新しい戒めによって開かれる愛 – 張ダビデ牧師

1. 十字架と復活、そして信仰の道 ヨハネの福音書13章は、イエス様が弟子たちと最後の晩餐を共にされた夜の情景を伝えています。その中でも、31節から38節までは、イスカリオテのユダの裏切りによる十字架の死が本格的に近づく緊迫した状況が背景となっています。イスカリオテのユダがイエス様を裏切り、闇の中へと消えてしまう場面は、イエス様の死がもはや覆らない事実として決定づけられたことを示します。その最後の晩餐の席で、イエス様は弟子たちに最後に残したい言葉を伝えられます。その言葉の中で最初に登場するのが、「今や人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになった」(ヨハネ13:31)という驚くべき宣言です。 張ダビデ牧師は、この言葉を通して、イエス様の死が始まるこの重苦しくも恐ろしい場面に、どのようにして「栄光」という言葉が宣言され得るのかを深く注目すべきだと強調します。人間的に見れば、十字架の道は徹底的な敗北と絶望に映ります。死を前に皆が震え、恐怖を感じるのは当然のことです。死という現実は、いかなる人間の知恵や財力でも乗り越えがたい最後の壁のように思えます。ところがイエス様は、その道について「今や人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになった」と言われます。 イエス様が進まれる道が、空しい死や無意味な犠牲で終わる道ではなく、栄光の道であり勝利の道であると信じることこそが福音の核心です。福音は十字架と復活で成り立っています。十字架なしに復活はなく、復活なしに十字架も完全にはなりません。しかし、すべては結局十字架から始まります。ヨハネの福音書13章後半に記されているユダの裏切りは十字架の始まりであり、19章30節でイエス様が宣言される「完了した(すべてが終わった)」という言葉が、十字架の完成であり結論です。イエス様は十字架が迫ったときから一切揺らぐことなく、また一歩も退かずにその道を歩まれました。 張ダビデ牧師は、イエス様の揺らぎなき姿こそが「信仰」から生まれたものであると説きます。ここで言う信仰とは、状況や環境に屈しない、絶対的な信頼と従順を指します。世の目には死は敗北でしかありませんが、イエス様にとって十字架はまさに栄光であり勝利でした。なぜならイエス様は十字架の先にある復活という神の究極的なみわざを見通され、それを少しも揺るがず信じておられたからです。人間的に見れば、十字架は屈辱的な死であり失敗の象徴ですが、イエス様はその場で「今や人の子は栄光を受けた」と宣言されます。これこそ、イエス様の信仰が示す深い神秘です。 実際に福音書を通して見れば、イエス様は教えの一つひとつ、そしてすべての歩みにおいて「父がわたしに委ねられたこの道、つまり十字架の道こそ栄光の道だ」という確信に満ちておられました。ゆえに、ローマ書5章でパウロが語る「不従順の歴史と従順の歴史」が鮮明に対比されるように、イエス様はアダムの不従順によって始まった罪と死の歴史を覆すため、完全な従順の道を歩まれました。信仰と従順を通して死を越え、復活の新しいいのちへと続く道を開かれたのです。 張ダビデ牧師は、私たちがイエス様の道を真に従おうとするならば、まず十字架という現実の前で揺るがない信仰を持たなければならないと力説します。この十字架は、単にイエス様だけが負われたものではなく、弟子たちもまた後に続くべき道であることが、ヨハネの福音書13章~17章の主要な教えとなっています。イエス様は弟子たちにも「わたしの行く道をあなたがたも知っている」と言われ、「あなたがたもわたしに従ってきなさい」と語られました。しかし問題は、弟子たちにその信仰がまだ十分には根づいていなかったことにあります。 代表的なのがペテロの姿です。彼は「主をお守りします。たとえ死に至るまでもご一緒します」と豪語しましたが、いざイエス様が捕えられる夜にその決意は粉々に砕かれました。大祭司の庭でイエス様を三度も否認し、逃げてしまったのです。イエス様が「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(ヨハネ13:38)と予告されたとおりになってしまいました。十字架の前で崩れ落ちたのはペテロだけではありません。他の弟子たちもまた恐れに駆られて散り散りになりました。 これは、人間的な勇気や決意だけでは十字架という苦難の場を最後まで守り通すことはできないという事実を示しています。十字架は、自分の意志や力で負える重荷ではなく、信仰と聖霊の力によってのみ負うことができる道です。イエス様は誰よりもこの事実を深くご存じだったがゆえ、ゲッセマネの園で汗が血のしずくになるほど祈られ、ただひたすら父の御心に絶対服従することで死の道に打ち勝たれました。 張ダビデ牧師は続けて、福音とは結局「十字架と復活」を通して現された神の全能と愛を信じ、従うことだとまとめます。イエス様が死を目前にしても「今や人の子は栄光を受けた」とおっしゃった理由は、神の御心がまさに成就し、その御心が勝利へと帰結するという事実を絶対的に信頼していたからです。だからこそイエス様は「もし神が人の子によって栄光をお受けになったのなら、神もご自分によって人の子に栄光をお与えになるであろう。すぐにお与えになるであろう」(ヨハネ13:32)と宣言されます。ここで「すぐにお与えになるであろう」とは、十字架の後に復活の栄光が訪れることを見据えた、はっきりとした信仰の表現なのです。 続いてイエス様は弟子たちに別れを告げられます。「子たちよ、わたしはまだしばらくの間あなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを探すことになるだろうが…今わたしはあなたがたにも言っているのだ」(ヨハネ13:33)という言葉によって、ご自身の死が間近であることを示されます。人間的には非常に悲しく胸を痛める瞬間です。弟子たちにとっても、イエス様を失わねばならないという事実は恐れであり苦痛でした。しかしイエス様は、このような状況の中でも弟子たちに最後の託し、すなわち「新しい戒め」を与えられます。その新しい戒めの核心が「互いに愛し合いなさい」という命令です。 死を直前に控えた状況で、イエス様は「あなたがたが互いに愛し合うなら、すべての人はそれによって、あなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」(ヨハネ13:35)と言われます。ヨハネの福音書13章31節以下が示している光景は、十字架という極限的な苦難を前にしても確信に満ちたイエス様の姿と、その道をまだ理解できずに右往左往する弟子たちの対比です。明らかに弟子たちは、イエス様が歩まれる十字架の道がどのような意味を持つのか、まだ十分には悟っていませんでした。その後、ペテロが「主よ、どこへおいでになるのですか」(ヨハネ13:36)と問う場面は、そのことをよく示しています。 イエス様は「わたしの行くところへ、あなたは今はついてくることはできないが、あとでついてくるようになる」(ヨハネ13:36)と答えられます。つまり、今は理解も不十分で信仰も弱いが、いつかは真の信仰によってイエス様の道に参与するようになるだろうという約束です。ペテロはその瞬間までも「主のために命を捨てます」と勇気を示しましたが、イエス様はそのような人間的決意では不可能であることを指摘されます。「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」(ヨハネ13:38)という言葉は、十字架という道が、信仰の本質的な芯が備わっていなければ、どれほど大きな決意であろうと崩れてしまうという事実を示しています。 結局、十字架を負うことは、まったく信仰によってのみ可能であるという真理、これこそが張ダビデ牧師の強調する核心メッセージの一つです。イエス様は十字架の後に復活の栄光が確実であることを信じていたがゆえ、苦難と死の前にあっても大胆に語ることができました。私たちの道もそうあるべきです。キリスト者の人生は、人の目には愚かに見える十字架を「栄光」と信じて歩む道です。パウロが語るように「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことによって…」(ローマ5:8)救いが与えられたと知るのなら、十字架は決して敗北ではなく、むしろ勝利のしるしであることが分かります。 イエス様が最後に「完了した」(ヨハネ19:30)と宣言される時まで、微塵の揺らぎもなく歩まれたこの道は、まさに「十字架と復活」が結合された信仰の道でした。張ダビデ牧師は、これを私たち個々の人生に適用する際、今現在経験している苦難や困窮、あるいは絶望感の中でも、復活の栄光をあらかじめ見つめる信仰が必要だと教えます。ローマ書でパウロが言った「希望のうちに喜びなさい」(ローマ12:12)のように、私たちに与えられている希望が確かなものであるならば、どんな困難も突き抜けていくことができます。 さらに、その希望は私たちが「すでに」勝利を約束されているという事実に基づきます。イエス様は十字架と復活を通して完全な勝利を成し遂げられました。ですから、私たちも十字架の道に同参しようと決心する瞬間、キリストの勝利がすでに私たちにも移されている(転移している)ことを信じなければなりません。ゆえに「主が十字架を負われたのだから、私も自分の人生に与えられた小さな十字架をしっかりつかみたい。自分の力ではなくイエス様のものに拠り頼む」という告白こそが、十字架を仰ぎ見る真の信仰の姿勢となります。 もちろん、この道は決して容易ではありません。ペテロのようにつまずき、否認してしまう場合もあるでしょう。