지 비시디아 안디옥에 도착한 바울과 바나바는 안식일 회당에서 말씀을 전할 기회를 얻는다(행 13:15). 당시는 회당장과 함께 예배드리는 회중이 율법과 선지자의 글을 낭독하면, 외부에서 온 사람도 설교할 기회를 얻을 수 있었다. 바울은 이 기회를 놓치지않고 일어나 손짓하며 유대인들과 하나님을 경외하는 이방인 청중에게 강론했다(행 13:16). 장재형목사는 여기서 ‘단호한 태도’가 복음 전파에 얼마나 결정적인 역할을 하는지 주목한다. 바울은 주저하거나 조심스러워하기보다, 이미 한껏 준비된 메시지를 담대히 전했다. “베드로전서 3장 15절에 너희 안에 있는 소망에 관한 이유를 묻는 이들에게 대답할 것을 예비하라”고 한 말씀처럼, 바울은 늘 준비된 증인이었다. 바울의 설교 핵심은 이스라엘 역사를 언급하면서 궁극적으로 ‘예수 그리스도의 죽음과 부활’을 강조하는 데 있었다. 그는 구약시대의 택하심, 애굽 노예생활에서의 해방, 광야 40년, 가나안 정복, 사사 시대, 사울 왕과 다윗 왕 시대에 이르기까지 이스라엘이 기대해 온 참된 구원자가 예수라는 점을 짧고 명료하게 설파한다(행 13:17~23). 이 역사적 흐름 속에 예수님이 ‘다윗의씨’로 오셨고, 요한(세례 요한)이 그의 길을 예비했으며, 예루살렘 당국이 무지로 말미암아 예수를 십자가에 못 박았지만, 하나님이 그를 다시 살리셨다는 복음의 사건을 선포했다(행 13:30). 장재형목사는 이 장면에서 “복음 전파의 가장 중요한 두 축은예수 그리스도의 신분(왕이자 구주)과 그분의 부활 사건”이라고 말한다. 복음에는 윤리나 철학적 이야기가 중요하지만, 그것을넘어서 예수 그리스도의 죽음과 부활이 핵심임을 빼놓지 않아야 한다는 것이다. 바울이 “이 사람이 곧 메시야”라고 선포하며, “하나님께서 그를 죽은 자 가운데서 일으키셨다”라는 복음의 본질을 강력하게 제시하자, 회당 안팎의 청중들이 크게 움직였다. 이들은 다음 안식일에도 같은 말씀을 듣기를 원했으며(행 13:42), 실제로 다음주에는 “온 성이 거의 다 하나님 말씀을 듣고자 하여 모였다(행 13:44)”고 기록되어 있다. 장재형목사는 이 장면을 언급하며, 전도의 성공 요인으로 “전파자가 복음의 핵심 메시지에 집중하고, 담대히 선포했을 때 영혼은 본능적으로 그 진리를 식별하고 목말라한다”라고 말한다. 사람의 영적 갈증과 진리 추구는 매우 깊고 강력하기 때문에, 전도자가 비굴하거나 위축된 자세로 접근하기보다, ‘내게 있는 것을 네게 준다(행 3:6 참조)’는 베드로의 고백처럼 당당히 선포할 때 큰 역사가 일어난다는 것이다. 그렇다면 어떻게 담대함을 유지할 수 있는가? 장재형목사는 그 비결을 두 가지로 요약한다. 첫째, 성령의 동행하심이다. 예수께서도 제자들을 파송하시면서 “보라, 내가 세상 끝날까지 너희와 항상 함께 있으리라(마 28:20)”고 약속하셨다. 사도행전 전체가보여주듯, 성령이 임하시면 건물을 흔들고, 핍박을 돌파하며, 종국에는 이방인에게까지 복음이 퍼져나가는 역사가 일어난다. 둘째, 전도자의 정체성 확립이다. 바울은 예루살렘 당시 가장 촉망받던 율법학자 중 한 사람이었으나, 스데반을 죽이던 사건 이후예수님을 만나 결정적으로 회개하고 자신의 모든 것을 복음 증거에 내던졌다. 그 과정에서 “내가 로마도 보아야 하리라(행19:21)”며, 세계 중심으로 복음을 가져가야 한다는 비전을 품고 살았다. 즉, 나의 인생 전체가 복음을 증언하는 데 목적이 있다고 분명히 인식했기에, 어떤 상황에서도 기회만 주어지면 담대히 예수 그리스도를 전할 수 있었던 것이다. 이처럼 담대한 복음 증거는 당대든 오늘날이든 복음 전파의 핵심 열쇠이다. 21세기에 접어들면서 새로운 미디어 환경과 글로벌네트워크, 비즈니스 기회가 크게 늘어났다. 장재형목사는 이러한 시대적 변화를 “농경시대와 산업시대를 지나 기술과 정보의 시대로 들어섰다”고 표현한다. 이제는 복음을 전하기 위해 물리적으로 먼 거리를 ‘발’로만 걸을 필요가 없다. 인터넷 영상, SNS, 비즈니스 미팅, 또는 온라인 강의 등 다양한 채널을 통해 도달할 수 있다. 하지만 아무리 시대와 방식이 변해도, 최종적으로 사람의 마음을 움직이는 건 복음의 ‘핵심 메시지’라는 사실은 변함없다. “그리스도께서 우리 죄를 위해 죽으셨으며, 부활하심으로우리에게 영원한 생명을 허락하셨다”는 선언이 뚜렷하게 전해질 때에, 영혼이 깨어나고 목마름이 해결된다는 것이다. 바울이 담대하게 선포한 결과, 비시디아 안디옥의 온 성이 마음을 열었다. 일부 유대인들은 시기로 인해 바울을 배척했지만, 이방인들은 그 말씀을 기뻐하며 찬송했다(행 13:48). 교회가 크고 작음을 떠나, 복음을 선포하는 공동체로 뚜렷하게 서 있을 때, 사람들은 그 메시지를 듣고 마음에 울림을 경험한다. 장재형목사는 이를 “영적인 직관”이라고 부르는데, 어린아이도, 학식이 깊은 어른도, 복음이 선포될 때 그것이 진정한 생명수인지 아닌지 본능적으로 느낀다는 설명이다. 또한 그는 “금과 은 내게 없으나, 내게 있는 것을 네게 주노니, 곧 나사렛 예수 그리스도 이름으로 일어나 걸으라(행 3:6)”라는베드로의 선언을 대표적인 예로 든다. 사실 교회는 물질이나 권력을 제공할 수 없는 환경에 부딪히기 쉽다. 그러나 이보다 더 귀한 선물을 주는 것이 바로 복음이다. 장재형목사는 이런 나눔의 가치가 교회를 살리고, 도시와 국가를 살리며, 궁극적으로 세계를 변혁시킨다고 강조한다. 그리고 이 생명의 복음을 전할 때 가장 필요한 것은 “담대함과 확신, 그리고 성령의 능력”임을 다시한번 역설한다. 이러한 확신 속에서 장재형목사가 진행하는 글로벌 선교 네트워크는 이미 수많은 나라에서 교회를 건립하고, 노회를 조직하며, 크고 작은 센터(미션센터, 비즈니스센터, 교육센터 등)를 통해 현지인들에게 복음을 가르치는 중이다. 교회가 부흥을 열망하면서도 막상 많은 인원을 수용할 예배처소나 교육 인프라가 없다면, 정작 하나님이 사람을 보내주시더라도 수용하지 못한다. 그래서 건물을 짓거나 매입하는 일 자체도 결코 세속적인 행위가 아닌, 복음을 담대히 전하기 위한 선교 전략의 일환이라고 볼 수 있다. 장재형목사는 “미래를 준비하는 것이 믿음”이라고 말하며, 교회가 기도 가운데 단계적으로 확장할 때 하나님이 더욱 많은 영혼을 보내주신다고 가르친다. 결국 담대한 복음 전파와 핵심 메시지에 충실함으로써, 교회는 세상을 향해 계속해서 나아간다. 이 때 반드시 알아야 할 사실은, 복음을 전하다 보면 언제나 시기와 반대, 심지어는 핍박이 함께 따른다는 점이다. 그러나 사도행전은 이 과정을 통해 도리어 복음이 더 멀리, 더 넓게 퍼져나갔다고 말한다. 예루살렘의 교권이 핍박을 가하자 복음이 사마리아, 이방 땅으로 옮겨 갔고(행 8장), 비시디아 안디옥에서 일부 유대인들이 시기하자 오히려 이방인들이 기쁨으로 복음을 받았다(행 13장). 