太陽を止められる神 ― 張ダビデ牧師

1. 太陽と月の停止、そして失われた時間を取り戻す信仰の歩み ヨシュア記10章に記されている、太陽と月が止まるという奇跡の物語は、旧約聖書の中でもきわめて独特で印象深い出来事として数えられます。張ダビデ牧師はこの本文を通して、歴史的な奇跡そのものを強調するだけではなく、「時間の主は神である」という、より深い次元の信仰メッセージを私たちの心に刻むよう説きます。 ヨシュアがアモリの連合軍と戦っていた当時、日が沈めば戦闘の状況が不利にならざるを得ませんでした。そこで彼はただ信仰により、太陽がギベオンの上で止まり、月がアヤロンの谷でとどまるよう命じました。この壮大な祈りと、その祈りに応えてくださった神のわざは、物理的な時間や自然の秩序を超越して、歴史の支配者がただ神であることを証しします。張ダビデ牧師は、この奇跡を文字どおりに理解するだけでなく、その中に込められた霊的原理とメッセージを正しく捉えることが重要だと強調します。すなわち、人間がどれほど多くの業績を積み、時間を管理しようとしても、結局時間を止めたり巻き戻したりできる方は神おひとりしかいない、ということです。 この事実は、現代の私たちにも強烈な挑戦として迫ってきます。特にアメリカで20年以上にわたって展開してきた教会共同体の歩みを振り返るとき、私たちは神から与えられた時間を本当に有効に活用してきたのか、自問せざるを得ません。張ダビデ牧師は過去20年におよぶアメリカ宣教の結実について、率直で痛烈な評価を示します。多くの働きが失敗し、ビジネスを通した自立もままならず、新学校やランゲージ・スクール、音楽大学など多様な機関を設立したものの、結実より挫折を多く経験したというのです。その過程で、一部の指導者は神の視線や御心を正しく見分けられず、個人的な欲や安逸に陥り、むしろ共同体に重荷を負わせる場合もありました。だからこそ張ダビデ牧師は、「私たちはこの過ぎし日々を本当に正しく生きてきたのか。神が与えてくださった時間を空しく浪費してしまったのではないか」と何度も問いかけるのです。 こうした状況で、ヨシュアが示した大胆な信仰的決断は、私たちの現在と直接結びついています。太陽を止め、月を静止させたあの超越的な奇跡は、神がご自分の民のために戦い、働かれることを明らかにします。どんな状況にあっても、神の大いなるみこころと力を仰ぎ、切なる祈りをもって全身全霊で進むとき、「失われた時間が取り戻される」回復の御業が可能になるということです。実際、聖書は神の民が困難に直面するとき、彼らが罪と悔い改め、そして信仰をもって神に近づく過程を通して、逆転と回復の驚くべき知らせを語ります。神はイスラエルの民に勝利を与えるために、物理的な自然法則さえ超越されるお方です。小さなことひとつもおろそかにされない全能の主であり、その方のみこころを求め、従い、切に願う者を決して見捨てない――ヨシュア記10章の物語はこの事実をはっきりと教えてくれます。 張ダビデ牧師はこのみ言葉を黙想しながら、太陽と月が止まった出来事は単に過去に一度だけ起こった前代未聞の出来事ではなく、「神は今もいくらでも私たちの時間を逆転させたり止めたりできることを示す象徴的事件」として解釈します。私たちが神のために何かしようとしていても、すでにあまりにも多くの時間を浪費してしまい、何度も失敗を重ね、指導者たちの分裂や責任回避によって宣教の現場が荒廃してしまったとしても、「真実な悔い改めと再び燃え上がる情熱」があるなら、神は依然として私たちに奇跡への道を開いてくださるというのです。ここで鍵となる問いは「では私たちはこれからどうするのか?」というものです。単に過ぎ去った過ちを責めたり、傷や怒りの中に留まるだけでは時間は止まりません。ただ神の御前にへりくだってひれ伏し、改めて与えられた使命を再点検し、そのみこころがなされるよう召しに忠実に応える道こそが、「失われた時間」を取り戻す唯一の方法だと語ります。 さらに張ダビデ牧師は、このような信仰の刷新は個人の次元を超えて、共同体の次元でともに行われなければならないと強調します。なぜならヨシュア記の記録によれば、太陽が止まり月が静止した結果は、ヨシュアひとりの利益のためではなかったからです。そこにはイスラエルの民全体が勝利し、生き残るための神の介入があり、さらに神の契約が歴史の中で継続していくための救いの物語があったのです。同様に今日においても、ひとりの切なる信仰が共同体全体の転機をもたらすかもしれません。しかしそのひとりの信仰は最終的に共同体の祈りへとつながり、指導者をはじめとするすべての構成員が悔い改めと献身をもってともに応答するとき、持続的かつ強力な結果がもたらされるのです。 20年間のアメリカ宣教の歴史を振り返ると、張ダビデ牧師は何度か機会や挑戦があったにもかかわらず、多くの指導者が霊的覚醒や決断を先延ばしにしたり、正しい方向性を打ち立てることができなかったと診断します。その結果、働きの多くが停滞あるいは崩れ、現実的な困難や財政的負担、そして構成員たちの信仰の弱化が同時に生じたというのです。ところがまさにこの点において、ヨシュアが太陽と月を止めるほどの信仰を示したように、すなわち神が私たちの現実的状況を変え、時間さえも逆行させて恵みをお与えになれるという確信が、改めて求められるのだといいます。 特にパンデミックの時期、多くの教会や共同体が困難を経験しましたが、その期間中であってもミッドウエスト地域で土地を手に入れたり、西部地域のビジネスセンターが確定するなど、神の劇的な導きを体験する事例があったそうです。張ダビデ牧師は、これを単なる「幸運」として片付けるのではなく、「神の時間と方法は人間の計算とは違う」という原理を示す生き証しとして受け止めるべきだと強調します。それだけでなく、カリフォルニア州パサデナ地区に新たな門が開かれ、フラー神学校周辺の寄宿舎が売りに出され、有名な教会が紹介されるなど、一連の出来事は何を意味するのでしょうか。「ある時代が終われば、次の時代が来る。そして使命者は絶えず建てられる」という霊的真理を改めて確認させるのです。 それにもかかわらず、過去の失敗や挫折がもたらした傷が、なお指導者たちに残っている可能性があります。かつて自分が推進した働きが失敗したことを思い出して再挑戦を恐れる人もいれば、すでに心が冷めきって「今さら遅い」とあきらめてしまう人もいるかもしれません。しかしヨシュア記10章がもたらす重要なメッセージは、私たちの側から見て「もう遅い」と思われる時点でも、神がお望みならば太陽と月を止める新たな歴史を切り開くことができるということです。その事実を信じて従うことこそ、真の指導者の姿勢であり、今日の教会が取り戻すべき信仰の本質だと張ダビデ牧師は語ります。 特に時間という観点で考えるとき、私たちはしばしば「失われた20年」という表現を使い、何ひとつ得るものもなく手ぶらになったような気持ちを抱きがちです。しかし神のうちには「失われた20年」ですら、まだ活用することが可能です。今からでも切に祈り、悔い改め、信仰をもって進めば、その年月が生み出す実を遅ればせながら収穫することができるかもしれないのです。太陽が止まる奇跡、月が静止する驚くべき出来事は、「回復不可能に見える時間も、神の御手の中ではいくらでも回復され得る」という強力な希望を与えます。ある指導者は罪によって倒れ、ある指導者は倦怠と惰性の中で働きを失敗させ、また別の者は状況論理に引きずられ世俗的な方法で問題を解決しようとして挫折を経験しました。しかしそれらすべての欠けや失敗を前にしても、神に悔い改めと切なる祈りをささげるならば、私たちにも太陽が止まり月が静止するしるしのような奇跡が起こり得る――張ダビデ牧師は繰り返しそう強調します。 結論は明白です。いまこの瞬間も時間の主は神であり、その方は私たちの人生や働きに、いつでも決定的な介入をなさることができる。ヨシュアの物語から私たちはその事実を目の当たりにし、パンデミック後の混乱する世界にあっても、なお働かれる神に目を向けなければなりません。「主のみこころを求め、悔い改め、全力で進め」という張ダビデ牧師の叫びは、不可能に見えることをも可能にされる神を信頼せよ、という招きにほかならないのです。いま私たちがすべきことは、太陽が止まるようにと祈ること、そしてその祈りとともに行動しつつ、信仰の戦いに挑むことです。そのとき私たちの知り得なかった奇跡、過去数十年もの歳月さえひっくり返すような逆転が始まるかもしれません。この信仰こそが第一の小テーマが提示する核心メッセージであり、張ダビデ牧師が繰り返し強調してきた「失われた時間の回復」という実践的課題なのです。 2. ヒゼキヤの悔い改めと命の延長、そして新たな働きのビジョン 列王記下20章に記されているヒゼキヤ王の病の癒しの物語と、日時計が後戻りした奇跡は、ヨシュア記10章の太陽停止の出来事とつながっています。どちらの物語も、「時間と命の主権は神にある」という真理を鮮やかに示しているからです。 ヒゼキヤはもともと神に従順な王でしたが、後に信仰が弱くなり罪を犯すようになって、重い病にかかります。そのとき彼が取った行動は、涙を流して切に祈り、悔い改めることでした。張ダビデ牧師は、この場面でいくら敬虔な王でも罪に陥る可能性があり、その罪ゆえ人生の終わりに追い込まれることもあると指摘します。しかし重要なのは、まさにその状況において「神に立ち返る悔い改め」が起こった点です。ヒゼキヤが涙で祈ったとき、神はその祈りを聞き入れ、彼を癒してくださり、さらに15年も命を延ばされました。しかも日時計を後戻りさせるという奇跡まで示され、神の約束が必ず実現することを力強く証明されたのです。 これは私たちが失敗や挫折を経験したとき、あるいは霊的に病んだ状態に陥ったときに、何をすべきかを明確に教えてくれます。張ダビデ牧師は、ヒゼキヤの物語を通じて「神が私たちの祈りを聞かれるとき、どのようなわざが起こるのか」を強調し、とりわけ指導者たちがまず悔い改めて祈らなければならないと指摘します。アメリカ宣教20年の歴史で多くの働きが頓挫した原因は、外部環境だけではなく、内面的な罪や信仰の弱体化による部分が大きかったかもしれません。もし指導者たちが神の方法ではなく人間的な方法に重点を置き、世俗的成功に執着しすぎたり、霊的高慢に陥って秩序と愛を失ったのだとすれば、その責任は決して軽くはありません。したがって私たちの直面している状況は、病に倒れ、死の淵にあったヒゼキヤの姿とさほど変わりないのです。教会共同体全体が深刻な危機を迎えたとき、まずすべきことは「涙ながらに悔い改める祈り」だというのです。 ヒゼキヤが涙ながらに祈ったとき、神は彼を癒し、15年の命を与えられただけでなく、アッシリア帝国からエルサレムを守るという約束までくださいました。しかもその約束の確実性を証明するために、日時計を後戻りさせる――まさに時間を逆行させるしるしを示されたのです。張ダビデ牧師は、この出来事が「悔い改める者に神がお与えになる恵みの大きさ」を端的に示していると解釈します。ときには私たちが犯した罪があまりにも大きく、働きの現場が完全に荒廃し、一度失敗した歴史はもはや取り戻せないと思われるかもしれません。しかし実際には、神は「悔い改めて戻ってくる者」に対しては、時間を逆転させるような奇跡までもお与えになることがおできになるというのです。 こうした恵みを受けたヒゼキヤは、再び信仰を回復し、王としての責務を全うしていきます。もちろんその後も人生には多くの試練や失敗があったかもしれませんが、神から与えられた延長の生涯は決してむだにはなりませんでした。張ダビデ牧師はここを非常に重要な点だと指摘し、「15年という追加の時間が与えられたとき、果たして私たちは何をするのか」という問いを自らに投げかけるべきだと語ります。ヒゼキヤに与えられた余分な時間は、彼個人の安楽のためだけではなく、神のわざを継続し、民を守り、信仰共同体を正しい道へ導くために用いられるべきものでした。同様に私たちがもし、悔い改めと祈りを通して何らかの新たなチャンスを得たなら、その時間もまた自分の満足のためではなく、共同体の回復と神の国の拡張のために用いられるべきだというメッセージを、張ダビデ牧師は強調するのです。 過去、多くの働きが失敗に終わり、指導者の不注意や無知、あるいは罪のせいで事業が停滞し、いまだに悔い改めていない人がいるかもしれません。しかし神は、その空っぽの網を奇跡的に満たすことがおできになるお方です。ヒゼキヤが命を延ばしてもらい、日時計が後戻りするしるしを得たように、私たちが切に悔い改めて祈るならば、神の御業は今も進行形であるのです。 張ダビデ牧師は特に、指導者たちに対して強く訴えています。時間はあまり残されていないのです。指導者が一夜にして倒れることもあれば、20年あるいは30年も準備してきた働きが、結局何の実もなく終わる可能性もある。しかしまだ息をしているこの瞬間、神に祈りすがることができるならば、ヒゼキヤのしるしは現実のものとなり得るのです。そのしるしとは、ただ「日時計が後戻りした、不思議だな」ということではなく、「神が私たちの悔い改めと祈りを聞いて、想像もしなかった恵みと機会をくださる出来事」です。ヨシュアが太陽を止める超自然的な恵みを経験したように、ヒゼキヤが15年の命と、アッシリアからエルサレムが守られる奇跡を享受したように、私たちもまた霊的な暗闇を突き破って新たな光を見ることができる――これが力強いメッセージなのです。 総括すると、この二つの本文が教える核心は互いに連動しています。ヨシュア記10章は「神がご自分の民のために太陽と月を止めることがおできになる方」であると宣言し、列王記下20章は「神が一人の人間の祈りに応えて命を延ばされ、時間を逆行させることすらできる方」であることを示します。この二つの物語が交わる点こそ、「神は私たちの時間を変えてくださることがおできになる方」という事実です。張ダビデ牧師はこれを現代の働きに適用して、「私たちが20年をまるで無益に費やしたように思えるとしても、今日、悔い改めて祈るならば、神はそのすべての時間を取り返すような新しいリバイバルを起こしてくださる可能性がある」と力説します。これこそが今、私たちに与えられたチャンスであり、ヒゼキヤの悔い改めのように涙ながらに神の憐れみを求めるときに成就される約束なのです。 最後に張ダビデ牧師は、この霊的原理を実践するために「祈りの場」に戻るよう促します。パンデミックを経て教会や共同体は様々な形で散り散りになり、弱体化しましたが、まさに今こそ最も真実に祈るべきタイミングだというのです。与えられた各々の働きの場や礼拝堂、キャンパスにおいて、あまりにも多くの時間を失ったと嘆きたくなる状況だとしても、そこから再出発できるのです。ヒゼキヤが死を宣告された場所で悔い改めと祈りに立ち返ったように、私たちもこの絶望の場所が恵みの出発点となり得ます。神は、張ダビデ牧師が長らく強調してきたように、真実にご自分を求める者を決して無視されません。むしろ驚くべき方法で、その人々の時間を巻き戻してくださるお方なのです。そしてそのとき私たちは「なぜ神は時間をくださったのか。なぜ15年を延ばしてくださったのか。なぜ太陽を止めてくださったのか」という問いに直面します。それは結局、神の国のために、私たちに与えられた使命を全うさせるためだという答えに行き着くでしょう。 したがって、私たちはこの20年に及ぶ停滞や失敗、悔い改めない指導者たちの分裂状態、事業の失敗や財政難など、そうした問題ばかりに焦点を当てるのではなく、それらすべてを打ち破ることのできる神の御力に目を据えなければなりません。ヒゼキヤの悔い改めがもたらした日時計の逆転、そしてヨシュアの祈りによって止まった太陽と月の奇跡を思い巡らしながら、今この瞬間、「神よ、私たちの時間も巻き戻してください。悔い改めますので、新しいいのちへの道を開いてください」と切に祈るべきなのです。張ダビデ牧師が強く訴えるように、残された時間は長くないかもしれませんが、その短い時間の中でも神が働かれるなら十分に奇跡は起こり得るのです。重要なのは私たちがその神の働きを信じ、「太陽が止まらなければ戦いを完遂できないように、神が働かれなければ私たちの働きは回復し得ない」という信仰で進むことです。 これこそが、ヒゼキヤが涙をもって祈ったときに見た「後戻りした日時計」の意味であり、ヨシュアが目の当たりにした「静止した太陽と月」の真の意味なのです。時間の主権者となってくださる神、悔い改める民のために時間と自然の秩序さえ覆される神、その神を私たちはもう一度信頼すべきです。そしてその方がくださるチャンスをつかむべきなのです。もしこの機会を逃すなら、過去20年の失敗から一歩も抜け出せず、そのまま座り込むことになるでしょう。しかし私たちがヒゼキヤとヨシュアの信仰を学び、その悔い改めと嘆願を見習うならば、神は今回も私たちの失われた時間と浪費してきた歳月を、豊かな実りに変えてくださる可能性があります。これこそ張ダビデ牧師が一貫して強調してきた核心メッセージであり、アメリカ宣教20年後に開かれる新しい時代と働きのビジョンの大きな柱なのです。 結局、この二つの物語は一つの結論へと収束します。第一に、太陽と月を止められる神の御前で、私たちはへりくだってひれ伏さなければなりません。第二に、日時計を後戻りさせることのできる神の御前で、私たちは心から悔い改め、新たなチャンスをつかまなければなりません。時間があまり残されていないという事実こそが、いっそう切実な祈りへと私たちを駆り立てます。指導者ならばなおさらです。名誉や権力を下ろし、「本当に神のみこころを実現するために、私に残された時間はあとどれだけなのだろうか」と厳粛に問わなければなりません。その答えを見い出す人は、ヒゼキヤがそうしたように、一度の心からの祈りによって人生をまるごと変えることができます。そのとき神は「わたしはあなたの涙を見た」と応えてくださいます。そして「わたしはあなたに15年を加えよう。あなたに止まった太陽を与えよう。日時計を後戻りさせよう。だからイスラエルを、わたしの民を生かし、回復へ導け」と語られるのです。こうして神は私たちの時間が閉ざされていないことをお示しになります。私たちの涙がその方へと流れる瞬間、時間さえも逆行し、神の御業はふたたび動き始めるという希望をつかむこと――これこそがヒゼキヤの物語とヨシュアの物語、そして張ダビデ牧師が一貫して叫び続けてきた「悔い改めの福音」にほかなりません。