しかしイエス様が「あとでついてくるようになる」と言われたように、真実な悔い改めと聖霊の助けを求めるとき、いずれ私たちも主が歩まれた道をたどることができるようになります。使徒行伝以降においてペテロが見せた変化がそのことをよく証明しています。彼は復活のイエス様と出会い、聖霊を受けて大胆に福音を宣べ伝える者となりました。 結局、十字架は死ではなく新しい命の始まりであり、敗北ではなく真の栄光へ向かう門であるということです。これに対する絶対的な信仰こそが、私たちがしっかりとつかむべき本質であると、張ダビデ牧師は繰り返し強調しています。イエス様が「今や人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになった」とおっしゃったこの文言が持つ重みは、そういう理由でいっそう大きく感じられます。十字架にかけられる直前、あの苛酷な苦しみの時を前にしても、イエス様は復活と神の計画を見据えておられ、決して後退されませんでした。 私たちがこの信仰に倣うとき、人生のさまざまな状況の中でも同じ確信を持つようになります。世的には敗北や失敗にしか見えない状況も、神の視点から見れば栄光へと変わり得るのです。なぜなら、私たちが最終的により頼むお方は全能の神であり、すでに復活によって死の権威を打ち破られたイエス・キリストだからです。張ダビデ牧師は、この事実に私たちの視線を固定すべきだと教えます。すなわち、「十字架が目の前に迫ったときにも、むしろ復活の栄光を見る信仰をつかんでください」という教えです。 このように、小主題1では、ヨハネの福音書13章31節以下に込められた「今や人の子は栄光を受けた」というイエス様の言葉をもとに、十字架と復活、そしてその道を歩む信仰の本質を探りました。続いて小主題2に移ると、イエス様が最後に与えてくださった新しい戒め、すなわち「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という言葉について、より集中して扱うことになります。 2. 新しい戒め ヨハネの福音書13章34-35節で、イエス様はこう言われます。 「新しい戒めをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。あなたがたが互いに愛し合うなら、それによってすべての人は、あなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう。」 これはイエス様が最後の晩餐の中で弟子たちに与えられた、非常に重要な遺言のような言葉です。もともとイスラエルの民には多くの律法や戒め、特に隣人愛の戒めも存在しました。しかしイエス様はここで「新しい戒め」という表現を使われます。 張ダビデ牧師は「なぜイエス様は、すでに律法に存在していた『隣人を自分のように愛しなさい』(レビ記19:18)という言葉を、改めて『新しい戒め』として宣言されたのだろうか?」という問いを投げかけます。その答えは「わたしがあなたがたを愛したように」という文言にあると説明します。イエス様が与える愛の戒めは、単なる文字として存在する旧約の律法的「命令」を超えるものです。イエス様ご自身の生き方、すなわち犠牲と代償、そして赦しによって具体化された愛が基準となるのです。 旧約の時代にも確かに「愛しなさい」という戒めは存在しましたが、ユダヤ人たちはそれを文字通りの解釈や限定的な適用で生きてしまうことがしばしばでした。イエス様は人間の罪性を見抜かれ、旧約の愛の戒めが単に「文字」にとどまっていては命にならないことをご存じでした。そこでイエス様はみずから人間の体をとってこの地に降り、罪人たちのために、また敵のために、そしてご自分を裏切る者のためにもご自身を差し出す愛を示されました。とりわけ姦淫の現場で捕らえられた女性を断罪しようとする人々の前で、その女性を赦して立ち上がらせる場面(ヨハネ8章)、また取税人や娼婦など社会的に疎外されていた人々と交わる場面などは、イエス様の愛がいかに具体的で犠牲的であるかを如実に示しています。 そしてその頂点が十字架です。イエス様は「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)として来られ、私たちが受けるべき刑罰を代わりに負われました。この代償と犠牲こそ、神の愛がどれほど大きいのかを私たちに直接示してくださった決定的な出来事です。「わたしがあなたがたを愛したように」という一節が決して抽象的ではないのは、このためです。イエス様が自ら示された愛、すなわち罪人を断罪せず、代わりに荷を負い、徹底的に赦し、受け入れる愛こそが、私たちが従うべき「新しい戒め」なのです。 今やイエス様はその愛を弟子たちに継承させようとされます。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」これが教会共同体が守るべき最も本質的で代表的なしるしとなります。「あなたがたが互いに愛し合うなら、それによってすべての人はあなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」(ヨハネ13:35)という言葉は、キリスト者が世の中でどのような姿を示すべきかを明らかにしています。 張ダビデ牧師は、この言葉を解釈しながら、教会がほかの宗教や団体と区別され得る根本的基準は「愛」にあると語ります。世の中には無数の団体があり、それぞれが自分たちのアイデンティティを示すしるしを持っています。例えば、シク教徒はターバンを巻き、仏教の僧侶は頭を剃るといったように、外面的なしるしによって所属やアイデンティティを表します。しかしイエス様は、キリスト者のアイデンティティを「兄弟姉妹への愛」で示しなさいと命じられました。 実際、初代教会の時代、ローマ帝国のもとで迫害を受けていたキリスト者たちが示した相互の仕え合いや愛は世を驚かせました。苦難や貧しさの中でも互いに助け合い、自分の財産を売って貧しい兄弟に分け与えるといった愛によって共同体を築く姿は、外部の人々に「見よ、彼らが互いに愛し合っている様はなんとすばらしいことか!」と感嘆させるほどでした。これこそが真の伝道であり、教会の証しです。愛の戒めを実践するとき、世は初めてキリストがどのようなお方であり、どのような道を歩まれたのかを垣間見るのです。 しかしこれは容易なことではありません。人間的視点で見ると、愛は常に限界を伴います。自分が好意を抱く人や、自分に好意を示す人に対しては比較的愛を示しやすいですが、自分に害を与えたり、気に入らなかったり、あるいは負担に感じる人を愛することは簡単ではありません。さらに、自分自身ですら失望や怒りを感じる瞬間が多い人間にとって、他者への真の愛を持続させるのは難しいのです。 ここで張ダビデ牧師は、再び十字架の霊的意味を強調します。イエス様の愛は「断罪」ではなく「赦し」、そして「断絶」ではなく「代償」を実現されました。十字架は、イエス様が私たちに示してくださった最も劇的な愛の証印です。そしてイエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられます。つまり、自分の中にある断罪の思いを捨て去り、兄弟姉妹の罪や弱さを抱き、必要であれば自分が代わりに背負うという姿勢を持つとき、初めてキリストにある真の愛を実践することになるのです。 こうした愛が実現されるとき、教会共同体の中で多くの癒しや変化が起こります。傷ついた人、社会から疎外されてきた人、罪悪感に押しつぶされていた人々が、互いの重荷を分かち合うことで真の自由と喜びを味わうようになります。パウロが「互いの重荷を負い合いなさい。そうしてキリストの律法を全うしなさい」(ガラテヤ6:2)と勧めたのも、同じ文脈です。互いの重荷を負うことこそが「互いに愛し合うこと」、すなわち十字架の愛を実践する道です。 教会がこの愛の戒めを失ったとき、世は教会に対する信頼を失い、非難の声を上げるようになります。「口先では愛を叫ぶが、実際には争い、分裂ばかりしている」という評価は、教会がキリストの弟子であるというしるしを自ら否定するに等しいのです。だからこそイエス様は最後の晩餐という非常に貴重な場面で、「あなたがたが互いに愛し合うなら、すべての人はそれによって、あなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」とおっしゃったのです。 張ダビデ牧師は、この「互いに愛し合いなさい」という戒めこそが、私たちが一生涯握り続けるべき実践課題であると語ります。私たちの救いはただイエス・キリストの恵みと信仰によって得るものですが、救われた者が教会として共に生きるとき、世に対して証しすべきはまさにこの「愛」というしるしです。もし愛がなければ、どれほど素晴らしい賜物や知識も空しくなります(コリント第一13章)。愛のないまま叫ぶ信仰は空虚になり、愛のない弟子道は偽善へと堕してしまいます。 主が「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と宣言されたのは、ご自身で示された模範があるからです。イエス様は弟子たちの足を自ら洗われ(ヨハネ13:1-20)、さらにはご自分を裏切るユダの足さえも洗われました。そして「わたしがしたように、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われます。兄弟姉妹の最も低いところに降りて仕える姿勢、それこそイエス様の愛のあり方なのです。教会の中で誰かが最もへりくだった態度で仕えるとき、そこにイエス様の新しい戒めが輝きます。 しかし、弟子たち、特にペテロはこうしたイエス様のお言葉をすぐには理解できませんでした。