그러므로 담대함은단순히 무모함이 아니라, “하나님께서 역사하신다”는 믿음과 “반대에도 불구하고 전진한다”는 결단이 합쳐져서 나온다. 시기와 핍박 속에서의 기쁨과 성령 충만 사도행전 13장의 후반부가 보여주는 또 다른 중요한 주제는 ‘복음 전파에 대한 반대와 시기, 그리고 그 과정에서 얻어지는 기쁨과 성령 충만’이다. 비시디아 안디옥 회당에서 많은 사람들에게 복음이 전해지자, 일부 유대인들은 시기로 인해 바울의 말에 비방을 퍼붓고, 바울과 바나바를 적극적으로 핍박하기 시작한다(행 13:45). 그럼에도 불구하고 이방인들은 기뻐했다. “영생을 주시기로 작정된 자는 다 믿더라(행 13:48)”라는 구절처럼, 오히려 반대와 핍박이 클수록 복음은 더 선명해지고, 준비된 영혼들은말씀을 붙잡게 된다. 이는 교회 역사에서 반복되는 패턴이기도 하다. 장재형목사는 이 사건에서 ‘발에 티끌을 떨어버리고(행 13:51)’ 다른 도시로 향하는 바울과 바나바의 태도에 주목한다. “너희가복음을 거부하면, 우리는 과감히 떠나 더 열린 문으로 나아간다”는 선언이다. 모든 사람을 살리려 노력하지만, 끊임없이 회피하고 배척하는 이들 앞에서는 미련을 두기보다 신발의 먼지를 털고, 다음 지역으로 전진하는 결단이 필요하다는 것이다. 이러한태도가 비인간적이거나 냉정해 보일 수 있지만, 실제로는 매우 중요한 원리다. 복음은 자발적인 수용이 전제되며, 억지로 강요하거나 간청해서 얻어지는 열매는 오래가지 못한다. 또한 “시기하는 자들로 인해 선교가 막히는 게 아니라, 그 핍박으로 인해 더넓은 문이 열린다”고 본문은 강조한다. 결국 그 결과를 13장 마지막 절이 잘 보여준다. “제자들은 기쁨과 성령이 충만하니라(행 13:52).” 바울과 바나바가 쫓겨나서 실패로 끝난 것처럼 보이지만, 사실은 제자들의 영혼이 기쁨으로 가득 찼다. 이유는 무엇인가? 복음이 온 성에 전파되었고, 이방인 중에 상당수가 예수님을 영접했으며, 새롭게 제자로 세워진 이들이 생겨났기 때문이다. 이로 인해 비시디아 안디옥뿐 아니라주변 지역으로도 복음이 흘러갔다. 장재형목사는 여기서 “전도의 가장 큰 보상은 물질적 성공이 아니라, 구원받는 영혼들을 보는 기쁨과 그때 함께하는 성령의 충만함”이라고 말한다. 현대 교회도 마찬가지다. 복음을 전할수록 오해나 반발, 혹은 타 종교나 세속 문화의 반대에 부딪힐 수 있다. 그것이 거세질수록마음이 약해지기 쉽지만, 오히려 그 상황에서 ‘성령이 주시는 기쁨’을 누리는 것이 제자의 삶이다. 이는 곧 로마서 8장 28절 “하나님을 사랑하는 자 곧 그 뜻대로 부르심을 입은 자들에게는 모든 것이 합력하여 선을 이룬다”는 말씀과 일맥상통한다. 장재형목사는 “작은 갈등과 고난이 오더라도 그것이 오히려 우리가 더 넓은 지경으로 나아가는 디딤돌이 될 것”이라고 격려한다. 이와 유사한 원리가 사도행전 8장에도 드러난다. 예루살렘 교회가 무섭게 일어난 핍박으로 인해 사방으로 흩어졌을 때, 결과적으로 사마리아, 아시아, 그리고 후에 유럽까지 복음이 전해지는 결실을 거둔다. “악을 선으로 바꾸신다”는 구약의 요셉 이야기도마찬가지다. 형들의 질투와 미움으로 인해 노예로 팔려간 요셉이 결국 형제들과 애굽 전체를 구원하는 통로가 된 것처럼, 바울과 바나바 역시도 시기와 배척을 통해 이방인에게 복음이 들어갈 길을 열었다. 그래서 장재형목사는 “예수 그리스도의 채색 옷을 입은 자는 누구나 시기를 당하기 마련”이지만, 그 과정을 통해 결국 하나님이 더 큰 구원을 이루신다고 본문을 인용해 해석한다. 여기서 중요한 것은 복음 전파에 대한 바울의 애착과 집념이다. 바울은 유대인들이 복음을 받지 않을 때마다 ‘신발의 먼지를 턴다’고 선언하면서도, 다른 한편으로는 계속해서 유대인 회당을 찾았다(행 14장, 17장, 19장 등). 유대인들을 포기한 것이 아니라, 문이 열릴 수 있는 가능성을 끝까지 찾은 것이다. 다만 특정 지역이나 시점에서 심한 반대를 받으면, 굳이 거기에 매여 있지않고 더 ‘열린 문’을 찾아 나섰다. 장재형목사는 이 태도를 선교 현장에서 매우 중요하게 소개한다. “어디선가 문이 닫히면, 다른어딘가에서 더 큰 문이 열린다”는 것이다. 그리고 그 열림을 통해 제자들의 기쁨과 성령 충만은 배가된다. 실제로 현대 선교 현장에서도 한 국가나 지역에서 종교적·정치적 제약으로 인해 선교가 막히면, 다른 경로, 예컨대 비즈니스 혹은 교육을 통한 전도가 열리기도 하고, 이민자 커뮤니티나 디아스포라 공동체를 통해 복음이 뻗어나가기도 한다.. 그 과정에서때때로 현지 정부나 지역 단체의 반대, 혹은 종교적 편견에 부딪히는 일이 생기지만, 결국 다른 길이 열리고 다른 지역에서 더많은 영혼이 회심하는 ‘기쁨의 열매’를 보게 된다고 간증한다. 이런 경험은 사도행전 13장의 원리를 오늘날에도 그대로 재현하고 있음을 보여주는 사례다. “제자들은 기쁨과 성령이 충만하니라(행 13:52)”는 말씀은, 결국 복음이 편히 전해지는 ‘순풍’만 불 때가 아니라, 시기와 핍박이함께하는 ‘거센 바람’ 속에서도 성취된 결과다. 성령은 연약한 사람을 담대하게 하시고, 박해 앞에서도 기도와 찬양을 이끌어 내시며, 결국 복음이 더 멀리 퍼질 통로를 예비하신다. 장재형목사는 이 말씀을 통해 오늘날 수많은 지역 교회와 사역자가 용기를얻어야 한다고 강조한다. 교회가 커지면 커질수록, 혹은 여러 나라에 노회가 생겨날수록 오히려 더 많은 공격을 받을 수 있다. 그러나 거기에 눌려 꿈을 접기보다, 끝까지 기도하며 빛을 찾아야 한다. 그러면 도리어 “핍박과 시기를 이긴 자들이 얻는 기쁨과성령 충만”을 누릴 것이며, 그것이 참된 교회의 힘이라고 가르친다. 장재형목사는 세계 각지에서 수많은 교회나 센터를 매입할 때, 종종 “미래가 없는 교단이나 교회가 건물을 매각한다”는 예시를든다. 반면 미래가 있는 교회는, “새로운 교회 건물을 차지하며 부흥의 꿈을 꾼다”는 것이다. 어느 교단이든, 희망을 잃고 다음세대를 바라보지 못하면 결국 축소되고 사라지게 마련이다. 이 원리는 사도행전에도 그대로 드러난다. 시기하고 질투했던 유대종교 지도자들은 멸망에 가까운 길을 갔지만, 복음 앞에 마음 문을 열고 기쁨으로 받아들였던 이방인들은 오히려 새 역사의 주인공이 되었다. 교회가 기쁨과 성령 충만을 누린다는 것은, 바로 이러한 미래지향적 태도와 하나님의 섭리가 만나는 지점이다. 결국 사도행전 13장이 우리에게 던지는 메시지는 명료하다. 복음 전파는 결코 순탄하지 않으며, 거기에 시기와 질투, 핍박이 끊이지 않는다. 그러나 하나님의 사람들은 그 반대를 통해 더욱 인내하며, 영혼이 구원받는 역사를 오히려 확대해 나간다. 그리고그 선봉에 선 이들은 ‘기쁨과 성령이 충만’해진다. 21세기 교회도 동일한 원리를 적용해야 한다. 세상 어느 곳이든, 비록 반대와핍박이 있을지라도, 하나님은 항상 또 다른 길을 예비해 두셨고, 준비된 영혼들에게 복음이 들어가게 하신다. 