使太阳止住的上帝 — 张大卫牧师

1. 使太阳与月亮止住的神迹,以及找回失去时间的信心之步 在《约书亚记》第10章中,记载了太阳和月亮停止的神迹,这是旧约圣经里极其独特且令人印象深刻的一件事。张大卫牧师借这段经文提醒我们,不要仅仅把焦点放在其历史事件本身,而应更深刻地体悟“上帝是时间的主”这一信仰信息。当时约书亚与亚摩利人的联军交战,若日落天黑,战况必然对以色列不利,因此约书亚凭信心发出命令,让太阳停在基遍上,月亮留在亚雅仑谷中。这样宏大的祈祷以及上帝随即而来的回应,超越了物理时间与自然秩序,也宣告了历史的主宰唯有上帝自己。张大卫牧师强调,这个神迹不应仅作字面理解,而要捕捉其中所蕴含的属灵原则和信息:无论人如何努力建立功业、管理时间,最终能让时间停住或倒转的,只有上帝一位。 这一事实对我们当下也发出强而有力的挑战。回顾在美国超过二十年的教会事工,我们需要扪心自问:是否真正善用了上帝赐给我们的时间?张大卫牧师对这二十年美国宣教的成果作出了坦率而痛心的评价:许多事工失败了,通过商业实现自立的尝试也不如人意;虽然建立了神学院、语言学校、音乐学院等多种机构,但收获并不丰硕,反倒屡遭挫折。在此过程中,一些领袖未能准确分辨上帝的眼光与心意,被个人的欲望或懈怠所捆绑,反而成了给群体增添重担的原因。因此,张大卫牧师一再追问:“我们过去的岁月到底是否过得有价值?难道上帝给的时间就这样空耗了吗?” 在这种处境中,约书亚所展现的大胆信心决断与当下息息相关。能让太阳止住、月亮不动的超然神迹,正证明了上帝为祂的百姓征战并亲自介入历史。无论我们面对何种困境,只要专心仰望上帝的宏大旨意并切切祈祷,全心投入,便能迎来“挽回失去时间”的复兴之工。纵观圣经,当上帝的子民遭遇困难时,只要他们在罪中悔改并持守信心,就能见到翻转与恢复的奇事。上帝为赐给以色列人得胜,不惜超越物理的自然法则。祂是掌管大能的主,看顾任何一件小事,并绝不撇下那些寻求并顺服祂、切切呼求祂的人。透过《约书亚记》第10章,我们能确信这一真理。 张大卫牧师在默想这段经文时指出,使太阳与月亮止住的事件,并非仅属于“从未再出现过的远古神迹”,而是昭示“今天上帝照样能随时翻转或停止我们的时间”的象征性见证。我们可能因已浪费太多时间、经历无数失败、面临领袖间的分裂与推卸责任,而使宣教工场愈显荒凉。然而只要有“真诚的悔改与重新燃烧的热情”,上帝依然能为我们开辟神迹之路。关键的问题是:“现今我们当如何行动?”单单埋怨过去的失误,或困在伤害和愤怒里,并不能让时间停住。唯有在上帝面前谦卑俯伏,不住祈祷,再次检视所领受的使命,并顺从祂的旨意来履行呼召,这才是“夺回失去时间”的唯一途径。 张大卫牧师也强调,信心的更新不仅是个人层面的事情,更须在群体层面共同成就。因为《约书亚记》的记载表明,太阳止住、月亮不动的结果不仅为约书亚一人带来益处,而是为了拯救全体以色列百姓,延续上帝在历史中的盟约与救恩。如今亦是如此,一个人的迫切信心能成为整合群体的转折点,但最终仍需群体共同祷告、领袖和成员都付出悔改与献身,才能结出持续且强大的果效。 回顾二十年的美国宣教历程,张大卫牧师发现,期间虽有多次机遇与挑战,但大部分领袖裹足不前、犹豫不决或方向不当,导致许多事工陷入停滞或瓦解,现实上的困难和财务负担也加重,成员的信心则不断衰退。正是在这关键时刻,约书亚使太阳与月亮静止的信心更加不可或缺——上帝能逆转我们的现实处境,甚至倒转时间来施行恩典。 特别是在疫情期间,大多数教会与团体都面临重创,但反倒在美国中西部地区获得土地、在西部地区的商业中心也尘埃落定,等等这些经历都见证了上帝戏剧化的带领。张大卫牧师提醒,不要把此仅仅当作幸运,而应视作“上帝的时间与方法超乎人的算计”的明证。同样地,加州帕萨迪纳区域的新开门路,富勒神学院周边宿舍的挂牌出售,以及有名的教会接连被介绍等一系列事件,都在宣示:“一个时代的结束意味着另一个时代的来临;神的工人会被继续兴起。”这是再一次向我们印证那永恒的属灵真理。 然而,过去失败和挫折所带来的伤口仍残留在一些领袖的内心。有些人因为忆起曾经带领失败的事工,而对再次尝试感到恐惧;也有人心已渐渐冷淡,自觉“现在太迟了”,干脆选择放弃。但《约书亚记》第10章带给我们的关键信息是:即便在我们认定“为时已晚”的时刻,只要上帝的计划需要,祂仍能让太阳与月亮止步,开启新的历史。正因如此,去相信并顺服这位主宰时间的神,才是当代教会必须恢复的信仰核心。张大卫牧师一再宣告:当真心悔改、切切祈祷,上帝随时可以显出如同“使太阳止住、月亮不动”的神迹,帮助我们追回那看似无法挽回的岁月。 因此,本小主题的结论非常清晰:即便此刻时间的主权仍在上帝手中,祂随时可以对我们的生命和事工作出决定性的介入。《约书亚记》第10章让我们亲眼看见,上帝在当时为祂的子民行奇事;即便在后疫情时代的混乱世界,祂仍然在持续工作。张大卫牧师“寻求主的旨意、悔改并全心投入”的呼唤,就是要我们相信那位使不可能成为可能的神。我们今日所能做的,便是向上帝祈求“让太阳止步”的祷告,并伴随行动投入信心的征战。只有这样,那超出我们想象的神迹,甚至能逆转过去数十年的情势,才可能真正开始。这正是第一小主题所要传达的核心信息,也是张大卫牧师不断强调的“挽回失去时间”之实践课题。 2. 希西家的悔改与生命的延长,以及新事工异象 在《列王记下》第20章,希西家王得病又痊愈的故事,及日晷向后退的神迹,与《约书亚记》第10章太阳止住的事有相似之处。两段经文都鲜明地宣告了“时间与生命的主权在上帝手中”。希西家原本是一位敬畏神的君王,但后来信心软弱、犯罪堕落,以致患上重病。此时他的选择是流泪切切祷告并悔改。张大卫牧师在此指出,即便是再敬虔的领袖,也可能堕入罪中,并因此走到人生末路。要害在于,当人落入这种绝境时,“向上帝回转的悔改”是否会发生。希西家在流泪的祈求中,上帝垂听了他的祷告,不仅医治了他的疾病,还额外赐下15年的寿命。更有甚者,为了让他确信这应许必定实现,上帝行了让日晷往后退的神迹,象征着时间被倒转。 这一事件告诉我们,当我们陷于失败与挫败,或灵性重病时,究竟该如何行。张大卫牧师强调,希西家故事中能看见“上帝回应祷告时会带出何等的作为”,而领袖们更要率先悔改、祷告。在美国宣教20年的历史中,许多事工的崩溃不光是外部环境的影响,更大的因素可能是内部的罪与信心的衰退。若领袖只依赖人的方法、执着于世俗成功、或陷在属灵骄傲中而忽略秩序与爱,那责任之重难以推卸。如今教会整体似乎陷入与希西家重病快要死去的情况并无二致。此时此刻,最迫切要做的,正是“带着眼泪的悔改祷告”。 当希西家流泪祷告时,上帝不仅医治了他的病,让他多活了15年,还应许保护耶路撒冷免于亚述帝国的侵犯。为了让这一应许更加坚定可信,上帝甚至行了日晷后退的神迹,也就是实实在在地“倒转时间”。张大卫牧师将此解释为“上帝赐给悔改之人的恩典何等浩大”的典范。我们常以为所犯的罪太大、事工场景已荒凉至无法重建、失败过的历史也不可能复活,然而真相是只要我们肯“悔改归向神”,祂甚至能让时间逆转。 希西家在得到这样的大恩后,再次复苏了信仰,并尽职地履行他作为王的责任。固然此后人生仍遇到不少挑战,也有过一些失误,但上帝所赐的额外15年时间并没有被浪费。张大卫牧师指出,这一点尤为关键:当我们也被赐予“额外的时间”时,究竟要怎么使用?希西家所得到的15年,并非为满足其个人安逸,而是为继续成就上帝的工作、保护百姓、带领信徒走正道。同样地,假如我们今日因悔改祷告而获得新的机会,那就意味着,这份时间不仅为我们个人的福祉,更是要为群体的复兴与神国的扩张而用。 过去许多事工的失败,领袖们的疏忽、无知或犯罪,的确使现今的事工停滞,尚且还有一些人不愿悔改。然而,上帝是能将空空的渔网以神迹填满的主。正如希西家生命被延长、日晷往后退一样,只要我们以迫切的悔改与呼求寻求祂,神的作为仍在当下进行。张大卫牧师特别警示:我们剩下的时间不多了。领袖可以一夜之间倒下,筹备了二三十年的事工可能空手而归。但只要我们活着还能祷告呼求,希西家的神迹一样能临到。那神迹不只是让人惊讶“日晷怎么会倒退”,而是“上帝听见我们的悔改祈祷,赐下超乎想象的恩典与机遇”。正如约书亚经历超自然的日月静止,希西家不仅延寿十五年,并见耶路撒冷得免亚述之难,我们也能在灵性黑暗中迎接新的曙光——这是何等重要的信息! 总的来说,两段经文传递的核心教训是相通的。《约书亚记》第10章宣告“上帝能为祂的百姓使日月静止”,《列王记下》第20章见证“上帝能因一个人的祈祷而延长寿数,并让时间倒退”。两者交汇之处,便是“上帝能改变我们的时间”。张大卫牧师将此落地于当下的事工场合,强调:“我们似乎白白耗费了二十年,没有任何果实,但只要今天悔改祷告,上帝也能带来翻转这整段岁月的新复兴。”这正是此刻赐予我们的机会;只要像希西家一样痛哭流泪地祈求上帝的怜悯,就能成就。 最后,张大卫牧师大力呼吁,为了实践这个属灵原则,当务之急是“回到祷告的阵地”。疫情期间,教会与群体分散、软弱,但正是此时最需要真实迫切的祈祷。在每个事工地点、礼拜堂、校园里,我们或许会因失去的岁月而叹息,但依然可以从那里重新出发。就像希西家在被宣告重病之处返回到悔改和祷告一样,我们今天在绝望之地也能再次开启恩典之门。正如张大卫牧师长期所强调的,上帝从不撇弃诚心寻求祂的人,反而能用奇妙的方式使他们的时间逆转。到那时,我们就要思考:“为什么要赐下这些时间?为何让我们多活15年?为何让太阳止住?”其答案自然指向“为神的国度、为履行我们所当尽的使命”。 因此,我们不要只将目光放在这二十年来的停滞、失败、未悔改的领袖、分裂、商业失败和财政危机上,更该将目光定睛在有能力胜过一切困境的上帝身上。希西家的悔改引发日晷逆转,约书亚的祈祷使日月止住,默想这些时,我们此刻也当迫切呼求:“上帝啊,也请倒转我们的时间!我们愿悔改,求祢开启新的生命之路!”正如张大卫牧师强力呼吁:所剩时间不多,但即使在短暂时日里,只要上帝工作,也足以成就大能神迹。关键在于我们是否相信那位独一可行神迹的神,并以“若日头不止住,我们的战争无法打赢;若不是上帝亲自介入,我们的事工也无法复兴”的信念勇往直前。 这正是希西家含泪祈祷时所见“日晷倒退”的意义,也是约书亚所见“日月止住”的真正含义。那位在时间之上执掌主权的上帝,若看到子民悔改,就连自然秩序也能为我们颠覆。我们当重新相信这位神,并抓住祂所赐的机会。若我们错失了这机会,就会在过去二十年的失败阴影中原地踏步;但若学像希西家和约书亚那样,学习他们的悔改和祈求,上帝就能把那失去的光阴与荒废的岁月重新赐下丰盛的果实。这正是张大卫牧师不断强调的核心信息,也将成为美国宣教二十年后,新时代与新事工异象的主要轴心。 归根究底,这两段故事得出同一个结论:第一,在使太阳和月亮止住的上帝面前,我们要谦卑俯伏;第二,在能让日晷倒退的上帝面前,我们要真心悔改,抓住新机会。时间所剩无几,这一点反而在督促我们发出更加迫切的呼求。作为领袖,更是如此:要放下名利与权力,严肃地自问“为了实现上帝的旨意,我还剩多少时间?”谁认真对待这一追问,就能像希西家那般,一次真心的祷告就改变整个人生。随后上帝应许说:“我已看见你的眼泪。”并赐下这样的应许:“我要多加给你十五年,我要为你止住日头,我要让日晷向后退,好让你可以拯救以色列,复兴我的子民。”上帝借此彰显,我们的时间并非一成不变。只要我们的眼泪朝着祂流去,时间也能逆转,上帝的大工亦能重新开始。这就是希西家与约书亚的故事所带给我们的盼望,也是张大卫牧师始终如一所强调的“悔改的福音”。