「主よ、どこへ行かれるのですか」(ヨハネ13:36)というペテロの問いににじむ切なさは、十字架がイエス様の愛の戒めの中心であることを悟れていなかったことを示唆します。ペテロは人間的な勇気と決意ばかりを前面に出し、「主のために命を捨てます」と言いましたが、イエス様が示された「仕えと代償」の道、つまり十字架の道を知らなかったがゆえに失敗したのです。 しかしイエス様はこの弱い弟子たちを最後まで愛されました(ヨハネ13:1)。「今はついてくることはできないが、あとでついてくるようになる」(ヨハネ13:36)という言葉には、主の深い信頼と希望が込められています。実際、復活の後にイエス様と再会したペテロは、悔い改めて立ち返り、真に主を愛し、教会を愛し、ついには殉教の道を歩むまでになりました。かつては剣を抜くことで、あるいは感情的な豪語でイエス様を守ろうとして失敗した彼が、後には十字架の愛の本当の意味を悟り、完全に従うようになったのです。 張ダビデ牧師は、教会もまさにこの過程を踏まなければならないと強調します。私たちは初めから完璧な愛を実践できるわけではありません。ときに失敗し、関係が壊れ、傷つけ合うこともあるでしょう。しかし、十字架の恵みを思い起こしながら、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という言葉を心に刻み、訓練し続けるとき、その愛が私たちの生き方と共同体に次第に根づいていくのです。 ゆえに、今日の教会が回復すべき核心はまさにこの新しい戒めです。真実な愛をもって互いに接し、断罪するよりも赦し、自己中心的な態度ではなく、互いに献身し合う姿勢を身につけるとき、世は初めて教会がイエス様の弟子たちの共同体であることを認めるようになります。福音の証しは華やかな弁舌や知識だけで成り立つのではなく、十字架の愛を実際に生きる教会の姿から自然に流れ出てくるものです。 張ダビデ牧師は最後に、この新しい戒めを守ることは決して私たちの努力だけでできるのではなく、イエス様の十字架から注がれる恵みと聖霊の助けが必要なのだと言います。私たちは日々の祈りのうちに聖霊の力を求め、イエス様に目を留めなければなりません。そうしてこそ、この世とはまったく異なる次元の愛、すなわち犠牲的で赦す愛を実践することができるのです。 さらに、「十字架と復活」という小主題1で述べた信仰の道は、実は「愛の道」ともそのままつながっています。十字架によって私たちは罪の赦しと新しい命を得ましたが、その感激があるなら、当然それは兄弟姉妹を愛することによって表現されるべきです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という御言葉は、受けた愛を分かち合うことで神の栄光を現し、私たち自身もその栄光にあずからせる招きなのです。イエス様は、「わたしはすでにその道を行ったのだから、あなたがたも心配せずについてきなさい」と励ましてくださいます。 結論として、ヨハネの福音書13章31節から38節までの御言葉は、死が眼前に迫った危機の瞬間であっても「今や人の子は栄光を受けた」と宣言されるイエス様の揺るぎない信仰と、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という新しい戒めを与えられるイエス様の教えが含まれています。張ダビデ牧師は、この本文を解き明かしながら「十字架は恐れや絶望ではなく、栄光と勝利への道であり、その道の核心的な原動力は愛である」と強調します。 私たちに与えられた挑戦は、イエス様のように死よりも強い復活の望みを抱いて十字架を負いつつ、同時に「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めを握り、日常生活の中で愛を実践することです。イエス様がすべての罪人たちのために赦しと代償の道を開いてくださったように、私たちも互いを断罪するのではなく、赦し建て上げる交わりを築くべきです。そうするとき、世は私たちがイエス様に従う共同体であることを知るようになるでしょう。 ペテロがイエス様を三度否認しても、復活された主は再び彼を探し出し、「あなたはわたしを愛するか?」(ヨハネ21章)と問われ、彼を教会の礎とされました。イエス様の愛は失敗や弱さを乗り越えさせる力です。今日の私たちもまたペテロと変わりません。しかし張ダビデ牧師がしばしば語るように、「結局は私たちも恵みによって立ち返り、イエス様の道を従う者となりうる」という希望が与えられています。それこそが福音の喜ばしい知らせです。 ゆえに私たちは「十字架と復活」という信仰に堅く立ちながら、「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めを守りつつ生きるべきです。死と絶望を栄光へと変えたイエス様の偉大な道を思い起こしましょう。そしてイエス様が弟子たちの足を洗われたときに示された、その愛の模範を私たちの生活の中で具体的に実践してみましょう。教会の内外を問わず、互いに十字架の愛を施し合う人となるとき、私たちは世が知らない喜びと平安を得ることができ、世はその愛を通してイエス・キリストの栄光をかいま見ることになるのです。 この道は決して楽ではなく、ときに苦い犠牲を要求することもあります。しかしイエス様は「もし神が人の子によって栄光をお受けになったのなら、神もご自分によって人の子に栄光をお与えになるであろう。すぐにお与えになるであろう」(ヨハネ13:32)と明言されました。十字架の後に復活の栄光が必ずあるという約束です。私たちが互いに仕え、愛し合いながら十字架に従うとき、神様は私たちをも栄光へと導いてくださるという希望が間違いなく存在します。 まさにこれがヨハネの福音書13章、そして福音書全体が強調する「十字架の道、愛の道」です。張ダビデ牧師は、この教えを中心に、弟子道とは単なる外的規律や知識の蓄積ではなく、十字架の精神が私たちの内に根づき、互いに愛し合う関係へと広がっていくことであると重ねて説いてきました。もし私たちがイエス様に従う弟子となるなら、最終的には私たちも互いに愛し、仕え合う姿で示されなければなりません。 今日、この御言葉を要約しつつ、私たちの心に深く刻むべき核心は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という主の御命令です。これはイエス様が最後に残された別れのメッセージであり、キリスト者の霊的アイデンティティを最も端的に示す言葉です。張ダビデ牧師が繰り返し述べるように、これはオプションではなく、必ず守らねばならない戒めです。互いに愛し合わないならば、私たちはイエス様の弟子としてのしるしを自ら喪失してしまうのです。 最終的に私たちは信仰生活の中で、日々主の十字架を黙想しつつ、その道が栄光の道であるという事実を改めて思い返さねばなりません。そして、その十字架が示してくださった赦しと犠牲に倣い、真に兄弟姉妹を愛するところまで進んでいく必要があります。この二つが同時に進むとき、私たちの生き方は世と区別される真の弟子の姿となります。これこそがヨハネの福音書13章が宣言する福音のエッセンスであり、また張ダビデ牧師が強調してきた実践的な霊的歩みの中心です。 さらに教会共同体がこの御言葉をいつも胸に抱き、実践し続けるならば、イスカリオテのユダのような裏切りの闇や、ペテロの否認のような失敗の痛みすらも、最終的には愛によって回復されるでしょう。イエス様はすでにペテロを回復し、愛の力が失敗者を新しい岩へと変えられた例を私たちに示してくださいました。教会の中でも、私たちの個人の人生の中でも、イエス様の思いに近づけば近づくほど、このような奇跡が起こるのです。 したがって、ヨハネの福音書13章31節以下から私たちは大きく二つの教えを学ぶことができます。第一に、十字架は栄光であり勝利であると信じることです。世から見る観点とは異なり、イエス様は死を前にして「今や人の子は栄光を受けた」と宣言されました。第二に、その十字架が示した代償と赦しの愛を、私たちも見習って互いに実践すべきだということです。これがイエス様が残された「新しい戒め」であり、教会が存在する理由でありアイデンティティです。 総合すると、「今や人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになった」(ヨハネ13:31)という言葉が宣言された直後、すぐに「あなたがたが互いに愛し合うなら、それによってすべての人は、あなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」(ヨハネ13:35)というお願いが続く事実はきわめて意味深です。一方は、十字架と復活の栄光を見つめる絶対的な信仰を示し、他方は、その信仰が具体化される姿としての「兄弟姉妹への愛」を命じています。 張ダビデ牧師は、この二つが分離されることなく一つにつながっていなければならないと繰り返し語ります。信仰がまことならば、愛へと現れ、愛が本当であるためには、十字架の栄光を信じる深い信仰がその根底になくてはならないということです。私たちもこの御言葉を握り、十字架と復活の信仰を所有すると同時に、新しい戒めの実践、すなわち互いに愛し合う行いによって主の弟子であることを示していくべきです。 そうすることで、ようやく私たちの属する教会や共同体の中に、「あなたがたが互いに愛し合うなら、それによってすべての人は、あなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」という御言葉が生き生きと働き始めるのです。十字架を仰ぎ見て復活の希望を握った者同士が互いに愛し合う共同体になればなるほど、世は私たちの姿を通して神の栄光とイエス・キリストの力を目にすることになるでしょう。 … Read more