이런 과정을 지켜볼 때, 우리 안에 참된 기쁨이 솟고, 성령의 역사가 더욱 생생해지는 법이다. 장재형목사가 강조하는 마지막 결론은 “안디옥교회가 모델이 되었듯, 오늘의 교회도 세계 선교를 위해 기도하며 끊임없이 도전해야 한다”는 것이다. 새롭게 열린 문을 발견하면, 그 기회를 붙들어 복음을 나누고, 교회가 여러 분야(비즈니스, 교육, 미디어, 문화 등)로 뻗어나가도록 힘써야 한다. 그럴 때 사도행전이 기록했던 것처럼 “주의 말씀이 그 지방에 두루 퍼지니라(행 13:49)”는 역사가 오늘날에도 동일하게 재현될 것임을 확신한다. 그리고 그 결과로 “제자들은 기쁨과 성령이 충만하니라”는 결론에 이른다. 이 기쁨은 단순한 감정적 흥분이 아니라, 생명을 살리는 복음 사역에 동참하는 자들이 누리는 영적 충만과 공동체적인 환희다. 예루살렘, 안디옥, 비시디아 안디옥, 그리고 지중해를 넘어 로마까지 뻗어 나갔던 선교의 발걸음이, 오늘날 일본, 중국, 미국, 유럽, 아프리카 등 온 세계에 미치기를 바라는 것이 장재형목사가 지속적으로 선포하는 비전이다. 그렇게 교회는 끊임없이확장되고, 무수한 영혼들이 살아난다. 결국 사도행전이 보여준 원초적 교회의 역사야말로 오늘날 교회가 배워야 할 가장 중요한 가르침이다. 작은 교회라도 성령의 역사가 임하면 세계를 향해 나갈 수 있고, 크고 화려한 교회라도 성령 없이 형식만 남으면 스스로 무너진다. 그러므로 시기와 핍박이라는 외부적 도전과, 갈등과 분쟁이라는 내부적 문제 앞에서도 절망할 필요가 없다. 오직 담대한 믿음으로 복음의 핵심, 즉 예수 그리스도의 죽음과 부활을 부지런히 전할 때, 안디옥교회처럼 기쁨과 성령이 충만하여 결국 “땅끝까지 복음을 전하게 하리라” 하신 하나님의 부르심을 이루게 될 것이다. 그리고 그 사명은 바로 우리 시대, 우리의 교회가 이어가야 할 지상명령이기도하다. 장재형목사가 강조해온 이러한 메시지와 비전이, 21세기 글로벌 사회 속에서 계속 빛을 발하며, 예수 그리스도의 복음이온 세상으로 뻗어 나아가는 통로가 되기를 소망한다.

The Gospel and God’s Love – Pastor David Jang

The Core of the Gospel and the Love of God A central theme that Pastor David Jang repeatedly emphasizes in his sermons and lectures is the “Gospel.” He understands the Gospel as the entire saving work of Jesus Christ—God’s Son—who came to earth, took upon Himself all human sin and suffering, died, and then rose … Read more

El Evangelio y el Amor de Dios – Pastor David Jang

La esencia del Evangelio y el amor de Dios El tema central que el pastor David Jang enfatiza repetidamente en sus sermones y conferencias es precisamente el “Evangelio”. Él entiende el Evangelio como el hecho de que el Hijo de Dios, Jesucristo, vino a esta tierra, cargó con todos los pecados y sufrimientos de la … Read more

L’Évangile et l’amour de Dieu – Pasteur David Jang

L’essentiel de l’Évangile et l’amour de Dieu Le thème central que le pasteur David Jang met constamment en avant dans ses prédications et ses conférences est “l’Évangile”. Pour lui, l’Évangile est l’ensemble de l’œuvre de salut qui englobe la venue sur terre de Jésus-Christ, Fils de Dieu, le fait qu’Il ait porté tous les péchés … Read more

福音と神の愛 – 張ダビデ牧師

福音の核心と神の愛 張ダビデ牧師が説教や講演の中で繰り返し強調している中心的テーマは、まさに「福音」である。彼は、福音を「神の御子であるイエス・キリストがこの地上に来られ、人間のあらゆる罪と苦しみを負って死なれ、そして復活によって人類に新たな命の道を開かれた救いの出来事全体」として理解している。彼にとって福音とは単なる宗教的教義ではなく、人類史から宇宙的次元に至るまで、すべてをひっくり返す決定的な出来事なのである。 福音を定義する際に、ヨハネの福音書3章16節は常に重要な出発点として提示される。すなわち「神はその独り子を惜しまず与えるほどに世を愛された……」というこの御言葉は、福音が何よりもまず「神の愛」を宣言していることを如実に示している。張ダビデ牧師はこの聖句に言及しながら、私たちが罪のせいで永遠に断絶されていた存在であったにもかかわらず、神は全面的な賜物としてイエス・キリストを送ってくださった事実を深く黙想すべきだと力説する。私たちが福音を喜び、胸を躍らせながら、同時に福音の前で敬虔な恐れとへりくだりを持つようになるのは、まさにこの神の愛の大きさによるのである。 彼はしばしばローマ書5章8節を引用する。「私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死なれたことによって、神はご自身の愛を明らかにしてくださった」というこの御言葉は、神が人間の何らかの資格を見て愛を注がれたわけではないことを示している。むしろ人間は罪のもとにあり、自力では救いに至ることが到底不可能な状態にあったにもかかわらず、神は一切の条件なしにイエス・キリストを送ってくださったというのである。ここで張ダビデ牧師は、福音を単なる道徳的手本や宗教儀式に限定せず、徹底して「恵みの出来事」として認識すべきだという。すなわち、福音は人間の善行や正しさによってではなく「神の贈り物」として与えられたものである以上、どんな人間的誇りが入り込む余地もないということだ。 張ダビデ牧師は、福音を「愛の出来事」と呼び、その愛が具体的に表される現場が十字架だと強調する。愛は口先だけで叫ぶと空虚になりうるが、神の愛はイエス・キリストのへりくだりと死、そして復活を通して「歴史的事実」となった。イエスがご自身を完全に空にして、人間のすべての罪を負い、代償の生贄となられた出来事は、ほかのいかなる形態の愛とも比べようのない、まさに絶対的かつ「比類なき」愛だという。この愛こそ、福音が伝える喜ばしい知らせのエッセンスである、と彼は語る。 そしてもし福音が愛であるなら、その愛を証しすることは避けられない当然の義務となる。すなわち、「神の御子がこの地上に来られ、私たちのために死なれ、死を打ち破って復活された」という事実を知った者は、必然的にそれを「証し」するようになるのだ。