Le Dieu qui arrête le soleil – Pasteur David Jang

1. L’arrêt du soleil et de la lune, et la foi qui permet de récupérer le temps perdu L’histoire miraculeuse du soleil et de la lune qui s’arrêtent, relatée dans Josué chapitre 10, est l’un des événements les plus singuliers et marquants de l’Ancien Testament. Le pasteur David Jang souligne qu’au-delà du caractère historique du … Read more

태양을 멈추시는 하나님 – 장재형목사

1. 태양과 달의 멈춤, 그리고 잃어버린 시간을 되찾는 믿음의 발걸음 여호수아 10장에 기록된 태양과 달이 멈추는 기적의 이야기는 구약 성경에서 매우 독특하고도 인상 깊은 사건으로 손꼽힌다. 장재형(장다윗) 목사는 이 본문을 통해, 역사적 기적으로서 그 사실 자체만을 부각하기보다, “시간의 주인이 하나님”이라는 더 깊은 차원의 신앙 메시지를 우리 마음에 새길 것을 강조한다. 여호수아가 아모리 연합군과 전쟁을 치르고 있던 당시, 해가 지면 전투 상황이 불리해질 수밖에 … Read more

Église d’Antioche et le Saint-Esprit – Pasteur David Jang

Le fondement de la mission mondiale de l’Église d’Antioche Le chapitre 13 des Actes des Apôtres constitue un tournant majeur dans l’histoire missionnaire de l’Église du Nouveau Testament. Avant ce passage, les apôtres œuvraient principalement à Jérusalem et dans les environs, mais c’est à partir de l’Église d’Antioche qu’un élan décisif vers la mission mondiale … Read more