A New Commandment That Opens the Way to Love – Pastor David Jang 

1. The Cross, the Resurrection, and the Way of Faith John chapter 13 depicts the scene from the night Jesus shared His final supper with His disciples. Verses 31 to 38 take place against the urgent backdrop of Judas Iscariot’s betrayal, which sets Jesus’ crucifixion in motion. The moment Judas leaves Jesus and vanishes into … Read more

Amor que se abre con el nuevo mandamiento – Pastor David Jang 

1. La cruz, la resurrección y el camino de la fe El capítulo 13 del evangelio de Juan describe la escena de la última cena que Jesús comparte con sus discípulos. En particular, los versículos del 31 al 38 presentan un trasfondo de tensión creciente, ya que la traición de Judas Iscariote anuncia el inicio … Read more

새 계명으로 열리는 사랑 – 장재형목사

1. 십자가와 부활, 그리고 믿음의 길 요한복음 13장은 예수님께서 제자들과 마지막 만찬을 나누신 밤의 정경을 담고 있습니다. 그중에서도 31절부터 38절까지는 가룟 유다의 배반으로 인한 십자가의 죽음이 본격적으로 다가오는 긴박한 상황이 배경이 됩니다. 가룟 유다가 예수님을 배신하고 어둠 속으로 사라져버리는 장면은, 예수님의 죽음이 돌이킬 수 없는 사실로 결정되었음을 보여줍니다. 그 최후의 만찬 자리에서, 예수님은 제자들에게 마지막으로 남기고 싶으셨던 말씀들을 전해주십니다. 그 말씀들 중에서 가장 먼저 등장하는 것이“지금 … Read more

The God Who Stops the Sun – Pastor David Jang

1. The Stopping of the Sun and Moon, and the Footsteps of Faith That Recover Lost Time In Joshua 10, we encounter the miracle where the sun and moon stand still—one of the most striking and unique events recorded in the Old Testament. Pastor David Jang  underscores that we ought not merely highlight the historical fact of … Read more