張ダビデ牧師は、使徒行伝で弟子たちや使徒たちがどのように証ししていたかをしばしば例に挙げる。ステパノは激しい迫害の中で石打ちに遭い殉教する直前まで、イエスこそ人類の救い主であると伝え続けた。ペテロはペンテコステの日に聖霊が下った後、エルサレムの大衆の前で福音を叫び、パウロは異邦の地を巡りながら福音の証言をやめなかった。彼らは自分の人生を懸け、どんな代価を払ってでもイエスが「真の命の道」であることを世に知らせたのである。 これほどの証しが可能だった理由は、彼らが福音を「知識」としてだけでなく、「愛」として体験していたからだ。張ダビデ牧師は、この愛の体験を「福音に捕らえられること」と表現する。福音が単に「イエスとは誰かを頭で理解すること」で終わるなら、それはパリサイ的な知識にすぎない。真の福音体験は、イエス・キリストの愛が自分の罪と絶望を解決してくれたことを悟り、存在全体が変えられる出来事である。だからこそ、イエス・キリストを知った人は自然に福音の証人となり、この地上に向かって「神の愛」を伝える使命を担うのだ。 張ダビデ牧師は、福音が万人に開かれていることも強調する。背景や学識、道徳的資格の有無に関係なく、すべての罪人に「罪の赦しと新しい命」が宣言されたのがイエス・キリストの十字架であるという。特に使徒行伝2章でペテロが説教する場面にある「だれでも主の御名を呼び求める者は救われる」(使徒2:21)という宣言を言及しつつ、福音は決して特定の民族や集団だけのためのものではないと明確に示す。ゆえに張ダビデ牧師のメッセージの中では、「神の愛」という共通分母が民族や言語の壁を超え、歴史と文化の限界を超えて、罪の中で苦しむすべての人生に訪れる全面的な恵みの実体として繰り返し示されるのだ。 さらに彼は、福音が宇宙的であると同時に個人的なメッセージでもあることを重ねて想起させる。すなわち、福音は宇宙的次元で人類全体の運命を変えた出来事であると同時に、一人ひとりの内面と生き方を転換させる力でもある。私たちが福音を受け取り信じるとき、それはもはや概念や教義ではなく、私たちの内面で爆発する「新しい命の力」として働く。愛を受けた者は愛を流さずにいられず、恵みを体験した者はその恵みを世に伝えずにはいられない。だからこそ張ダビデ牧師は、福音こそが「この世に必要な唯一の希望」であり、その確固たる土台の上に教会と共同体が打ち立てられるべきだと力説する。 また彼は、福音を信じ従う人々の間で自然に現れる実りとして「互いの重荷を負い合い、愛し合え」(ガラテヤ6章2節)という御言葉を提示する。もし福音が愛であるならば、福音を伝える者たちの共同体も必ずや、愛の喜びと一致に満ちるべきだというのだ。イエスが「すでに世に勝った」(ヨハネ16章33節)と宣言されるとき、それは武力によって世を屈服させるという概念ではなく、愛と仕える姿勢によって勝つという逆説的な勝利であることを想起させる。ゆえに教会が福音を掴み、真に互いを愛する姿で世に仕えるなら、その姿自体が世に対する強力な証しになるのだ、と張ダビデ牧師は強調する。 結論として、張ダビデ牧師のメッセージの中では、「福音の核心とは、神の御子が私たちのために来られ、死なれ、そして復活によって愛を完成された」という宣言に要約される。どんな哲学的理論や倫理的教えでも代わりになりえない、この地上のすべての罪人に開かれた壮大な愛の物語こそが福音なのである。そしてこの福音の前に立つすべての人は、その愛の出来事に反応して変えられた生を生きるようになる—これが彼の第一の強調点である。 罪と義、そして代贖(だいしょく)の道 張ダビデ牧師が第二に深く取り上げる中心テーマは「罪と義、そして代贖」である。もし福音が愛であるとするなら、人間にはなぜこのような犠牲と救いが必要だったのか。その根底には、人間が自力では解決できない罪の問題がある、と彼は語る。 まず、罪とは何であるかを正しく認識しなければ、福音の愛と恵みを完全には理解できないというのが張ダビデ牧師の教えである。聖書全体を貫く概念である罪は、単に道徳的な誤りや社会規範の違反行為を越える。彼はローマ書1章でパウロが宣言した「人間は神を心に留めようとしない」ことこそが罪だ、という定義に注目する。人間には本質的に神を退け、自分が主人となろうとする態度が深く根を張っており、その結果として全世界が罪の支配下に置かれるようになったのだと説明する。 続いて張ダビデ牧師は、この罪がもたらす波及効果を「死が王として君臨する」という表現で要約する。つまり、人間が罪のもとに置かれると、その結末は死であるという。これは単に肉体的死だけでなく、永遠の滅びと断絶を意味している。したがって、人間はいくら善行を積み、律法を守ろうとしても、自力では罪と死の権威に打ち勝つことができない絶望的状況に直面しているというのだ。律法は罪が何であるかを明確にし、罪をより鮮明に暴く機能を果たすだけであって、罪からの完全な解放は与えてくれない。 まさにこの地点で、イエス・キリストの「代贖(だいしょく)」の出来事が炸裂する。代贖とは文字通り「誰かが代わりにその代価を支払うこと」を意味するが、張ダビデ牧師はこれを単なる商取引上の概念で終わらせてはならないと強調する。旧約の犠牲制度(特にレビ記16章の贖罪日)の儀式で、動物を屠って血を流し、人々の罪を覆った象徴が、イエス・キリストの十字架で「完全なかたち」で実現したのだ。すなわち、すべての罪人が犯した不従順と反逆、それに伴う死の刑罰をイエスご自身が背負われたということである。 張ダビデ牧師がローマ書5章18-19節をしばしば取り上げるのも、この代贖の概念を明確に説明するためである。「ひとりの人アダムによって全人類が罪のもとに置かれたが、もうひとりの人イエス・キリストによって多くの人が義とされ、命に至る道が開かれた」というパウロの宣言に、福音の核心がある。この言葉は、人類が罪の鎖から抜け出せなかった根本的限界を、イエス・キリストの従順と犠牲によって一気に覆したということを意味する。 張ダビデ牧師は、代贖の本質が「愛」であることを付け加える。もし代贖をひたすら律法的な視点だけで理解しようとするなら、私たちが思い描くイメージは「公正な裁き主が罪人に当然の刑罰を執行しなければならないので、誰かが代わりに血を支払った」という、どこか冷たい取引方式になりがちである。しかしイエス・キリストが十字架の上で血を流された場面は、単に「刑罰を代わりに受けた」という形而上学的・法廷的概念にとどまらない。それは神が私たちに与えてくださった「全面的な賜物」であり、イエスが自発的に進んで私たちに差し出された「自己犠牲の愛」なのだ、と張ダビデ牧師は言う。この点が理解されるとき、私たちは初めて十字架の出来事がいかに途方もない波及力を持っているかを悟ることができる。 こうして人間には、この代贖の愛を受け入れ、福音を信じることによって「義とされる」道が開かれる。パウロがガラテヤ書などで力説した「信仰による義(イシンチンギ)」の原理は、張ダビデ牧師が語る福音の論理と正確に結びつく。彼によると、私たちが福音を受け取った瞬間、もはや「罪人」の身分ではなくなり、神の前で「義人」と宣言されるという。それは私たちの内面に実際に道徳的な完璧さが生まれるからではなく、イエス・キリストがすでに罪の代価を支払われたからである。義が「転嫁(てんか)」されるという神学的概念が現実に適用されるわけだ。 張ダビデ牧師はまた、ヘブライ書にある「私たちもキャンプの外へ出て行こう」という表現を好んで引用する。旧約の犠牲制度では、罪を負わされたヤギや羊は陣営の外へ追い出され、そこで屠られた。イエスもエルサレムの城門の外にあるゴルゴタの丘で十字架にかけられ、「贖罪の子羊」の役割をまっとうされたというのである。