安提阿教会与圣灵 —— 张大卫牧师

安提阿教会的世界宣教基础 《使徒行传》第13章在新约教会的宣教历史中,展现了一个重要的转折点。在此之前,使徒们主要在耶路撒冷及其周边地区传扬福音,但通过安提阿教会,真正意义上的世界宣教由此拉开序幕。尤其是张大卫牧师一再强调安提阿教会所承担的使命与角色,常将其称为当代教会应当效法的“世界宣教前哨基地”。安提阿教会并非在耶路撒冷,而是在外邦土地上复兴扩张,并对圣灵的带领极其敏锐,甚至分别派遣了巴拿巴和扫罗(保罗)。这正是今日教会所应当追求的榜样。 当时的安提阿是一个贸易繁盛、文化交汇的大都市。福音离开耶路撒冷传到外邦之地后,不仅犹太人,还有各种民族和语言的人都听闻了福音,并加入到教会的群体中。这家教会特别之处在于,他们“在禁食祷告中”听从圣灵的指示,为了世界宣教而差派了巴拿巴和保罗(参《徒》13:2-3)。张大卫牧师对此段经文格外关注,强调今日的教会也应当在实际场域里积极发掘并差派宣教士和传道人,把福音种子撒向世界各处。他指出,前线宣教和后方宣教应当兼顾,这也正是安提阿教会所展现的平衡宣教模式。 安提阿教会首先差派他们奔赴的宣教工场是居比路(塞浦路斯)岛。那里是巴拿巴和马可(约翰马可)的故乡,圣经在《使徒行传》第13章前半部分描述了他们横穿整个岛屿传福音的情景。从撒拉米到帕福(帕波斯)约有180公里的距离,巴拿巴、保罗和约翰(马可)一路徒步宣讲福音。福音甚至传到了这座小岛的总督——舍尔求•保罗等社会上层阶层。对此,张大卫牧师特别提到:“福音有能拯救整个国家,使国家领导者也能被改变的力量。”所以,教会不应忽视任何小地方,只要在其中使用恰当的方法传福音,必然结出果子。 离开居比路后,巴拿巴和保罗又乘船前往旁非利亚的别加(今天土耳其南部海岸)。在此过程中,同行的约翰(马可)决定返回耶路撒冷(参《徒》13:13)。圣经并未详细说明他离开的原因,但最终这件事导致巴拿巴与保罗之间出现争执,后来两人分开,各自往不同地区传福音。对于这一点,张大卫牧师强调了“神的主权”。人会有软弱和冲突,但正是在这些矛盾与争执中,宣教的疆界得到拓展,福音反而传向更多地方。即便人显露出局限,神的工作从不因此停止;相反地,因着约翰马可的独立事工,保罗一连进行的第一次、第二次传道之旅,以及巴拿巴的另一条宣教路线都得到展开,福音得以迅速传播。 之后,途经别加后,保罗和巴拿巴到了彼西底的安提阿(参《徒》13:14)。这里同样是外邦世界的一部分,同时也有犹太离散人士所建立的会堂。按《使徒行传》的记载,保罗抵达的城市都会先去犹太会堂。“当安息日,他们进会堂坐下”(《徒》13:14),展现了保罗一贯的传道策略——“神的福音先传给犹太人,也给希利尼人”(参《罗》1:16)。张大卫牧师把这一做法总结为“先照顾自己的百姓,恢复其中失丧的羊,并在那里发现合适的工人”。实际上,初期教会不仅在耶路撒冷圣殿,也借助各地的会堂使福音得以系统地传扬。 张大卫牧师尤其呼吁21世纪要重新恢复这种“安提阿精神”。安提阿教会从祷告开始,借着祷告行事,对圣灵的指示无比敏感,所以才能成就那波澜壮阔的差派和世界宣教。同样在今天,虽然技术和大众传播都高度发达,我们不再仅依靠步行,也能透过网络、媒体和商务渠道开展新的宣教形式,但其本质始终如一——教会应当合而为一,兼顾前线与后方宣教;既要向世界各地派遣宣教士,也要在教会或宣教总部通过祷告、财务及教育等多方面给予扎实支持。 安提阿教会差派巴拿巴和保罗远赴居比路和小亚细亚(今日的土耳其)的画面,显示“即使是小教会,也能开启世界宣教”。因此,张大卫牧师反复强调,现今教会的复兴并不取决于规模、资金或其他条件,而在于能否分辨并顺服“圣灵的指示”。这样的教会,无论置身何种环境,神都会亲自为其开路。所以教会和信徒个人都应当为未来做好准备。经历了农业时代、工业时代,又进入信息与技术的时代,传福音的目的和热情却不应改变。安提阿教会的历史在21世纪同样适用,只要对圣灵的声音保持警醒,就能翻转世界。 大胆的福音宣讲与核心信息 在彼西底的安提阿,保罗和巴拿巴于安息日时在会堂中有机会分享信息(参《徒》13:15)。当时,在与会堂长以及会众一起敬拜、朗读律法与先知书之后,来自外地的人也可以获得讲道的机会。保罗便抓住此机,起身示意,向犹太人和敬畏神的外邦人作了讲论(参《徒》13:16)。张大卫牧师在此特别指出,“果断的态度”对福音宣讲至关重要。保罗并未犹豫或畏缩,而是胸有成竹地讲出早已预备好的信息。正如《彼得前书》3章15节所言:“要常作准备,以温柔敬畏的心回答那问你们心中盼望缘由的人。”保罗就像这样,时刻保持预备,作合格的见证人。 保罗讲道的核心是回顾以色列的历史,并最终强调“耶稣基督的死与复活”。他简洁明了地概述了从神拣选以色列、他们在埃及为奴、旷野四十年、进入迦南、士师时代、扫罗王、大卫王,一直到以色列人所盼望的真救主是耶稣(参《徒》13:17-23)。在这历史进程中,耶稣乃“大卫的后裔”降临,施洗约翰为他预备道路;耶路撒冷当局因无知把他钉在十字架上,但神却使他从死里复活(参《徒》13:30)。对此,张大卫牧师强调:“福音宣讲最重要的两大支柱,就是耶稣基督的身份(他是君王、也是救主)与他的复活事件。”福音中可以有道德或哲学层面的探讨,但最根本的核心是“基督的死与复活”,这一点不可偏废。 当保罗宣告“这人就是弥赛亚”“神已叫他从死人中复活”这福音本质时,会堂内外的听众为之震动。他们邀请保罗下个安息日继续分享信息(参《徒》13:42),甚至到了下周,“合城的人几乎都来听神的道”(参《徒》13:44)。张大卫牧师据此指出,传道成功的关键在于“传道人是否聚焦于福音的核心,并且勇敢地宣讲”,人的灵里会本能地辨识真理,对真理产生饥渴。因此,比起卑微或畏缩的方式,更应该像彼得所说:“我把我所有的给你(参《徒》3:6)。”这样直接、大胆的宣告会带来更显著的属灵果效。 那么,如何才能保持这份胆量呢?张大卫牧师归纳了两个要诀:第一,圣灵的同行。耶稣差派门徒时也应许:“我就常与你们同在,直到世界的末了”(参《太》28:20)。正如整本《使徒行传》所显明的,圣灵降临后,会震动建筑物,带领门徒突破逼迫,让福音最终传到外邦。第二,传道人的身份认同。保罗原本是耶路撒冷最受瞩目的律法学者之一,但在司提反被害的事件后,他遇见耶稣,决意悔改并将自己所有的一切献给见证福音。此后,他怀抱“我必须也要往罗马去”(参《徒》19:21)的异象,立志把福音带到世界的中心。正因为他明白自己整个人生目的就是见证福音,所以在任何场合,只要有机会,就能大胆传讲耶稣基督。 古往今来,大胆的见证始终是福音宣扬的关键钥匙。如今进入21世纪,新媒体环境、全球网络以及商务机会都明显增多。张大卫牧师将这一时代变化形容为“跨越农业与工业时代,进入技术与信息时代”。我们不再需要只依靠“脚”去跨越遥远的地区;可以通过网络视频、社交媒体、商务会面或在线授课等渠道广泛接触人群。然而,尽管时代与方式不断转变,最终能打动人心的仍是福音的“核心信息”——“基督为我们的罪死了,并借复活赐给我们永生”。当这一宣告被清晰地传达时,人灵里的干渴就得到滋润。 正因保罗的坦荡宣讲,彼西底安提阿全城都为之敞开心门。部分犹太人因嫉妒排斥保罗,但外邦人却欣然领受(参《徒》13:48)。无论教会大小,只要能够坚定地宣扬福音,听者就会被信息本身触动而产生共鸣。张大卫牧师把这种感受称为“属灵的直觉”,无论是孩子还是学富五车的成年人,当福音被宣讲时,若是真正的生命活水,他们就会本能地感知。 他还举了彼得“金银我都没有,只把我所有的给你:我奉拿撒勒人耶稣基督的名,叫你起来行走”(参《徒》3:6)这句经典宣告来说明。事实上,教会常常无法提供许多物质或权力,但却能带给人最珍贵的礼物——福音。张大卫牧师认为,这种分享的价值能拯救教会、城市和国家,也最终改变世界。而在传递这份生命福音时,“胆量、确信与圣灵的能力”是必不可少的。 正是出于这份确信,张大卫牧师所推动的全球宣教网络,已在许多国家建立教会、组织长老会,并通过各种中心(宣教中心、商务中心、教育中心等)向当地人传扬福音。当教会渴望复兴,却因缺乏足够的礼拜场所或教育设施而无力容纳更多会众时,即便神差派更多人,教会也无法真正接待得住。为此,购买或建造教堂绝非世俗化的行为,而是大胆传福音的一种宣教策略。张大卫牧师说,“预备未来就是信心”,当教会在祷告中按部就班地扩展,神也会将更多灵魂带到他们面前。 总之,透过坚持大胆的福音宣讲与紧扣核心信息,教会得以不断向世界拓展。在这一过程中需要记得,凡传福音之处,总会面对嫉妒、反对,甚至逼迫。然而《使徒行传》反复提到,这些过程反倒使福音传得更广、更远。耶路撒冷的宗教势力施加逼迫,福音便散布到撒玛利亚和外邦(参《徒》第8章);彼西底安提阿部分犹太人嫉妒,外邦人却喜乐地接受福音(参《徒》第13章)。因此,大胆并非冒失无畏,而是基于对“神必工作”的信心,以及“哪怕面对反对也要勇往直前”的决心。 在嫉妒与逼迫中仍然喜乐并被圣灵充满 《使徒行传》第13章后半段展现的另一个重要主题,是“对于福音宣扬的反对与嫉妒,以及在此过程中获得的喜乐和圣灵充满”。当福音在彼西底安提阿的会堂里广泛传开时,一部分犹太人因嫉妒而诋毁保罗的话,并开始逼迫保罗和巴拿巴(参《徒》13:45)。然而外邦人却十分喜乐。“凡预定得永生的人都信了”(参《徒》13:48),逼迫愈深,福音反而更清晰,预备好的灵魂就越是抓住神的话语。这也是教会历史中屡次出现的现象。 张大卫牧师在此特别关注保罗和巴拿巴“跺下脚上的尘土”(参《徒》13:51)并离开该城的态度。“若你们拒绝福音,我们便毅然往那更敞开的门前行。”这是他们的宣告。传福音固然要尽力挽回所有人,但如果有人持续回避和敌对,就不必留恋或纠结,而应当“把脚上的尘土抖下”,勇敢地迈向下一个更敞开的地方。这听起来也许冷漠,可却是极为关键的原则。福音的果效基于自愿接受,强行灌输或苦苦哀求所带来的果子难以持久。而且,经文也强调,“并非因嫉妒者的搅扰就阻断了宣教,反倒借此逼迫敞开更大的宣教之门”。 这一结果在第13章末节得到最生动的呈现:“门徒满心喜乐,又被圣灵充满”(参《徒》13:52)。表面上看,保罗和巴拿巴是被赶走的,似乎宣教失败了,但实际情形是,门徒们的内心洋溢着喜乐。原因何在?因为福音已经传遍全城,大批外邦人接受耶稣,新门徒被兴起,福音进一步扩散至彼西底安提阿周边。张大卫牧师由此评论说:“传福音最大的奖赏,不是物质上的成功,而是看到灵魂得救所带来的喜乐,以及在那时同在的圣灵充满。” 在当代教会中亦然。传福音的过程难免遭遇误解或反对,甚至会碰上其他宗教或世俗文化的排斥。敌意越深,人心越容易变得软弱,但正是在这境遇中,门徒依旧能“得着圣灵所赐的喜乐”,这正是罗马书8章28节所言,“万事都互相效力,叫爱神的人得益处”。张大卫牧师鼓励说:“即便面临小冲突或苦难,它们反而可能成为我们前往更广阔疆域的踏脚石。” 类似的道理在《使徒行传》第8章也有展现。耶路撒冷教会遭受猛烈逼迫,门徒四散,结果福音深入撒玛利亚、亚洲,乃至后来扩展到欧洲。旧约约瑟“以恶成善”的故事同样如此:因兄弟的嫉妒和恶意,约瑟被卖为奴,却最终成为拯救哥哥们和整个埃及的器皿。保罗与巴拿巴所经历的嫉妒与排斥,也开辟了福音传给外邦人的通路。故此,张大卫牧师引用经文解释:“穿上耶稣基督‘彩衣’的人,难免要遭遇嫉妒,但神会透过这过程带来更大的拯救。” 然而值得注意的是,保罗对传福音有着强烈的执着。他虽常宣告“你们若不接受,我们就跺脚上的尘土离开”,却仍屡次进入犹太会堂(见《徒》14章、17章、19章等)。保罗并未彻底放弃犹太人,而是持续寻找可能敞开的门。只是在某些地点或时刻遭到严重排斥时,他才不会死守在那里,而是果断转向“更开阔的门”。张大卫牧师在宣教现场非常强调这一心态:“若某处的门关上,神会在别处打开更大的门。”并且在那敞开的门中,门徒的喜乐与圣灵充满也愈发加倍。 在当今的宣教现实中,如果某个国家或地区因宗教、政治限制而阻挡宣教,其他渠道也许会突然打开。比如通过商务或教育传福音,或依托移民社群、海外侨民团体,让福音继续拓展。期间,当然也会遭遇地方政府或宗教势力的抵触与偏见,但与此同时,神也会开启另一扇大门,让更多灵魂归主。这些见证印证了《使徒行传》第13章的原则在今日依然有效。 “门徒满心喜乐,又被圣灵充满”(《徒》13:52)这句话最终告诉我们:福音的传播并非只在“风平浪静”中顺利进行;在“狂风骤雨”、嫉妒和逼迫并存的环境里,圣灵同样大有能力。圣灵能使软弱的人刚强,令他们在逼迫中依然祷告赞美,并预备新的宣教之路。张大卫牧师强调,我们今天无数地区的教会和事工人员都应当从中汲取勇气。教会越壮大,或当不同国家都设立了教会与长老会时,可能面对的攻击也会增多。然而,这并不意味着我们要退缩;反而要持续祷告,寻找光明之处。这样,“那些胜过逼迫与嫉妒的人,必将收获喜乐并被圣灵充满”,这才是真教会的力量所在。 张大卫牧师有时谈到在世界各地收购并建立教会、中心时会提及:“一些失去未来盼望的教派或教会往往会出售建筑;反之,有未来盼望的教会则会占据新的场所,怀抱复兴的梦想。”无论哪个宗派,只要失去对下一代的期待,都终将萎缩甚至消亡。此理在《使徒行传》中也生动地表现:那些嫉妒、排斥福音的犹太宗教领袖,走向近乎灭亡的结局;而向福音敞开并欣然接受的外邦人却成为新历史的主角。教会“喜乐并圣灵充满”,正是这种面向未来的态度与神的旨意交汇之所在。 结语:迈向地极的呼召 总的来看,《使徒行传》第13章向我们传递的讯息十分明确:福音之路从来不平坦,其中充斥着嫉妒、反对与逼迫,但神的子民却能在这过程中更加坚忍,让灵魂得救的事工不断扩大。而走在最前线的人,“就被喜乐和圣灵充满”。21世纪的教会也需要运用同样的原则。无论何地,即使有反对和逼迫,神总会为福音预备另一条道路,让那些预备好的灵魂听见真道。当我们经历并见证这一过程时,心中会生发真正的喜乐,且更深地经历圣灵的同在。 张大卫牧师所做的最后总结是:“当年的安提阿教会成为榜样,今天的教会也应当为世界宣教恒切祷告,不断向前。”只要发现新的敞开之门,就该抓住机会分享福音,推动教会在商务、教育、媒体、文化等多个领域扎根发展。这样,正如《使徒行传》所记:“主的道也传遍了那一带地方”(参《徒》13:49)的景象,今日同样会重现。那时我们会见证:“门徒满心喜乐,又被圣灵充满”的结局。这里的喜乐并非短暂的情绪激动,而是因参与救活灵魂的福音事工而生的属灵饱满与集体欢腾。从耶路撒冷、安提阿、彼西底安提阿,再到穿越地中海直抵罗马的宣教步伐,如今也继续跨越日本、中国、美国、欧洲、非洲,传遍全世界。这正是张大卫牧师不断宣扬的异象:愿教会持续扩张,使无数灵魂得生。 最终,《使徒行传》所展现的原初教会历史,正是当代教会最应当学习的宝贵教材。一个小教会若能迎来圣灵的工作,也能放眼世界;而再大的教会,若失去圣灵、只剩下形式,终将自我崩塌。因而,无论面对外在的嫉妒与逼迫,或内部的冲突与争执,我们大可不必绝望。只要凭着坚定的信心,不断传扬福音核心——耶稣基督的死与复活,我们也能像安提阿教会一样,满有喜乐与圣灵,承担“直到地极传扬福音”的神圣呼召。这份使命也正是我们这一时代、我们所在的教会所要继续承接的大使命。张大卫牧师如此宣扬的信息与异象,也必将在21世纪的全球化社会中继续发光,引领耶稣基督的福音传向世界各地,成为众多灵魂得救的管道。愿我们都能亲身参与,并见证这伟大的神国扩张。阿们。