太陽を止められる神 ― 張ダビデ牧師

1. 太陽と月の停止、そして失われた時間を取り戻す信仰の歩み ヨシュア記10章に記されている、太陽と月が止まるという奇跡の物語は、旧約聖書の中でもきわめて独特で印象深い出来事として数えられます。張ダビデ牧師はこの本文を通して、歴史的な奇跡そのものを強調するだけではなく、「時間の主は神である」という、より深い次元の信仰メッセージを私たちの心に刻むよう説きます。 ヨシュアがアモリの連合軍と戦っていた当時、日が沈めば戦闘の状況が不利にならざるを得ませんでした。そこで彼はただ信仰により、太陽がギベオンの上で止まり、月がアヤロンの谷でとどまるよう命じました。この壮大な祈りと、その祈りに応えてくださった神のわざは、物理的な時間や自然の秩序を超越して、歴史の支配者がただ神であることを証しします。張ダビデ牧師は、この奇跡を文字どおりに理解するだけでなく、その中に込められた霊的原理とメッセージを正しく捉えることが重要だと強調します。すなわち、人間がどれほど多くの業績を積み、時間を管理しようとしても、結局時間を止めたり巻き戻したりできる方は神おひとりしかいない、ということです。 この事実は、現代の私たちにも強烈な挑戦として迫ってきます。特にアメリカで20年以上にわたって展開してきた教会共同体の歩みを振り返るとき、私たちは神から与えられた時間を本当に有効に活用してきたのか、自問せざるを得ません。張ダビデ牧師は過去20年におよぶアメリカ宣教の結実について、率直で痛烈な評価を示します。多くの働きが失敗し、ビジネスを通した自立もままならず、新学校やランゲージ・スクール、音楽大学など多様な機関を設立したものの、結実より挫折を多く経験したというのです。その過程で、一部の指導者は神の視線や御心を正しく見分けられず、個人的な欲や安逸に陥り、むしろ共同体に重荷を負わせる場合もありました。だからこそ張ダビデ牧師は、「私たちはこの過ぎし日々を本当に正しく生きてきたのか。神が与えてくださった時間を空しく浪費してしまったのではないか」と何度も問いかけるのです。 こうした状況で、ヨシュアが示した大胆な信仰的決断は、私たちの現在と直接結びついています。太陽を止め、月を静止させたあの超越的な奇跡は、神がご自分の民のために戦い、働かれることを明らかにします。どんな状況にあっても、神の大いなるみこころと力を仰ぎ、切なる祈りをもって全身全霊で進むとき、「失われた時間が取り戻される」回復の御業が可能になるということです。実際、聖書は神の民が困難に直面するとき、彼らが罪と悔い改め、そして信仰をもって神に近づく過程を通して、逆転と回復の驚くべき知らせを語ります。神はイスラエルの民に勝利を与えるために、物理的な自然法則さえ超越されるお方です。小さなことひとつもおろそかにされない全能の主であり、その方のみこころを求め、従い、切に願う者を決して見捨てない――ヨシュア記10章の物語はこの事実をはっきりと教えてくれます。 張ダビデ牧師はこのみ言葉を黙想しながら、太陽と月が止まった出来事は単に過去に一度だけ起こった前代未聞の出来事ではなく、「神は今もいくらでも私たちの時間を逆転させたり止めたりできることを示す象徴的事件」として解釈します。私たちが神のために何かしようとしていても、すでにあまりにも多くの時間を浪費してしまい、何度も失敗を重ね、指導者たちの分裂や責任回避によって宣教の現場が荒廃してしまったとしても、「真実な悔い改めと再び燃え上がる情熱」があるなら、神は依然として私たちに奇跡への道を開いてくださるというのです。ここで鍵となる問いは「では私たちはこれからどうするのか?」というものです。単に過ぎ去った過ちを責めたり、傷や怒りの中に留まるだけでは時間は止まりません。ただ神の御前にへりくだってひれ伏し、改めて与えられた使命を再点検し、そのみこころがなされるよう召しに忠実に応える道こそが、「失われた時間」を取り戻す唯一の方法だと語ります。 さらに張ダビデ牧師は、このような信仰の刷新は個人の次元を超えて、共同体の次元でともに行われなければならないと強調します。なぜならヨシュア記の記録によれば、太陽が止まり月が静止した結果は、ヨシュアひとりの利益のためではなかったからです。そこにはイスラエルの民全体が勝利し、生き残るための神の介入があり、さらに神の契約が歴史の中で継続していくための救いの物語があったのです。同様に今日においても、ひとりの切なる信仰が共同体全体の転機をもたらすかもしれません。しかしそのひとりの信仰は最終的に共同体の祈りへとつながり、指導者をはじめとするすべての構成員が悔い改めと献身をもってともに応答するとき、持続的かつ強力な結果がもたらされるのです。 20年間のアメリカ宣教の歴史を振り返ると、張ダビデ牧師は何度か機会や挑戦があったにもかかわらず、多くの指導者が霊的覚醒や決断を先延ばしにしたり、正しい方向性を打ち立てることができなかったと診断します。その結果、働きの多くが停滞あるいは崩れ、現実的な困難や財政的負担、そして構成員たちの信仰の弱化が同時に生じたというのです。ところがまさにこの点において、ヨシュアが太陽と月を止めるほどの信仰を示したように、すなわち神が私たちの現実的状況を変え、時間さえも逆行させて恵みをお与えになれるという確信が、改めて求められるのだといいます。 特にパンデミックの時期、多くの教会や共同体が困難を経験しましたが、その期間中であってもミッドウエスト地域で土地を手に入れたり、西部地域のビジネスセンターが確定するなど、神の劇的な導きを体験する事例があったそうです。張ダビデ牧師は、これを単なる「幸運」として片付けるのではなく、「神の時間と方法は人間の計算とは違う」という原理を示す生き証しとして受け止めるべきだと強調します。それだけでなく、カリフォルニア州パサデナ地区に新たな門が開かれ、フラー神学校周辺の寄宿舎が売りに出され、有名な教会が紹介されるなど、一連の出来事は何を意味するのでしょうか。「ある時代が終われば、次の時代が来る。そして使命者は絶えず建てられる」という霊的真理を改めて確認させるのです。 それにもかかわらず、過去の失敗や挫折がもたらした傷が、なお指導者たちに残っている可能性があります。かつて自分が推進した働きが失敗したことを思い出して再挑戦を恐れる人もいれば、すでに心が冷めきって「今さら遅い」とあきらめてしまう人もいるかもしれません。しかしヨシュア記10章がもたらす重要なメッセージは、私たちの側から見て「もう遅い」と思われる時点でも、神がお望みならば太陽と月を止める新たな歴史を切り開くことができるということです。その事実を信じて従うことこそ、真の指導者の姿勢であり、今日の教会が取り戻すべき信仰の本質だと張ダビデ牧師は語ります。 特に時間という観点で考えるとき、私たちはしばしば「失われた20年」という表現を使い、何ひとつ得るものもなく手ぶらになったような気持ちを抱きがちです。しかし神のうちには「失われた20年」ですら、まだ活用することが可能です。今からでも切に祈り、悔い改め、信仰をもって進めば、その年月が生み出す実を遅ればせながら収穫することができるかもしれないのです。太陽が止まる奇跡、月が静止する驚くべき出来事は、「回復不可能に見える時間も、神の御手の中ではいくらでも回復され得る」という強力な希望を与えます。ある指導者は罪によって倒れ、ある指導者は倦怠と惰性の中で働きを失敗させ、また別の者は状況論理に引きずられ世俗的な方法で問題を解決しようとして挫折を経験しました。しかしそれらすべての欠けや失敗を前にしても、神に悔い改めと切なる祈りをささげるならば、私たちにも太陽が止まり月が静止するしるしのような奇跡が起こり得る――張ダビデ牧師は繰り返しそう強調します。 結論は明白です。いまこの瞬間も時間の主は神であり、その方は私たちの人生や働きに、いつでも決定的な介入をなさることができる。ヨシュアの物語から私たちはその事実を目の当たりにし、パンデミック後の混乱する世界にあっても、なお働かれる神に目を向けなければなりません。「主のみこころを求め、悔い改め、全力で進め」という張ダビデ牧師の叫びは、不可能に見えることをも可能にされる神を信頼せよ、という招きにほかならないのです。いま私たちがすべきことは、太陽が止まるようにと祈ること、そしてその祈りとともに行動しつつ、信仰の戦いに挑むことです。そのとき私たちの知り得なかった奇跡、過去数十年もの歳月さえひっくり返すような逆転が始まるかもしれません。この信仰こそが第一の小テーマが提示する核心メッセージであり、張ダビデ牧師が繰り返し強調してきた「失われた時間の回復」という実践的課題なのです。 2. ヒゼキヤの悔い改めと命の延長、そして新たな働きのビジョン 列王記下20章に記されているヒゼキヤ王の病の癒しの物語と、日時計が後戻りした奇跡は、ヨシュア記10章の太陽停止の出来事とつながっています。どちらの物語も、「時間と命の主権は神にある」という真理を鮮やかに示しているからです。 ヒゼキヤはもともと神に従順な王でしたが、後に信仰が弱くなり罪を犯すようになって、重い病にかかります。そのとき彼が取った行動は、涙を流して切に祈り、悔い改めることでした。