「私たちもキャンプの外へ出て行こう」という勧めは、イエスの苦難にあずかり、代贖の道を見習え、という挑戦として読める。 ここで重要なのは、代贖をただ神学用語として学び、頭だけで理解して終わらせないことだ。張ダビデ牧師は、代贖が福音の核心部分である以上、私たちもイエスが歩まれた道に倣うべきだと説く。すなわち、私たちがこの地で福音を生きるとき、互いの重荷を負い合い、ときには迫害や誤解をも受け入れつつ、愛をもって仕える生き方を選ばなければならない。これこそイエスの「代贖的愛」を私たちも生き方として受け入れる具体的な表れなのだ。私たちは世を裁く指さしや暴力で変えることはできないが、イエスがなさったように、愛をもってご自身を差し出し「キャンプの外」へと踏み出す姿勢こそが、世界を癒やすことのできる道だというのである。 張ダビデ牧師は、代贖が最終的に「復活」と結び付くときに完全に完成する点を重ねて強調する。もしイエスの十字架が人類の罪を身代わりに負った決定的な犠牲だったとするなら、イエスの復活は「死の権勢さえも打ち破った」という神の究極的宣言となる。もしイエス・キリストが死からよみがえられなかったなら、代贖のメッセージは途中で終わってしまうかもしれない。だが実際に復活の出来事が起こったゆえに、罪と死の束縛が完全に断ち切られ、新たな命が与えられる救いの力が証明されたのだ。代贖が罪の赦しを意味するならば、復活はその赦しを受け取った者たちが得る「永遠の命」を保証する出来事と言える。 要するに、張ダビデ牧師が語る「罪と義、そして代贖の道」は、福音の骨格そのものである。罪のもとに囚われ、律法では到底解決できなかった人間が、イエス・キリストの代贖的犠牲と復活によってついに義の身分を得るに至ったという宣言だ。そしてその義を経験した人は、自分中心の生き方を脱却し、互いの重荷を担い、喜んでキャンプの外へ出て行き、苦難の中でも愛と従順に生きるようになる。この道は世の価値観とはまったく異なる「十字架の道」という逆説的なスタイルだが、それこそ真の救いの力だというのだ。 宇宙的出来事としての救いと復活 張ダビデ牧師が第三に強調するテーマは、福音が単なる個人の霊的体験や教会の敬虔生活の次元を越えた「宇宙的出来事」であるという事実である。イエス・キリストの誕生と十字架、そして復活は、特定の時空間で起きた歴史的出来事であると同時に、全宇宙と歴史のすべての局面に影響を及ぼす決定的転換点だというのだ。 彼はしばしばローマ書5章を例に挙げ、アダムひとりによって罪が全人類に広がったように、イエス・キリストひとりによって「罪の赦しと義とされる道」がすべての人に開かれたと説明する。この言葉は、イエス・キリストの救いのみわざに、人類の運命を丸ごとひっくり返す宇宙的意味が内包されていることを示す。もし私たちが福音を単に「個人的な救いの体験」や「何らかの特別な不思議な出来事」としてだけ理解するなら、そのスケールを狭めてしまうことになる、と彼は言う。 張ダビデ牧師は、この宇宙的視点をはっきりと示すために、旧約の預言と福音書に描かれるイエスのエルサレム入城の場面をしばしば関連づけて解釈する。ダニエル書7章に登場する「雲に乗って来る人の子」は、当時のユダヤ人が待ち望んでいた終末論的王、すなわち全世界を裁き治める絶対的主権者のイメージを反映している。しかしイエスは実際にエルサレムに入城される際、ゼカリヤ書9章9節の預言どおり「ろばに乗って、へりくだって」おいでになった。これは「全能の王であるが、自分の民と苦難をともにするへりくだった王」という、複合的なイメージとして成就するのである。 張ダビデ牧師は、このような姿を「神の顕現の方式」と呼ぶ。世の権力者たちは戦車や軍馬に乗って凱旋将軍のように登場し、自らの権勢と力を誇示する。しかし神の御子であるイエスは、むしろ最も低い者の姿で、最も卑しい姿で入城された。彼が指摘するのは、これは世の人々には愚かで弱々しく見えるが、神の救いの方法はまさにこの逆説の上に築かれているということである(参照:コリント第一1章)。 そして、イエスが十字架で死なれる場面は、群衆の期待とは正反対にあまりにも惨めに見えた。ローマ人にとっても十字架刑は極悪非道な犯罪者に適用される「呪いの処刑」だったし、ユダヤ人にとっても「木にかけられた者は呪われている」(申命記21章23節)という律法の文言からして、十字架刑は決してメシアにふさわしい死に方ではなかった。しかし張ダビデ牧師は、この点で「愛の王」であり「苦難を受けるしもべ」として預言されたイザヤ書53章を引き合いに出し、イエスの死は決して敗北や呪いではなく、むしろ罪と死を背負う贖い(救い)の勝利なのだと解釈する。神の全能性は人間の常識を打ち破る方法で歴史を導き、その究極の目的が愛と救いにあるがゆえ、十字架こそが栄光のしるしになるのだという。 張ダビデ牧師は特に「復活」に焦点を合わせる。もしイエスが十字架で死なれてそこで終わっていたなら、宇宙的出来事と呼ぶ根拠は弱まるかもしれない。だがイエスは三日目に死を打ち破ってよみがえられた。福音書は共通してこの復活の場面を記録し、その結果弟子たちは恐怖から大胆さへ、落胆から情熱的な証人へと変えられた。これは、死という全宇宙的かつ普遍的な限界を越えて新しい世界が開かれた決定的証拠となる。死という人類最大の敵を断ち切り、永遠の命の時代を開いたのだから、その影響は個人を越えて全宇宙に及ぶという解釈である。 張ダビデ牧師は、ホーリーウィーク(受難週)と呼ばれるイエス最後の一週間を黙想しながら、このわずか一週間の中に歴史と宇宙が圧縮されていると説明する。シュロの主日(棕櫚の主日)にイエルサレムへ入城するイエスの姿に始まり、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、十字架刑、そして復活へと至る一連の流れを追うと、人間と歴史の運命を変える救いの叙事詩が完結するというのだ。特にゲッセマネの園で、イエスが血のような汗を流して祈られた場面は、イエスが十字架への道を能動的に選ばれたことを示している。イエスはただ不当に犠牲にされた子羊ではなく、人類の罪を担い、死を打ち破るための王としての戴冠式を前に、壮絶な霊的闘いをなさったのだ。 したがって張ダビデ牧師は、イエスの死と復活が決して小さく局所的な出来事ではなく、すべての時代とすべての空間を貫く「宇宙的結晶」だという。この事実が分かるとき、信仰者は単に宗教行事に参加するレベルを越え、存在全体がひっくり返される体験をするようになる。私たちがこの世で直面する苦しみや挫折も、イエスがすでに十字架によって引き受けてくださり、その結果復活によって最終的に勝利されたのだから、どのような状況でも絶望に縛られなくてすむ、という希望を抱くことができるというのだ。 張ダビデ牧師は、この宇宙的救いの出来事が各個人の人生に「具体的現実」となるように祈っている。彼が宣教や教育の現場で一貫して強調しているのは、「福音が世界を変える」という壮大な言葉が、実際に教会と信徒の日常に適用されなければならないということだ。もし日常において福音の力を経験しなければ、宇宙的救いの出来事の雄大さも、単なる教義や理論にとどまる可能性が高い。しかし日常生活でイエスの歩まれた道に倣って愛と仕え合いを実践し、復活の力に頼るとき、共同体の内でも世の中でも「神の統治」が具現化されるような奇跡が起こるのだ、と彼は言う。 さらに、聖書が語る「新しい天と新しい地」(黙示録21章)は、復活の完全なる結論であり最終的な指向点だと張ダビデ牧師は解釈する。それは死後にのみ享受する天国にとどまらず、すでにイエス・キリストの復活によって始まった永遠の命の統治であるという。すなわち、イエスを信じることにより、私たちは今この地上においても復活の命にあずかることができ、究極的には世全体がイエスの再臨とともに完成された救いの世界へと入り込む。