アンティオキア教会と聖霊 – 張ダビデ牧師

アンティオキア教会の世界宣教の基礎 使徒行伝13章は、新約教会の宣教史において大きな転換点を示す重要な章です。これ以前までは、使徒たちは主にエルサレムとその周辺地域で福音を伝えていましたが、アンティオキア教会を通して本格的な世界宣教が始まります。特に張ダビデ牧師は、このアンティオキア教会の使命と役割を強調し、現代の教会が見習うべき「世界宣教の前哨基地」としてしばしば言及しています。アンティオキア教会は、エルサレムではなく異邦の地でリバイバルと拡大を遂げ、またバルナバとサウロ(パウロ)を選び出して派遣するほどに聖霊の導きに敏感でした。まさにこの姿こそ、今日の教会が目指すべきモデルだというのです。 当時のアンティオキアは貿易が盛んな大都市であり、文化の交差点でもありました。エルサレムを離れた福音が異邦地域へ伝わった結果、ユダヤ人だけでなく多様な民族と異なる言語を持つ人々が福音を聞き、教会共同体に加わるようになりました。この教会が特筆すべき点は、「祈りと断食のうちに」聖霊の指示を受け、バルナバとパウロを世界宣教のために派遣したことです(使徒行伝13:2~3)。張ダビデ牧師はこの場面を大いに注目し、教会が現場で積極的に宣教師や働き手を発掘し派遣して、世界の至る所に福音の種をまくべきだと力説します。前方宣教だけでなく後方支援も同時に行われる必要があるのですが、これはアンティオキア教会が示したバランスの取れた宣教モデルに通じるものです。 このアンティオキア教会が最初に向かった宣教地は、キプロス(クプロ、サイプラス)の島でした。そこはバルナバとマルコ(ヨハネ・マルコ)の故郷でもあり、島全体を横断しながら福音を伝える場面が使徒行伝13章の前半に描かれています。バルナバとパウロ、そしてヨハネ(マルコ)は、約180キロメートルに及ぶ道のりを歩き、サラミスからパポスまで、一つひとつ福音を伝えました。小さな島キプロスにまで福音が伝わり、最終的には総督セルギオ・パウロのような指導層にも福音が届いたのです。張ダビデ牧師はこの事実に触れながら、「国全体が救いに至り、国家的リーダーさえ変革する力が福音にはある」と力強く語っています。教会は小さな地域を決して軽んじることなく、その地域に合った方法で福音を伝えるなら、必ず実を結ぶという教えです。 キプロスでの働きを終えたバルナバとパウロは、船に乗ってパンフィリアのペルガ(現在のトルコ南端)へ移動します。ここで問題となるのは、共に働いていたヨハネ(マルコ)がエルサレムへ帰る決断を下したことです(使徒行伝13:13)。聖書本文はその理由を詳しく説明していませんが、結果的にマルコの離脱によってバルナバとパウロの間に意見の衝突が起こり、後に二人は別々の地域へ旅立つことになります。張ダビデ牧師はここで重要な「神の主権」を強調します。人間的な対立は痛みを伴う場合もありますが、その衝突や争いを通して宣教の領域が広げられ、結果として福音がより多くの地に伝わる可能性もあるというのです。人が限界をあらわしても、神の御業は決して中断されません。むしろヨハネ・マルコが独立した働きを担い、パウロが第一・第二宣教旅行を行い、またバルナバが別の宣教行程に進むことで、福音は急速に拡大していきます。 こうしてペルガを経由して、パウロとバルナバはピシディアのアンティオキアに到着します(使徒行伝13:14)。ここもやはり異邦の地であり、同時に離散していたユダヤ人が集う会堂が存在しました。使徒行伝によると、パウロは町に到着した時、まずユダヤ人の会堂に入ったと記録されています。本文によれば「彼らは安息日に会堂に入り、座った(使徒行伝13:14)」とあります。これはパウロが常にとっていた伝道手段、すなわち「神の言葉はまずユダヤ人に、それからギリシア人に」というローマ書1章16節の原則を体現しているのです。張ダビデ牧師はこのアプローチについて、「まず自分の民に目を向け、その中で失われた羊を回復し、そこから備えられた働き手を見出すこと」と語ります。実際、初代教会ではエルサレム神殿だけでなく、各地の会堂を通して体系的に福音が広まっていきました。 特に張ダビデ牧師は、21世紀にこそこの「アンティオキアの精神」を回復すべきだと説きます。アンティオキア教会は祈りから始まり、祈りによって歩み、聖霊の導きに敏感だったからこそ、大いなる派遣と世界宣教が可能になったというのです。技術が発達しマスコミュニケーションが進歩して、もはや「足」だけでなくインターネットやメディア、ビジネスネットワークなど新たな宣教手段が生まれましたが、本質は変わりません。すなわち、教会が一つになって前方宣教と後方支援をバランスよく担い、一方でさまざまな国や地域へ宣教師を派遣し、同時に本部教会や宣教本部では祈り・財政・教育のサポートを確固たるものとしていく必要があるのです。 アンティオキア教会がパウロとバルナバを派遣し、キプロスや小アジア(現トルコ)へ旅立たせた場面は、最終的に「小さな教会からでも世界宣教は始まる」ということを示しています。ゆえに今日の教会のリバイバルも、規模や財政、そのほか条件によって左右されるのではなく、「聖霊の指示」をどれほど見分け、従うことができるかにかかっている、と張ダビデ牧師は繰り返し強調します。そのような教会は、どんな環境下にあっても神ご自身が道を開かれるのです。したがって教会と信徒個人は未来に備えなければなりません。農耕時代、産業時代、情報と技術の時代を経ても、福音を伝える目的と熱意は変わらないはずです。アンティオキア教会の歴史は21世紀にもそのまま当てはまり、聖霊の声に目を覚ましている教会こそ世界を変革しうるのだと語られています。 大胆な福音伝播と核心メッセージ ピシディアのアンティオキアに到着したパウロとバルナバは、安息日の会堂で御言葉を語る機会を得ます(使徒行伝13:15)。当時は、会堂長と共に礼拝を捧げる会衆が律法と預言書を朗読した後、外部から来た人にも説教の機会を与えていました。パウロはこの機会を逃さず、立ち上がって手を振りながらユダヤ人と神を敬う異邦人の聴衆に向かって説教しました(使徒行伝13:16)。張ダビデ牧師は、ここで「断固とした態度」が福音の伝播においてどれほど決定的な役割を果たすかに注目します。パウロは躊躇したり、遠慮がちになったりせず、すでに十分に用意していたメッセージを大胆に語ったのです。「第一ペテロ3章15節にあるように『あなたがたの内にある希望について問う人にはいつでも弁明できるように備えておきなさい』という御言葉のとおり、パウロは常に備えられた証人だったのだ」と言えるでしょう。 パウロの説教の中心は、イスラエルの歴史を語りながら究極的には「イエス・キリストの死と復活」を強調することでした。彼は旧約時代の選びから、エジプトでの奴隷生活の解放、荒野の40年、カナン征服、士師の時代、サウル王やダビデ王の時代に至るまで、イスラエルが待ち望んできた真の救い主がイエスであることを短く明確に説き明かします(使徒行伝13:17~23)。この歴史的な流れの中でイエスが「ダビデの裔」として来られ、ヨハネ(バプテスマのヨハネ)がその道を備え、エルサレムの指導者たちは無知のゆえにイエスを十字架につけたものの、神はイエスを再び生かされたという福音の出来事を宣言したのです(使徒行伝13:30)。張ダビデ牧師は、この場面について「福音伝播の最も重要な二つの柱は、イエス・キリストの身分(王であり救い主)と、その復活の出来事である」と語ります。福音には倫理や哲学的な内容も大切ですが、それを超えてイエス・キリストの死と復活が核心であることを決して外してはならないというのです。 パウロが「この方こそメシアだ」と宣言し、「神はこの方を死者の中から甦らせた」と福音の本質を力強く提示したことで、会堂の内外の聴衆は大きく動かされました。彼らは次の安息日にも同じ御言葉を聞きたいと望み(使徒行伝13:42)、実際に次の週には「町中のほとんどの人が神の言葉を聞こうとして集まった(使徒行伝13:44)」と記されています。張ダビデ牧師はこの場面を例に挙げ、伝道の成功要因として「伝える側が福音の核心メッセージに集中し、大胆に宣言するとき、人の魂は本能的にその真理を見極め、渇望する」と述べます。人の霊的な渇きや真理への探求は極めて深く、強いものです。したがって、伝道者が卑屈になったり萎縮した姿勢で臨むのではなく、「私にあるものをあなたにあげよう(使徒行伝3:6参照)」というペテロの告白のように堂々と宣言するとき、大いなる御業が起こるというのです。 では、どうすればその大胆さを維持できるのでしょうか。張ダビデ牧師は、その秘訣を二つにまとめています。第一に、聖霊の共におられる助けです。イエスも弟子たちを派遣する際に「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます(マタイ28:20)」と約束しました。使徒行伝全体が示すように、聖霊が臨むと建物が揺れ、迫害を突破し、ついには異邦人にまで福音が広がるという歴史が起こります。第二に、伝道者のアイデンティティの確立です。パウロはエルサレムで当時最も将来を嘱望されていた律法学者の一人でしたが、ステパノを殺害する事件以降、イエスと出会って決定的に悔い改め、すべてを福音宣証に捧げました。その過程で「私はローマも見なければならない(使徒行伝19:21)」と言い放ち、世界の中心へ福音を運ぶというビジョンを抱いて生きました。すなわち、自分の人生全体を福音の証に捧げることが目的であると明確に自覚していたので、どんな状況でも機会が与えられれば大胆にイエス・キリストを伝えることができたのです。 このように大胆な福音証しは、当時であれ現代であれ、福音を伝える上での鍵です。21世紀に入り、新しいメディア環境やグローバルネットワーク、ビジネスの機会が大幅に増えました。張ダビデ牧師は、この時代的変化を「農耕時代と産業時代を経て、技術と情報の時代に入った」と表現します。もはや福音を伝えるために、物理的に遠い距離を「足」で歩くだけではなく、インターネット映像やSNS、ビジネスミーティング、オンライン講義など多様なチャネルを通して届くことができます。しかし、どれだけ時代や手法が変わっても、最終的に人の心を動かすのは福音の「核心メッセージ」に他なりません。「キリストが私たちの罪のために死なれ、復活によって私たちに永遠の命を与えてくださった」という宣言が明確に伝えられるとき、魂が目覚め、その渇きが癒されるのです。 パウロが大胆に宣言した結果、ピシディアのアンティオキアの街全体が心を開きました。一部のユダヤ人は嫉妬によってパウロを拒絶しましたが、異邦人たちはその御言葉を喜び、神を賛美しました(使徒行伝13:48)。教会の大小を問わず、福音を宣べ伝える共同体としてはっきり立つとき、人々はそのメッセージを聞いて心に響きを覚えます。張ダビデ牧師はこれを「霊的直観」と呼んでおり、幼子でも学識のある大人でも、福音が宣言されるとそれが真のいのちの水かどうかを本能的に感じ取るのだと解説します。 また彼は「金銀は私にはないが、私にあるものをあなたに与えよう。すなわちナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい(使徒行伝3:6)」と語ったペテロの宣言を代表例として挙げます。実際、教会は物質や権力を十分に提供できない状況にぶつかることも多いですが、それ以上に尊い贈り物を与えられるのが福音です。