張ダビデ牧師は、この場面でいくら敬虔な王でも罪に陥る可能性があり、その罪ゆえ人生の終わりに追い込まれることもあると指摘します。しかし重要なのは、まさにその状況において「神に立ち返る悔い改め」が起こった点です。ヒゼキヤが涙で祈ったとき、神はその祈りを聞き入れ、彼を癒してくださり、さらに15年も命を延ばされました。しかも日時計を後戻りさせるという奇跡まで示され、神の約束が必ず実現することを力強く証明されたのです。 これは私たちが失敗や挫折を経験したとき、あるいは霊的に病んだ状態に陥ったときに、何をすべきかを明確に教えてくれます。張ダビデ牧師は、ヒゼキヤの物語を通じて「神が私たちの祈りを聞かれるとき、どのようなわざが起こるのか」を強調し、とりわけ指導者たちがまず悔い改めて祈らなければならないと指摘します。アメリカ宣教20年の歴史で多くの働きが頓挫した原因は、外部環境だけではなく、内面的な罪や信仰の弱体化による部分が大きかったかもしれません。もし指導者たちが神の方法ではなく人間的な方法に重点を置き、世俗的成功に執着しすぎたり、霊的高慢に陥って秩序と愛を失ったのだとすれば、その責任は決して軽くはありません。したがって私たちの直面している状況は、病に倒れ、死の淵にあったヒゼキヤの姿とさほど変わりないのです。教会共同体全体が深刻な危機を迎えたとき、まずすべきことは「涙ながらに悔い改める祈り」だというのです。 ヒゼキヤが涙ながらに祈ったとき、神は彼を癒し、15年の命を与えられただけでなく、アッシリア帝国からエルサレムを守るという約束までくださいました。しかもその約束の確実性を証明するために、日時計を後戻りさせる――まさに時間を逆行させるしるしを示されたのです。張ダビデ牧師は、この出来事が「悔い改める者に神がお与えになる恵みの大きさ」を端的に示していると解釈します。ときには私たちが犯した罪があまりにも大きく、働きの現場が完全に荒廃し、一度失敗した歴史はもはや取り戻せないと思われるかもしれません。しかし実際には、神は「悔い改めて戻ってくる者」に対しては、時間を逆転させるような奇跡までもお与えになることがおできになるというのです。 こうした恵みを受けたヒゼキヤは、再び信仰を回復し、王としての責務を全うしていきます。もちろんその後も人生には多くの試練や失敗があったかもしれませんが、神から与えられた延長の生涯は決してむだにはなりませんでした。張ダビデ牧師はここを非常に重要な点だと指摘し、「15年という追加の時間が与えられたとき、果たして私たちは何をするのか」という問いを自らに投げかけるべきだと語ります。ヒゼキヤに与えられた余分な時間は、彼個人の安楽のためだけではなく、神のわざを継続し、民を守り、信仰共同体を正しい道へ導くために用いられるべきものでした。同様に私たちがもし、悔い改めと祈りを通して何らかの新たなチャンスを得たなら、その時間もまた自分の満足のためではなく、共同体の回復と神の国の拡張のために用いられるべきだというメッセージを、張ダビデ牧師は強調するのです。 過去、多くの働きが失敗に終わり、指導者の不注意や無知、あるいは罪のせいで事業が停滞し、いまだに悔い改めていない人がいるかもしれません。しかし神は、その空っぽの網を奇跡的に満たすことがおできになるお方です。ヒゼキヤが命を延ばしてもらい、日時計が後戻りするしるしを得たように、私たちが切に悔い改めて祈るならば、神の御業は今も進行形であるのです。 張ダビデ牧師は特に、指導者たちに対して強く訴えています。時間はあまり残されていないのです。指導者が一夜にして倒れることもあれば、20年あるいは30年も準備してきた働きが、結局何の実もなく終わる可能性もある。しかしまだ息をしているこの瞬間、神に祈りすがることができるならば、ヒゼキヤのしるしは現実のものとなり得るのです。そのしるしとは、ただ「日時計が後戻りした、不思議だな」ということではなく、「神が私たちの悔い改めと祈りを聞いて、想像もしなかった恵みと機会をくださる出来事」です。ヨシュアが太陽を止める超自然的な恵みを経験したように、ヒゼキヤが15年の命と、アッシリアからエルサレムが守られる奇跡を享受したように、私たちもまた霊的な暗闇を突き破って新たな光を見ることができる――これが力強いメッセージなのです。 総括すると、この二つの本文が教える核心は互いに連動しています。ヨシュア記10章は「神がご自分の民のために太陽と月を止めることがおできになる方」であると宣言し、列王記下20章は「神が一人の人間の祈りに応えて命を延ばされ、時間を逆行させることすらできる方」であることを示します。この二つの物語が交わる点こそ、「神は私たちの時間を変えてくださることがおできになる方」という事実です。張ダビデ牧師はこれを現代の働きに適用して、「私たちが20年をまるで無益に費やしたように思えるとしても、今日、悔い改めて祈るならば、神はそのすべての時間を取り返すような新しいリバイバルを起こしてくださる可能性がある」と力説します。これこそが今、私たちに与えられたチャンスであり、ヒゼキヤの悔い改めのように涙ながらに神の憐れみを求めるときに成就される約束なのです。 最後に張ダビデ牧師は、この霊的原理を実践するために「祈りの場」に戻るよう促します。パンデミックを経て教会や共同体は様々な形で散り散りになり、弱体化しましたが、まさに今こそ最も真実に祈るべきタイミングだというのです。与えられた各々の働きの場や礼拝堂、キャンパスにおいて、あまりにも多くの時間を失ったと嘆きたくなる状況だとしても、そこから再出発できるのです。ヒゼキヤが死を宣告された場所で悔い改めと祈りに立ち返ったように、私たちもこの絶望の場所が恵みの出発点となり得ます。神は、張ダビデ牧師が長らく強調してきたように、真実にご自分を求める者を決して無視されません。むしろ驚くべき方法で、その人々の時間を巻き戻してくださるお方なのです。そしてそのとき私たちは「なぜ神は時間をくださったのか。なぜ15年を延ばしてくださったのか。なぜ太陽を止めてくださったのか」という問いに直面します。それは結局、神の国のために、私たちに与えられた使命を全うさせるためだという答えに行き着くでしょう。 したがって、私たちはこの20年に及ぶ停滞や失敗、悔い改めない指導者たちの分裂状態、事業の失敗や財政難など、そうした問題ばかりに焦点を当てるのではなく、それらすべてを打ち破ることのできる神の御力に目を据えなければなりません。ヒゼキヤの悔い改めがもたらした日時計の逆転、そしてヨシュアの祈りによって止まった太陽と月の奇跡を思い巡らしながら、今この瞬間、「神よ、私たちの時間も巻き戻してください。悔い改めますので、新しいいのちへの道を開いてください」と切に祈るべきなのです。張ダビデ牧師が強く訴えるように、残された時間は長くないかもしれませんが、その短い時間の中でも神が働かれるなら十分に奇跡は起こり得るのです。重要なのは私たちがその神の働きを信じ、「太陽が止まらなければ戦いを完遂できないように、神が働かれなければ私たちの働きは回復し得ない」という信仰で進むことです。 これこそが、ヒゼキヤが涙をもって祈ったときに見た「後戻りした日時計」の意味であり、ヨシュアが目の当たりにした「静止した太陽と月」の真の意味なのです。時間の主権者となってくださる神、悔い改める民のために時間と自然の秩序さえ覆される神、その神を私たちはもう一度信頼すべきです。そしてその方がくださるチャンスをつかむべきなのです。もしこの機会を逃すなら、過去20年の失敗から一歩も抜け出せず、そのまま座り込むことになるでしょう。しかし私たちがヒゼキヤとヨシュアの信仰を学び、その悔い改めと嘆願を見習うならば、神は今回も私たちの失われた時間と浪費してきた歳月を、豊かな実りに変えてくださる可能性があります。これこそ張ダビデ牧師が一貫して強調してきた核心メッセージであり、アメリカ宣教20年後に開かれる新しい時代と働きのビジョンの大きな柱なのです。 結局、この二つの物語は一つの結論へと収束します。第一に、太陽と月を止められる神の御前で、私たちはへりくだってひれ伏さなければなりません。第二に、日時計を後戻りさせることのできる神の御前で、私たちは心から悔い改め、新たなチャンスをつかまなければなりません。時間があまり残されていないという事実こそが、いっそう切実な祈りへと私たちを駆り立てます。指導者ならばなおさらです。名誉や権力を下ろし、「本当に神のみこころを実現するために、私に残された時間はあとどれだけなのだろうか」と厳粛に問わなければなりません。その答えを見い出す人は、ヒゼキヤがそうしたように、一度の心からの祈りによって人生をまるごと変えることができます。そのとき神は「わたしはあなたの涙を見た」と応えてくださいます。そして「わたしはあなたに15年を加えよう。あなたに止まった太陽を与えよう。日時計を後戻りさせよう。だからイスラエルを、わたしの民を生かし、回復へ導け」と語られるのです。こうして神は私たちの時間が閉ざされていないことをお示しになります。私たちの涙がその方へと流れる瞬間、時間さえも逆行し、神の御業はふたたび動き始めるという希望をつかむこと――これこそがヒゼキヤの物語とヨシュアの物語、そして張ダビデ牧師が一貫して叫び続けてきた「悔い改めの福音」にほかなりません。