こうした意味で、復活はすでに成就しつつも、まだ完全には到来していない未来の領域を同時に示す「成就と緊張」を内包している、と彼は語る。 ホーリーウィークを経てイースター(復活祭)に至るまで、教会の伝統はこの過程で「十字架と復活」を中心主題として記念してきた。張ダビデ牧師は、イエスが十字架へ進む道は苦難と恥辱の道だったことを詳しく解き明かす一方で、その道が最終的には「栄光と勝利の道」という逆説的結末に至ることを強調する。イエスは正しい者としてではなく、罪人の姿で世の罪を担うために十字架刑に処せられたが、その死の場所で宇宙的な愛と救いが爆発したのである。そしてこれを信じて受け入れるすべての人間は、過去・現在・未来を問わず、イエスとともに復活にあずかることになる、と宣言する。 加えて、彼はこの復活信仰が教会共同体において具体的にどのように実現されるべきかを提示している。教会がイエス・キリストの体であるならば、教会は「復活の命」を世に示す場所でなければならない。すなわち、貧しい人々に対して憐れみや分かち合いを実践し、不正な権力や世の風潮に対して真理を宣言し、互いに仕え合い愛し合うことで、この世にはない真の和解と平和を示すべきだ。これこそ復活されたイエスに従う共同体なら当然生じる実である、と張ダビデ牧師は語る。 結論として、宇宙的出来事としての救いと復活は、張ダビデ牧師のメッセージの中で最も広大な地平を開くテーマである。人間個人の罪問題と義認、代贖による自由と喜びを越えて、この出来事は歴史と宇宙全体を再編する。張ダビデ牧師は繰り返しこの点を強調し、福音を単なる「宗教的教義」や「敬虔な知識」に縮小せず、人類と宇宙のすべてが参加する壮大なドラマとして受け止めるよう呼びかける。そしてこのドラマの核心は、イエス・キリストの十字架と復活が見せた「逆説的愛の力」である、と語る。その愛は、世のいかなる神話や叙事詩も担いきれない真の命と真理を内包しており、信じる者にとっては永遠の希望となる。 結論 第一に、「福音の核心と神の愛」では、福音を神の全面的な愛と結びつけて説明し、イエス・キリストの来臨と死、そして復活のすべてが罪深い人間を救うための神の贈り物であることを浮き彫りにする。福音こそ単なる教義や情報ではなく、命の力であり、神の愛の表現であり、誰でもこの福音を信じ受け入れる者は新しい命を得て、その愛を証しする生き方をするようになる、というメッセージが伝えられる。 第二に、「罪と義、そして代贖の道」では、人間が置かれている罪と死の実存的問題を深く考察し、律法では到底解決できないこの問題をイエス・キリストの代贖的犠牲によってのみ救われることを説く。イエスはあらゆる罪人の立場に立たれ、その血の流しと復活を通して私たちを罪から解き放ってくださったという宣言は、ローマ書やヘブライ書など聖書の多くの箇所と結びつき、強力な解放の真理となる。代贖を単なる法廷言語に閉じ込めるのではなく、イエスの自己犠牲的愛として捉え体験することによって、私たちの生き方もまた変革されるべきだという勧めが核心である。 第三に、「宇宙的出来事としての救いと復活」では、イエス・キリストの誕生、死、復活が特定の民族や歴史の一場面を越えて、宇宙全体を揺り動かす決定的転換点だと強調される。ダニエル書やゼカリヤ書、イザヤ書と福音書が交わるところで、十字架と復活がどのように神の顕現の方式を示しているのかを張ダビデ牧師は解説する。そして復活は死さえ克服された神の絶対的勝利であり、その喜びと力を信じる者は、今もこれからも永遠の命を享受し得る、と確信させる。 以上三つの軸に沿って福音を眺めるなら、結局イエス・キリストの道は愛と救いの道であり、主が示された苦難と復活はすべての時代と宇宙における唯一の希望として位置づけられる。張ダビデ牧師は、この事実を回心と信仰、そして生涯の献身へとつなげるよう信徒を励ましている。たとえ人生で試練や誘惑、絶望に直面しようとも、主がすでに歩まれた十字架と復活の道が真理であり命の道であることを堅く信じ続けよ、というのである。そのとき人の生は完全に新しくされ、福音は私たちの内面や共同体、さらには世界を変革する力となる。 要するに、張ダビデ牧師の説教は「福音とは何か」という神学的・教理的説明を超え、「その福音をいかに生きるか」という具体的実践を促す。イエスのへりくだりと従順、そして仕えと犠牲、何より代贖的な愛こそが、この地に何よりも必要な価値であり、神の国が到来するかたちだというのだ。そしてその中心にある出来事が「十字架と復活」であり、それこそが人類の罪と死の問題を根底から解決し、個人と全世界に対して新時代を切り開いた「宇宙的福音」であると、彼は力強く語る。 このメッセージは、教会の礼拝や宣教活動、信徒の霊的生活、さらには社会における教会の役割といった幅広い領域に適用可能である。十字架の愛にならい互いをケアし、キャンプの外へともに踏み出し、復活の喜びを世と分かち合うことは、決して容易な課題ではない。しかしすでにイエスが私たちにその道を示され、復活によって力を保証してくださった、と張ダビデ牧師は強調する。ゆえにこの愛と力を信じ頼る者は恐れを捨てることができ、むしろ世の闇の中でも動揺せず真理を証しする人生を送れるというのである。 結論として、張ダビデ牧師のあらゆる教えは、「福音」という壮大な主題を三つの軸―「神の愛」、「代贖の道」、「宇宙的救い」―に還元して語ることができる。この三つの軸は互いに切り離せず、ともに織り合わさって私たちをイエス・キリストの真の救いへと導く。したがって、このメッセージを聞き黙想する者は、クリスマスにイエスの来臨を喜び、受難週にイエスの十字架を覚え、イースターにイエスの勝利を讃えるとき、このすべての出来事が一つの救いの物語であることを繰り返し思い返すようになる。そしてこれは、全宇宙と歴史、そして私たちの日常を貫いて進行する神の救いのドラマが、どれほど荘厳で驚くべきものであるかを改めて実感させる契機ともなる。 このように福音は、人間の限界と罪があるにもかかわらず、罪人を最後まで愛される神のご性質を体得させ、その愛を見習って世に出て互いに仕える共同体を形成させる。代贖は、罪と罰という法廷的概念を越えて、神の子どもという新たな身分とともに真の自由と喜びを私たちに贈る。宇宙的救いと復活の出来事は、個人の問題解決を越えて世界全体に及ぶ神のご計画を明らかにする。そこにあずかる者は、すでに新しい時代を生き始めており、完成する未来を希望のうちに待ち望むのだ。 これらすべての洞察が一つに集約されるとき、私たちは張ダビデ牧師が説く福音のメッセージが、単なる理論ではなく、現実の人生のあらゆる領域を一変させる「生きた御言葉」であることを悟るようになる。結局、人間の歴史と宇宙が、自力で自らを救う力は持たないゆえに福音が必要なのである。神の御子イエス・キリストのご降誕、死、復活を通じてこそ、罪と死が克服される道が開かれ、その道を歩むすべての者に永遠の命と勝利が与えられる。これこそが、張ダビデ牧師が繰り返し繰り返し宣言する福音の核心であり、私たちすべてへの最大の招きであり、贈り物なのだ。

福音与上帝的爱 —— 张大卫牧师