張ダビデ牧師は、この分かち合いの価値こそが教会を生かし、都市や国家を生かし、最終的には世界を変革すると強調します。そして、この命の福音を伝える際に最も必要なのは「大胆さと確信、そして聖霊の力」であると改めて力説しています。 こうした確信のもと、張ダビデ牧師が進めているグローバル宣教ネットワークは、すでに多くの国で教会を設立し、教区(ノ会)を組織し、大きいものから小さなものまで(ミッションセンター、ビジネスセンター、教育センター等)さまざまな拠点を通して現地の人々に福音を教えています。教会がリバイバルを願っていても、多くの人を受け入れられる礼拝施設や教育インフラがなければ、せっかく神が人を送ってくださっても受け止められません。ですから、建物を建設したり購入したりすること自体も決して世俗的な行為ではなく、大胆に福音を伝えるための宣教戦略の一環と見なせるのです。張ダビデ牧師は「未来を準備することが信仰である」と語り、教会が祈りの中で段階的に拡張していくとき、神はさらに多くの魂を送ってくださると教えています。 結局、大胆な福音伝播と核心メッセージに忠実であることで、教会は世へ向かって進み続けます。そのとき必ず知っておくべき事実は、福音を伝えると常に嫉妬や反対、さらに迫害までもが付きまとうということです。しかし使徒行伝は、この過程を通じてむしろ福音がより遠く、より広く伝えられたと語っています。エルサレムの教権が迫害を加えたとき、福音はサマリアや異邦の地へと移っていき(使徒行伝8章)、ピシディアのアンティオキアで一部のユダヤ人が嫉妬したときには、かえって異邦人たちが喜んで福音を受け入れました(使徒行伝13章)。したがって、大胆さは単なる無謀さではなく、「神が働かれる」という信仰と「反対があっても前進する」という決断の結合から生まれるのです。 嫉妬と迫害の中で得られる喜びと聖霊の満たし 使徒行伝13章の後半が示すもう一つの重要なテーマは、「福音伝播に対する反対や嫉妬、そしてその過程で得られる喜びと聖霊の満たし」です。ピシディアのアンティオキアの会堂で多くの人に福音が伝えられると、一部のユダヤ人たちは嫉妬からパウロの言葉を罵り、パウロとバルナバに積極的な迫害を加え始めます(使徒行伝13:45)。それにもかかわらず、異邦人たちは喜びに満ちました。「永遠のいのちに与るよう定められていた人は皆信じた(使徒行伝13:48)」という一節のように、むしろ反対や迫害が大きければ大きいほど福音はより鮮明となり、備えられた魂は御言葉をつかむのです。これは教会史において繰り返されるパターンでもあります。 張ダビデ牧師は、この出来事で「足の埃を払い落として(使徒行伝13:51)」他の町へ向かうパウロとバルナバの態度に注目します。「あなたがたが福音を拒むならば、私たちは思い切って立ち去り、さらに開かれた門へ進む」という宣言です。あらゆる人を救おうと努力はしますが、頑なに拒絶し続ける者たちに対しては執着せず、靴の埃を払い、次の地域へ進む決断が必要だということです。この姿勢は冷淡で人間味がないようにも見えますが、実は非常に重要な原理です。福音は自発的な受容を前提としており、強制や嘆願によって得られた実りは長続きしません。さらに「嫉妬する者たちによって宣教が止められるのではなく、その迫害によってむしろ広い門が開かれる」のだと本文は強調します。 結局、その結果は13章の最後の節に明確に示されています。「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた(使徒行伝13:52)」。パウロとバルナバが追い出され、一見失敗に終わったかのように見えても、実際には弟子たちの心は喜びにあふれていました。なぜでしょうか。それは福音が町全体に伝わり、多くの異邦人がイエスを受け入れて新たな弟子が生まれたからです。その結果、ピシディアのアンティオキアだけでなく周辺地域にも福音が広がっていきました。張ダビデ牧師は、ここで「伝道の最大の報いは物質的な成功ではなく、救われる魂を目にする喜びと、そのとき共に与えられる聖霊の満たしである」と言います。 現代の教会も同様です。福音を伝えるほど、誤解や反発、あるいは他宗教や世俗文化の抵抗に直面することがあります。それが激しくなるほど心は弱くなりやすいものですが、むしろそういう状況において「聖霊が与えてくださる喜び」を味わうのが弟子の生き方です。これはローマ書8章28節の「神を愛する者たち、すなわちそのご計画に従って召された者たちには、万事が共に働いて益となる」という御言葉と通じます。張ダビデ牧師は「小さな葛藤や苦難があっても、それがむしろ私たちがさらに広い領域へ進む踏み台となる」と励ましています。 同様の原理は使徒行伝8章にも表れています。エルサレム教会が強烈な迫害に遭って散らされたとき、結果的にサマリアやアジア、そして後にはヨーロッパにまで福音が伝わる実りを得ました。「悪を善に変える」という旧約のヨセフの物語も同じです。兄たちの嫉妬と憎しみによって奴隷として売られたヨセフが、結局は兄弟たちとエジプト全体を救う通路になったように、パウロとバルナバもまた、嫉妬と排斥を通して異邦人に福音が届く道を開きました。だからこそ張ダビデ牧師は、「イエス・キリストの彩りの衣を着せられた者は誰しも、いずれ嫉妬を受ける運命にある」が、その過程を通じて神はより大いなる救いを成し遂げられると本文を引用して解釈しています。 ここで大切なのは、福音宣伝に対するパウロの執念と情熱です。パウロはユダヤ人が福音を受け入れない度に「靴の埃を払い落とす」と宣言しながらも、別の面では繰り返しユダヤ人の会堂を訪れています(使徒行伝14章、17章、19章など)。ユダヤ人を完全にあきらめたわけではなく、扉が開かれうる可能性を最後まで探っていたのです。ただ、特定の地域やタイミングで激しい反対に遭うなら、そこに固執せず、より「開かれた門」を求めて進んでいきました。張ダビデ牧師は、この姿勢を宣教現場で非常に重要だと紹介しています。「どこかで門が閉ざされても、別の場所ではさらに大きな門が開かれる」ということです。そして、その開かれた場所で弟子たちは喜びと聖霊の満たしをさらに深く体験します。 実際、現代の宣教現場でも、ある国や地域で宗教的・政治的な制約によって宣教が阻まれると、別の経路、たとえばビジネスや教育を通した伝道が可能になったり、移民コミュニティやディアスポラ共同体を通じて福音が広がっていくことがあります。その過程で、ときに現地政府や地域団体の反対、あるいは宗教的偏見に直面することもありますが、最終的には別の道が開かれ、他の地域でさらに多くの魂が回心する「喜びの実り」を目の当たりにするという証が多く語られます。こうした経験は、使徒行伝13章の原理が今日でもまったく変わらず再現されていることを示す事例でもあります。 「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた(使徒行伝13:52)」という御言葉は、結局、福音が安易に受け入れられる「順風」だけでなく、嫉妬や迫害が伴う「逆風」の中でも成就された結果なのです。聖霊は弱い人間を大胆にし、迫害の只中でも祈りと賛美を導き、最終的には福音がより遠くへ伝わる道を備えられます。張ダビデ牧師は、この言葉を通して現代の多くの地域教会や働き手が勇気を得るべきだと強調しています。教会が大きくなればなるほど、あるいは多くの国にノ会(教区)が増えれば増えるほど、それに比例して攻撃も増すかもしれません。しかし、その攻撃に押しつぶされて夢をあきらめるのではなく、最後まで祈りながら光を探し求めるべきです。そうするなら、むしろ「迫害と嫉妬に打ち勝った者たちが得る喜びと聖霊の満たし」を体験し、それこそが真の教会の力になるのだと説きます。 張ダビデ牧師は、世界各地で数多くの教会やセンターを買い取り整備する際、しばしば「将来性を失った教団や教会は建物を売却する」という例を示します。一方で将来性のある教会は「新しい教会建物を獲得し、リバイバルの夢を見る」のです。いかなる教団であっても、希望を見いだせず次世代を見渡せなければ、最終的には縮小し消滅していきます。この原理は使徒行伝にもはっきり現れています。嫉妬し妨げることに終始したユダヤの宗教指導者たちは、滅びへと近い道を進みましたが、福音の前に心を開いて喜んで受け入れた異邦人たちは、新しい歴史の主役となりました。教会が喜びと聖霊の満たしを享受するというのは、まさにこうした未来志向の態度と神の摂理が交わる地点なのです。 結論:アンティオキア教会に学ぶ、喜びと聖霊に満ちた世界宣教 最終的に使徒行伝13章が私たちに投げかけるメッセージは極めて明確です。福音伝播は決して平坦ではなく、そこには嫉妬や妨害、迫害が絶えません。しかし神の人々は、その反対を通じてより忍耐を鍛えられ、むしろ救われる魂の数を拡大していきます。そしてその先頭に立つ人々は「喜びと聖霊に満たされる」のです。21世紀の教会も同じ原理を適用すべきでしょう。世界のどこであれ、たとえ反対や迫害があっても、神は常に別の道を備えており、備えられた魂たちが福音を受け入れるようにしてくださいます。この過程を見るとき、私たちの内側に真の喜びが湧き上がり、聖霊の働きがいっそう鮮明になるのです。 張ダビデ牧師が強調する最終的な結論は、「アンティオキア教会が模範となったように、今日の教会も世界宣教のために祈り、絶えず挑戦し続けるべきだ」ということです。新たに開かれた門を見つけたら、そのチャンスをつかんで福音を分かち合い、教会が多分野(ビジネス、教育、メディア、文化など)へと伸びていくように力を注ぐべきです。そうすると、使徒行伝に記されているとおり「主の御言葉はその地方一帯に広まった(使徒行伝13:49)」という出来事が、現代にも同じように再現されると確信できます。その結果として「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」という結論に至ります。この喜びは単なる感情的な興奮ではなく、いのちを救う福音の働きに参画する者が得る霊的充実と共同体的歓喜なのです。エルサレム、アンティオキア、ピシディアのアンティオキア、そして地中海を越えてローマにまで及んだ宣教の歩みが、今日の日本や中国、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカなど全世界に広がることを、張ダビデ牧師は絶えずビジョンとして宣言しています。そうして教会は絶えず拡大し、多くの魂が生かされるのです。 結局、使徒行伝が示した初代教会の歴史こそ、現代の教会が学ぶべき最も重要な教訓といえます。小さな教会であっても聖霊の御業が臨むなら世界へ進み出られますし、大きく華やかな教会であっても聖霊を欠いて形だけになってしまえば自壊してしまいます。ですから、嫉妬や迫害という外的な挑戦、また対立や不和という内的な問題に直面しても、絶望する必要はありません。むしろ大胆な信仰によって、福音の核心、すなわちイエス・キリストの死と復活を熱心に宣べ伝えるとき、アンティオキア教会のように喜びと聖霊に満たされ、ついには「地の果てにまで福音を伝える」と言われた神の召しを実現していくことができるのです。そしてこの使命こそ、私たちの時代、私たちの教会が継承すべき至上命令でもあります。張ダビデ牧師が強調し続けてきたこのメッセージとビジョンが、21世紀のグローバル社会の中で輝きを放ち続け、イエス・キリストの福音が全世界へと広がる通路となることを願ってやみません。