使太阳止住的上帝 — 张大卫牧师

1. 使太阳与月亮止住的神迹,以及找回失去时间的信心之步 在《约书亚记》第10章中,记载了太阳和月亮停止的神迹,这是旧约圣经里极其独特且令人印象深刻的一件事。张大卫牧师借这段经文提醒我们,不要仅仅把焦点放在其历史事件本身,而应更深刻地体悟“上帝是时间的主”这一信仰信息。当时约书亚与亚摩利人的联军交战,若日落天黑,战况必然对以色列不利,因此约书亚凭信心发出命令,让太阳停在基遍上,月亮留在亚雅仑谷中。这样宏大的祈祷以及上帝随即而来的回应,超越了物理时间与自然秩序,也宣告了历史的主宰唯有上帝自己。张大卫牧师强调,这个神迹不应仅作字面理解,而要捕捉其中所蕴含的属灵原则和信息:无论人如何努力建立功业、管理时间,最终能让时间停住或倒转的,只有上帝一位。 这一事实对我们当下也发出强而有力的挑战。回顾在美国超过二十年的教会事工,我们需要扪心自问:是否真正善用了上帝赐给我们的时间?张大卫牧师对这二十年美国宣教的成果作出了坦率而痛心的评价:许多事工失败了,通过商业实现自立的尝试也不如人意;虽然建立了神学院、语言学校、音乐学院等多种机构,但收获并不丰硕,反倒屡遭挫折。在此过程中,一些领袖未能准确分辨上帝的眼光与心意,被个人的欲望或懈怠所捆绑,反而成了给群体增添重担的原因。因此,张大卫牧师一再追问:“我们过去的岁月到底是否过得有价值?难道上帝给的时间就这样空耗了吗?” 在这种处境中,约书亚所展现的大胆信心决断与当下息息相关。能让太阳止住、月亮不动的超然神迹,正证明了上帝为祂的百姓征战并亲自介入历史。无论我们面对何种困境,只要专心仰望上帝的宏大旨意并切切祈祷,全心投入,便能迎来“挽回失去时间”的复兴之工。纵观圣经,当上帝的子民遭遇困难时,只要他们在罪中悔改并持守信心,就能见到翻转与恢复的奇事。上帝为赐给以色列人得胜,不惜超越物理的自然法则。祂是掌管大能的主,看顾任何一件小事,并绝不撇下那些寻求并顺服祂、切切呼求祂的人。透过《约书亚记》第10章,我们能确信这一真理。 张大卫牧师在默想这段经文时指出,使太阳与月亮止住的事件,并非仅属于“从未再出现过的远古神迹”,而是昭示“今天上帝照样能随时翻转或停止我们的时间”的象征性见证。我们可能因已浪费太多时间、经历无数失败、面临领袖间的分裂与推卸责任,而使宣教工场愈显荒凉。然而只要有“真诚的悔改与重新燃烧的热情”,上帝依然能为我们开辟神迹之路。关键的问题是:“现今我们当如何行动?”单单埋怨过去的失误,或困在伤害和愤怒里,并不能让时间停住。唯有在上帝面前谦卑俯伏,不住祈祷,再次检视所领受的使命,并顺从祂的旨意来履行呼召,这才是“夺回失去时间”的唯一途径。 张大卫牧师也强调,信心的更新不仅是个人层面的事情,更须在群体层面共同成就。因为《约书亚记》的记载表明,太阳止住、月亮不动的结果不仅为约书亚一人带来益处,而是为了拯救全体以色列百姓,延续上帝在历史中的盟约与救恩。如今亦是如此,一个人的迫切信心能成为整合群体的转折点,但最终仍需群体共同祷告、领袖和成员都付出悔改与献身,才能结出持续且强大的果效。 回顾二十年的美国宣教历程,张大卫牧师发现,期间虽有多次机遇与挑战,但大部分领袖裹足不前、犹豫不决或方向不当,导致许多事工陷入停滞或瓦解,现实上的困难和财务负担也加重,成员的信心则不断衰退。正是在这关键时刻,约书亚使太阳与月亮静止的信心更加不可或缺——上帝能逆转我们的现实处境,甚至倒转时间来施行恩典。 特别是在疫情期间,大多数教会与团体都面临重创,但反倒在美国中西部地区获得土地、在西部地区的商业中心也尘埃落定,等等这些经历都见证了上帝戏剧化的带领。张大卫牧师提醒,不要把此仅仅当作幸运,而应视作“上帝的时间与方法超乎人的算计”的明证。同样地,加州帕萨迪纳区域的新开门路,富勒神学院周边宿舍的挂牌出售,以及有名的教会接连被介绍等一系列事件,都在宣示:“一个时代的结束意味着另一个时代的来临;神的工人会被继续兴起。”这是再一次向我们印证那永恒的属灵真理。 然而,过去失败和挫折所带来的伤口仍残留在一些领袖的内心。有些人因为忆起曾经带领失败的事工,而对再次尝试感到恐惧;也有人心已渐渐冷淡,自觉“现在太迟了”,干脆选择放弃。但《约书亚记》第10章带给我们的关键信息是:即便在我们认定“为时已晚”的时刻,只要上帝的计划需要,祂仍能让太阳与月亮止步,开启新的历史。正因如此,去相信并顺服这位主宰时间的神,才是当代教会必须恢复的信仰核心。张大卫牧师一再宣告:当真心悔改、切切祈祷,上帝随时可以显出如同“使太阳止住、月亮不动”的神迹,帮助我们追回那看似无法挽回的岁月。 因此,本小主题的结论非常清晰:即便此刻时间的主权仍在上帝手中,祂随时可以对我们的生命和事工作出决定性的介入。《约书亚记》第10章让我们亲眼看见,上帝在当时为祂的子民行奇事;即便在后疫情时代的混乱世界,祂仍然在持续工作。张大卫牧师“寻求主的旨意、悔改并全心投入”的呼唤,就是要我们相信那位使不可能成为可能的神。我们今日所能做的,便是向上帝祈求“让太阳止步”的祷告,并伴随行动投入信心的征战。只有这样,那超出我们想象的神迹,甚至能逆转过去数十年的情势,才可能真正开始。这正是第一小主题所要传达的核心信息,也是张大卫牧师不断强调的“挽回失去时间”之实践课题。 2. 希西家的悔改与生命的延长,以及新事工异象 在《列王记下》第20章,希西家王得病又痊愈的故事,及日晷向后退的神迹,与《约书亚记》第10章太阳止住的事有相似之处。两段经文都鲜明地宣告了“时间与生命的主权在上帝手中”。希西家原本是一位敬畏神的君王,但后来信心软弱、犯罪堕落,以致患上重病。此时他的选择是流泪切切祷告并悔改。张大卫牧师在此指出,即便是再敬虔的领袖,也可能堕入罪中,并因此走到人生末路。要害在于,当人落入这种绝境时,“向上帝回转的悔改”是否会发生。希西家在流泪的祈求中,上帝垂听了他的祷告,不仅医治了他的疾病,还额外赐下15年的寿命。更有甚者,为了让他确信这应许必定实现,上帝行了让日晷往后退的神迹,象征着时间被倒转。 这一事件告诉我们,当我们陷于失败与挫败,或灵性重病时,究竟该如何行。张大卫牧师强调,希西家故事中能看见“上帝回应祷告时会带出何等的作为”,而领袖们更要率先悔改、祷告。在美国宣教20年的历史中,许多事工的崩溃不光是外部环境的影响,更大的因素可能是内部的罪与信心的衰退。若领袖只依赖人的方法、执着于世俗成功、或陷在属灵骄傲中而忽略秩序与爱,那责任之重难以推卸。如今教会整体似乎陷入与希西家重病快要死去的情况并无二致。此时此刻,最迫切要做的,正是“带着眼泪的悔改祷告”。 