福音的核心与上帝的爱 张大卫牧师在讲道和演讲中反复强调的核心主题,就是“福音”。在他的理解中,福音不仅仅是耶稣基督作为上帝之子降临世上,为了承担人类一切罪恶和苦难而受死,并藉着复活为人类开辟了新生命之路的这一救赎事件本身,更是从人类历史到宇宙层面都被彻底翻转的决定性事件。 对于福音的定义,他常常从《约翰福音》第3章第16节开始:“上帝爱世人,甚至把他的独生子赐给他们……”。这节经文清楚地显示,福音首先宣告的就是“上帝的爱”。张大卫牧师提到这段话时,总是强调:即使我们因罪而与上帝永远隔绝,上帝依然完全出于恩典,把耶稣基督赐给了我们。这就是为什么我们在福音面前会欢喜、激动,却也怀着敬畏与谦卑——因为感受到这份上帝之爱的浩大与深沉。 他也常常引用《罗马书》第5章第8节:“惟有基督在我们还作罪人的时候为我们死,上帝的爱就在此向我们显明了。”经文表达的重点在于:上帝并不是因为人有什么资格而赐下他的爱,反而是在我们都陷于罪中、无力自救的绝望状态下,仍然毫无条件地把耶稣基督赐给了我们。在这里,张大卫牧师提醒信徒,绝不能把福音只局限于道德榜样或宗教仪式,而应该彻底地把它当作“恩典的事件”来认识。也就是说,福音并非因为人的善行或公义才临到,而是作为“上帝的礼物”赐下,人根本没有任何可夸口之处。 张大卫牧师把福音称为“爱的事件”,并强调“十字架”就是这爱具体彰显之处。爱若只是挂在口头上,便显得空洞,但上帝的爱通过耶稣基督的降卑、受死与复活,成为了“历史事实”。耶稣完全倒空自己,承担了人类一切的罪,并成为赎罪祭的这一事件,是任何人间的爱都无法比拟的、具有绝对“独一性”的爱。对此,他认为这份爱正是福音之“喜讯”的精髓所在。 如果福音就是爱,那么见证这爱的“使命”便成为不可回避的责任。也就是说,那些知道“上帝的儿子降世、为我们死、并战胜死亡复活”这一事实的人,必然会去见证它。张大卫牧师经常举《使徒行传》中门徒和使徒们的见证作为例子:司提反在极度逼迫中,甚至被石头打死之前,依旧传扬耶稣是人类的救主;彼得在五旬节圣灵降临后,当着整个耶路撒冷百姓的面宣讲福音;保罗则不停奔走于外邦之地,为福音作见证,不惜付出任何代价。他们把生命都摆上,只为向世界宣告耶稣才是真正的生命之路。 之所以能够作出这样的见证,是因为他们不止是“在头脑层面”知道福音,而是“在爱中”体验了福音。张大卫牧师将这爱的体验称为“被福音所掳获”。如果福音仅仅停留在“耶稣是谁”的知识性理解,就会沦为法利赛式的认知。真正的福音体验,是在意识到耶稣基督的爱已挽救了自己的罪与绝望,从而使整个人生彻底更新。因此,认识耶稣基督的人自然而然就会成为福音的见证者,并接受将“上帝的爱”传递给世人的使命。 张大卫牧师也强调,这福音对所有人都敞开。无论出身、学识,亦或道德上的资格如何,耶稣基督的十字架都向所有罪人宣告“罪得赦免与新生命”。特别是在《使徒行传》第2章中彼得的讲道场景里所引用的:“凡求告主名的,就必得救”(徒2:21),更清晰地说明了福音绝非只属于特定民族或团体。因而,在张大卫牧师的信息中,“上帝的爱”这个共同主题,不仅跨越民族、语言的藩篱,也突破历史与文化的局限,成为那向所有因罪痛苦的人生而来、并且完全出于恩典的实体。 他反复提醒,福音既具“宇宙性”又具“个人性”。从宏观层面看,福音翻转了整个人类的命运;从微观层面看,它又改变了个人的内心和生活方式。当我们接受并相信福音时,它便不再是单纯的概念或教义,而是在我们内心“爆发”的一种新生命的力量。蒙受爱的人必定会流露爱,经历恩典的人也必定会把那恩典分享给世人。因此,张大卫牧师坚称福音乃是世界唯一所需的“盼望”,教会与群体正应该在这坚实的基础上被建立起来。 此外,他提到信奉并跟随福音的人之间应该自然而然地结出“彼此担当重担、彼此相爱”的果子(参《加拉太书》6章2节)。如果福音就是爱,那么传福音之人的团契也一定要充满爱的喜乐与合一。耶稣说过“我已经胜了世界”(《约翰福音》16章33节),其中并不是指以武力去征服世界,而是以爱与服事赢得的反差性胜利。因此,教会若紧紧抓住福音,彼此真诚相爱并服事世界,本身就会成为对这个世界强而有力的见证,正如张大卫牧师常常所强调的。 总的来说,张大卫牧师的信息可以归纳为这样一句宣告:“福音的核心在于上帝的儿子为我们降世、为我们死、且因复活完成了对我们的爱。”没有任何哲学理论或伦理教导可以替代这面向所有罪人的宏大爱的故事,这就是福音。而凡站在这福音面前的人,都将在这爱的事件里作出回应,并过上被改变的生命。它之所以充满喜乐与敬畏,正因为这是一份只因“上帝的恩典”而临到的不可思议的爱。 罪与义,以及代赎之路 在“福音是爱”的前提下,张大卫牧师第二个深入探讨的主题便是“罪与义,以及代赎”。既然福音是如此大的爱,为什么人类需要这样的牺牲与拯救?其根基就在于人类自身无法解决的罪之问题。 张大卫牧师认为,唯有先正确认识“罪”,才能完全领悟福音之爱与恩典。贯穿整本《圣经》的罪,不仅仅是道德上的过犯或社会规范的违背。他关注《罗马书》第1章中保罗的宣告——“罪就是不愿意在心里尊崇上帝”。人性本质上背离上帝、想要自己作主的态度根深蒂固,结果使整个世界都被罪的权势所辖制。 紧接着,张大卫牧师把罪的影响形容为“死亡作王”。换言之,人在罪中最终面对的结局就是“死”。这不仅意味着肉体的死亡,更象征着永远的灭亡与隔绝。因此,无论人多么努力行善、遵守律法,都无法依靠自身的力量战胜罪与死的权势,可以说是绝望的处境。律法只能指出何为罪,并让罪显得更加清晰,但并不能完全释放我们脱离罪的捆绑。 正在此时,耶稣基督的“代赎(代贖)”事件便闪耀出来。所谓代赎,意指“有人替你付上该付的代价”。张大卫牧师提醒我们,不可把代赎仅仅用商业概念去理解。旧约中的献祭(尤其《利未记》第16章所记载的赎罪日仪式)里,用牲畜流血来遮盖百姓罪恶的象征,到了耶稣基督的十字架上,变成了“完全实现”的实体。也就是说,人类所犯下的一切不顺服与悖逆,以及因此理应受到的死亡刑罚,都由耶稣承担了。 为更清楚地阐明代赎的概念,张大卫牧师常常引用《罗马书》第5章18-19节:“因一人(亚当)的过犯,众人都成了罪人;照样,因一人(耶稣基督)的顺从,许多人也就被称义得生命了。”这意味着,本来整个人类都被罪的锁链束缚,没有出路,但藉着耶稣基督的顺服与牺牲,一切都被彻底翻转。 张大卫牧师补充说,“代赎的本质就是爱”。若仅从律法视角来理解,我们或许会得到“公义的法官必须对罪犯执行应得的惩罚,因此由某个代赎者替罪犯付出(流血)”这样冷冰冰的交易印象。然而耶稣在十字架上流血的画面并非只是“替我们承受惩罚”的法庭场景,而是上帝给我们的“完全礼物”,耶稣以自愿牺牲的方式向我们呈现的“自我舍弃之爱”。当我们明白这一点,就更能领悟十字架事件拥有如此巨大影响力的原因。 因此,人可以透过接受这代赎之爱、相信福音,而得到“称义”。保罗在《加拉太书》等书信中所强调的“因信称义”原则,正是张大卫牧师所讲之福音逻辑的核心。只要我们领受福音,就不再是“罪人”的身份,而是在上帝面前被宣告为“义人”。这并非因我们自己有任何道德的完美,而是耶稣基督已经为我们的罪付清代价的缘故。神学上称之为“义被转嫁(归算)”,在实际生活中也真实地运作着。 张大卫牧师还喜欢引用《希伯来书》中“要往营外去”的说法。在旧约献祭中,那些背负罪的山羊或绵羊,都要被赶到营外,在那里被宰杀。耶稣也同样是在耶路撒冷城门外的各各他山上被钉十字架,从而完成了“赎罪羔羊”的角色。“我们也当出到营外去”这句话,其实是在呼唤我们去与耶稣的苦难同在,并效法他的代赎之路。 重点在于,不要只把“代赎”当成一个神学名词或只停留在头脑理解上。张大卫牧师说,代赎是福音的“核心支柱”,我们也要效法耶稣所行的道路。当我们在世上活出福音,就要彼此担当重担,在遭受逼迫与误解时仍然选择以爱服事。这正是把耶稣“代赎之爱”当作我们生活方式的具体实践。我们无法用指责或暴力改变世界,却可以像耶稣那样,通过爱与舍己、甘愿走向“营外”的姿态,来医治这个世界。 张大卫牧师还反复强调,只有当代赎与“复活”结合在一起时,才算真正完成。如果说耶稣基督在十字架上的牺牲是为人类背负罪债的终极付出,那么他的复活则是“连死亡的权势都被粉碎”这一上帝最终宣告。一旦耶稣基督没有从死里复活,代赎的消息就只能算半途而止。然而,正因为复活真实地发生,罪与死的捆绑已被彻底打破,并且赐予我们新生命的救恩能力得以彰显。若说代赎意味着罪被赦免,那么复活便标志着“得到赦免的人”要进入“永生”的完全应许。 总的来说,张大卫牧师提出的“罪与义,以及代赎之路”构成福音的骨架:人因罪而陷入无法自救之境地,律法也无能为力;然而耶稣基督以代赎性牺牲与复活,使我们得以脱离罪的轭,并得称为义。