Title: The Antioch Church and the Holy Spirit – Pastor David Jang

The Foundational Role of the Antioch Church in World Missions Acts chapter 13 is a pivotal chapter in the history of missions within the New Testament Church. Prior to this point, the apostles primarily preached the gospel in Jerusalem and the surrounding areas, but through the Antioch church, full-scale world missions began in earnest. In … Read more

La Iglesia de Antioquía y el Espíritu Santo – Pastor David Jang

La base misional mundial de la Iglesia de Antioquía Hechos 13 es un capítulo clave que marca un punto de inflexión en la historia misionera de la Iglesia del Nuevo Testamento. Antes de este momento, los apóstoles se habían concentrado en Jerusalén y las regiones aledañas para predicar el evangelio, pero es a través de … Read more

안디옥교회와 성령 – 장재형(장다윗)목사

안디옥 교회의 세계 선교 기초 사도행전 13장은 신약 교회의 선교 역사에 있어 하나의 전환점을 보여주는 핵심 장(章)이다. 이 이전까지 사도들은 주로 예루살렘과 주변 지역에서 복음을 전했지만, 안디옥 교회를 통해 본격적인 세계 선교가 시작된다. 특히 장재형목사는 이 안디옥 교회의 사명과 역할을 강조하며, 현대의 교회가 본받아야 할 ‘세계 선교의 전초기지’로서 안디옥 교회를 자주 언급한다. 안디옥교회는 예루살렘이 아닌 이방 땅에서 부흥과 확장을 이루었고, 바나바와 사울(바울)을 따로 세워 파송할 만큼 성령의 인도하심에 민감했다. 이 모습이 곧 오늘날 교회가 지향해야 할 모델이라는 것이다. 당시 안디옥은 무역이 번성한 대도시이자 문화의 교차로였다. 예루살렘을 떠나 이방 지역으로 복음이 전해지면서, 유대인만이아니라 다양한 민족과 언어를 가진 이들이 복음을 듣고 교회 공동체에 합류하게 되었다. 이 교회가 특별한 점은 ‘기도와 금식중’에 성령의 지시를 받고 바나바와 바울을 세계 선교를 위해 파송했다는 사실이다(행 13:2~3). 장재형목사는 이 대목을 크게주목하며, 교회가 현장에서 적극적으로 선교사와 사역자를 발굴·파송해 세계 곳곳에 복음의 씨앗을 뿌려야 한다고 역설한다. 전방선교뿐 아니라 후방선교도 함께 이루어져야 하는데, 이는 곧 안디옥교회가 보여준 균형 잡힌 선교 모델과 맞닿아 있다. 이 안디옥교회가 향한 첫 번째 사역지는 구브로(사이프러스) 섬이었다. 그곳은 바나바와 마가(요한 마가)의 고향이었는데, 섬전체를 횡단하며 복음을 전하는 장면이 행전 13장 초반부에 묘사되어 있다. 바나바와 바울, 그리고 요한(마가)은 약 180킬로미터에 달하는 거리를 걸어서 살라미에서 바보(바포스)까지, 일일이 복음을 전했다. 작은 섬 구브로에까지 복음이 전해짐으로써, 결국 그곳의 총독 세르기오 바울과 같은 지도층에까지 복음이 도달했다. 장재형목사는 이 사실을 언급하며 “나라 전체가 구원에이를 수 있고, 국가적 지도자까지 변화시키는 힘이 복음에 있다”라고 힘주어 말한다. 이는 교회가 작은 지역을 결코 가볍게 여기지 말고, 그 안에서도 적합한 방법을 통해 복음을 전하면 반드시 열매가 맺힌다는 가르침이다. 구브로 사역을 마친 바나바와 바울은 배를 타고 밤빌리아 버가(현재 터키 남단)로 이동한다. 여기서 문제는 함께했던 요한(마가)이 예루살렘으로 돌아가는 결정을 내렸다는 점이다(행 13:13). 성경 본문은 이에 대해 자세한 이유를 설명하지 않지만, 결과적으로 마가가 떠난 문제로 인해 바나바와 바울 사이에 분쟁이 생기고, 나중에 둘은 갈라져서 각기 다른 지역으로 떠나게 된다. 장재형목사는 여기서 중요한 ‘하나님의 주권’을 강조한다. 인간적인 갈등은 아픔을 가져올 수 있지만, 그 갈등과 분쟁을 통해 선교의 지경이 넓어지고, 결과적으로 복음이 더 많은 땅에 전파되는 일도 가능하다는 것이다. 사람이 한계를 드러내더라도 하나님의 역사는 결코 중단되지 않는다. 오히려 마가 요한의 독립된 사역, 바울의 1차·2차 전도여행, 그리고 바나바의 또 다른 선교 행보로 이어지면서 복음이 빠르게 확산된다. 이렇게 버가를 거쳐서 바울과 바나바는 비시디아 안디옥에 이른다(행 13:14). 이 지역 역시 이방 세계에 속하였고, 또 한편으로는 유대인 디아스포라가 있던 회당이 존재했다. 사도행전은 바울이 도착한 도시에서 먼저 유대인 회당을 방문했다고 기록한다. 본문에 따르면 “저희는 안식일에 회당에 들어가 앉았다(행 13:14).” 바울이 늘 취한 전도 방식, 즉 “하나님의 말씀은 먼저 유대인에게, 그리고 헬라인에게” 전해진다는 로마서 1장 16절의 원리를 보여주는 것이다. 장재형목사는 이러한 접근을 두고 “자기백성을 먼저 돌아보고, 그 안에 잃어버린 양들을 회복하며, 그곳에서 준비된 일꾼을 발견해내는 것”이라 말한다. 실제로 초기 교회는 예루살렘 성전뿐 아니라 각지의 회당을 통해 복음 전파가 체계적으로 이루어졌다. 특히 장재형목사는 21세기에 이 ‘안디옥 정신’을 회복해야 한다고 역설한다. 안디옥교회가 기도로 출발해 기도로 행하고, 성령의 지시에 민감했기에 거대한 파송과 세계 선교가 가능했다면, 오늘날 교회 역시 깊은 기도와 성령의 인도하심이 필수라는 것이다. 기술이 발전하고 메스커뮤니케이션이 발달하여 ‘발’이 아닌 인터넷, 미디어, 비즈니스 네트워크 등 새로운 선교 수단이 생겼지만, 그 본질은 동일하다. 즉, 교회가 하나되어 전방선교와 후방선교를 균형 있게 감당해야 하며, 한편으로는 다양한 나라와 지역을 향해 파송하고, 또 한편으로는 본부 교회나 선교본부에서 기도와 재정·교육 지원을 탄탄히 제공해야 한다는 것이다. 안디옥교회가 바울과 바나바를 파송해 구브로와 소아시아(지금의 터키)로 떠나도록 이끈 장면은 결국 “작은 교회로부터 세계선교가 시작될 수 있음”을 보여준다. 그러므로 오늘날 교회의 부흥도 규모나 재정, 그 외의 조건으로 좌우되는 것이 아니라, ‘성령의 지시’를 얼마나 잘 분별하고 순종하느냐에 달려 있다고 장재형목사는 거듭 설파한다. 이러한 교회는 어떤 환경에 놓이든하나님이 친히 길을 열어 주신다. 그러므로 교회와 성도 개인은 미래를 준비해야 한다. 농경시대, 산업시대, 정보와 기술의 시대를 거쳤지만, 복음 전파의 목적과 열정은 변함이 없어야 한다. 안디옥교회의 역사는 21세기에도 동일하게 적용되며, 성령의 음성에 깨어 있는 교회가 세상을 뒤바꿀 수 있다는 것이다. 담대한 복음 전파와 핵심 메시지 비시디아 안디옥에 도착한 바울과 바나바는 안식일 회당에서 말씀을 전할 기회를 얻는다(행 13:15). 당시는 회당장과 함께 예배드리는 회중이 율법과 선지자의 글을 낭독하면, 외부에서 온 사람도 설교할 기회를 얻을 수 있었다. 바울은 이 기회를 놓치지않고 일어나 손짓하며 유대인들과 하나님을 경외하는 이방인 청중에게 강론했다(행 13:16). 장재형목사는 여기서 ‘단호한 태도’가 복음 전파에 얼마나 결정적인 역할을 하는지 주목한다. 바울은 주저하거나 조심스러워하기보다, 이미 한껏 준비된 메시지를 담대히 전했다. “베드로전서 3장 15절에 너희 안에 있는 소망에 관한 이유를 묻는 이들에게 대답할 것을 예비하라”고 한 말씀처럼, 바울은 늘 준비된 증인이었다. 바울의 설교 핵심은 이스라엘 역사를 언급하면서 궁극적으로 ‘예수 그리스도의 죽음과 부활’을 강조하는 데 있었다. 그는 구약시대의 택하심, 애굽 노예생활에서의 해방, 광야 40년, 가나안 정복, 사사 시대, 사울 왕과 다윗 왕 시대에 이르기까지 이스라엘이 기대해 온 참된 구원자가 예수라는 점을 짧고 명료하게 설파한다(행 13:17~23). 이 역사적 흐름 속에 예수님이 ‘다윗의씨’로 오셨고, 요한(세례 요한)이 그의 길을 예비했으며, 예루살렘 당국이 무지로 말미암아 예수를 십자가에 못 박았지만, 하나님이 그를 다시 살리셨다는 복음의 사건을 선포했다(행 13:30). 장재형목사는 이 장면에서 “복음 전파의 가장 중요한 두 축은예수 그리스도의 신분(왕이자 구주)과 그분의 부활 사건”이라고 말한다. 복음에는 윤리나 철학적 이야기가 중요하지만, 그것을넘어서 예수 그리스도의 죽음과 부활이 핵심임을 빼놓지 않아야 한다는 것이다. 바울이 “이 사람이 곧 메시야”라고 선포하며, “하나님께서 그를 죽은 자 가운데서 일으키셨다”라는 복음의 본질을 강력하게 제시하자, 회당 안팎의 청중들이 크게 움직였다. 이들은 다음 안식일에도 같은 말씀을 듣기를 원했으며(행 13:42), 실제로 다음주에는 “온 성이 거의 다 하나님 말씀을 듣고자 하여 모였다(행 13:44)”고 기록되어 있다. 장재형목사는 이 장면을 언급하며, 전도의 성공 요인으로 “전파자가 복음의 핵심 메시지에 집중하고, 담대히 선포했을 때 영혼은 본능적으로 그 진리를 식별하고 목말라한다”라고 말한다. 사람의 영적 갈증과 진리 추구는 매우 깊고 강력하기 때문에, 전도자가 비굴하거나 위축된 자세로 접근하기보다, ‘내게 있는 것을 네게 준다(행 3:6 참조)’는 베드로의 고백처럼 당당히 선포할 때 큰 역사가 일어난다는 것이다. 그렇다면 어떻게 담대함을 유지할 수 있는가? 장재형목사는 그 비결을 두 가지로 요약한다. 첫째, 성령의 동행하심이다. 예수께서도 제자들을 파송하시면서 “보라, 내가 세상 끝날까지 너희와 항상 함께 있으리라(마 28:20)”고 약속하셨다. 사도행전 전체가보여주듯, 성령이 임하시면 건물을 흔들고, 핍박을 돌파하며, 종국에는 이방인에게까지 복음이 퍼져나가는 역사가 일어난다. 둘째, 전도자의 정체성 확립이다. 바울은 예루살렘 당시 가장 촉망받던 율법학자 중 한 사람이었으나, 스데반을 죽이던 사건 이후예수님을 만나 결정적으로 회개하고 자신의 모든 것을 복음 증거에 내던졌다. 그 과정에서 “내가 로마도 보아야 하리라(행19:21)”며, 세계 중심으로 복음을 가져가야 한다는 비전을 품고 살았다. 즉, 나의 인생 전체가 복음을 증언하는 데 목적이 있다고 분명히 인식했기에, 어떤 상황에서도 기회만 주어지면 담대히 예수 그리스도를 전할 수 있었던 것이다. 이처럼 담대한 복음 증거는 당대든 오늘날이든 복음 전파의 핵심 열쇠이다. 21세기에 접어들면서 새로운 미디어 환경과 글로벌네트워크, 비즈니스 기회가 크게 늘어났다. 장재형목사는 이러한 시대적 변화를 “농경시대와 산업시대를 지나 기술과 정보의 시대로 들어섰다”고 표현한다. 이제는 복음을 전하기 위해 물리적으로 먼 거리를 ‘발’로만 걸을 필요가 없다. 인터넷 영상, SNS, 비즈니스 미팅, 또는 온라인 강의 등 다양한 채널을 통해 도달할 수 있다. 하지만 아무리 시대와 방식이 변해도, 최종적으로 사람의 마음을 움직이는 건 복음의 ‘핵심 메시지’라는 사실은 변함없다. “그리스도께서 우리 죄를 위해 죽으셨으며, 부활하심으로우리에게 영원한 생명을 허락하셨다”는 선언이 뚜렷하게 전해질 때에, 영혼이 깨어나고 목마름이 해결된다는 것이다. 