当希西家流泪祷告时,上帝不仅医治了他的病,让他多活了15年,还应许保护耶路撒冷免于亚述帝国的侵犯。为了让这一应许更加坚定可信,上帝甚至行了日晷后退的神迹,也就是实实在在地“倒转时间”。张大卫牧师将此解释为“上帝赐给悔改之人的恩典何等浩大”的典范。我们常以为所犯的罪太大、事工场景已荒凉至无法重建、失败过的历史也不可能复活,然而真相是只要我们肯“悔改归向神”,祂甚至能让时间逆转。 希西家在得到这样的大恩后,再次复苏了信仰,并尽职地履行他作为王的责任。固然此后人生仍遇到不少挑战,也有过一些失误,但上帝所赐的额外15年时间并没有被浪费。张大卫牧师指出,这一点尤为关键:当我们也被赐予“额外的时间”时,究竟要怎么使用?希西家所得到的15年,并非为满足其个人安逸,而是为继续成就上帝的工作、保护百姓、带领信徒走正道。同样地,假如我们今日因悔改祷告而获得新的机会,那就意味着,这份时间不仅为我们个人的福祉,更是要为群体的复兴与神国的扩张而用。 过去许多事工的失败,领袖们的疏忽、无知或犯罪,的确使现今的事工停滞,尚且还有一些人不愿悔改。然而,上帝是能将空空的渔网以神迹填满的主。正如希西家生命被延长、日晷往后退一样,只要我们以迫切的悔改与呼求寻求祂,神的作为仍在当下进行。张大卫牧师特别警示:我们剩下的时间不多了。领袖可以一夜之间倒下,筹备了二三十年的事工可能空手而归。但只要我们活着还能祷告呼求,希西家的神迹一样能临到。那神迹不只是让人惊讶“日晷怎么会倒退”,而是“上帝听见我们的悔改祈祷,赐下超乎想象的恩典与机遇”。正如约书亚经历超自然的日月静止,希西家不仅延寿十五年,并见耶路撒冷得免亚述之难,我们也能在灵性黑暗中迎接新的曙光——这是何等重要的信息! 总的来说,两段经文传递的核心教训是相通的。《约书亚记》第10章宣告“上帝能为祂的百姓使日月静止”,《列王记下》第20章见证“上帝能因一个人的祈祷而延长寿数,并让时间倒退”。两者交汇之处,便是“上帝能改变我们的时间”。张大卫牧师将此落地于当下的事工场合,强调:“我们似乎白白耗费了二十年,没有任何果实,但只要今天悔改祷告,上帝也能带来翻转这整段岁月的新复兴。”这正是此刻赐予我们的机会;只要像希西家一样痛哭流泪地祈求上帝的怜悯,就能成就。 最后,张大卫牧师大力呼吁,为了实践这个属灵原则,当务之急是“回到祷告的阵地”。疫情期间,教会与群体分散、软弱,但正是此时最需要真实迫切的祈祷。在每个事工地点、礼拜堂、校园里,我们或许会因失去的岁月而叹息,但依然可以从那里重新出发。就像希西家在被宣告重病之处返回到悔改和祷告一样,我们今天在绝望之地也能再次开启恩典之门。正如张大卫牧师长期所强调的,上帝从不撇弃诚心寻求祂的人,反而能用奇妙的方式使他们的时间逆转。到那时,我们就要思考:“为什么要赐下这些时间?为何让我们多活15年?为何让太阳止住?”其答案自然指向“为神的国度、为履行我们所当尽的使命”。 因此,我们不要只将目光放在这二十年来的停滞、失败、未悔改的领袖、分裂、商业失败和财政危机上,更该将目光定睛在有能力胜过一切困境的上帝身上。希西家的悔改引发日晷逆转,约书亚的祈祷使日月止住,默想这些时,我们此刻也当迫切呼求:“上帝啊,也请倒转我们的时间!我们愿悔改,求祢开启新的生命之路!”正如张大卫牧师强力呼吁:所剩时间不多,但即使在短暂时日里,只要上帝工作,也足以成就大能神迹。关键在于我们是否相信那位独一可行神迹的神,并以“若日头不止住,我们的战争无法打赢;若不是上帝亲自介入,我们的事工也无法复兴”的信念勇往直前。 这正是希西家含泪祈祷时所见“日晷倒退”的意义,也是约书亚所见“日月止住”的真正含义。那位在时间之上执掌主权的上帝,若看到子民悔改,就连自然秩序也能为我们颠覆。我们当重新相信这位神,并抓住祂所赐的机会。若我们错失了这机会,就会在过去二十年的失败阴影中原地踏步;但若学像希西家和约书亚那样,学习他们的悔改和祈求,上帝就能把那失去的光阴与荒废的岁月重新赐下丰盛的果实。这正是张大卫牧师不断强调的核心信息,也将成为美国宣教二十年后,新时代与新事工异象的主要轴心。 归根究底,这两段故事得出同一个结论:第一,在使太阳和月亮止住的上帝面前,我们要谦卑俯伏;第二,在能让日晷倒退的上帝面前,我们要真心悔改,抓住新机会。时间所剩无几,这一点反而在督促我们发出更加迫切的呼求。作为领袖,更是如此:要放下名利与权力,严肃地自问“为了实现上帝的旨意,我还剩多少时间?”谁认真对待这一追问,就能像希西家那般,一次真心的祷告就改变整个人生。随后上帝应许说:“我已看见你的眼泪。”并赐下这样的应许:“我要多加给你十五年,我要为你止住日头,我要让日晷向后退,好让你可以拯救以色列,复兴我的子民。”上帝借此彰显,我们的时间并非一成不变。只要我们的眼泪朝着祂流去,时间也能逆转,上帝的大工亦能重新开始。这就是希西家与约书亚的故事所带给我们的盼望,也是张大卫牧师始终如一所强调的“悔改的福音”。

Le Dieu qui arrête le soleil – Pasteur David Jang

1. L’arrêt du soleil et de la lune, et la foi qui permet de récupérer le temps perdu L’histoire miraculeuse du soleil et de la lune qui s’arrêtent, relatée dans Josué chapitre 10, est l’un des événements les plus singuliers et marquants de l’Ancien Testament. Le pasteur David Jang souligne qu’au-delà du caractère historique du … Read more

태양을 멈추시는 하나님 – 장재형목사

1. 태양과 달의 멈춤, 그리고 잃어버린 시간을 되찾는 믿음의 발걸음 여호수아 10장에 기록된 태양과 달이 멈추는 기적의 이야기는 구약 성경에서 매우 독특하고도 인상 깊은 사건으로 손꼽힌다. 장재형(장다윗) 목사는 이 본문을 통해, 역사적 기적으로서 그 사실 자체만을 부각하기보다, “시간의 주인이 하나님”이라는 더 깊은 차원의 신앙 메시지를 우리 마음에 새길 것을 강조한다. 여호수아가 아모리 연합군과 전쟁을 치르고 있던 당시, 해가 지면 전투 상황이 불리해질 수밖에 … Read more