经历过这称义之人,自然也会脱离以自我为中心的活法,学会彼此担当重担,甘心出到“营外”,即使在苦难中也以爱与顺服为生命准则。这样一条以“十字架”为标志的道路,看似悖谬,却正是彰显真正救恩的大能。 作为宇宙性事件的救恩与复活 张大卫牧师所强调的第三个主题,是“福音不仅涉及个人属灵体验或教会的敬虔生活,而更是一个影响宇宙的事件”。耶稣基督的降生、十字架与复活,虽在特定时空的历史中发生,却同时影响到整个宇宙和人类历史所有层面,是一次决定性的转折。 他常常举《罗马书》第5章为例,指出:正如亚当一人带来罪蔓延至全人类,耶稣基督一人也使所有人获得“罪得赦免、被称义”的道路。这意味着基督的救赎工程中,蕴含着使全人类命运被彻底翻转的宇宙性内涵。如果我们仅把福音理解为“个人得救经历”或“某种神秘事件”,就会缩小它的宏大格局。 为更加清晰地展现这个宇宙性视角,张大卫牧师常把旧约先知书与福音书中耶稣骑驴荣进耶路撒冷的场景联系起来解读。《但以理书》第7章中预言“乘云而来的仁子”,象征以色列人所盼望的末世君王——审判并统治全地的绝对主权者。可是耶稣进入耶路撒冷时,却如《撒迦利亚书》第9章第9节所预言,骑着驴、以谦卑的姿态而来。这正是将“全能王”与“与子民同甘共苦的谦卑王”这两种形象奇妙地结合与应验。 张大卫牧师把这称为“上帝的显现方式”。世上的权势者常以战车或骏马、宛若凯旋将军般隆重进城,夸示权势与力量;而作为上帝儿子的耶稣,却选择最低微、最卑贱的样式进城。在世人眼中也许愚拙软弱,但正如《哥林多前书》第1章所言,上帝的方式往往超出人的常规思维,其终极目的是为了爱与拯救,所以十字架反而成为了荣耀的标志。 接下来,耶稣钉十字架的景象更是与当时众人的期望大相径庭,看起来极度悲惨。就罗马人而言,十字架刑罚是给罪大恶极者的“极度羞辱”之刑;对犹太人来说,“挂在木头上的人是被咒诅的”(参《申命记》21章23节),绝不可能是弥赛亚的命运。然而,张大卫牧师借此结合《以赛亚书》第53章关于“受苦的仆人”的预言来解释:耶稣的死并非失败或被咒诅,而是为了背负世人罪孽而受苦的“救赎性胜利”。上帝的全知全能往往打破人类常识,而其终极目标在于“爱与拯救”,所以十字架在这一意义上反而显出了荣美。 张大卫牧师尤其聚焦于“复活”。若耶稣只是在十字架上死去,一切就结束了,那么要说这是“宇宙性事件”未免势单力薄。然而,耶稣在第三天战胜死亡、复活了。四福音书一致记载了这复活事件,门徒因此从惧怕变得刚强,从灰心变为炽烈的见证者。这正是打破“死亡”这宇宙性且普遍性桎梏的决定性证据。死亡是人类最大的敌人,如今却被终结,开启了永生之门,所以其影响超越个人,甚至影响整个宇宙。 张大卫牧师时常提到“圣周”(Holy Week),并解释在耶稣最后的一周里,历史与宇宙都被浓缩在其中。从棕树主日进耶路撒冷开始,到最后的晚餐、客西马尼园的祷告、十字架的刑罚,再到复活,整个过程构成了上帝翻转人类与历史命运的救赎大剧。尤其在客西马尼园中,耶稣“汗如血滴”地祷告这一幕,体现出他是主动选择背负十字架之路的君王。他并非一个被动被捕的牺牲品,而是为担当人类罪孽、击碎死亡而进行的王者加冕礼前的重大属灵争战。 因此,张大卫牧师坚称,耶稣的死与复活绝不是一场小规模或局部性的事件,而是穿透所有时代与空间的“宇宙性结晶”。当我们领悟此点,信仰就不仅停留在教会礼仪的参加,还会在我们整个生命中带来翻天覆地的改变。就算我们在世上经历种种痛苦与挫败,也能因耶稣已经在十字架上担当了这些,并最终以复活得胜,所以我们就不会陷于绝望,而是拥有永不动摇的盼望。 张大卫牧师渴望把这“宇宙性救恩事件”转化为每个人生命的“实际体验”。他在事工与教育中不遗余力地强调:如果我们只是在口头上说“福音能改变世界”,却未能在教会与信徒的日常生活中看见果效,那么再宏伟的主张也只停留在教义与理念上。然而,一旦我们在日常生活中信守并实践耶稣的道路,用爱和服事见证“复活的大能”,那么在教会、在社会,就会真实地出现“上帝掌权”的奇迹。 此外,《启示录》第21章所预言的“新天新地”,是复活最终的结局与目标。张大卫牧师解释,这不仅仅是人死后才去的天国,而是藉着耶稣基督的复活已经开始的永生国度。通过对基督的信靠,我们在现今世界也能活在这“复活的新生命”里,并且终有一天,当耶稣再临,这个国度将全面完成。换言之,复活同时蕴含“已经实现”与“尚未完全”之间的张力。 从圣周到复活节,教会传统一直以“十字架与复活”为核心主题。张大卫牧师在详尽阐释耶稣走向十字架那条苦难与羞辱之路的同时,也强调那条路其实直通“荣耀与胜利”的道路。耶稣作为无罪的义者,却以“罪人的身份”被钉在十字架上,是为了担当世人的罪;然而就在那死之地,却爆发了面向全宇宙的爱与救恩。凡相信并接受的人,无论过去、现在或将来,都必与耶稣一同经历复活的生命。 此外,他也指出,教会若作为“基督的身体”,就应该成为把“复活生命”带到世界的群体。也就是说,教会应当在穷乏人中实行怜悯和分享,勇敢抵挡不公正的权力或世俗潮流,并以相互服事与相爱,彰显世人所不知的真正和解与和平。这是跟随复活主的教会自然会结出的果子,张大卫牧师屡次加以呼吁。 总之,“作为宇宙性事件的救恩与复活”在张大卫牧师的信息中开拓了最宏大的视野:人不但从罪与死中因耶稣的代赎与称义而得自由与喜乐,更重要的是,耶稣基督在十字架与复活中翻转了整个人类和历史的秩序。张大卫牧师多次提及这一点,提醒信徒切莫把福音简化成一种“宗教教义”或“敬虔知识”,而要视之为人类与全宇宙共同参与的宏伟大剧。而此大剧的核心,就是在耶稣基督的十字架与复活中展现的“反差性爱的力量”。这是任何世间神话或故事都无法容纳的真生命与真理,并且为所有相信的人带来永远的盼望。 总结而言,若以三大支柱来概括张大卫牧师对于福音的讲解,就可以归纳为:“上帝的爱”、“代赎之路”、“宇宙性救恩”。这三者彼此密不可分,并且彼此融合,引领我们进入耶稣基督的真救恩。因此,当我们在圣诞节欢庆主的降生,在受难周默想主的十字架,在复活节赞美主的得胜时,都要再次确认:这一切其实是一出完整的救恩故事。它贯穿整个宇宙与历史,也同样发生在我们每个人的日常生活当中。它让我们看见上帝何等宏伟而奇妙的拯救计划。 正因为如此,福音使我们即便在面临罪和人性软弱时,也可以更多地经历上帝不离不弃的慈爱,并且学习去效法这爱,形成一个彼此服事、走向世界的教会团体。代赎不再只是司法式的概念,而是我们得着“上帝儿女”崭新身份,并享受真正自由与喜乐的礼物。宇宙性救恩与复活则不仅帮助个人解决罪的问题,也宣告整个世界都在上帝永恒的计划之下。所有属于基督的人,现已活在“新纪元”里,并且展望那将要彻底完成的未来国度。 当这所有洞见融汇于一处,我们就能领会,张大卫牧师所传讲的福音信息,不是停留在理论层面,而是真正能够翻转生命的“活的真道”。人类历史和宇宙之所以需要福音,是因为我们无法靠自己拯救自己。唯有耶稣基督——上帝的儿子——的降临、受死与复活,打开了战胜罪与死的唯一道路,并赐予那行走其上的所有人永生与得胜。这正是张大卫牧师一再宣告的福音核心,也是对所有人的最大邀请与礼物。

La maturité de l’Église – Pasteur David Jang

Introduction : Éphésiens 4 et la perspective de David Jang Le chapitre 4 de l’Épître aux Éphésiens occupe une place particulièrement importante dans le Nouveau Testament en ce qui concerne l’ecclésiologie. L’apôtre Paul y traite, de manière condensée, à la fois l’unité et la diversité de l’Église, ainsi que le processus de croissance et de … Read more