바울이 담대하게 선포한 결과, 비시디아 안디옥의 온 성이 마음을 열었다. 일부 유대인들은 시기로 인해 바울을 배척했지만, 이방인들은 그 말씀을 기뻐하며 찬송했다(행 13:48). 교회가 크고 작음을 떠나, 복음을 선포하는 공동체로 뚜렷하게 서 있을 때, 사람들은 그 메시지를 듣고 마음에 울림을 경험한다. 장재형목사는 이를 “영적인 직관”이라고 부르는데, 어린아이도, 학식이 깊은 어른도, 복음이 선포될 때 그것이 진정한 생명수인지 아닌지 본능적으로 느낀다는 설명이다. 또한 그는 “금과 은 내게 없으나, 내게 있는 것을 네게 주노니, 곧 나사렛 예수 그리스도 이름으로 일어나 걸으라(행 3:6)”라는베드로의 선언을 대표적인 예로 든다. 사실 교회는 물질이나 권력을 제공할 수 없는 환경에 부딪히기 쉽다. 그러나 이보다 더 귀한 선물을 주는 것이 바로 복음이다. 장재형목사는 이런 나눔의 가치가 교회를 살리고, 도시와 국가를 살리며, 궁극적으로 세계를 변혁시킨다고 강조한다. 그리고 이 생명의 복음을 전할 때 가장 필요한 것은 “담대함과 확신, 그리고 성령의 능력”임을 다시한번 역설한다. 이러한 확신 속에서 장재형목사가 진행하는 글로벌 선교 네트워크는 이미 수많은 나라에서 교회를 건립하고, 노회를 조직하며, 크고 작은 센터(미션센터, 비즈니스센터, 교육센터 등)를 통해 현지인들에게 복음을 가르치는 중이다. 교회가 부흥을 열망하면서도 막상 많은 인원을 수용할 예배처소나 교육 인프라가 없다면, 정작 하나님이 사람을 보내주시더라도 수용하지 못한다. 그래서 건물을 짓거나 매입하는 일 자체도 결코 세속적인 행위가 아닌, 복음을 담대히 전하기 위한 선교 전략의 일환이라고 볼 수 있다. 장재형목사는 “미래를 준비하는 것이 믿음”이라고 말하며, 교회가 기도 가운데 단계적으로 확장할 때 하나님이 더욱 많은 영혼을 보내주신다고 가르친다. 결국 담대한 복음 전파와 핵심 메시지에 충실함으로써, 교회는 세상을 향해 계속해서 나아간다. 이 때 반드시 알아야 할 사실은, 복음을 전하다 보면 언제나 시기와 반대, 심지어는 핍박이 함께 따른다는 점이다. 그러나 사도행전은 이 과정을 통해 도리어 복음이 더 멀리, 더 넓게 퍼져나갔다고 말한다. 예루살렘의 교권이 핍박을 가하자 복음이 사마리아, 이방 땅으로 옮겨 갔고(행 8장), 비시디아 안디옥에서 일부 유대인들이 시기하자 오히려 이방인들이 기쁨으로 복음을 받았다(행 13장). 그러므로 담대함은단순히 무모함이 아니라, “하나님께서 역사하신다”는 믿음과 “반대에도 불구하고 전진한다”는 결단이 합쳐져서 나온다. 시기와 핍박 속에서의 기쁨과 성령 충만 사도행전 13장의 후반부가 보여주는 또 다른 중요한 주제는 ‘복음 전파에 대한 반대와 시기, 그리고 그 과정에서 얻어지는 기쁨과 성령 충만’이다. 비시디아 안디옥 회당에서 많은 사람들에게 복음이 전해지자, 일부 유대인들은 시기로 인해 바울의 말에 비방을 퍼붓고, 바울과 바나바를 적극적으로 핍박하기 시작한다(행 13:45). 그럼에도 불구하고 이방인들은 기뻐했다. “영생을 주시기로 작정된 자는 다 믿더라(행 13:48)”라는 구절처럼, 오히려 반대와 핍박이 클수록 복음은 더 선명해지고, 준비된 영혼들은말씀을 붙잡게 된다. 이는 교회 역사에서 반복되는 패턴이기도 하다. 장재형목사는 이 사건에서 ‘발에 티끌을 떨어버리고(행 13:51)’ 다른 도시로 향하는 바울과 바나바의 태도에 주목한다. “너희가복음을 거부하면, 우리는 과감히 떠나 더 열린 문으로 나아간다”는 선언이다. 모든 사람을 살리려 노력하지만, 끊임없이 회피하고 배척하는 이들 앞에서는 미련을 두기보다 신발의 먼지를 털고, 다음 지역으로 전진하는 결단이 필요하다는 것이다. 이러한태도가 비인간적이거나 냉정해 보일 수 있지만, 실제로는 매우 중요한 원리다. 복음은 자발적인 수용이 전제되며, 억지로 강요하거나 간청해서 얻어지는 열매는 오래가지 못한다. 또한 “시기하는 자들로 인해 선교가 막히는 게 아니라, 그 핍박으로 인해 더넓은 문이 열린다”고 본문은 강조한다. 결국 그 결과를 13장 마지막 절이 잘 보여준다. “제자들은 기쁨과 성령이 충만하니라(행 13:52).” 바울과 바나바가 쫓겨나서 실패로 끝난 것처럼 보이지만, 사실은 제자들의 영혼이 기쁨으로 가득 찼다. 이유는 무엇인가? 복음이 온 성에 전파되었고, 이방인 중에 상당수가 예수님을 영접했으며, 새롭게 제자로 세워진 이들이 생겨났기 때문이다. 이로 인해 비시디아 안디옥뿐 아니라주변 지역으로도 복음이 흘러갔다. 장재형목사는 여기서 “전도의 가장 큰 보상은 물질적 성공이 아니라, 구원받는 영혼들을 보는 기쁨과 그때 함께하는 성령의 충만함”이라고 말한다. 현대 교회도 마찬가지다. 복음을 전할수록 오해나 반발, 혹은 타 종교나 세속 문화의 반대에 부딪힐 수 있다. 그것이 거세질수록마음이 약해지기 쉽지만, 오히려 그 상황에서 ‘성령이 주시는 기쁨’을 누리는 것이 제자의 삶이다. 이는 곧 로마서 8장 28절 “하나님을 사랑하는 자 곧 그 뜻대로 부르심을 입은 자들에게는 모든 것이 합력하여 선을 이룬다”는 말씀과 일맥상통한다. 장재형목사는 “작은 갈등과 고난이 오더라도 그것이 오히려 우리가 더 넓은 지경으로 나아가는 디딤돌이 될 것”이라고 격려한다. 이와 유사한 원리가 사도행전 8장에도 드러난다. 예루살렘 교회가 무섭게 일어난 핍박으로 인해 사방으로 흩어졌을 때, 결과적으로 사마리아, 아시아, 그리고 후에 유럽까지 복음이 전해지는 결실을 거둔다. “악을 선으로 바꾸신다”는 구약의 요셉 이야기도마찬가지다. 형들의 질투와 미움으로 인해 노예로 팔려간 요셉이 결국 형제들과 애굽 전체를 구원하는 통로가 된 것처럼, 바울과 바나바 역시도 시기와 배척을 통해 이방인에게 복음이 들어갈 길을 열었다. 그래서 장재형목사는 “예수 그리스도의 채색 옷을 입은 자는 누구나 시기를 당하기 마련”이지만, 그 과정을 통해 결국 하나님이 더 큰 구원을 이루신다고 본문을 인용해 해석한다. 여기서 중요한 것은 복음 전파에 대한 바울의 애착과 집념이다. 바울은 유대인들이 복음을 받지 않을 때마다 ‘신발의 먼지를 턴다’고 선언하면서도, 다른 한편으로는 계속해서 유대인 회당을 찾았다(행 14장, 17장, 19장 등). 유대인들을 포기한 것이 아니라, 문이 열릴 수 있는 가능성을 끝까지 찾은 것이다. 다만 특정 지역이나 시점에서 심한 반대를 받으면, 굳이 거기에 매여 있지않고 더 ‘열린 문’을 찾아 나섰다. 장재형목사는 이 태도를 선교 현장에서 매우 중요하게 소개한다. “어디선가 문이 닫히면, 다른어딘가에서 더 큰 문이 열린다”는 것이다. 그리고 그 열림을 통해 제자들의 기쁨과 성령 충만은 배가된다. 실제로 현대 선교 현장에서도 한 국가나 지역에서 종교적·정치적 제약으로 인해 선교가 막히면, 다른 경로, 예컨대 비즈니스 혹은 교육을 통한 전도가 열리기도 하고, 이민자 커뮤니티나 디아스포라 공동체를 통해 복음이 뻗어나가기도 한다.. 그 과정에서때때로 현지 정부나 지역 단체의 반대, 혹은 종교적 편견에 부딪히는 일이 생기지만, 결국 다른 길이 열리고 다른 지역에서 더많은 영혼이 회심하는 ‘기쁨의 열매’를 보게 된다고 간증한다. 이런 경험은 사도행전 13장의 원리를 오늘날에도 그대로 재현하고 있음을 보여주는 사례다. “제자들은 기쁨과 성령이 충만하니라(행 13:52)”는 말씀은, 결국 복음이 편히 전해지는 ‘순풍’만 불 때가 아니라, 시기와 핍박이함께하는 ‘거센 바람’ 속에서도 성취된 결과다. 성령은 연약한 사람을 담대하게 하시고, 박해 앞에서도 기도와 찬양을 이끌어 내시며, 결국 복음이 더 멀리 퍼질 통로를 예비하신다. 장재형목사는 이 말씀을 통해 오늘날 수많은 지역 교회와 사역자가 용기를얻어야 한다고 강조한다. 교회가 커지면 커질수록, 혹은 여러 나라에 노회가 생겨날수록 오히려 더 많은 공격을 받을 수 있다. 그러나 거기에 눌려 꿈을 접기보다, 끝까지 기도하며 빛을 찾아야 한다. 그러면 도리어 “핍박과 시기를 이긴 자들이 얻는 기쁨과성령 충만”을 누릴 것이며, 그것이 참된 교회의 힘이라고 가르친다. 장재형목사는 세계 각지에서 수많은 교회나 센터를 매입할 때, 종종 “미래가 없는 교단이나 교회가 건물을 매각한다”는 예시를든다. 반면 미래가 있는 교회는, “새로운 교회 건물을 차지하며 부흥의 꿈을 꾼다”는 것이다. 어느 교단이든, 희망을 잃고 다음세대를 바라보지 못하면 결국 축소되고 사라지게 마련이다. 이 원리는 사도행전에도 그대로 드러난다. 시기하고 질투했던 유대종교 지도자들은 멸망에 가까운 길을 갔지만, 복음 앞에 마음 문을 열고 기쁨으로 받아들였던 이방인들은 오히려 새 역사의 주인공이 되었다. 교회가 기쁨과 성령 충만을 누린다는 것은, 바로 이러한 미래지향적 태도와 하나님의 섭리가 만나는 지점이다. 결국 사도행전 13장이 우리에게 던지는 메시지는 명료하다. 복음 전파는 결코 순탄하지 않으며, 거기에 시기와 질투, 핍박이 끊이지 않는다. 그러나 하나님의 사람들은 그 반대를 통해 더욱 인내하며, 영혼이 구원받는 역사를 오히려 확대해 나간다. 그리고그 선봉에 선 이들은 ‘기쁨과 성령이 충만’해진다. 21세기 교회도 동일한 원리를 적용해야 한다. 세상 어느 곳이든, 비록 반대와핍박이 있을지라도, 하나님은 항상 또 다른 길을 예비해 두셨고, 준비된 영혼들에게 복음이 들어가게 하신다. 이런 과정을 지켜볼 때, 우리 안에 참된 기쁨이 솟고, 성령의 역사가 더욱 생생해지는 법이다. 장재형목사가 강조하는 마지막 결론은 “안디옥교회가 모델이 되었듯, 오늘의 교회도 세계 선교를 위해 기도하며 끊임없이 도전해야 한다”는 것이다. 새롭게 열린 문을 발견하면, 그 기회를 붙들어 복음을 나누고, 교회가 여러 분야(비즈니스, 교육, 미디어, 문화 등)로 뻗어나가도록 힘써야 한다. 그럴 때 사도행전이 기록했던 것처럼 “주의 말씀이 그 지방에 두루 퍼지니라(행 13:49)”는 역사가 오늘날에도 동일하게 재현될 것임을 확신한다. 그리고 그 결과로 “제자들은 기쁨과 성령이 충만하니라”는 결론에 이른다. 이 기쁨은 단순한 감정적 흥분이 아니라, 생명을 살리는 복음 사역에 동참하는 자들이 누리는 영적 충만과 공동체적인 환희다. 예루살렘, 안디옥, 비시디아 안디옥, 그리고 지중해를 넘어 로마까지 뻗어 나갔던 선교의 발걸음이, 오늘날 일본, 중국, 미국, 유럽, 아프리카 등 온 세계에 미치기를 바라는 것이 장재형목사가 지속적으로 선포하는 비전이다. 그렇게 교회는 끊임없이확장되고, 무수한 영혼들이 살아난다. 결국 사도행전이 보여준 원초적 교회의 역사야말로 오늘날 교회가 배워야 할 가장 중요한 가르침이다. 작은 교회라도 성령의 역사가 임하면 세계를 향해 나갈 수 있고, 크고 화려한 교회라도 성령 없이 형식만 남으면 스스로 무너진다. 그러므로 시기와 핍박이라는 외부적 도전과, 갈등과 분쟁이라는 내부적 문제 앞에서도 절망할 필요가 없다. 오직 담대한 믿음으로 복음의 핵심, 즉 예수 그리스도의 죽음과 부활을 부지런히 전할 때, 안디옥교회처럼 기쁨과 성령이 충만하여 결국 “땅끝까지 복음을 전하게 하리라” 하신 하나님의 부르심을 이루게 될 것이다. 그리고 그 사명은 바로 우리 시대, 우리의 교회가 이어가야 할 지상명령이기도하다. 장재형목사가 강조해온 이러한 메시지와 비전이, 21세기 글로벌 사회 속에서 계속 빛을 발하며, 예수 그리스도의 복음이온 세상으로 뻗어 나아가는 통로가 되기를 소망한다.